メッセージ - B年 復活節 |
今日の主日の三つの朗読は愛というテーマを述べています。
使徒言行録の第一朗読は「人の分け隔て」をしない神の愛について、またこの愛に従うキリスト教宣教についてです。この宣教はカイサリアというパレスチナの地方で行われます。そこは、使徒ペトロによると、部隊の百人隊長のコルネリウスとその家の上に聖霊の賜物が注がれ、コルネリウスは神を賛美し始めます。神ご自身がコルネリウスとその仲間を憐れみ、救いの道を与えてくださいます。救いの道は、神様の愛のご計画によるものであり、既に啓示の中に使徒ペトロに現れたものなのです(使徒言行録10:1-33を調べれば)。神の啓示、またコルネリウスの希望に応えた使徒ペトロが初めて異邦人に向けて宣教することになります。
第二朗読は、使徒ヨハネの第一手紙です。ここにも神が伝えてくださった愛を実行するようにと呼ばれます。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」と。さらに、神の愛に応答しない場合ははっきり教えます。「愛することのない者は、神を知りません」と。
ヨハネによる福音を見てみると、同じ愛のテーマとなっています。確かに、使徒ヨハネの手紙の言葉は、今日朗読される福音につながり、同じ意味を見出すことができます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス・キリストの命令に従う教えなのです。イエス・キリストが私たちの贖いのために人となり、十字架につけられ、葬られ、復活したということ、また「父から聞いたことすべてをあなたがたに知らせた」ということは全人類への最高の愛の証しなのです。
さて、現代、キリストの弟子となるあなたはどうでしょうか。イエス・キリストが示してくださった愛の証しを信じますか。キリストの愛に捉えられて、自分のそばにいる隣人を愛し、隣人の救いのために努めることを決意していますか。
メッセージ - B年 復活節 |
第一朗読(使徒言行録9:26-31)に登場するサウロ(パウロ)は生前のイエスに出会ったことがありませんでした。しかし回心の出来事を通して、弟子の仲間になり、命を狙われることになっても力強く「主の名によって恐れずに教えるように」なりました。
福音朗読(ヨハネ15:1-8)では、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とイエスが語っています。パウロは見たこともないイエスと、確かにつながっていた、ということでしょう。直接イエスの姿を見て、その言葉を耳にしたことがあっても、それはイエスとつながっていることになりません。福音書の中のイエスの言葉をすべて暗記していたとしても、それがイエスとつながっていることではありません。
第二朗読のヨハネの手紙(一ヨハネ3:18-24)では、「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知」ることができる、と言われています。イエスの言葉を生きるとき、そこにイエスとのつながりが生まれます。
復活節は、力強い「いのち」を実感した私たちが、毎日を生きていく力を与えられている、そんな気づきの時期です。イエスの言葉のうちに、豊かないのちの輝きを見出すことができますように。
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メッセージ - B年 復活節 |
今日の主日は、福音朗読の主題に従って「良き牧者の主日」と呼ばれています。2回もイエスは自分は(預言者たちが当時の指導者を批判して、その到来を予告していた)良い羊飼い、すなわち誠の、唯一の羊飼いであると主張しています。遊牧民でない私たちにはあまり伝わらないかもしれませんが、このイメージはとても奥深い、意味豊かなイメージです。何を含意しているでしょうか。比喩だからこそ一言では言えませんが、まず日雇い人とは違い自分に任されており、自分のものである羊たちを世話し、養い、導き、悪いものから守るという任務を授かっています。その羊たちである私たちを深く知り、とても親密な絆を持っています。常に一緒に暮らし、結局羊飼いも羊たちの中の「子羊」であると言えます。
もっと大事なのは、羊に必要なものを与えるだけでも、ただ命を分け与えるのでもなく、まさに自分自身の命を与えるということです。これは言うまでもなく自分の死の予告に他なりません。私たちが豊かな命を得るようにすることや、私たちを緑の牧場に導くことのためにイエスは大きな代価を払わなければなりませんでした。簡単にできる、楽で安いものではなかったのです。たくさんある中の最後の一匹の羊のためにも、必要ならば命を差し出してくださいます。このようなことをした、羊飼いと呼ばれる資格のある人は、イエスをおいて他にありません。
命を捧げたイエスはそれを自由にしました。偶然にそうなってしまったとか、父なる神からそうさせられたとかではありません。しかも、私たちに必ず感謝や返済を期待してそれをしたわけでもありません。しかし、この良き僕者の恩を理解したならば、私たちも自然にそれと似たものになっていきます。あるいは、その恩を本当に理解し、それに十分に与るためには、まずそれと似たものになるしかない、と言ったほうが適切かもしれません。1回限りのことではありません。復活したキリストは今でも自分の命を捧げ、分け与え続けています。この偉大な僕者と一緒にいるため、またこのイエスを本当に知るためには、私たちは似たものであり、似たものになっていくしかありません。
メッセージ - B年 復活節 |
今日の復活節第2主日では、まず復活されたイエスが弟子たちに姿を現されました。その時にいなかった弟子の一人であるトマスは、他の弟子たちから復活したイエスを見たという話を聞きましたが、そのことを信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」というトマスの言葉は、トマスの疑り深さを示す言葉のようにも思えますが、私たち一人ひとりにある人間の一面を示しているようにも思えます。私たちが生きている現代社会は様々な情報が飛び交っており、その中で情報の真偽を自分たちで見分ける力が重要になってきます。そうした社会の中で生きる私たちにとって「疑う」という行為は、この世で生きる術です。しかしイエスはトマスが主の復活を「信じるものとなるため」、自らをトマスに現し、そして手の釘の跡、わき腹に手を入れるようにトマスに言われます。イエスは多くのしるしやわざを行ったことが聖書に書かれていますが、その多くが苦しむ人々の救い主であるイエス、そしてその福音を「信じる者になる」ために行われています。この箇所でも、トマスが「信じる者」となるために、わざわざ自らをトマスの前に現しています。
洗礼を受けた私たちも、直接的ではないにせよ、それぞれが復活したイエスに出会った経験があると思います。イエスはトマスにそうしたように、この世の様々な手段、出来事を通して、私たちと出会い、いつも主を信じるように私たちに呼びかけています。私たちは日常にある多くの出来事、周りの人々、環境、ニュースに取り上げられるような事件など、あらゆることを通して、主に呼びかけられています。そしてイエスの復活を信じる私たちは、ミサを通して主と出会い、信仰を新たにして主の呼びかけに応えるとともに、日常生活の中で主を探し求めること求められていると思います。
私たち一人一人がミサ、そして日常生活の中で主との出会いを探し求めるとともに、主が「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたように、私たちも幸いなものとなるよう祈り求めていきましょう。
メッセージ - B年 復活節 |
もしも、復活の朝に、イエスの墓に一番先に着いたのは自分だったら、イエスの遺体がなくなった、墓が空になっているのを見て、どのように反応するでしょう。復活の主日に読まれるヨハネ福音書の箇所は空の墓を見た最初の三人の反応に注目しています。
まずは、マグダラのマリアの反応です。イエスの空の墓を最初に見たのはマグダラのマリアです。主の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に着いたマリアが見つけたのは、墓の石が取りのけられたことでした。それを見たマリアの反応は、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」。「主の初めの日、まだ暗いうちに」という時間の説明がありますが、これは文字通り、朝早い、物がまだはっきり見えない時間帯で、マリアは何が起こっているのかまだはっきり分からないということです。しかし、もう一つ重要な象徴的意味があります。「まだ暗い内に」というのは、信仰の光が差し込んでいることにマリアはまだ気づきなかったことを現しています。その時に、まだ暗い内に、空の墓を見たマリアは、イエスの遺体が誰かに盗まれたということしか見えていませんでした。まだ暗いうちに、まだ世の光そのものと個人的に出会う前には、イエスの死も、イエスの遺体がなくなったことも誰かのせいにしか見えませんでした。それがイエスの復活に対するマリアの最初の反応です。
これまで、マグダラのマリアは彼女なりのイエスとの出会いの体験がありました。イエスにゆるされたこと、助けられたこと。彼女にとって、イエスは命の恩人です。いつまでもそばにいてほしかった存在です。失いたくなかった存在です。そんな彼女にとってイエスの死の悲しみは大きかったです。ましてや、遺体までなくなったとは。誰かのせいにしないと、イエスをなくした悲しみは耐え切れないことでしょう。イエスが「マリア」と彼女の名前を呼ぶまで、彼女が復活したイエスと個人的に出会うまでは、イエスが復活したことに気づきませんでした。
次は二人の弟子:ペトロともう一人弟子、イエスの愛弟子ヨハネの反応です。マグダラのマリアの知らせを聞いたペトロともう一人の弟子、愛弟子は急いで墓に向かいました。二人は墓に走りましたが、ペトロよりも愛弟子の方が足が速かったので、先に墓に着きました。二人は、空になった墓とその中に残された亜麻布を見ていました。二人ともイエスの復活について聖書が書いたことをまだ理解していませんでした。イエスの復活をまだ理解していないが、空の墓を見た時に、愛弟子はそれを見て「信じました」。空の墓を見た愛弟子の最初からの反応は「信仰、信じること」です。愛弟子は、イエスのことを頭で理解する前に、イエスのことを信じています。一方、ペトロの反応は何も言及されていないことは興味深いです。ペトロも愛弟子の様に、イエスを信じていることは確かです。しかし、彼の反応が何も語られていないのは、興味深いです。
愛弟子は確かに模範的な存在です。ペトロよりも早く走ったし、空の墓を見てすぐに信じていた。しかし、誰の信仰がより大きいか、誰がもっとすごいか、ペトロよりも愛弟子、マグダラのマリアよりも二人の弟子ということが問題ではないです。信仰は比較するものではないです。それぞれにはイエスが生きていた時に、イエスとの個人的な関わりがあります。それぞれの反応は、それぞれがどのようにイエスと関わってきたかで特徴付けられます。愛弟子は、その名前の通り、いつもイエスのそばにいます。最後の晩餐ではイエスの胸元にいました。イエスの十字架のかたわらでイエスの母と共にたたずむのです。それだけイエスと近い彼にとって、復活は説明する必要はないのです。
ペトロの場合、彼は自分の弱さを抱えながらも忠実にイエスに付いてきました。大切な場面でたびたびペトロは弟子たちの代表として登場します。しかし、一見しっかりした男だと見えても、ペトロはもろい人間です。簡単にイエスのことを「あの男は知らない」と拒んでいます。そんな自分の弱さを抱えながら、それでもイエスを捨てなかった、イエスに付いてきたペトロにとって、空の墓を見た時の気持ちは複雑だったでしょう。自分の気持ちを表す言葉を見つけなかったでしょう。
こうして、イエスの復活に対する反応は、これまでそれぞれ、ペトロが、愛弟子が、マグダラのマリアが培ってきたイエスとの関わりによって特徴づけられるのです。それぞれにそれぞれの反応の仕方が違います。しかし、共通することがあります。それは、彼らはイエスを愛することです。愛弟子も、ペトロも、マグダラのマリアも。そして、私たちも同じです。今ここでイエスの復活に対する私たちの反応は、日々自分がイエスと培った個人的な関係がどの様なものなのか次第です。