メッセージ - A年 四旬節 |
今日はマタイによる主の変容物語のバージョンが読まれます。一見すれば単純なストーリーですが、実は象徴に富んでいます。まず、先週と対照的に、イエスのアイデンティひいてはイエスに従うすべての人のアイデンティティについて論じています。4章3節・6節にあった「もし神の子なら、・・・」ではなく、「これは私の愛する子」(17章5節)という言葉が鳴ります。洗礼の場面(マタ3:17)とも共通しているが、そこと違って今回は「彼に聞け!」と付け加えられて、つまりメシアのアイデンティティはイエス自身とその確認と強化のために現されるのではなく、弟子たちのために明らかにされているということです。イエスも私たちも、神の子になりたいから何かをしなければならないのではなく、神の選びによって既に神の子供とされているからこそ、それに相応しく生きるのが義務ではなく、当然の振る舞いだと言えます。
福音記者マタイのニュアンスとしては、変容したイエスの姿はただ未来の勝利のイエスの服が真っ白になっただけではなく、イエスの顔が輝いていることを強調しています(17:2)。出エジプト記34章には、神と親しく面と向かって語った後のモーセの顔が輝き、それを覆わなければならなかったという伝統が書き記されています。ここでは、イエスは逆に本来の栄光に輝く顔の覆いを取り、その輝きを一瞬の間に見せています。それは、堕落する前の神との友情を味わっていた人間の、神の像としての尊厳をも窺わせてくれます。5節の弟子たちを囲んだ明るい雲も、イスラエル人を伴っていた神の現存の雲への言及かもしれません(出13章など)。同様に、天から響く神の声を恐れて聞きたくなかったイスラエル人(出20:18-19)と同じように、ペトロたちもこの声の前で地に伏せています。唯一イエスだけは神の言葉を受け、神の前に真っ直ぐ立つことができるのです。
それから、イエスが誰と語っているかも重要です。救いをもたらすイエスの受難の準備として、相談するのに相応しいと思われたであろうモーセとエリヤです。モーセはこの福音書で優位を占め、イエスの予型として機能していることが知られています。また、モーセもエリヤも、神と親しい友にされ、人間の中に特別な身分を味わい、民のために苦しみ、救いに貢献した人でした。申命記34章を読んでみると、モーセの後に彼に似た指導者はもう再び出現しなかった、とあります。特にその死に方において、モーセは葬られたけれども、その墓がどこにあるかは知られていません(申命記34:6)。また、列王記 下 2章11節によると、エリヤも普通の死を遂げたのではなく、ある種の昇天を経験した物語があります。ただ預言者や民の指導者だけではなく、神の子としてのメシアの到来は長く用意されていましたが、イエスにおいてこれらの予型が実現されます。
メッセージ - A年 四旬節 |
今日の朗読箇所である、イエスが荒れ野で40日間断食した後に悪魔から誘惑を受けたエピソード(マタイ4:1-11)は、モーセに導かれたイスラエルの民がエジプトを脱出し、40年間荒れ野を旅したという旧約聖書の話を思い起こさせます。「40」と「荒れ野」というキーワードだけではなく、その誘惑の内容も大きく関係しています。
イエスが受けた第一の誘惑は「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」というものでしたが、それに対して旧約聖書の申命記の言葉を引いて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4/申命記8:3)と答えられました。断食後のイエスと同様に、荒れ野を旅していたイスラエルの民は飢えており、天からのマナを食べていましたが、しかしそこに神の働きを見るよう教えられていました。
第二の誘惑は神殿の屋根から飛び降りても天使たちが支えるだろう、というものでしたが、これに対してもイエスは申命記の言葉を用いて、「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4:7/申命記6:16)と答えました。荒れ野で渇いていたイスラエルは、飲み水を求めて「神が私たちの間におられるのかどうか」と主を試しました。
第三の誘惑は、悪魔を伏し拝むなら繁栄した国々を与えよう、というものでしたが、やはりイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10/申命記6:13)と旧約聖書の言葉でそれを退けました。この誘惑も、出エジプト後の旅するイスラエルが、たびたび神に背き、不平をのべ、更には神ではなく金の子牛を作ってそれにひれ伏し、自分たちの神としたことに重なります。
イエスが受けた誘惑は、時代を超えた普遍的な危険性を持つものです。この世のはかないものを最重要視し、神をも自分の意に従わせようとするという、同様の誘惑を受けたイスラエルの民は、たびたびそれにつまづきました。同じような誘惑は、現代の私たちにも突きつけられることがあります。私たちは、何を最も大切にしているでしょうか。四旬節はそれを振り返るときでもあります。
メッセージ - A年 年間 |
第一朗読(レビ19:1-2、17-18)でも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言われていますが、福音朗読(マタイ5:38-48)のテーマも「愛」です。隣人を愛しなさい、そして敵をも愛しなさい、と、「愛」について語られています。この愛は、ただ単に人に対して良い行いをすることとは異なっています。下着を求める人には上着をも与える、一ミリオン行くように求められたら二ミリオン一緒に行く、とはそうした愛です。決められたことを決められただけ果たす、しなければいけないからその分だけを義務としてこなす、そこには愛がない、良い行いをしているからといって、愛していることにはならない、そう言われています。
結果さえ良ければ、最終的に効率よく必要なものが手に入れば、それが一番よいことだ、というのがこの世の知恵です。けれども、そのような知恵は神の前では愚かなものだ、と、今日の第二朗読(一コリント3:16-23)でもパウロは語っています。
私たちの行いも、打算や利益、効率に気を取られて目の前の相手を見失うことがないように、義務や責任ではなくて、相手を気遣う心を行いに伴わせることができるようにしたいものです。
メッセージ - A年 年間 |
福音朗読箇所(マタイ5:17-37)の冒頭のことば、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」は、何を意味しているのでしょうか。福音書全体を見れば、イエスが旧約の律法や預言者を乗り越えようとしたことは明らかです。律法や預言者をを価値のないものとして捨てるのではなく、その精神をより突き詰めて完成させることによって乗り越えようとしたということだと思います。
この福音の箇所で、「律法や預言者」を端的に表すものとして引用されて語られている掟(「殺すな。人を殺したのは裁きを受ける」、「姦淫するな」、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」)は、いずれも、人と人との正しい関係、神と人との正しい関係を成り立たせるのを目的としたものです。おそらくイエスは、規則の条文に違反することさえ避けていればいい、というような、掟の表面的な決まりとしてのあり方に縛られている人々の姿を見て、批判したのではないでしょうか。ですからイエスは、「ファリサイ派の人々の義」と対比させる形で「あなたたちの義」がどのようであるべきかを明らかにし、「殺すな」ではなく「兄弟に腹を立てるな」と言い、「姦淫するな」ではなく「みだらな思いで他人の妻を見るな」と教えています。
規則に従うこと・違反しないことではなく、神の前で義を貫くことが、イエスに従って生きることです。
メッセージ - A年 年間 |
第一朗読 イザ58:7-10
第二朗読 1コリ2:1-5
福音朗読 マタ5:13-16
前日の2月5日に日本の教会は 『日本26聖人殉教者』の記念日を祝いました。26聖人は西坂での殉教の前に京都から長崎へ30日間、真冬の中歩かされました。手は縛られたまま。出発の前に方耳は切り落とされました。西坂の十字架の上までの道のりは長かったでしょう。そして、苦しかったでしょう。一人一人はどのような思いで西坂に向かっているのでしょうか。怖くないのでしょうか・・・。信仰を諦めることは考えていないのでしょうか・・・。怖くないはずはないと思います。それでも彼らは何百キロもの十字架の道を歩き通しました。なぜそれが出来たのでしょうか。その答えは、第2朗読のパウロの言葉と重なっているように思います。「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたから」でしょう。心に決めた生き方を必死に守り通すことはパウロも26聖人も同じです。そして、それはイエスご自身の生き様そのものです。
洗礼の時に「神の愛する子」と宣言されたイエスは、今日のマタイ福音書にあるように、山上の説教で弟子たちに「あなたがたは地の塩。あなたがたは世の光」と語られました。山上の説教をまとめれば、それは「愛」という一言で集約できます。神への愛と隣人への愛。その隣人愛は敵にまで及ぶものです。これを教えるイエスご自身はやがて十字架の上で自ら実現しました。十字架の上にこそイエスは地の塩となり、世の光として最も輝いているのです。同じように、26聖人もその殉教を通して日本の教会のための「地の塩」となりました。彼らは西坂の十字架の上で日本のためにまた世界のために「光」として永遠に輝いていくのです。
ところで、「地の塩、世の光」となることはどういうことなのでしょうか。第1朗読の預言者イザヤは具体的な答え(するべきことと避けるべきこと)を与えてくれます。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」です。そして、「軛を負わすこと、指を指すこと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去る」ことです。これを徹底的に守ることは決して簡単なことではないです。京都から長崎に向かう26聖人の殉教の旅と同じように、最後までやり通すためには自分の洗礼の時に一度「心に決めていた」ことを守る決心が必要です。毎日、毎日、毎日・・・。