メッセージ - A年 年間

主の奉献の祝日は、生後40日のイエスを両親が律法に従ってエルサレム神殿で献げたことを記念します。

この出来事を描いているルカ福音書の箇所(2:22-40)を読むと、主の奉献の出来事に多くの人が関わっていることがわかります。幼子イエスはもちろん自分で神殿に上ることはできませんから、両親が「エルサレムに連れて行った」(2:22)と言われています。

このとき、エルサレムで出会ったのは、「正しい人で信仰があつく・・・聖霊が彼にとどまっていた」(2:25)というシメオンでした。シメオンは霊に導かれて幼子イエスに出会い、神をたたえ、家族を祝福し、また母マリアに預言の言葉を語りました。エルサレムでは更に、年老いた女預言者アンナが「近づいてきて神を賛美し」、救いを待ち望む人々に幼子のことをあかししました(2:38)。

既にイエスの誕生に際しても、洗礼者ヨハネとその両親であるザカリアおよびエリサベト、そして天使のお告げを受けた羊飼いたちなど、多くの人の関わりが見られました。主の奉献を含む誕生物語は、神の子イエスによる神の国の広がりが、最初期から多くの人々との関わりの中で示されたことを明らかにしています。聖書のことばを耳にする私たちも、その関わりの輪に加わるよう招かれています。

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メッセージ - A年 年間

今日の福音の箇所(マタイ4:12-23)は、イエスの宣教活動の始まりです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って福音を宣べ伝え始めたとき、最初にイエスがしたのは、数人の漁師たちを呼んで自分に従うよう招くことでした。イエスの宣教活動は、最初から弟子たちと共に行われ、分かち合われ、後に引き継がれて続けられるように計画されていたのです。この宣教の手段こそが、伝える福音のメッセージの内容を体現したものだと思います。

イエスは「ガリラヤ中を回って」福音を宣べ伝え、「民衆のありとあらゆる病気や患いを」いやした、と言われています。すべての人に救いが伝えられ、すべての人に手を差し伸べるイエスの宣教は、田舎の漁師のような人をも友にして行われました。それこそが、第一朗読で読まれ、福音朗読でイエスの宣教の解釈として引用されているイザヤ書の言葉が伝えている状況、暗闇に住む民が大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ、ということではなかったでしょうか。

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メッセージ - A年 年間

今日の三つの朗読では、それぞれの救い主への信仰が告白されています。
第一朗読のイザヤ書(49:3、5-6)では、国が滅ぼされ捕囚にあった人々に、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」ために、神が「国々の光」であり「救いを地の果てまで、もたらす者」であるしもべを遣わされる、と語られます。
第二朗読の第一コリント書(1:1-3)の冒頭、書簡の挨拶の部分では、パウロが、自分自身と同じ信仰を持つコリントの人々へ、イエス・キリストへの信仰を強調しています。自分が「キリスト・イエスの使徒」であると言い、コリントの教会の人々を「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」・「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と呼び、「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主」であると信仰告白し、彼らに父である神と「主イエス・キリストからの恵みと平和」を祈っています。すべての根拠をイエス・キリストに見出す信仰です。
福音朗読(ヨハネ1:29-34)では、洗礼者ヨハネがイエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、自分のいのちを献げて人々を救うことになるイエスの生き様を前もって示しています。
洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返して語りますが、しかし霊が降ってきてとどまる、という「しるし」を見て、イエスこそ神の子であると証しするようになりました。イザヤも、パウロも、何らかのしるしを通して、神のメッセージを受け取り、信仰を得て、それを証しするようになりました。
私たちは、今、何を見て、何を信じるでしょうか。

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メッセージ - A年 降誕節

先週の待降節第4主日の福音に続き、マタイ福音書の誕生物語において(2:13-15,19-23)、夢の中で受けた神の言葉に従うというモチーフが取り上げられます。命の危機にあって、ヨセフは三回にわたり、夢の中のお告げに従って行動することにより、自分の家族を守ります。自分自身ではなく神の言葉に信頼して行動するときに、家族が助け合い、危機を乗り越え、家族として一つになる姿が描かれています。

許嫁のマリアが聖霊によって身ごもっていることを知ったときも、ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心しましたが、やはり夢の中のお告げに従い、マリアとその胎内の子を受け入れて家族になりました。マタイ福音書におけるイエスの誕生物語に見られる、この「夢の中のお告げ」に関する一連のエピソードを今日祝う聖家族のあり方から考えると、何が家族を一つにしているのかが明らかになります。ヨセフとマリアとイエスが家族として一つになっているのは、血のつながりによってではなく、共に神の言葉への信頼によって、です。これは、私たちが家族的な共同体を形成するときにも重要な点であると思います。

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メッセージ - A年 待降節

マリアと婚約していたヨセフは、彼女が聖霊によって身ごもっていることを知ると、ひそかに縁を切ろうと決心しました。それは主の天使がヨセフに、恐れずマリアを迎え入れるように、と告げたからでしたが、そのお告げは夢の中でなされました。つまりヨセフが寝ているときの話だったわけですが、このエピソードは、私たちが神の言葉に耳を傾ける際のあり方を象徴的に示しています。

人が眠りについているときは、ある意味、生きている中で最も死に近づいたときです。目をつぶって見えなくなるように、いろいろな感覚も鈍くなり、意識的に考えることもなくなり、動くことをやめ、無防備な姿をさらします。ヨセフはそのような眠りの状態に陥ったときに初めて、自分が持っていた考えを手放すことができました。すなわち、ヨセフが困難だと考えていたことを受け入れることができるようになったのは、自分自身が生きることをやめて、すべてを神に委ねた状態になったからでした。

自律した一人の人間として、私たちが自分の考えをしっかり持つことは大切です。しかし、それだけに固執するのではなく、神の言葉に自分自身を明け渡すときに見えてくるものもあるのだと思います。ヨセフは自分が正しいと思ったことを実行しようとしていましたが、眠りについて一度その考えから離れることによって、神の御旨を見出し、妻マリアを迎えることができたのでした。

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