メッセージ - C年 降誕節 |
クリスマスは大昔のイスラエルの預言者たちによって予告された救い主の誕生です。第一朗読のイザヤの予言には「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と書かれています。光は明るさと暖かさ、命をもたらすものなのです。間違いなく、光がなければ、この世に見えるすべての命が消えるわけです。預言者イザヤが知らせる光は、救いの望みを意味する光であり、神様が与えてくださる新しい命をもたらす光なのです。この光は今日お生まれになった救い主イエス·キリストご自身です。
この誕生については、ルカ福音書に記録されています。救い主が、ダビデの町、小さいベツレヘムでお生まれになった夜、明るくなった空の中に天使が現れ、野宿する羊飼いたちに次のように言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と。「恐れるな」という天使の言葉は全ての人に聞いてもらいたいと思います。今 2021年が終わろうとしていますが、神の救いを探し求め、神の救いに与かりたい人が多いからです。それは、おかした罪、不信仰、さまざまな悩みの形となっている闇から出て、神様の恵みのうちに生きるためです。
キリストの誕生、神様の救いは、今洗礼を受けているキリスト教信徒のものだけなのではないかと考える方がみえるかもしれませんが、第二朗読の中に使徒パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」と言い、イエス·キリストの救いは、全ての人々に与えられたものだと伝えています。神の救いを望む人はだれでも、神様の救いに与ることができます!
ベツレヘム地方で夜通し目覚めている羊飼いたちのように、神の栄光を見て「恐れるな」という言葉を心に受け止めるようにしましょう。救い主イエス·キリストは、私たち自身のためにお生まれになったこと、この世に現れた光のうちに生きることを喜びましう!
メッセージ - C年 待降節 |
待降節にはイエス·キリストの誕生を目指し、飼い葉桶に寝かせた美しい赤ちゃんの姿が現れるのを待っていると思います。イエス·キリストの誕生は全世界の人々、全ての時代の人々にとって救いの訪ずれとなり、全被造物を喜ばせるものとなっています。人間の歴史にとってこの救いの訪ずれは、一番偉大な出来事となり、神様がお考えになった救いの計画によるものです。私たちの考えによる「歴史を造った人」とは、偉い人、権力を持つ人、大きいエンパイアを造った人だと思っていますが、世の救いの計画を成し遂げるために神様は、小さいものとなるイスラエルの民、小さいダビデの街、若いイスラエルの娘となる乙女マリアをお選びになったと聖書の中に書いてあります。
今日朗読される第一朗読のミカの預言によると、イスラエルを治め、平和をもたらす方は、小さなベツレヘムの街でお生まれになると伝えられています。「エフライムのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さきもの。お前の中からわたしのためにイスラエルを治める者がでる。」とあります。
第二朗読のヘブライ人への手紙は詩篇40篇を唱え、イエス·キリストは、神の御心を行うために来られ、ただ一度イエス·キリストの体が捧げられたことによって、わたしたちは聖なる者とされたと伝えて、救いは人間が備える捧げ物によるものではなく、神の御心によるものであるとはっきり伝えています。
ルカによる福音は「エリサベトの訪問」という箇所があり、現れた神の救いの計画が乙女マリアのうちに成し遂げられたと伝えています。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたからです!
みなさん、今週待降節第四主日を迎え、まもなくクリスマスになります。神の救いのご計画を告げた預言者たち、天使の言葉を信じた聖母マリア、神の業を証したエリサベトのことを考たら、クリスマスの真の意味を見出すことができると思います。やはり、クリスマスとは、ピカピカする飾り、懐かしい音楽、クッキーなどよりも、現れた神の救いを喜ぶ時期なのです。このようなクリスマスの喜びを持ち、お生まれになったイエス·キリストをとおして私たちに与えられた神の救いを信じ、それに与ることができますように祈り求めましょう。
メッセージ - C年 待降節 |
待降節は「主の降誕を待つ季節」と書きますが、「待つ」といっても、ただぼうっとして「待つ」のではありません。私たちは心を込めて準備して待ちます。
第二朗読のフィリピの教会への手紙(1:4-6、8-11)では、「キリストの日に備えて」愛をますます豊かにし、本当に重要なことを識別する力を身につけることが祈り求められています。
また、福音朗読(ルカ3:1-6)では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というイザヤの預言(40:3-5)が引用されます。この預言の「荒れ野で叫ぶ者の声」は洗礼者ヨハネのことを言い表している、と語られますが、まさに彼は、イエスが活動を始める前に人々に悔い改めるよう宣べ伝え、イエスのために道を準備した人でした。
私たちも洗礼者ヨハネと同じように準備が必要です。イザヤ書の言葉のように、自分自身と他者を隔てている谷や山や丘をまっすぐな道にして、心を通わせ、愛が通れるようにするとき、そこにイエスがお生まれになる場所ができます。
メッセージ - C年 待降節 |
この待降節第一主日から、教会は新しい年を始めますが、その福音朗読(ルカ21:25-28、34-36)の最後の言葉、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」から「いつも目を覚まして祈りなさい」までの部分は、この前日、一年の最後に当たる年間第34土曜日の福音朗読で読まれたのとまったく同じ箇所です。一年の終わりでも始まりでも同じ箇所が読まれるということは、とても興味深いですけれども、それだけそのメッセージが私たちにとって大切だと示しています。
「心が鈍くならないように注意して、いつも目を覚ましている」ということは、もちろん比喩的な意味であって、「睡眠を取らない」ということではなく、「目をつぶったり、目を背けたりしない」、むしろ「目を開けている」、「注意してずっと気をつける、気を配る」、ということです。
私たちは、イエスの誕生を祝うクリスマスに、何を見るでしょうか。イエスがお生まれになった物語を見聞きして、そこにかわいい赤ちゃんが生まれて幸せな家族という、何となく暖かいイメージの他に、見ているものがあるでしょうか。宿屋には泊まる所がなく、寒く汚い馬小屋の中で生まれて、飼い葉桶に寝かせられている、貧しくなられた主イエスの姿を見ているでしょうか。その誕生は皆から祝福されたものではなく、やってきたのは律法を守らずイスラエルの神に従わないとされる外国人や、汚れた者とされ、町から離れて貧しく暮らさなければならなかった羊飼い達だけだったと気づいているでしょうか。そして生まれてからもヘロデ王に命を狙われ、代わりに多くの子供が殺された、その残酷さにも目を向けているでしょうか。赤ん坊であるイエスの姿に、十字架のイエスの姿を見ているでしょうか。
私たちも、クリスマスを祝うに当たって、美しく光る通りのイルミネーションや、綺麗に飾り付けられたクリスマスツリーや、魅力的なプレゼントや、おいしそうなケーキやごちそう以外に、目を向けることがあるでしょうか。
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日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月21日~28日で、「ヨセフ年」(2020年12月8日~2021年12月8日)と「『愛の喜び』家庭年」(2021年3月19日~2022年6月26日)が重なっていることにちなみ、「家庭-試練や苦境における喜びの源」をテーマとしています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。
また、神言会の聖書使徒職委員会でも、今年の聖書週間にあわせて小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)。