メッセージ - C年 年間

クリスマスの準備をする待降節が近づき、教会の暦である典礼暦が終わりに近づくと、ミサにおいても終末に関する聖書箇所が読まれるようになります。一年の終わりが近づくにあたって、私たち自身の終わり、世の終わりについて考えさせるものです。

世の終わりというものは、私たちが生きている内には来なさそうですけれども、今日の福音朗読(ルカ21:5-19)に描かれている戦争、暴動、地震、飢饉、疫病などという「恐ろしい現象」(21:11)は、今もこの世界で絶え間なく起こっていますし、近しい人による裏切りや人から憎まれる(21:16-17)ということも体験することがあります。

私たちにとって重要なことは、世の終わりがいつなのか、どのようなものなのか、ということではありません。そうではなく、世の終わりだと思われるようなことがあっても、抱えきれず倒れてしまうほどの苦しみやつらさがあるときでも、それがすべてではない、それで終わりではない。必ず神は私たちに心を配り、守り、導き、愛して下さる。だから信頼して私についてきなさい、そうイエスは私たちに語りかけています。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21:18)というイエスの言葉は、そのような私たちを力づける言葉です。

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日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月17日~24日で、そのテーマはフランシスコ教皇の日頃の言葉を受けて、「すべてのいのちを慈しむ」となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF形式のデータも同ページからダウンロードできます。
以下、このテーマに沿った聖書の言葉と共に、それに関する今年一年の間に語られた教皇の言葉を紹介します。この聖書週間に、これらの聖書箇所を少しずつでも読んで味わい、「すべてのいのちを慈しむ」のテーマを心にとめながら黙想し、祈りに反映させてみてはいかがでしょうか。

1.「そのあわれみは代々に限りなく、主をおそれる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、……あわれみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(ルカ1:50-55)
他者との平和。家族、友人、見知らぬ人、貧しい人、苦しんでいる人……、彼らと物おじせずに出会い、そのことばに耳を傾けてください。被造物との平和。神のたまものの偉大さを再発見し、わたしたち一人ひとりは地球の住人、市民、未来の担い手として、責任を共有していることを再認識してください。
「世界平和の日」教皇メッセージ(2019年1月1日)より


2.「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:44-45)。
愛に境界線はありません。人はまったく新しい観点から配偶者や友人、そして敵さえも愛します。
2019年1月2日一般謁見演説 より


3.「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)よいサマリア人のたとえ話(ルカ10:25-37)
隣人とは一人の人であり、人生の途上で出会う顔です。わたしたちはその顔によって動かされ、心を揺り動かされます・・・このよいサマリア人がこのたとえ話の中で、そして皆さんの家の中で教えていることは、隣人は何よりもまず一人の人であり、固有の顔をもつ生身の人間であり、その人がどんな境遇にあっても避けたり無視したりしてはならないということです・・・隣人とは、わたしたちの人生の歩みを、よい意味で立ち止まらせてくれる人々の顔です。その顔は本当に重要なことへの歩みを指し示し、主に従うことをありふれた、表面的なこととしてとらえるすべてのことから、わたしたちを解き放ちます。
2019年1月27日「お告げの祈り」でのことば より


4.「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)
いのちは神から与えられた「恩恵」(たまもの)です・・・神から与えられた恩恵であるからこそ、単なる所有物や私有財産とみなすことはできません・・・ささげ合うことは、何よりもまず互いに認め合うことであり、社会的きずなにとって不可欠な行いです。そこには、御子イエスの受肉と聖霊の注ぎのうちに頂点に達する神の愛が映し出されているのです・・・人はだれもが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています・・・わたしたちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。
第27回「世界病者の日」教皇メッセージ より


5.「わたしたちの父よ」(マタイ6:9)
毎日唱える「主の祈り」にないことばとは何でしょう・・・それは「わたし」という単語です・・・キリスト者の祈りは、――今日、わたしにパンを与えてくださいというような――、自分にパンをくださいという願いではありません。そうではありません。わたしたちに与えてくださいと願います。それはあらゆる人、世界のすべての貧しい人のための祈りです・・・世界の中で苦しんでいるのは自分だけであるかのように、自分の問題を誇示してはなりません。兄弟姉妹としての共同体の祈りでなければ、神への祈りにはなりえません。共同体を表す「わたしたち」として唱えます。わたしたちは兄弟姉妹です。わたしたちは、祈りをささげる民です。「わたしたち」です。
2019年2月13日一般謁見演説 より


6.「しかし、わたしのことばを聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27-28)
このことばはすべての人に向けられているのではなく、イエスが「わたしのことばを聞いているあなたがた」と言っておられるように、信者に向けられています。イエスは、敵を愛することはわたしたちの限界を超えていることをよくご存じです。しかし、だからこそイエスは人となられたのです。イエスは、わたしたちをそのまま放っておくのではなく、より深く神と隣人を愛せるように変えるために人となられました。これこそが、イエスが「ご自身のことばを聞いている」人に与えてくださる愛です。ですから敵を愛することは可能です。わたしたちは、愛してくれない人、危害を加える人さえも、イエスとともに、そしてイエスの愛と霊への感謝のうちに愛せるようになるのです。
2019年2月24日「お告げの祈り」でのことば より

(続く)

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メッセージ - C年 年間

典礼暦の終わりに近づくにつれて、ミサの朗読のテーマも死者だったり、終末だったり、復活だったりします。それは、復活祭の時にテーマだった死と復活はただイエスの身に起こった出来事として祝われたのではなく、私たち自身もそれに与ることができるものだからです。キリストが私たちのために死んでくださったのと同じように、私たちが永遠に生きることができるように復活したのです。この神秘は一年間の中核をなします。

当時のユダヤ教には大きく二つの流派があり、それはサドカイ派とファリサイ派でした。イエスを訴える時には、珍しく合意を得てイエスを裁判にかけるのですが、普段は激しく対立していました。同じアブラハムの信仰を分かち合い、同じモーセの律法に依拠しながらも、祭司が多かったサドカイ派は非物質的な存在者である天使や死後の命を信じていませんでした。それに対して、ファリサイ派の人々は天使の存在も永遠の命をも信じていました。有名な出来事として、使徒パウロの裁判の時に、彼はうまくこの対立を利用して、2つの派から成り立っていた最高法院に喧嘩させて、現地で裁かれないようにすることができた、という話もあります(使徒言行録23章6節を参照)。

イエスはその2つの派の間に立っています。モーセの律法には暗示的にしか示されていないかもしれませんが、今の物質的な人生は全てではありません。生きている間に、存続するための唯一の手段として子孫を儲けることの他にありません。しかし、それは動物と一緒です。死んでからは、人は神の子のようになるので、結婚する、ひいては子供を産む必要もなくなります。そういう意味で復活は神から永遠に生まれることを意味しています。ファリサイ派と違って、この永遠の命は今のような命ではなく、天使の状態に似るとイエスは主張しています。サドカイ派に対して、死んだ人はもう律法の義務などは守れないし、人間からは忘れられているかもしれませんが、神にとって生きている、いや、神のうちに生きている、神とともに生きているのだ、とイエスは力強く説いています。

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メッセージ - C年 年間

今日の福音朗読(ルカ20:27-38)でイエスが伝えている「復活」は「よみがえり」や「蘇生」とは異なります。もし復活が「よみがえり」や「蘇生」であるなら、その「復活」は、今私たちが生きているこの世の命の単なる延長でしかなく、二つの命のあり方は全く同じであって、同じ価値しかありません。だから「復活」を「よみがえり」の意味でしか捉えていなかったサドカイ派の人々は、この世の結婚と跡継ぎの制度を復活にあてはめてイエスに難癖をつけ、論争を挑んできました。

しかし、それは大変な思い違いでした。イエスが語る復活の命は、この世の命とは全く異なるものです。だからこそ私たちは今、苦しみや痛みがあるとしても、希望を持って、喜びを持って生きています。不完全な世の中に垣間見える神の愛に力づけられて、簡単ではない日々を生きています。他の何を犠牲にしてもこの世で生きることが究極の目的であれば、自分の信仰も、信念も、親兄弟や友人を売り飛ばしてでも生きようとするでしょう。けれども、そのような命の生き方に、私たちは価値を見出しません。神の愛の内に生きる復活の命こそ、イエスに従って生きる命です。

同じように第一朗読のマカバイ記(第二マカバイ7:1-2, 9-14)では、七人の兄弟と母親が、神に背いて生きることよりも、神に従って苦しみを受け、自分の命を引き渡すことを選ぶ姿が描かれています。第二朗読のテサロニケの教会への第二の手紙(2:16-3:5)でも、パウロが、道に外れた悪人から逃れて、永遠の慰めと確かな希望を与えてくださる神の愛と、キリストの忍耐を悟るように勧めています。

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今日の福音朗読(ルカ19:1-10)に登場するザアカイは徴税人でした。徴税人たちは、自分たちの国を支配しているローマの代わりに同胞からお金を集めるのが仕事で、しかもその集める税金に自分の取り分を上乗せしており、その時に不正に多く取り立てることも多かったので、外国の支配者に魂を売った裏切り者として扱われました。ですから、人混みの中でイエスがどんな人なのか見ようとしていたザアカイは「群衆に遮られて見ることができなかった」と言われていますが、それは単に彼の「背が低かった」からだけではなく、人々から嫌われていて意図的に邪魔されたのだ、という解釈があります。

この解釈が正しいかどうかはわかりませんが、そうした状況は、普段のザアカイの姿を見ていれば「自業自得だ」と感じることでしょう。人々は確かに、ザアカイが何を生業として生きているのかを見ていました。だから彼が自分の家に宿を取ってくれる人がいないほど孤独であろうが、忌み嫌われていようが、当然の報いだと考えます。しかしイエスは、人々が「罪深い男」と見ていたザアカイを木の上に見た時、人々が見たものの向こう側を見ました。「この人もアブラハムの子なのだから」と彼の中に価値を見出しました。まさに「失われたものを捜して」見つけました。そして救いをもたらしました。

見ないで判断し裁くこともある私たちは、見たことに基づいて判断していれば十分なのかもしれません。しかし、イエスは見えない痛みや苦しみ、今はまだ見えない立ち直る姿、救われる姿を見て手を差し伸べます。そして私たちは、ザアカイの中に、それに値しないのに多くの恵みを受けている自分の姿を見出します。

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