メッセージ - C年 年間 |
イエスが語られた「祈るために神殿に上った二人のたとえ」(ルカ18:10-14)は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人」「高ぶる者」と「へりくだる者」との対比を明らかにする話ですが、実際はこの二人の間に、高ぶるかへりくだるか以上の違いを見て取ることができます。
ファリサイ派の人は「感謝します」と言いながら、自分がどれほどの者であるか、自分が何をしたかを語るだけで、神の方を向いておらず、その感謝も神の恵みに対するようには聞こえません。一方、徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、罪にまみれた自分自身を神の前にさらけ出し、神からの憐れみを求めます。
私たちの祈りは、その内容が良くても悪くても、神に向かってなされているかどうかが問われています。感謝であっても、後悔であっても、それが自分の中で完結していては祈りにはなりません。それを忘れるとき、結果として高ぶることになり、「自分」が正しいとうぬぼれることになるのではないでしょうか。
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聖書におけるいやしは、単に「病気の状態から肉体が回復すること」ではありません。それは社会への復帰であり、人々に受け入れられることであり、神に見捨てられたのではなく、愛されていると確認することでした。傷ついた全人格のいやしでした。福音朗読(ルカ17:11-19)における、いやしを求めるサマリア人の必死の訴えと、いやされた後の彼の賛美と感謝が、その重みがどれほどであったかを示しています。第一朗読の列王記(王下5:14-17)に登場するナアマンも、重い皮膚病からの回復に神の働きを認めました。
私たちにも、日々の生活の中で手にして当たり前と思っていることに、大きな恵みを感じ取るチャンスが与えられています。病に限らず、倒れて傷ついた状態から回復するときに、立ち上がる力を与えられていることを実感します。周りの人の支えがあり、恵みに生かされて、引き上げてもらっていると気づきます。そのとき、同時に感謝の心を表すことができるように願いたいものです。
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福音朗読の「主人と僕(しもべ)のたとえ」(ルカ17:7-10)に見られる、僕が主人に一方的に仕える関係性は、平等や人権が大切にされている現代に生きている私たちにとって、少し理解しにくいものかもしれません。昼間の畑仕事や羊を飼う仕事から帰ってきても、休むことは絶対に許されず、すぐに主人のために夕食の用意をして食事の給仕をしなければならない。主人のために昼も夜も働いても、当の主人はその僕に感謝するはずもく、ただ「私は取るに足りない僕です。しなければならないこと、当たり前のことをしただけです」と応えるのがあるべき僕の姿とされています。
私たちは皆、誰かのため、あるいは自分自身が生きていくために、それぞれ仕事をし、家庭でも家事をしますけれども、仕事をしても何の報酬もない、ということはないですし、家庭のことでもそれ以外の人との関わりの中でも、自分がしたことに対して何か反応が欲しい、と思うのは自然なことです。それは何か大きな報酬、大げさな評価でなくても、「お疲れ様」とか「ありがとう」の感謝の一言でいい、ねぎらいの言葉をかけてくれるだけでいい、自分がしたことを認めてくれるだけでもいい、そういう気持ちは誰しも持つものだと思います。
けれども、私たちが信仰に基づいて行動するとき、そうであってはならない、報酬や見返り、人からの評価はその目的ではない、というのが今日の福音全体のメッセージです。この僕のたとえの前に、からし種の話(17:6)があり、からし種一粒ほどの小さな信仰でもあれば何でもできる、と言われていますけれども、信仰を持って、神に仕えるとき、人に仕えるとき、報酬がなくても、何の得にならなくても、誰も褒めてくれなくても、感謝してくれなくても、かえって逆に反対を受けても、ばかにされても、自分の使命、正しいと思うこと、しなければならないと思うことを果たしなさい、そういう励ましの言葉が与えられています。
それはまさに、十字架の上のイエスの姿です。誰からも感謝されず、褒められることもなく、かえってののしられたり、馬鹿にされたり、裏切られたりしながらも、それでも恨むこともせず、すべての人のために十字架の上で自分の命をささげました。
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今日の福音でイエスが語る物語は、有名な「金持ちとラザロ」という物語ですが、ここ数週間聴いているファリサイ派の人々との論争、イスラエルの指導者たちの批判の中に位置付けられます。つまり、失われた一人の人を探すよりもまだ残っているものを保管することを好み、失敗した息子を再び受け入れることができず、財産を賢く管理して似たような仲間を増やし、作りたがっていた権力者や裕福な人々に対する厳しい批判でした。今日もその路線で人々と神様の考え方の違い、価値の転換が見られます。いくつか比較するに値する点があります。
(1)有り余るほどお金を持っていた人は匿名で、究極に貧しい人には名前が付いています。人々の間では金持ちの方がきっと知られていて、仲間から名前や称号で呼ばれていましたが、神様の目には貧しくて小さな人にも価値があって、そういう人こそ神様に個人として(!)愛されています。
(2)生きている間は金持ちの方が上に座っていて、余った食料はテーブルの下に落ちていますが、死んでからは葬られ下に置かれます。代わりに、ずっと玄関の下に横たわっていたラザロは上に、つまり天国(アブラハムの懐)に運ばれます。かつて家の門にだけ分けられていた二人は、今度は「深い渕」によって隔たれ、上から一滴の水が落ちてくることを願っています。
(3)追い出したりもせず、手を差し伸べようともせず、金持ちはラザロの存在を知りながらも無視していたのですが、その名前も知らなかった・知ろうとしなかったかもしれません。ところが、死んでからは実はラザロに言及していますので、実は彼を意識して、名前まで分かっていたことがバレています。しかし、相変わらず高慢な態度は変わらず、直接話しかけるのはラザロではなく、父祖アブラハムに声をかけラザロを召使として扱おうとしています。
(4)金持ち(ここではファリサイ派、サドカイ派、祭司長たちの象徴)は少なくとも形として正統なイスラエル人として死後の世界や永遠の命(ファリサイ派の信仰の特徴)をも信じていたのですが、どちらかというと自動的に救われると思っていました。そのために律法を守っていなかった、あるいは守れなかった人々を排斥もしていました。ところが、立派な生活にも関わらず陰府に下され、自慢できることは何もないラザロの方が楽園に受け入れられます。
面白いことに、お金持ちはどのようにその財産を得たかについては全く触れられず、不正な金銭だったとは限りませんが、それを自分だけのものと考えてしまうことが断罪されています。困った人を助け(られ)なかったというよりも、それを心にも留めていなかったこと(=無関心)がこの匿名の金持ち罪だったのです。ただ悪いことをしなかったかどうかではなく、(チャンスがあった時)善いことをしたかどうかについて私たちはやがて裁きを受けることになります。
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ラザロと金持ちのたとえ話(ルカ16:19-31)は、私たちの自分勝手な都合の良さを映し出しているかのようです。金持ちは家の門前でラザロが飢えと病に苦しんでいたのに意に介さず、死に至るまで手を差し伸べることもなく放っていたのに、いざ自分が陰府の炎の中でもだえ苦しむことになると、憐れみを求めて叫び声を上げ、また自分の兄弟たちの救いのために助けてくれるよう求めます。
私たちも、自分がつらいときには助けを求めるけれども他人が苦しんでいるときには手を貸さない、自分の罪には目を向けないが他人の過ちはゆるさない、そういったダブルスタンダードを使い分けて、自分に都合良くふるまうことがあります。
隣人の痛みを目の当たりにするときに、自分の痛みと重ね合わせ、自分の痛みとして受け取ることこそ、第二朗読でパウロが語る、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」(一テモテ6:11)を追い求める生き方かもしれません。