メッセージ - A年 年間 |
第1朗読は、イザヤの預言です。旧約時代の福音記者とも呼ばれるイザヤは、今回イスラエル民族を和ませる言葉だけではなく、与え主である神の姿を紹介する言葉を述べています。「渇きを覚えている人は皆、水のところに来るがよい。」と伝え始め、神ご自身がご自分の民を導き、豊かに養われるというメセージを述べているのです。さらに、人は物事を見極めることによって、真の善を選び、より良い人生を果たすことができると伝えています。
第2朗読は、使徒パウロのローマの教会への手紙です。「みなさん、だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と語りかけ、キリストにおける生活を伝えているのです。ローマ書8章の始めの言葉によると、この生活は聖霊によるものであり、神の全能と至福、さらに神の愛に信頼を置くものです。
マタイによる福音はメシア時代を紹介し、成し遂げられた神の約束を確認します。キリストは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで祈り、パンと魚を群衆にお与えになるのです。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を与えよ。」という第1朗読のイザヤの言葉に戻るとキリストがなさったこのしるしもよりよくわかると思います。増やしたパンは人が「食べて、満腹した」という物理的出来事を証ししますが、成し遂げられたメシア時代を示すこのしるしはエウカリスチア、要するに御聖体の前表となり、神が与えてくださる救いの賜物を示しているのです。
今日の3つの朗読を考えてみると、人間を愛する神様の見事な呼ばれと業を考え、それに対する自分の応答はどのようなものかと反省し、神様への信頼を祈り求めることができると思います。
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第1朗読で、「何事でも願えば良い。あなたに与えよう」という神様の言葉にソロモンは民を導くための知恵を願いました。この願いはソロモン自身の自己理解と同時に彼の価値基準と物事の優先順位が現れています。ソロモンにとって自分のことよりもイスラエルの民のこと;権力よりも善悪を聞き分ける心;長寿や健康よりも知恵を選びました。そこにソロモンの価値基準と物事の優先順位が現れます。我々も日々様々な場面で物事を選択することを行っています。その一つ一つの決断に自分自身の自己理解と価値観や価値基準が現れています。
マタイ福音書の神の国のたとえ話の中の人も畑にある宝物や良い真珠を購入するために自分が持っている全てのものを売り払いました。つまり、その他のものを犠牲にしてもその宝物を手に入れたいということです。神の国はそのような宝物です。そこに彼の価値基準が見られます。彼にとってそれが何よりも価値あるものであり、他のものより最優先すべきものだということです。
現代世界は我々の目の前に様々な可能性を用意しています。何を選ぶのかという決断に迫られています。一つを選ぶことは、他のものを諦めるということです。そうすると正しい決断をする必要がありますが、そのためにやはり物事を「より分ける」知恵が必要です。その意味で、ソロモンは正しいものを選んだということです。
マタイ福音書の神の国のたとえの続きに、天使たちが良い魚と悪い魚を分けるように、世の終わりに正しい者と悪い者がより分けられる話があります。マタイ福音書の25章の最後の審判のたとえにも羊とヤギが分けられるように、人々も永遠の報いを受ける右の人々と永遠の罰を受ける左の人々が「より分けられる」話がありますが、神様は人々を分け隔てるということを意味するのではないと思います。イエスはすべての人が救われるように、誰一人が左側に行かないように、誰一人悪い魚のように投げ捨てられないように、そのような思いでこれらのたとえを話されたと思います。そのようなイエスの思いを答えるために日々の我々自身の正しい決断が必要です。我々自身は日々良いものと悪いものを「より分ける」ことが必要です。
第2朗読のパウロのローマの信徒への手紙の中で、「神は前もって知っておられた者たち」や「神があらかじめ定められた者たち」を義とし、「義とされたものたちに栄光をお与えになる」という言葉がありますが、これは一人一人の運命を語っているのではないと思います。むしろ、希望を与える言葉として受け止めなければなりません。
今、ここで、神様が「何事でも願えば良い。あなたに与えよう」と言われたら、自分はいったい何を願うのでしょうか。
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福音書に見られるイエスのたとえ話は基本的に「神の国」を言い表すものですが、だんだんと成長していく種は、よほどイエスの「神の国」像に合っていたのでしょう。今日の朗読箇所である「麦と毒麦のたとえ」(マタイ13:24-30)を含め、イエスはいくつもの「種」にまつわるたとえ話を語っています。
種は未来の成長と実りの可能性を感じさせるものですが、その植物の種類がわかってはいても、どれほど大きく育つのか、どれくらいの実ができるのかなどは、実際に育ってみなければわかりません。そのために人は種を蒔いた後、気をもみ、手をかけて水をやり、肥料を施し、雑草を抜き、自分にできる限りのことをして実るのを待ちます。
麦と毒麦のたとえでは、何が育つかさえわからない、麦なのか毒麦なのかはっきりしない、という状況が描かれています。良くないものが混じっているようだが、しかしそこに神の国の始まりも確かにある、そんなたとえです。それは私たちが生きているこの世界の姿です。弱さを抱え、傷つき、罪にまみれていても、しかしイエスにとってそこに絶望と諦めという選択肢はありません。毒麦が混じっていようが、それでもわけへだてなく愛を注ぎ、実りを待ちます。「神の愛と恵みはどんなところでも働く」という強い思いを感じます。私たちも同じ希望を持って生きていきます。
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今日のミサの朗読には明らかに強い一体感があります。まず、イザヤによれば「神の口から出る言葉は虚しくして天に戻ることはありません」。雨のように生命を養い、実りをもたらすのです。それは、聖書にまとめられた狭い意味での神の言葉もさることながら、天地創造から地の表の上に響いている「存在せよ」という神の声もその通りです。神の語るどの言葉もその目的は命、存在、幸せです。答唱詩編にもあるように、「神が訪れるところには豊かさが溢れます」(詩編65)、あるいは、詩編147によれば「仰せを地に送ると御言葉は速やかに走る[…]主が御言葉を送ると、[凍っているもの]は溶け、息を吹きかけると、水が流れる」ということです。神の声は時として轟きのようなもの(詩編29を参照)でもありますが、厳しくても命をもたらすことに変わりありません。
すぐには気づきませんが、人間はこのような神の言葉によって存在せしめられ、養われ、生かされています。離れてしまうとしばらくは自分の力あるいは違うものによって生きることもできますが、そのうちには内的に飢え始め、最終的に衰えることになります。神の言葉には必ず効果を起こす力はあっても、人間はそれを拒み、それに背くこともできます。しかし、人間だけではなく、パウロが言っているように、人間の対抗を通して全被造物が神の言葉(生命源)から遠く離れてしまいました。他の被造物の場合には、神はその反応に関わらず、雨や太陽などで常に必要最低限の生命を保ち、守り続けるのに対して、人間からは神の言葉を受け入れる反応が求められています。雨のように神の言葉は無理やりに人間のうちに効果をもたらすことはできないのです。そこから考えますと、宇宙万物が待ち焦がれていても、人間にしか出来ない(また、人間を通して全羅万象がそれに与る)「神の子として受け入れられる」こともまた神の言葉の最終的な効果です。
最低限の命ではなくそれによって豊かな命を人間にもたらす神の言葉は、一つであっても様々な効果を引き起こすことができます。それは結局受け入れる人の受容性によります。神は私たち一人ひとりに同じ肯定的な言葉を向けながら、それぞれの人から異なる応答を待ち続けています。私たちにできるのはただ、福音書に書いてある通り、まず聞く覚悟をもち、聞く準備をして、それから世の思い煩いや富の誘惑を取り除き、聞いていることを実現しつつ理解しようとすることです。「種を奪い取る悪いもの」や「艱難と迫害」は時としてどうにも出来ないかもしれませんが、他の言葉と違って神の言葉にはそのようなことに対して人間を強めることすらできると信じ、祈りに頼るしかないのではないでしょうか。百倍の実りをもたらさなくても、せめて六十倍あるいは三十倍の実りをもたらしたいものです。
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今日の福音朗読箇所(マタイ11:25-30)の中の有名な一節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は、私たちにとって大きな慰めです。忙しく物事が動き、めまぐるしく変化し、矢のように時が過ぎていく現代にあって、私たちはみな疲れています。毎日朝から晩までしなければいけないことが山積みになっている、学業や仕事で良い結果を残さなければならない、気を抜き息をつく暇もない、そんな生活を送っているかもしれません。こうしたことは、私たちがこの世界で生きていく上で必要であり、責任を負っていることです。
けれども、それらが最も重要なことではない、手段であって目的ではない、もっと大切なことがある、とイエスは語ります。「わたしのもとに来れば安らぎを得られる」というのは、そのもっと大切な、新しい価値観の提示です。「柔和」で「謙遜」(11:29)なイエスの生き方は、私たちがこの世的な強さや結果や価値を求められるような中にあってもそれにしばられず、大切なものを見失わないように、と私たちを招きます。