メッセージ - A年 復活節

「主の昇天とわたしたちの希望」

(マタイ28,16-20)

今日、教会は主の昇天を祝います。この典礼暦年A年では、マタイ28章の最後のエピソードが福音朗読箇所として選ばれています。復活されてから、40日間をもってしばらく弟子たちの信仰を固めてから、そして、天に昇られる前に、主イエスは弟子たちに重要な使命を託しました。「・・・あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい・・・」(28,20)。それこそが弟子たちの使命、教会の使命、わたしたち自身の使命です。この使命の実行のお陰でわたしたちは福音を知り、イエスの弟子となっているわけです。

ご存知のように、「天」は高い青空にあるのではなく、もしくは広大な宇宙のどこかでもありません。聖書の文脈で、「天」は象徴的な表現の一つで、神の住まい、神の栄光に満ちる状態を指すのです。従って、主が天に昇られるということは主イエスが神であるゆえに再び神の栄光に入ることです。

かつてある主の昇天の説教では、聖教皇パウロII世がご昇天という出来事についてこう説明してくださいました。「主が天に昇られることは、決して主が我々から離れるより、むしろ、主が新しい仕方の存在で聖霊の内に我々と共に世の終わりまでいてくださいます。我々に自分の心を開き、聖霊の恵みを受け、日々をもって自分の置かれる場で信仰の証しをすることができますように、と主イエスは願っています」。

また、主の昇天のごミサでの集会祈願でも、次のように祈りられます。「全能の神よ・・・主の昇天に, わたしたちの未来が示されます。キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」。言い換えれば、主の昇天がわたしたちの希望なのです。頭であるキリストが栄光に入られました。後にその母であるマリアさまも天の栄光を受けられました。また、使徒や弟子たち、時代の数え切れないほど諸聖人も天に入られました。その中で、この希望をもって生き、先に世を去ったわたしたちの先祖、兄弟姉妹たちもキリストと共に栄光を受けているとわたしたちは期待しています。

「天」に向かって生きるキリスト者のわたしたちは、決してこの地上的な事柄を軽蔑したり、また自分の務めを無視したりしてもいいのではありません。むしろ、自分の務めをとおしてキリスト者がこの世界をみ国に変えていきます。地上のことを大事にしながらも地上のことに心が奪われるのではなく、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主の約束に信頼を置き、天上を仰いで生きることができますよう祈りましょう。

 
メッセージ - A年 復活節

今日の福音の箇所(ヨハネ14:1-12)は、最後の晩餐におけるイエスの弟子たちへの一連のメッセージの一部ですが、そこでは何度も「わたし」と「父(神)」という言葉が並べて語られています。

「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」(14:1)
「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)
「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(14:7)
「わたしを見た者は父を見たのだ」(14:9)
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる・・・わたしの内におられる父が、その業を行っておられる」(14:10)
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(14:11)
「わたしが父のもとへ行く」(14:12)
これらは、イエス自身と父なる神との強い結びつきを示す言葉です。

その言葉を聞いたフィリポを初めとする弟子たちは、イエスとずっと一緒にいて、その言動を目の当たりにしてもイエスと神とのつながりを理解していませんでした。けれども、後に彼らは、福音をのべ伝えるために世界中に旅立っていき、彼ら自身が自分とイエスとのつながりを人々に伝える者になりました。イエスが父なる神との結びつきの内に愛の業を行い救いの言葉を語ったように、彼らも「先生」と呼び、「主」と呼ぶイエスとの結びつきを、自分たちの言葉と行いを通して伝えていきました。

私たちの言葉と行いは、何との、誰との結びつきを示すものとなっているでしょうか。

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メッセージ - A年 復活節

今日は世界召命祈願の日にもあたっています。教皇フランシスコは、「2020年第57回世界召命祈願の日」の教皇メッセージの中で、召命について語る時に最初に取り上げるべき言葉は「感謝」であると述べています。私たちが主に従い、それぞれの召命の道を歩む上で困難や疑いや恐れに見舞われるけれども、私たちは決してひとりではない、主がともに歩み、助けて下さる。自分自身とその人生計画は、自分の中で決定した計算の結果ではなくて、まず天からの呼びかけがあって、それに応答することだ、まず私たちに寄り添い、行き先を示し、導き、勇気を与えて前に進ませて下さる、そこには主の優しいまなざしがある、だから「感謝」こそが召命について最初に挙げるべき言葉だ、と教皇は語っています。

今日の福音朗読箇所(ヨハネ10:1-10)の直後(10:11、14)では、イエスが直接自身について「わたしは良い羊飼いである」と語っていますが、今日の箇所でも、羊飼いとその羊のたとえは、まさに教皇フランシスコが語る召命のあり方を表しています。まず羊飼いの呼びかけがあって羊はその呼びかけの声を聞き分ける、羊飼いが先頭に立っていき羊は彼について行く、まさにまず主の呼びかけがあり、私たちがそれに応え、従うという応答です。

羊が羊飼いについて行くのは、羊が羊飼いの声知っているから、その声を聞き分けるからだと言われています。私たちは知っているからついて行きますが、知っている、というのは、ただ知識として持っているということではなくて、愛しているということです。良い羊飼いであるイエスが語る言葉を理解するだけではなく、それを大切にして自分自身の言葉と行いにする、ということです。その生き方を知り、それを受け入れて自分の生き方とするということです。

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メッセージ - A年 復活節

四つの福音書に描かれている、弟子たちと復活のキリストとの様々な出会いはバラエティに富んでおり、とても興味深いものです。今日の福音では、ルカ福音書の有名なエマオへ向かう二人の弟子たちとイエスの出会いの場面(ルカ24:13-35)が朗読されます。

他の復活物語にも見られるモチーフですが、弟子たちは復活したイエスを見て、それが自分たちの先生だとは認識できません。同時に、イエスの生前の活動と、十字架の死と、空の墓など(24:19-24)、「一切の出来事について話し合っていた」(24:14)けれども、そこにイエスの真理を理解できていませんでした。そこでイエスが聖書全体にわたり、ご自分について語ると、弟子たちの心は燃えてきます。そして共にした食事の席でイエスがパンを裂いたとき、そこにイエスを見出しました。

弟子たちと同じように、私たちが復活のイエス・キリストに出会うのは、目の前に視覚的に存在している方との遭遇としてではありません。私たちの心が燃えるときであり、パンを裂くときです。2000年前に力強く人の心を動かしたその言葉が私たちの中で再び力を持つときであり、私たちが共に同じ食卓を囲んでパンを分け合い、与え合うときです。

現在、日本でも世界でも、キリストとの主要な出会いの場であるミサに多くの人が与ることができない状況です。しかしそれでも、大変な毎日の生活の中にも、私たちの心を燃え立たせるものがあることを私たちは知っています。苦しい状況によってそれを見失ってしまわないように、それをまわりの人と分かち合うことができるように、日常における復活のキリストとの出会いを大切にしたいと思います。

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メッセージ - A年 復活節

今日の日曜日はQuasimodo(「〜のごとく」という意味)とも呼ばれています。それは、ミサの入祭唱の引いている第1ペトロの手紙2:2という箇所からとった言葉です。そこにはこう書かれています「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」と。それは今年の復活祭だったせよ、昔別の日だったにせよ、洗礼を受けた時には私たちは現に生まれ変わったことを思い出させてくれる言葉です。キリスト者になってもまだ成長が続き、最初は乳飲み子のようなものです。私たちは第2朗読にある通り、神の豊かな憐れみにより「新たに生まれさせ[て]」いただきました。つまり、直接経験していなくても、キリストの復活によってこそ私たちは希望をもち生き生きと暮らすことへと生まれ変わっているはずです。

それから、同じ第2朗読では、ペトロは「見る」ことについて語っています。また、朗読される福音の箇所でも、有名なトマスの不在の出来事の中に、「見る」ことに触れられています。復活した主は、自分の姿を現したり、見えなかったり、見えても人が気づかなかったりする物語がたくさんあります。それでもなお、ペトロによれば私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。これこそ子供の性質ではないでしょうか。何でも聞いたことをただただ鵜呑みにするのではなく、理解できないことを素直に受け止めるということです。子供が単純すぎるのではなく、疑いがちな大人こそ複雑すぎるのです。自分で確かめなければ信じないのはむしろ大人の態度です。想像力と信頼力のある子供は、聞いた話を話し手の権威のゆえに受け止めることができます。他方で、乳飲み子・子供だからこそ、お母さんが見えなくなると怖くて寂しくなるのも当然です。そこで、お母さんの存在を疑うどころか、お母さんの帰りを切に求め、待ち続けることにつながります。

今日のミサをもって「復活の日」が終わりますが、復活祭の延長線はこれからも続きます。福音では「その同じ日の夕方」と「8日目後に」と二つの日に言及されています。復活の日は安息日の次の日、ユダヤ人の週の初めの日、つまり新しい始まりでした。1週間も経てば、終わりがまた始まりに直結し、大きな輪を描きます。言ってみれば、7日間にわった天地創造をなぞって、主の復活によって新しい創造が成し遂げられ、イエスはその初穂となりました。しかも、その新しい創造は7日目の神の安息で終わることなく、また新たに始まり、永遠に続いていきます。だからこそ、「8」という数字は古代キリスト教の芸術では、新しい天地創造および永遠の命の象徴として多いに使われていました。無理もないことですが、大聖堂の西側に建てられていた洗礼堂は多くの場合、八角形の形をしていました。それはまた山上の説教の真福八端をも思わせる奥深い象徴なのです。

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