メッセージ - A年 年間 |
福音朗読の婚宴のたとえ(マタイ22:14)は天の国(神の国)を、王が王子のために催した婚宴にたとえた話です。歴史的な背景として、預言者たちやイエスによって伝えられた神のことばがユダヤ人に受け入れられず、そこから宣教が世界中に広がっていった様子を反映しているでしょうけれども、このたとえ話のどこに自分自身を置くかによって、受け取るメッセージも変わってきます。
もし自分を王の家来、特に後で大通りに出て行って人々を集めてきた家来として考えてみるとどうでしょう。家来たちは王に仕える者として、婚宴の準備ができていて、たくさんのごちそうが並んでいるのを知っています。けれども招待客が来ていないので、せっかくの婚宴が台無しになってしまう、そう残念に思っているところで王に命じられたのは、「あらかじめ招いておいた人々の代わりに、町の大通りに出て行って、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい」ということでした。
私たちはこの家来たちのように、イエスがのべ伝えたメッセージが素晴らしいものであることを知っています。それと同時に、そのすばらしさが十分に伝わっていないことも知っています。私たちは町に出て行って、見かけた人に、誰にでもその喜びを語り伝えるように、と命じられています。善人も悪人も関係ない、私たちがそれを判断するのではなくて、自分が好きか嫌いかに関わりなく、すべての人を集めてくるように、と言われています。誰かを外に放り出すかどうかを判断しているのは、王です。それは家来の仕事ではありません。私たちは、とにかくすべての人を婚宴の席へ、神の国へ招くように呼びかけられています。
たとえ話の中で、王は婚礼の礼服を着ていない人に対しても「友よ」と語りかけています。自分が気に入った人に対して愛を示すのは、それほど難しくありません。私たちはいつでもどこでも誰に対しても、「友」として誠実であろうとしているでしょうか。
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今週の福音朗読(マタイ21:33-43)は、三週連続の「ぶどう園のたとえ話」シリーズの第三回です。このたとえ話では、ぶどう園で夕方五時から働いた労働者の賃金に文句を言った朝から働いていた労働者や、父親にぶどう園へ行って働くように言われて「はい」と答えながら従わなかった弟よりもひどい登場人物が現れます。
ぶどう園を借りた農夫たちは、収穫を受け取るために遣わされた僕たちや主人の息子を殺してしまいます。歴史的に旧約の預言者たちが排斥され、イエスも十字架につけられたことを想起させますが、こうした仕打ちを私たち自身のこととして受け入れるにはあまりにも暴力的です。神に対しても、人に対しても、私たちはここまであからさまに攻撃的になることはほとんどないと思います。
しかし、私たちも働きの収穫をきちんと納めているかを自分に問うことはできるでしょう。自分自身の力だけで得たのではない、受けた恵みから生まれたものを自分のものだと主張していないか、そもそも「ふさわしい実」(21:43)を結ぶ日々を過ごしているのか。私たちの生の実りを、神に感謝しつつ、周りの人々と分かち合いたいものです。
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自分自身のあやまちを認めるのは難しいことです。自分が悪いとわかっていてもプライドが邪魔して認められない、ということもありますが、そもそも気づこうともしない、自分の「義」を疑おうともしない、そんな状態に陥ってしまうことがあります。
第一朗読(エゼキエル18:25-28)では、「主の道は正しくない」と言って自分の不義を認めない人々が糾弾されています。彼らは自分たちが不正を行っていることに気づきません。
福音朗読(マタイ21:28-32)では、イエスが語るたとえ話の内容を適切に理解していながら、自分たちの状況にはまったく気づいていない祭司長や長老たちが非難されています。すなわち、たとえ話の中で、父親にぶどう園へ行って働くように言われ、口では従順に返事しながら実行はしなかった弟の不義を指摘しながら、それが自分自身の姿であるとはわかっていません。
理屈はわかっている、正しいことを語ることはできる、しかしそれを実際に生きているかどうかは別問題です。自分自身の「正義」にとらわれない、くもりのない目と謙虚な心を持ちたいと思います。なかなか難しいことですが、私たちは、たとえあやまちを犯しても、いつでも立ち返るように呼びかけられています。エゼキエルは悪から離れれば必ず生きる、と語っており、イエスも「後で考え直す」ことが神の国につながることを示唆しています。
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福音朗読の「ぶどう園で働く人々のたとえ」(マタイ20:1-16)は、労働とそれに対する対価というこのたとえ話の要素自体に意識を奪われると、心から納得はできない、なんとなくもやもやする話です。夜明けから働いても昼から働いても夕方五時から働いても同じだけの賃金が払われてしまうのが当たり前になったなら、社会は崩壊してしまいます。
子供が良いことをしたら褒められ、悪いことをしたら叱られたり、良くも悪くも自分のしたことに応じてふさわしい報いがあると教えられるのは、この社会で生きていくために必要なことです。ただ、現実では必ずしもそうなるとは限らない、ということを私たちは知っています。真面目に生きている人が損をし、ふさわしくない人が運だけで得をすることがあるのが現実です。しかし、この福音のメッセージは、そんな「完全に公平・公正な社会はあり得ない」などという諦念ではありません。
「私は良い行いをしたからその分だけ価値がある人間である」、「正しい人間だからその正しさに応じて愛されている」、人間の尊厳をそんな小さな物差しで測る考えを根本から覆す、神の無条件の愛がここには示されています。私自身も、私の隣にいる人も、私が気にくわない人も、私が憎んでいる人も、皆そのままの有様で受け入れられている。何をしようがしまいが、神の前には等しく大切な存在である。そのことを受け入れる覚悟がありますか?そう問われているようです。
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どの人でも他者と人間関係を作ることに招かれています。受け入れ合いや助け合い、愛は人間の絆を強めるものですが、争いや分裂、憎しみなどがこの絆を損なうものなのです。このような経験は私たちみんなにあると思います。
第一朗読のシラは、憤りと怒りは「ひどく忌まわしい」ことであると忠告し、隣人から受けた不正を赦すように呼びかけるのです。赦しは複雑な人間関係ですら癒すものだからです。
私たちも家族の中に、仕事場に、教会の中に生活する中に様々な人間関係があります。この人間関係の中で、相手を愛するように、必要であれば赦すように招かれています。赦しと愛の必要性はよく知られていることだと思いますが、いつ赦せば良いのかとか、どのように赦せば良いのかとよく問われていると思います。
今日の福音の中にあるペトロは「主よ、兄弟が私たちに対して罪をおかしたなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」という質問をするのです。ファリサイ派たちと律法学者たちは律法による「やらなければならないこと」をよく数えた上で、イスラエルの民衆にもその守り方を教えました。この点ではペトロの考えは同じです。しかし、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とイエスはペトロにお答えになります。それは、兄弟に限らず赦さなければならないという意味です。愛と赦しは神から頂けるものだからです。「神は私の罪を赦し、痛みをいやされる。私の命を危険から救い、慈しみ深く祝福される」と詩篇103篇に記録されています。したがって、いただいた神の慈しみを伝えない人は厳しく言われます。「人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。」と。赦しは人間関係だけではなく、人間の心も癒すものです。一致そのものが赦しの結果だからです。さらに、「だれ一人自分のために生きることではなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」という言葉通り、主キリストとの絆を自覚すればするほど、赦しと愛はわたしたちの一番トップの人生のプログラムになるわけです。
私たち自身も神の癒しをいただくために次のような質問をしましょう。神様の赦しをいただき、それに感謝したことがありますか。赦しが必要な人が自分のそばにいませんか。赦しにはたくさんの努力が必要だと分かっていても、仲直りを諦めたことがありませんか。人間には、お互いに傷つけたあった時にこそ、神様の癒す恵みが相手のまた自分自身の人生に入ることができますようにという祈りがどれほど必要でしょう。