メッセージ - B年 年間 |
今週の福音朗読(ヨハネ6:24-35)は、先週の主日で読まれた、イエスが五千人に五つのパンと二匹の魚を分け与えたというお話の続きです。翌日になって、既に立ち去っていたイエスを追いかけてきた群衆への言葉、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」は、痛烈な指摘です。「ラビ」という宗教的な師への呼びかけにもかかわらず、その根本にあるのは、イエスにおもねって苦労せずただで腹を満たしたい、という浅はかな考えです。先祖が荒れ野でマンナを食べたようなしるしを求めることが、更にそのことを強調しています。
群衆の思惑の卑しさが際立ちますが、実はそれは私たちの中にも隠れている思いかもしれません。損するよりはもちろん得する方がいい。けれども目先の欲が本当に大切なものから目を曇らせることもあるでしょう。第二朗読のパウロが語る「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人」とは、そんな私たちのことを指しているのではないでしょうか。
第一朗読の出エジプト記(16:2-4、12-15)では、イスラエルの人々が食べ物を得たとき、モーセはそれこそ神が与えられたものであると、神の働きが背後にあることを指摘しました。私たちは毎日の出来事の中に、目の前の事物の向こうに、見えない何かを感じ取っているでしょうか。
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パンと言えば、人間の命に必要な糧となるものです。食文化によって、パン、ご飯、トウモロコシなどの主食がありますが、毎日食べるべき糧を必要としています。主の祈りの中にも「私たちの命の糧をお与え下さい」とも毎日祈ります。食事のことは、いつも覚えているでしょう。
今日の福音の中にも食事となるパンのテーマとなっています。ナザレのイエスの話しを聞くために集まった群衆は、食事のことを忘れたと述べられています。ナザレのイエスとの出会を必要としたからです。それと似たような経験は私たち自身もあるのではないかと思います。例えば、楽しく遊ぶ子供たちはお母さんに注意されないと、食べることをよく忘れることがあります。また大人でも好きな仕事や大事なものに気を引かれたら、食事のことを忘れることもあります。
今日の福音の中に書かれた群衆は、ナザレのイエスに魅了されました。したがて、パンは足りないと気づいたのは、群衆ではなく、イエスご自身です。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とイエスがフィリポに聞いてから人々を座らせ、パンを増やして弟子たちの手を通してお腹が空いた群衆に与えられます。そうしたら、人々みんなが満腹すると書いてあります。
この聖書の言葉を聞くと一つの大切なことを学ぶことができると思います。それは、もし私たちがイエス・キリストの言葉と指導を求め、イエス・キリストのことを第一のものとするならば、命に必要なものはすべて神様が与えてくださるということです。例えば、日曜日のミサを第一のものとした時、私たちを力づける命のパンであるご聖体をいただくことになります。また、例えば、朝早く起きて祈れば、 祈りは私たちを励まし、力づけるものとなります。
イエス・キリストは私たちに必要な命のパンを与えてくださいます。それは、どれほど大きな恵みでしょうか。手を伸ばして、イエス様が私たちに与えてくださるものをすべていただきましょう。
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今日の福音は短いわりに、とても大切なことがそこから伝わってきます。2人ずつ遣わされた12人の弟子(そこで初めて「使徒」と呼ばれている人たち)はイエスのもとに戻ってきて、果たすことができた数多くの使命を自慢して報告しました。休むことも食べることもできずに活動をし続けてきました。それでも足りないぐらいでした。まだまだ人々が押し寄せてきたのです。そこから何が分かるでしょうか。
まず、弟子たちはイエスの手先であったに過ぎず、最終的に群衆はイエスのところに来なければ満足できなかったということです。そんなに多くの人がイエスの教えを聞きたく、病気を癒してもらいたく集まっていたということは、この民は自分の牧者たちからほったらかしにされていたことを伺わせてくれます。まさしくエレミヤなど預言者たちがかつて批判していたことと共鳴します(第1朗読)。
しかしまた、このおびただしい群衆は必ずしもイエスの活動の最終的な成功を意味するわけではありません。行ったり来たりする人もいました。噂を聞いて好奇心だけで訪れた人もいました。弟子たちにしてもらえなかったことを直接イエスに求めに来てみた人もいました。自分のニーズだけを満たすことを期待して、或いは、周りに流されて来た人もきっといました。弟子である私たちの成功も量や数で測られるものではありません。使命の成功というものは、長い時間をかけて、共に時間を過ごして、たくさんの話をすることにかかっている、ということもこの物語から読み取ることができます。
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今日の福音には、イエスが故郷に帰られる場面が描かれていますが、人々がイエスにつまずく様子が描かれています。この福音の中でイエスは、その人々に向かって「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と教えられています。イエスをよく知っていた故郷の人々は、イエスをよく知っていたがために、イエスの教えと行ったわざを素直に受け入れることができません。ましてガリラヤの出身で大工の息子であったということから、宗教的な教育もなく、特別な存在とは思われていなかったように思えます。それだけに、イエスの社会的な立場や出身だけに囚われて、イエスが伝えようとした神の言葉、神のわざを理解することができなかったように思えます。私たちにおいても、家族や友人などの近い人の言葉は、意外に素直に受け入れられないように思えます。しかし、そういった私たちの家族、学校や会社、私たちの生活の中にいる親しい友人など、一人ひとりの中にイエスがおり、その人々を通して、イエスは私たちに語り掛けています。
イエスの教えと行いを、故郷の人々は理解することができませんでした。それは「イエスがそんなたいそうな人ではない」とか「あのイエスに何が分かるのか」といった思い込みや、プライドみたいなものが人々の中にあったからだと思います。私たちにおいても、偏見やプライドで人を見て、その人の行いや忠告を聞かないことがあります。しかしキリスト者でなくても、私たちキリスト者以上にイエスが教えたような行いをする人々も周りには多くいます。そういった私たちの近くにいる人々において、その心の中にイエスがおられることを私たちは忘れてはいけないのだと思います。私たちは常に祈りの心をとおして、人々に中におられるイエスを感じ、そしてその言葉と行いに耳を傾ける必要があるのだと思います。
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「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」。第一朗読の『知恵の書』の言葉です。
私たちは願ってもいないのに与えられた最大の恵み、それは言うまでもなく、「命」です。神様は、私たちが生きることを望んでおられます。ただ息を吸っているのではなく、神の似姿としていきいきと生きることを望んでおられます。その思いが今日の朗読の中によく伝わってきます。
福音朗読は、イエスがヤイロの娘を起き上がらせたことを伝えています。マルコの話をよく聞くと、ヤイロの家に向かっているイエスの中に、人間が生きることを望んでおられる神の思いが溢れ出ていることが感じ取れるでしょう。ヤイロの家で横たわっているのは12歳になった娘です。「12歳になった娘」というのは、正に文字通りこれから新しい命を産み、神の創造の業に協力することになる年齢です。ですから、周囲の人々から「娘はもう死んでしまった」と言われても、イエスは「いや、ただ眠っている」と言い返しました。周囲の嘲笑いに動揺しないイエスの姿、その言葉の中に、命あるものの滅びを望んでおられない神の思い、ご自分の似姿として造られたものが生きることを望んでおられる神の思いが必死必死と伝わってきます。「タリタ、クム。少女よ、起きなさい」という一言の中に、人間が生きることを望んでいる神の思いがこもっています。
その思いは、既に12年間出血を患った女にも伝わっていることでしょう。彼女はイエスを見た時に「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思いました。そして、群衆の間を抜けて、こっそりとイエスの服を触れました。触れた瞬間、病気は癒されました。二人の女性、一人は12歳の娘、もう一人は12年間出血を患っていた女がイエスによって救われました。マルコがこの二つの話をワンセットで伝えるのは、命の与え主である神を信じ、人間が生きることを望んでおられる神の思いを忘れないように伝えようとするのではないでしょうか。
日常生活の中で、生きることをあきらめ、希望を失う時があります。その時に、私たちは祈りやミサや秘蹟を通してイエスの助けを求めることができます。また、お互いを通してイエスの服に触れることができるはずです。お互いを通して「起きなさい」という励ましの言葉を語りかけ、また聞くことができるはずです。第二朗読のパウロの言葉で言い換えれば、お互いを補い合うことが出来るということです。