メッセージ - B年 年間

今週の福音朗読(マルコ1:40-45)で、イエスは重い皮膚病の人をいやし、祭司の所に行って体を見せなさい、と言われています。というのもレビ記13章によれば、皮膚病の疑いがある場合、その人は祭司に見てもらい、その祭司が皮膚の患部を調べて「あなたは清い」とか「あなたは汚れている」と言い渡す、とされているからです。そしてもし重い皮膚病にかかっていた場合には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:45-46)とされています。

このように、重い皮膚病になると、自分で惨めな格好をして「わたしは汚れた者です」と叫び、人が住んでいるところから離れなければなりませんでした。イエスの時代に、この旧約聖書のレビ記の規定がどれほど文字通りの意味を持っていたかは分かりませんが、いずれにしてもこうした病を患うということは、ただ肉体的な病で苦しむというだけではなく、精神的にも傷つけられるということ、社会的に死を言い渡されることだった、ということが分かります。

ですから、イエスが人々をいやされたということは、単に肉体的な障害を取り除かれた、という話ではありません。「清める」という言葉が使われているように、そのいやしは体の癒やしであり、心の癒やしであり、魂の救いであり、社会的な復活であり、全人格的な救いでした。イエスが病気を患っている人に近づいていく時、重い皮膚病かどうかを判断する祭司のように、ただ目に見える病気の症状を見ていたのではなくて、その人の心の痛みや、社会から排除された悲しみにも目を向け、憐れみの心を持って、その心の苦しみに手をさしのべて、触れられました。

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今週の福音朗読のマルコ1:29-39は、大きく二つに分けられます。前半(1:29-34)では、イエスが熱を出していたシモンのしゅうとめをいやすと、日が沈んでから町中の人が、様々な病気の人、悪霊に取り憑かれた人々を連れて集まってきたので、彼らをいやされた。目が回るように忙しい、慌ただしい活動の一日が描かれます。

一方、後半(1:35-38)では、朝早くまだ暗いうちに起きたイエスが人里離れたところに出て行って祈るという、静かな時が描かれます。単に休息しているというのではない、力を得て再び宣教に向かう前の、人々が知らない活動の裏側の場面です。

ここに、私たちはイエスの生き様の深みを見ることができます。毎日押し寄せる群衆を処理するのに忙殺されていたのではなく、いつも立ち返るところがあり、自分の使命を再確認して神の恵みに力づけられていた、そんな姿が浮かび上がってきます。

現代の私たちも毎日忙しく働いています。しかし、私たちの働きには、表に見えているだけではない深みがあるでしょうか。「忙」しさに「心」を「亡」くしていないでしょうか。自分が根ざしているところと目指すところを見失わないようにしたいものです。

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よくあることですが、今日の朗読は旧約の預言とそれに対応する新約の成就について語り、イエスという実際の模範を示しています。厳密に言えば、神を自分の民に対して代表する指導者の預言とその実現を見せられます。真の主導権や権威は自分で握るのではなく、神によって「呼び起こされる」のです。それから、イエスのように本当の権威は人々を解放しているものです。

さて、先週に続いて、イエスは神の国の到来を宣べ伝えるのではなく、それを具現しているように描かれます。言葉と行いとにおいて、力を発揮しながら、神の国の到来に寄与しています。しかし、その神の国の実現に逆らう力も存在しています。それを今日の福音は「汚れた霊」と表現していますが、悪魔だけではなくあらゆる悪意や利己心や自己中心主義も皆この世に属するものであり、この世を支配する者に従っているものに他なりません。

同時に闇にも光にも生きることはできないのですが、現実として、まだ闇に留まりながらますます光に向かって歩むことはできます。いや、それこそは我々キリスト者の使命であります。停滞することは後退することを意味しますので、(イエスから溢れ出る力で)前進するしかありません。神の国は賢い言葉や合理的な証明で広めるものではなく、それに触れるという経験で広まるものです。

偶然ではないと思いますが、このような神に逆らう力と戦う場面として安息日が選ばれています。天地創造のことをも連想させる安息日は、やはり、混沌(=無)と秩序(=存在)を分ける反面、分離・分裂を乗り越えて別れていたものを一つに集めること(すなわち神秘)を意味しています。神の偉大な業を思い巡らし、味わい、それを讃えるために日曜日以上にふさわしい機会はありません。

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先週の福音朗読、ヨハネ福音書に見られる弟子の召命物語と同様、今週の福音朗読箇所(マルコ1:14-20)でも、やはりイエスは漁師たちを弟子にするとき、彼らをご覧になって、呼びかけ、彼らがそれに応える、という召命のパターンが見られます。弟子になる人々の応え方は、ただついて行くというのではなく、それまでの生き方を捨ててイエスに従うという、新しい生き方の選択として描かれています。

シモンとアンデレはイエスに呼ばれたとき漁をしていましたが、漁師として生きるシンボルであり、漁師としての仕事に実質的にも必要不可欠で、その時もまさに打っていた「網」を捨てて、イエスに従いました。ヤコブとヨハネも同様です。漁師として必要で、そのアイデンティティでもある舟をおいて、それまでの人生で最も重要な人間関係である家族関係の象徴、父親を残して、イエスとの関係を深めていく生き方を選びます。

私たちの「召命」は、一方で「呼ばれている」「必要とされている」というものであり、また他方、自分の意思で自分の生き方において何を優先させるかを「選択する」というものでもあります。その両方を大切にしたいと思います。

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四つの福音書の中には人がイエスの弟子になる場面がいくつもあり、それぞれの召命は様々で興味深いですが、共通点もあります。召命はいつも一方的ではなく、応答です。そこには出会いがあり、呼びかけがあり、それに対する応えがあります。

今週の主日の福音(ヨハネ1:35-42)では、二つの召命物語が語られます。前半ではヨハネの二人の弟子がイエスに従うようになり、後半ではシモンがイエスと出会います。アンデレを含む、ヨハネの二人の弟子は、ヨハネがイエスのことを「神の小羊だ」と言うのを聞いてイエスについて行きますが、その後の出会いが詳しく描かれています。二人がやって来ると、イエスは「振り返り」、彼らに向き合います。そして彼らが何を求めているのかと尋ね、自分がいる場所に来て、自身の目で見て確かめるように呼びかけます。

イエスに従ったアンデレは兄弟のシモンをイエスのもとに連れてきますが、やはりイエスは彼の方を向いて、じっと見つめます。そして「ケファ(岩)」という名前を与えます。現代でもあだ名をつけるのは親しさの表れですが、それだけではなく、名前を与えるということは重要な役割を与えることでもあります。イエスはシモンに、新しい役割、新しい生き方を示し、シモンはそれに応えていきました。

共観福音書の召命の場面でもそうですが、イエスが誰かを弟子に呼ぶとき、その人を「見る」と言われているのは印象的です。イエスはまっすぐにその人と向き合って、目を合わせて呼びかけます。私たちにもそのまなざしは向けられています。

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