メッセージ - A年 年間

キリスト者として私たちは毎日十字架をきる動作をしています。十字架はキリスト教の信仰の中心的なシンボルであり、信仰の学び舎でもあります。例えば、十字架の形から私たちの信仰の在り方を学ぶことが出来ます。十字架は縦と横の棒からなっていますが、私たちの信仰も同じように縦の関係と横の関係があります。信仰というと私と神様との関係、つまり縦の繋がりがすべてだと思われがちですが、今日の第一、第二と福音朗読にあるように、横の関係、周りの人とのつながりも信仰の大切で不可欠な部分だということが分かります。

第一朗読に、神様エゼキエルに、もしも悪人がいて、あなたはその人に警告せずに、その人が罪人のまま死んでいく場合、その責任はあなたに問われる、という厳しい言葉があります。個人主義社会に生きている私たちはこれを聞くとき、「それは不公平、不条理ではないか」と言うかもしれません。「人の罪はその人の責任だというのは当然のことではないか。こちらから余計な口を出す訳にはいかないだろう」。

しかし、イエスは常に世の中の常識を超えることを教えています。社会が作りあげた様々な壁を越えて、人と人との繋がりを大事にするように求めています。今日の福音書にあるように、一人の人の罪はその人の問題ではなく、周りにいる人々の問題であり、教会や社会全体の問題です。この教えに従うためには、いい意味での「余計なお世話」「余計なお節介」が必要です。そして、それはいい意味での周りの人に関心を持つことから始まるものです。マザーテレサは1981年に日本に訪れたときにも言った言葉ですが、『愛の反対は憎しみではなく、無関心です』。人に迷惑をかけないようにという理由で、いつの間にそれが人に対しても無関心になることに変わってしまう危険性は私たちの生活の中にもあります。

十字架はある意味では、神様の私たち一人ひとりに対する余計なお世話です。私たちが願う前に、イエスは私たちの救いのために、私たちが罪から立ち返るように、自ら進んで十字架の上で死んでくださったのです。それは、人類が、私たち一人ひとりが、永遠に罪と死の中にいることが見ていられないからです。

キリスト者として、私たちは十字架を切るたびに、縦のつながりと同時に、横のつながり、周りの人への関心、人の救いへの責任を忘れてはならないということです。

 
メッセージ - A年 年間

今週の福音朗読(マタイ16:21-27)は、先週のペトロの信仰告白(16:13-20)の続きです。ペトロの信仰告白は受け入れられましたが、その後、受難と復活を予告したイエスをいさめたペトロは、「邪魔をしている」と叱責されます。その後のイエスの言葉から考えると、ペトロの考えは「自分の命を救いたい」という立場から「自分を捨てず、十字架を背負わない」態度を示すものだったということができます。

第一朗読(エレミヤ20:7-9)でエレミヤは自分が陥った苦境に嘆きの声を上げますが、しかし神の言葉に自分を明け渡します。第二朗読(ローマ12:1-2)では、この世に倣うことなく、自分の心を変えて、何が神の御心であるかをわきまえるように、とパウロが勧めています。

自分の命にしがみつくとき、私たちは神のことを忘れ、人々から目をそらします。自分を大切にすることは自然なことですが、それは自分を閉ざすこととは異なります。私たちの心は神に、人に、開かれているでしょうか。

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今日の福音で聞く、有名な「フィリポ・カイサリア地方での議論」はある意味でもっと前に洗礼者ヨハネがした質問に答えようとしています。マタイ福音11章3節に、牢獄にいたヨハネが弟子を遣わしイエスに「あなたは来るべき方(=メシア)ですか」と尋ねさせた。その時、イエスは直接答える代わりに、自分が行っている業を見れば良いとだけ答えました。そこで今日の福音では、ペトロの口を通して福音記者はイエスは誠に救い主でありメシアであることを宣言しています(16章13ー17節)。この場ではイエス自身は自分の弟子に尋ね、自分は洗礼者でも預言者でもないことへの信仰を表す機会を設けています。使徒たちの代表をたびたび務めたペトロはイエスのメシア性の意味が本当に理解できていたかどうかが分からないが、彼の信仰告白はただ人間の理性の考える結果ではなく、「天の父から与えられた」恵みであり幸せであることが分かります。

後半(18ー20節)では「天の鍵」の象徴が使われ、使徒団に与えられた権限、特にその頭となったペトロに授けられた権限の話があります。ヘブライ語的な思想では「鍵」はそれを持つ管理者の行う行為、つまり開けることと閉めること、ひいては許すことと禁じることを意味します。大事なのは、家の持ち主ではなく、それを預かっている代理人のすることであるということです。礎であり主人であるイエスがいなくなっても、彼の代理人である使徒を柱とし、教会は永遠に続きます。イエスに選ばれ信仰を強められたペトロと彼と一致する使徒は(名前まで変えられて)「岩」となり、世の荒波に揺れ動かされつつも、流されてしまうことも壊されることもありません。それだけではなく、「闇と死の力」にすら打ち勝つだろうと書かれています。これは明らかにイエスの復活を先取りする話であり、イエスが死に滅ぼされず勝利したのと同じように、いや、キリストによってキリストと共にキリストの内に、教会もまたこの地上の団体だけではなく、天国にまで続く交わりであることと、信仰に加わった人々を永遠の命に生まれさせる共同体であることを強調しているのです。

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今日の三つの聖書朗読では、「異邦人」という言葉がテーマになっています。
福音朗読のマタイ福音書(15:21-28)には「異邦人」という言葉自体は出てきませんが、異邦人であるティルス・シドン生まれのカナンの女がイエスのもとにやってきて、その信仰により娘の病気をいやしてもらう、というエピソードが取り上げられます。第二朗読のローマの教会への手紙(11:13-15、29-32)では、自身を「異邦人のための使徒」と呼ぶパウロが、異邦人に福音をのべ伝える自分の働きは神の計画に従うものであると語っています。第一朗読のイザヤの預言(56:1、6-7)では、イスラエルの民だけではなく、異邦人も主のもとに集い、主との契約を守るなら受け入れられる、と言われています。


異邦人が救いに与る、ということは旧約時代のイスラエル人や新約時代のユダヤ人にとって驚きであり、受け入れがたいことだったかもしれません。しかし彼らも実は神の救いに招かれている、その恵みに与ることができる、そういうメッセージが語られています。

私たち自身にとって、異邦人とは誰でしょうか。生まれだけではなく考え方も価値観も全く異なっていて、自分にとっては受け入れがたい、どうしても好きにはなれないと思っている人も、同じく大切な存在として神に愛されている、そのことを受け入れ、認めることができるでしょうか。福音朗読のカナンの女と同様に、私たちの信仰も問われています。

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福音の中で、水の上を歩きイエスのもとに近づこうとするが、強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけてしまう。そこでイエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロに言われる。

日常生活において、色々な悩みや恐怖に惑わされ、主の声、主の導きが分からなくなってしまうことが多い。そういった社会の中でわたし自身、何のために宣教師として生活しているのか、自分自身に問いかけることがあるが、召命や信仰生活が分からなくなった時、主は常に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけているのではないかと、この箇所を読んで感じた。

しかしイエスを幽霊だと思い怯えた弟子たちに、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話しかけられた。そしてペトロが恐怖にとらわれ、沈みかけた時、主はペトロを助けられた。イエスは私たちに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけていると同時に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と私たちのもとで語りかけているのだと感じる。私は人々との触れ合い、そして私が普段、信仰生活を送ることが出来るように助けてくださる多くの人々と、その優しさこそが主の助け、導きであると感じる。そしてイエスは生活の中でわたしたちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけているように思う。

私たちが人間である以上、恐怖を感じること、その恐怖を避けようとすることは、当然のことであるし、不必要に恐怖や混乱に身を投じることは勇気ではなく、ただの蛮勇であり、その人はただの命知らずである。しかし私たちが信仰生活を全うしようとするために、恐怖や悩み、困難に直面するとき、私たちは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださったイエスが、私たちを導いておられることを信頼しなければならないと思う。そしてその信頼の限りにおいて、私たちの社会、日常生活の中で「しるし」、「導き」が一筋の光として見えてくるのだと思う。そして主の助けによって、その導きへの一歩を踏み出す勇気を持つことが出来るよう、常に祈り続けたい。