メッセージ - B年 年間 |
四つの福音書の中には人がイエスの弟子になる場面がいくつもあり、それぞれの召命は様々で興味深いですが、共通点もあります。召命はいつも一方的ではなく、応答です。そこには出会いがあり、呼びかけがあり、それに対する応えがあります。
今週の主日の福音(ヨハネ1:35-42)では、二つの召命物語が語られます。前半ではヨハネの二人の弟子がイエスに従うようになり、後半ではシモンがイエスと出会います。アンデレを含む、ヨハネの二人の弟子は、ヨハネがイエスのことを「神の小羊だ」と言うのを聞いてイエスについて行きますが、その後の出会いが詳しく描かれています。二人がやって来ると、イエスは「振り返り」、彼らに向き合います。そして彼らが何を求めているのかと尋ね、自分がいる場所に来て、自身の目で見て確かめるように呼びかけます。
イエスに従ったアンデレは兄弟のシモンをイエスのもとに連れてきますが、やはりイエスは彼の方を向いて、じっと見つめます。そして「ケファ(岩)」という名前を与えます。現代でもあだ名をつけるのは親しさの表れですが、それだけではなく、名前を与えるということは重要な役割を与えることでもあります。イエスはシモンに、新しい役割、新しい生き方を示し、シモンはそれに応えていきました。
共観福音書の召命の場面でもそうですが、イエスが誰かを弟子に呼ぶとき、その人を「見る」と言われているのは印象的です。イエスはまっすぐにその人と向き合って、目を合わせて呼びかけます。私たちにもそのまなざしは向けられています。
メッセージ - B年 降誕節 |
どの福音書でも、イエスの洗礼は、その公生活・宣教の始まり、あるいはその前の出来事として描かれています。今週の福音朗読箇所(マルコ1:7-11)の前にあるマルコ福音書の冒頭も、洗礼者ヨハネの活動の報告(1:1-6)があり、イエスは彼から洗礼を受けた後、荒れ野での誘惑(1:12-13)を経て、ガリラヤで宣教を始めます(1:14-15)。イエスの洗礼は、福音を宣べ伝える使命の始まりでした。
そういう意味で、洗礼はイエスにとって新しい生き方を始める出来事でしたが、今日のキリスト教徒にとっても「洗礼」は、キリスト者としての、神の子としての新しいいのちの始まりとされています。主の洗礼の祝日にあたり、また年の初めにあたって、自分の生き方についてふりかえり、自分の使命は何なのかを考える機会としたいものです。
メッセージ - B年 降誕節 |
福音朗読(ルカ2:22-40)は、ルカ福音書における、幼子イエスと両親がエルサレムの神殿に上った時の話です。そこで出会ったシメオンは、イエスを抱いて救い主の訪れをあかししました。同様に、神殿にいた女預言者アンナも救いを待ち望む人々に幼子のことをあかししました。彼らは聖家族と偶然出会ったのかもしれませんが、そうだとしても積極的に幼子イエスと関わりました。
マリアは、そしてヨセフも、たまたまイエスと家族になった、というのではなくて、神の御旨を求めながら、生涯をかけてイエスとの関わりを深めました。シメオンが母マリアに向かって、この子が反対を受け、マリア自身も剣で心を刺し貫かれる、と語った通りです。
聖家族のお祝いは、単にイエスとマリアとヨセフをたたえるのではなく、私たちもイエスとの関わりを通してその家族の交わりの中に入ることができる、招かれている、ということを思い起こさせます。
メッセージ - B年 待降節 |
今週の福音朗読の箇所(ルカ1:26-38)である受胎告知、お告げの場面で、マリアの最後の言葉、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」はとても有名な言葉で、ラテン語訳の最初の言葉を取って「fiat」と呼ばれたりします。
この後のマリアの人生、マリアがどのようにしてイエスと歩んでいったかを思い起こすと、その「お言葉通りになりますように」という言葉は、「そのままどうにでもなればいい」という投げやりな諦めでもなく、自分は何も関わろうとしないで「流れに任せてそのままにしておこう」という無責任さの表明でもなくて、むしろ、大きな役割を引き受けるような、積極的な強い意志を感じる言葉だということが分かります。イエスが亡くなられた十字架の下まで一緒についていった、苦しい道を共に歩んでいった母マリアの人生を考えるとき、この言葉の重みが感じられます。
自分の人生の中に神の力からが確かに働いていると感じる、というだけではなくて、自分の言葉と行いを通して神の働きが周りの人々にも及ぶように「神様の働きに私も協力できますように」という祈りの言葉、それがこの「お言葉通りになりますように」に込められた思いです。
メッセージ - B年 待降節 |
今週の福音朗読箇所(ヨハネ1:6-8、19-28)は、ヨハネ福音書の始まり、1章で、まだイエスの公生活が始まる前の場面で、イエスより先に洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは、ユダヤ人たちに「誰なのか」と、メシアなのか、エリヤなのか、あの預言者なのか、と問われますが、そのいずれでもなく、自分は「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と宣言します。そして自分のことだけではなく、イエスについて「その人は自分の後から来られる方で、自分にはその履き物のひもを解く資格もない」と語ります。
洗礼者ヨハネの生涯は決して楽なものではなかったと思いますが、それでも彼は、ヘロデに殺されるまで、最後まで自分の使命をまっとうしました。彼がそうすることができたのは、自分自身とイエスについてよく知っていて、どういう関わりをしていくか、自分が「後から来られる方」のために何をするべきかという、自分自身の使命をはっきりと見出すことができたからだと思います。
待降節は、イエス・キリストがこの世に来られたことの意味を問うときでもありますが、同時に、それが私たちにとってどういう意味なのか、そしてそれに対して私たち自身がどう応えて生きるのか、を問うときでもあります。洗礼者ヨハネは、闇を照らす光として来られた方の証しをする、ということを自分の使命としました。貧しさの中に、謙遜の内に生まれ、病気の人、罪人、弱い人、苦しんでいた人に手を差し伸べ、十字架の上で命を献げるまで愛を貫いた、イエスの生き方と私たち自身の生き方をどうつなげるのか、が問われています。