メッセージ - B年 年間

「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」。第一朗読の『知恵の書』の言葉です。

私たちは願ってもいないのに与えられた最大の恵み、それは言うまでもなく、「命」です。神様は、私たちが生きることを望んでおられます。ただ息を吸っているのではなく、神の似姿としていきいきと生きることを望んでおられます。その思いが今日の朗読の中によく伝わってきます。

福音朗読は、イエスがヤイロの娘を起き上がらせたことを伝えています。マルコの話をよく聞くと、ヤイロの家に向かっているイエスの中に、人間が生きることを望んでおられる神の思いが溢れ出ていることが感じ取れるでしょう。ヤイロの家で横たわっているのは12歳になった娘です。「12歳になった娘」というのは、正に文字通りこれから新しい命を産み、神の創造の業に協力することになる年齢です。ですから、周囲の人々から「娘はもう死んでしまった」と言われても、イエスは「いや、ただ眠っている」と言い返しました。周囲の嘲笑いに動揺しないイエスの姿、その言葉の中に、命あるものの滅びを望んでおられない神の思い、ご自分の似姿として造られたものが生きることを望んでおられる神の思いが必死必死と伝わってきます。「タリタ、クム。少女よ、起きなさい」という一言の中に、人間が生きることを望んでいる神の思いがこもっています。

その思いは、既に12年間出血を患った女にも伝わっていることでしょう。彼女はイエスを見た時に「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思いました。そして、群衆の間を抜けて、こっそりとイエスの服を触れました。触れた瞬間、病気は癒されました。二人の女性、一人は12歳の娘、もう一人は12年間出血を患っていた女がイエスによって救われました。マルコがこの二つの話をワンセットで伝えるのは、命の与え主である神を信じ、人間が生きることを望んでおられる神の思いを忘れないように伝えようとするのではないでしょうか。

日常生活の中で、生きることをあきらめ、希望を失う時があります。その時に、私たちは祈りやミサや秘蹟を通してイエスの助けを求めることができます。また、お互いを通してイエスの服に触れることができるはずです。お互いを通して「起きなさい」という励ましの言葉を語りかけ、また聞くことができるはずです。第二朗読のパウロの言葉で言い換えれば、お互いを補い合うことが出来るということです。

 
メッセージ - B年 年間

今日の聖書の朗読は、神の全能と救いの力について述べています。

第一朗読のヨブ記による神は「高ぶる波をとどめる」方であると記されています。当時のイスラエル人が知っている海は、強大な力を示すものであり、恐れを感じさせるところなのです。海の波を治めることによって、神の全能、救う力を知り尽くすことができます。

福音朗読は神の全能というテーマで続きます。激しい突風が上がり、岸から漕ぎ出したキリストの弟子たちの船は大波で溺れそうになります。その時「先生私たちが溺れてもかまわないのですか」という叫び声を聞いたキリストは、「黙れ。静まれ」と命じておられます。さらに「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と弟子たちが驚いて言い、ナザレのイエスが神から来られたメシアであるということが示されています。実は、このメシアが示しておられる力は、海の波を静める力だけではなく、すべての人類の歴史の「波」、また私たち一人ひとりの人生の「波」を落ち着かせる力であり、新しい命をもたらす救いの力なのです!

第二朗読の使徒パウロの言葉によると、イエス・キリストに結ばれる人は、「新しく想像されたもの」となっています。それは、キリストの死と復活によるものです。

皆さん、現代においても、日常生活の中にある苦悩や悩みなどが波のようであり、私たち一人ひとりの人生の小舟が溺れそうに感じることがあるのではないかと思います。しかし、溺れそうになった時こそ、キリストを信じるように招かれています。ガリラヤ湖で船に乗ったキリストの弟子たちと同じように。確かに、弱さや恐れを感じることなどがありますが、私たちの人生の小舟が揺らぐことにならないように、我が主イエス・キリストに寄り添って、神様の救いと全能を信じましょう!

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音(マルコ4:26-34)では、神の国が種の成長に重ねられて、二つのたとえ話が語られています。一つ目のたとえ話では、種が蒔かれると、人が寝起きしているうちに、つまり知らない間に芽を出し、成長して、ひとりでに実を結ぶ、そして収獲が得られる、神の国はそういうものだと語られています。

二つ目のたとえ話では、神の国がからし種にたとえられ、どんな種よりも小さいからし種が蒔かれて成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が葉の陰に巣を作るほどに大きな枝を張る、と言われています。

この両者に共通することは、種の成長が、つまり神の国の実現が、私たちの思いや力を越えたところにあるということです。しかし、私たちの働きは何の意味もない、私たちは神の国のために何もしなくていい、ということではありません。かえって、私たちの力は足りないけれども、悲観しなくてもよい、あきらめることはない、私たちが知らない間に、神が水をまき、肥料を与え、光で照らし、その種を成長させて下さる、そういう慰め、力づけです。

神の国は私たちが自分の力で勝ち取るものではありません。私たちが思いもしないところで、思いもしない仕方で、神の国は始まっています。実りが良くても悪くても自分の働きだけにとらわれてしまうことがある私たちですが、息をついて周りを見渡すと、たくさんの恵みや助けに支えられていることに気づきます。

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メッセージ - B年 祭祝日

今日特別な仕方で記念するキリストの御聖体とは何なのでしょうか。簡単に言えば、キリスト自身の奉献であり、自分で先取りして捧げた永遠の供物です。毎回のミサの中で、いつも世界中のどこかで、その唯一の奉献が現実化されます。神秘的な仕方で私たち皆ゴルゴタの丘に運ばれる効果を持つものです。創造主としての神はある意味で全てのものの中に宿っていると言えますが、特に御聖体の中に自分の体と血、魂と神性が宿るとイエス様は約束したのです。

御聖体はどのような効果を持つでしょうか。それに与る信者をキリストの捧げ物に結び、その恵みを受けることを可能にします。「記念」というのは神様にこの新しい契約のことを覚えさて続け、ある意味でその契約を永遠に更新していくものです。葡萄の木と枝の喩えのように、御聖体によって私たちはキリストと一体化していきます。この世の汚れから私たちを清め、聖化するします。

この秘蹟は何故必要でしょうか。荒野をさまよっていたイスラエル人にとって神秘的な糧であったマンナがそれであったように、私たちキリスト者を旅し続けることができるよう力付けて、養い、いつも伴っています。そのため、ダビデの神殿でマナの残りが保管されていたように、私たちは常にキリストが現存する御聖体を聖櫃に安置しています。身体によって戴くものではありますが、心にも入り、五感の認識や知性の理解によらず、信仰の目で見て、イエス人が共にいてくださることを経験させてくれるのです。

 
メッセージ - B年 年間

第一朗読(申命記4:32-34、39-40)では、出エジプトを経験したイスラエルがどれほど神に大切にされているかをモーセが語ります。その関係は唯一の神とその民として描かれています。三位一体の主日の朗読は、私たちが「あたたかい交わりに招かれている」ということを思い起こさせてくれます。

第二朗読(ローマ8:14-17)では、私たちが神の子供であり、キリストと共に神の相続人とされている、その親しい結びつきが強調されています。

そして福音朗読(マタイ28:16-20)では、イエスが11人の弟子たちを派遣し、すべての人を「父と子と聖霊の名によって」弟子の交わりの中に招き入れるようにと命じています。

私たちは愛の内に招かれた者であり、そしてまた私たち自身も他の人々をその交わりの中に招き入れるよう呼ばれています。神の国は排他的な特権ではなく、すべての人に開かれた愛の交わりです。

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