メッセージ - B年 年間

今日の聖書の朗読は、神の全能と救いの力について述べています。

第一朗読のヨブ記による神は「高ぶる波をとどめる」方であると記されています。当時のイスラエル人が知っている海は、強大な力を示すものであり、恐れを感じさせるところなのです。海の波を治めることによって、神の全能、救う力を知り尽くすことができます。

福音朗読は神の全能というテーマで続きます。激しい突風が上がり、岸から漕ぎ出したキリストの弟子たちの船は大波で溺れそうになります。その時「先生私たちが溺れてもかまわないのですか」という叫び声を聞いたキリストは、「黙れ。静まれ」と命じておられます。さらに「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と弟子たちが驚いて言い、ナザレのイエスが神から来られたメシアであるということが示されています。実は、このメシアが示しておられる力は、海の波を静める力だけではなく、すべての人類の歴史の「波」、また私たち一人ひとりの人生の「波」を落ち着かせる力であり、新しい命をもたらす救いの力なのです!

第二朗読の使徒パウロの言葉によると、イエス・キリストに結ばれる人は、「新しく想像されたもの」となっています。それは、キリストの死と復活によるものです。

皆さん、現代においても、日常生活の中にある苦悩や悩みなどが波のようであり、私たち一人ひとりの人生の小舟が溺れそうに感じることがあるのではないかと思います。しかし、溺れそうになった時こそ、キリストを信じるように招かれています。ガリラヤ湖で船に乗ったキリストの弟子たちと同じように。確かに、弱さや恐れを感じることなどがありますが、私たちの人生の小舟が揺らぐことにならないように、我が主イエス・キリストに寄り添って、神様の救いと全能を信じましょう!

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音(マルコ4:26-34)では、神の国が種の成長に重ねられて、二つのたとえ話が語られています。一つ目のたとえ話では、種が蒔かれると、人が寝起きしているうちに、つまり知らない間に芽を出し、成長して、ひとりでに実を結ぶ、そして収獲が得られる、神の国はそういうものだと語られています。

二つ目のたとえ話では、神の国がからし種にたとえられ、どんな種よりも小さいからし種が蒔かれて成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が葉の陰に巣を作るほどに大きな枝を張る、と言われています。

この両者に共通することは、種の成長が、つまり神の国の実現が、私たちの思いや力を越えたところにあるということです。しかし、私たちの働きは何の意味もない、私たちは神の国のために何もしなくていい、ということではありません。かえって、私たちの力は足りないけれども、悲観しなくてもよい、あきらめることはない、私たちが知らない間に、神が水をまき、肥料を与え、光で照らし、その種を成長させて下さる、そういう慰め、力づけです。

神の国は私たちが自分の力で勝ち取るものではありません。私たちが思いもしないところで、思いもしない仕方で、神の国は始まっています。実りが良くても悪くても自分の働きだけにとらわれてしまうことがある私たちですが、息をついて周りを見渡すと、たくさんの恵みや助けに支えられていることに気づきます。

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メッセージ - B年 祭祝日

今日特別な仕方で記念するキリストの御聖体とは何なのでしょうか。簡単に言えば、キリスト自身の奉献であり、自分で先取りして捧げた永遠の供物です。毎回のミサの中で、いつも世界中のどこかで、その唯一の奉献が現実化されます。神秘的な仕方で私たち皆ゴルゴタの丘に運ばれる効果を持つものです。創造主としての神はある意味で全てのものの中に宿っていると言えますが、特に御聖体の中に自分の体と血、魂と神性が宿るとイエス様は約束したのです。

御聖体はどのような効果を持つでしょうか。それに与る信者をキリストの捧げ物に結び、その恵みを受けることを可能にします。「記念」というのは神様にこの新しい契約のことを覚えさて続け、ある意味でその契約を永遠に更新していくものです。葡萄の木と枝の喩えのように、御聖体によって私たちはキリストと一体化していきます。この世の汚れから私たちを清め、聖化するします。

この秘蹟は何故必要でしょうか。荒野をさまよっていたイスラエル人にとって神秘的な糧であったマンナがそれであったように、私たちキリスト者を旅し続けることができるよう力付けて、養い、いつも伴っています。そのため、ダビデの神殿でマナの残りが保管されていたように、私たちは常にキリストが現存する御聖体を聖櫃に安置しています。身体によって戴くものではありますが、心にも入り、五感の認識や知性の理解によらず、信仰の目で見て、イエス人が共にいてくださることを経験させてくれるのです。

 
メッセージ - B年 年間

第一朗読(申命記4:32-34、39-40)では、出エジプトを経験したイスラエルがどれほど神に大切にされているかをモーセが語ります。その関係は唯一の神とその民として描かれています。三位一体の主日の朗読は、私たちが「あたたかい交わりに招かれている」ということを思い起こさせてくれます。

第二朗読(ローマ8:14-17)では、私たちが神の子供であり、キリストと共に神の相続人とされている、その親しい結びつきが強調されています。

そして福音朗読(マタイ28:16-20)では、イエスが11人の弟子たちを派遣し、すべての人を「父と子と聖霊の名によって」弟子の交わりの中に招き入れるようにと命じています。

私たちは愛の内に招かれた者であり、そしてまた私たち自身も他の人々をその交わりの中に招き入れるよう呼ばれています。神の国は排他的な特権ではなく、すべての人に開かれた愛の交わりです。

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メッセージ - B年 祭祝日

今日は聖霊降臨にあたりますが、それに伴い第一朗読では使徒言行録の五旬祭の場面が描かれています。この五旬祭の場面で、イエスが約束されていた聖霊が弟子たちの上に注がれ、聖霊に満たされた弟子たちが、その場に集まっていた国の人たちの言葉で話し始めると書かれています。この中で聖霊は「激しい風が吹いてくるような音」、「炎のような舌が分かれ分かれになり」とよくわからない表現で形容されています。聖霊についてもう少し深めるため、旧約聖書での表現に触れたいと思います。

旧約聖書では聖霊、霊に「息」にあたる言葉を使っています。創世記の創造物語では、土で人を形作り、その鼻に神が息を送り、人が生きる者となるとあります。私たちも神から「息」を送られて生きる者となります。しかし「息」は私たちが日常的に吸ったり吐いたりしていますが、常にそれを意識している人は誰もいません。聖霊は今日の第一朗読で言われているように、度々「風」や「音」として表現され、私たちが目で捉えることができない、且つそれがなければ生きていくことができないものです。その意味で聖霊は私たちキリスト者が生きる上で欠かせないものだと言えると思います。

今日の第一朗読では、聖霊に満たされた使徒たちが、その場に集まっていた国の人たちの言葉で話し始めます。これは一見すると、私たちにとって理解不能な出来事にも見えます。しかし私は海外の宣教師たちが日本語を宣教のために学んでいる姿を見て、何となく理解できると感じることがあります。それは宣教師たちが司牧のために日本語を学び、日本語を通してイエスを証ししているように、使徒たちはイエスの証しを人々に伝えることを熱望し、その結果聖霊の恵みが与えられ、人々に福音を伝えるために話し始めたのだと思います。その意味で聖霊は私たちにキリスト者として生きる上で、本当に必要な助けを下さるのだと感じます。私たちにとって本当に重要なのは日々の生活の中で、如何にして聖霊を感じるか、更に言えば、私たちがキリスト者としてこの社会で何が本当に求められているのかを探し求めることにあると思います。そうして私たちが日々生活で聖霊を感じ、神から本当に必要な恵みが与えられるように共に祈りましょう。