メッセージ - B年 待降節

イエスの誕生物語が収められている福音書はマタイとルカだけです。マルコとヨハネにはイエスの誕生を描いた場面はありません。ですから、福音書が重要なものと考えて描こうとしているのは、実は「イエスが生まれた時の歴史的な状況」ではなく、「イエスがこの世に来られたことの意味」であるということがわかります。

先週から典礼暦がB年になり、主日のミサではマルコ福音書がメインに朗読されますが、待降節の朗読箇所もイエスの誕生にまつわるものではなく、その活動が始まる直前の話から始まります。他の福音書でもそうですが、マルコでもまず洗礼者ヨハネがイエスの先駆者として登場します。マルコ福音書の冒頭にあたる今週の福音朗読の箇所(1:1-8)でも、洗礼者ヨハネが主の道を準備する者として、罪の赦しのために悔い改めの洗礼を授ける人物として現れます。

もちろんヨハネは正しく偉大な人物として描かれていますが、跡から来られる方は彼よりも「優れている」と言われています。私たちにとって、洗礼者ヨハネとイエスの違いはどこにあるでしょうか。イエスとは私にとって、どんな方なのでしょうか。待降節はその意味を考えるときでもあります。

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メッセージ - B年 待降節

待降節が始まり、教会の暦の上では新しい年になります。今年の朗読聖書のサイクルはB年です。

さて、私たちが「待降節」に「待」つのは、誰が「降」ってくることでしょうか。クリスマスというと、馬小屋の中で幼子イエスを囲む父ヨセフと母マリア、そしてお祝いにやってきた羊飼いと動物たちという、ただただ幸せな情景を思い浮かべて、何となくほのぼのとした雰囲気になってしまうのは当然かもしれません。

けれども、待降節に読まれる聖書箇所をよく見ると、私たちは生まれたばかりのあどけない、しかし何もできない幼子のかわいらしい笑顔をただ待っているのではない、ということが分かります。

第一朗読のイザヤ書(63:16b-17、19b、64:2b-7)では、イスラエルが自分たちの罪のために滅ぼされ、捕囚の地に連れて行かれ、解放された後も荒れ果てた国で困難の内に生きている中で、神の救いを祈り求める姿が描かれています。

第二朗読のコリントの教会への手紙(一コリ1:3-9)では、私たちがキリストに結ばれ、キリストとの交わりの内に、主イエス・キリストが再び現れるのを待ち望むけれども、「最後まで」主が支えて下さってはじめてそれが可能になるという厳しさが示唆されています。

福音朗読のマルコ(13:33-37)では、イエスが弟子たちに「目を覚ましていなさい」と三回も繰り返しています。僕(しもべ)が責任を持たされているように、門番が目を覚ましているように、私たちも「気をつけて」、いつなのか分からない「その時」を注意して待ちなさい、と緊張感にあふれた口調でそう語られています。

これらの聖書箇所は「あたたかくほのぼのと過ごすクリスマス」とはかけ離れているかもしれませんが、コロナ禍にある私たちにとっては逆に希望や慰めとなります。私たちのもとに来られる方は、厳しい現実の中に生まれました。私たちの痛みや悲しみ、苦しみにこそ、そのまなざしは向けられています。

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メッセージ - A年 年間

福音朗読の箇所(マタイ25:31-46)は、典礼暦の終わりにあたる「王であるキリスト」にふさわしいお話になっています。

羊飼いが羊と山羊を分けるように、王が人々を右と左に分ける。そして王は右側にいる人々に対して、飢えている人、渇いている人、旅している人、裸の人、病気の人、牢にいる人を世話してくれたのは自分にしてくれたことだ、と評価し、左側にいる人々に対しては、同じ状況にあった自分を世話してくれなかったと糾弾する、という話です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」という言葉が印象的です。

この話は、24章の始めに、終わりの時のことを尋ねた弟子たちにイエスが答える、という流れの中で語られていますので、「最後の審判」についてのお話だと説明することもできます。けれども、私たちが「終わりの時」のことばかりにとらわれてしまっては、この箇所の中心的なメッセージを読み落としてしまいます。

実際にイエスが呼びかけているのは将来のことではなく、決定的なことが起こるのを待つのではなく、今この瞬間、自分の前にいる小さい人に目を向け、手を差し伸べることです。今年の典礼暦は終わりますが、私たちの人生の歩みは止まりません。すぐに次の年が始まります。いつも新しい今日という日、今という時に集中し、そこで出会う人と誠実に関わることを大切にしたいと思います。

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テーマ - テーマ

日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月15日~22日で、そのテーマはフランシスコ教皇の日頃の言葉を受けて、「すべてのいのちを慈しむ」となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF形式のデータも同ページからダウンロードできます。

また、神言会の聖書使徒職委員会でも、今年の聖書週間にあわせて小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)。

 
メッセージ - A年 年間

日本語でも使われる言葉の「タレント」は、今日の福音書に出ている「タラントン」と同じ語源で、実際その同じ言葉です。字義的にはあの時代のお金の単位を意味し、1タラントンはかなり高額です。比喩的な意味では、与えられた才能や優れた能力、またはその持ち主を指しています。今日の喩え話は、賜物とそれに付随している役割と義務の分配者である神と対象である信仰者である人間との関係を描いています。取引、商売、会計報告という冷たい計算的・機械的な関係だという印象も受けかねませんが、実はその肝心なポイントは違うところにあるます。

(1)何も与えられていない人間は誰もいません。だいたい自分の可能性に合わせて賜物を与えられます。一番少ないタラントンを与えられた人間でも、当時の雇い人のおよそ16年間の給料に相当していますので、決して小さなものではありません。

(2)それぞれの人から求められるものは、他の人と比較しての何かではなく、与えられた賜物に基づいて計算されるものです。多くのものを与えられた人からはより多く求められます(ルカ12:48参照)。1タラントンをもらった人も5タラントンもらった人も、それぞれその倍だけ返さなければならないのです。

(3)神が信頼を持って与えてくださったもの(能力、時間、物財、人間関係・・・)は、ただ預かって好き勝手に使えるものではなく、それをさらに実らせるために任せられています。物語の最後の人のように、たとえ何もできなかったとしても、せめてそれを別の人に渡して、再投資すれば良いという話です。場合によって、無理してそれを増加させる必要はありませんが、少なくとも減らしてはなりません。もらった分だけ返すというのは、与えられたものに対して全く責任を感じていなかったということになります。

(4)最も大切なこととして、最後の人が叱られる理由は少ない利益を設けたからではありません。むしろ、失敗を恐れてか、挑戦しないままで持っている能力を隠して、とりあえず何もしなければ何も壊さないというふうに考えていたからです。あるいは、神を自分を隠さなければならない恐ろしいもの、気をつけなければならない管理人と考え、もらったのと同じものを返せばそれで済むと思っていたからです。しかし、何もしないよりは失敗する方がマシなのではないでしょうか。

この物語および聖書が呼びかけている神との関係(=信仰)とはそのようなものではありません。それどころか、父なる神の前では本当の謙遜を持って自分の出来不出来を認めて、受けた信頼を信頼で返し、何よりも神から与えられた使命の実行者だけではなく、その共同の管理者として、他人のものをただ関係なく預かっているのではなく、まさに自分自身のものである才能や機会を責任もって利用することへと今日改めて招かれています。

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