メッセージ - C年 年間 |
第一朗読の「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:14)というモーセの言葉は、非常に印象的です。モーセは律法を民に伝え、神に従うよう呼びかけますが、その戒めは天や海のかなたなど、どこか遠く、手の届かないところにあるのではない、と語ります。
このモーセの言葉を心に留めながら福音朗読の「善いサマリア人のたとえ」およびイエスと律法の専門家とのやりとり(ルカ10:25-37)に耳を傾けるとき、何が大切なのか考えさせられます。イエスが教える隣人愛は、あれこれと考察し論じるものではなく、実行するべきものです。「愛すべき隣人とは誰か?」「誰が自分の隣人に含まれ、誰がそこから除外されるのか」などと問う前に、まず目の前にいる人に手をさしのべるよう、イエスは私たちを招きます。
メッセージ - C年 年間 |
今日は久しぶりに何も特別なテーマのない年間の日曜日に戻りました。しかし、実は不思議なことに、先週のキリストの御体と御血の祭日と関連する福音が読まれています。偶然ではありますが、ルカ福音書のほとんど続きにあたる部分なのです。つまり、イエスが弟子たちを周りの町々へ派遣して、自分がそこに行く前に、あるいは行けないところに代わりに弟子を遣わした後、5000人の群衆をパンの増加の奇跡によって満腹させてから、旅に出る決意を固めました。これはルカ福音書のいわば最終楽章であり、頂点に当たります。どの道に出るかというと、言うまでもなく、エルサレムに向かう道であり、苦しみを受ける場所に赴くということです。
今日の福音箇所や他の箇所にイエスに従う人、従いたい人が出てきます。それは、もちろんのこと、どこまでもイエスに従うつもりがないならば、ただ跡を追うということが出来ないし、そうする必要もありません。徹底的にエルサレムまでイエスに従うことしかあり得ません。これはルカの特徴だと言われているぐらいです。狭い門を通るとか、自己を捨てるとかということは他でも強調されていますが、師イエスの同じ運命を被るのはこの福音書による弟子の姿だと言っても過言ではありません。おそらくそのために、先に5000人に食べさせるパンの物語があって、それによって強められた人々がイエスに従うことができるように、また、イエスがエルサレムに向かわれた後に糧として心に残るようにと、その物語をルカが入れているのではないでしょうか。
私たちとイエスとの関係は多重多元的なものですが、ただただ研究の対象や大好きな趣味的な対象であってはなりません。根本的に私たちは同じ使命に結ばれており、もっと厳密に言うならば、イエスの使命そのものに与っているのです。現実的に考えるならば、イエスと同じように私たちキリスト者も世間から拒まれ、迫害されるのは当然でしょう。たとえ「昔の方が良かった!」という思想に縛られ、後ろを振り向きたくなる傾向が多少自然でも、それに惑わされぬように前進する力を主に願いましょう。
メッセージ - C年 祭祝日 |
復活節が終わっても、なお奥深い祝いが続きます。まず聖霊の降臨を記念しながらその働きを讃え、それから三位一体という一致の絆にして多様性の神秘について黙想しましたが、今日はキリストが残してくださった自分の体と血という「命の糧」の祭日を祝います。
小さな復活祭として祝われ日曜日ごとに捧げられるだけではなく、毎日、「日の出るところから日の沈むところまで」地球のどこかで捧げられる「感謝の祭儀」(エウカリスチア)ですが、2000年も絶え間なく続くキリストの過越の記念なのです。しかし、この「記念」という言葉に戸惑ってはなりません。何か大昔の出来事を忘れかけてきた頃に思い出すということではなく、何かが忘れられぬべくそれを覚え続けて、それを今ここに現存させ、その効果が続くようにするものです。言ってみれば、何度も捧げられるミサではなく、キリストがただ一度捧げた奉献がそのまま続き、私たちがそれに与り、それへと引き込まれる、と言った方が適切かもしれません。この糧こそ私たちを養い、日々の使命を神の力で果たすことができるようにするだけではなく、永遠の命を私たちの内に芽生えさせてくれる「不死性の薬」でもあります。
最後に、なぜパンとぶどう酒でなければならないかについて簡単に触れたいと思います。キリストがそれを用いたからとか、当時現地の単純な人々の日常的な食料だったからとかは別にして、古代の教父たちや中世の神学者らはそれを象徴的に解釈する傾向がありました。ディダケーという書物や聖アウグスティノや聖チプリアノによれば、パンとぶどう酒の重要性は次の2点にあります。一つは、パンを作る際にたくさんの小麦の粒を集めて、一つにしなければならないように、それを食べる人々(=教会)も内的な一致によって結ばれて、しかも全世界のたくさんのメンバー、様々なメンバーから集まっている、ということです。もう一つは、ワインを作るためにブドウの房を絞らなければならないのですが、自分たちのする苦労やイエス信者が受ける苦しみ(=殉教)をも意味する、つまり、キリストをはじめとし、その命を生きる人々の汗と涙を毎回のミサの中に想起しそれを供物として共に捧げる、ということです。
メッセージ - C年 復活節 |
主の昇天は、主イエス・キリストが天に昇られた、というだけではなく、その道が私たちにとっても父なる神に至るものとして開かれた、というところに意味があります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたように、まさにその道は私たちにとって永遠の命にあずかるための、天の父への道です。
しかし、その道は下から上へという一方通行ではなく、その同じ道を通って聖霊が私たちの上に注がれます。「高い所からの力」である聖霊、すなわち「父が約束されたもの」を送る、とイエスは弟子たちに語ります。
天と地を結ぶ道となった、イエスの復活と昇天、聖霊降臨は、更に私たちの目を垂直から水平へと向けさせます。罪のゆるしのための悔い改めをあらゆる国の人々に宣べ伝えるため、弟子たちを証人とする、とイエスは宣言します。弟子たちは、そしてそれに続く私たちは、この世界で、地の果てまで福音を宣べ伝える使命を与えられているのです。
主の昇天は、私たちの目線を天と地の両方に向けさせます。
メッセージ - C年 復活節 |
朗読箇所:
第一朗読 使徒15:1-2, 22-29
第二朗読 黙示21:10-14, 22-23
福音朗読 ヨハ14:23-29
今週の福音朗読の中に、イエスが弟子たちに語られた言葉の中から二つの箇所に注目したいと思います。一つは、「私を愛する人は、私の言葉を守る」です。
私たちは、「愛する」ことと「言葉や掟を守る」ことと関連して考えることはあまりな いです。どちらかと言えば、両者を相容れないものとして考えがちです。言葉や命令を守るこ とは形式主義で負担として捉えます。愛はより素直で、自然に心の中から湧き出てくるもので す。しかし、イエスは、愛することは掟を守ることだと教えています。「私の掟を守るなら、 私の愛にとどまっていることになる」(ヨハ15:10)。「私の命じることを行うならば、あなた がたは私の友である」(ヨハ15:14)。そして、「互いに愛し合いなさい。これが私の命令であ る」と。
命令の掟を守ることが簡単ではないことは、日々誰しも体験しているでしょう。時には自分の感情、自分の好み、自分の体調、自分の都合を犠牲にしなければなりません。しかし、それこそが愛です。「愛」は感情ではなく、コミットメントです。神への愛も、お互いへの愛も、日々の努力(コミットメント)が必要だということです。
もう一つ注目したい言葉は、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」という言葉です。この言葉を毎回ごミサの中で繰り返していますが、イエスが与える平和、世がえるように与えるのではない平和とはどういうものなのでしょうか。
「平和」というと、「戦争がない、争いがない、全てが穏やか、健康で必要なものが満たされている」状況を想像します。確かにそうですが、イエスが弟子たちに約束する平和は、単にそういう表面的なものではないです。戦争がないからと言って、本当に心が平和でいるとは言えないです。健康で全て必要なものが満たされていても、心が平和だとは限りません。
イエスが弟子たちに与える平和とは、確かな希望、永遠のいのちへの希望から生まれる心の平和です。何があっても、自分を愛してやまない御父がいる;何があっても最終的に自分がたどり着くところは御父のみもとだという、確かな希望から湧き出てくる心の平安こそイエスが弟子たち(私たち)に与える平和です。このような心の平安は、日頃の困難、人生の失敗、病気や苦しみでさえも奪うことができないものです。
主は毎日その平和を私たちに与えています。それに気づき、受け入れる心が与えられるように切に願いたいのです。