メッセージ - C年 四旬節

ラテン語ではNomen Est Omen という言い回しがあります。「名前はサイン、兆し」。名前は、その持ち主(その人)のアイデンティティを表わします。

古代オリエント社会の神々は多くの名前を持っています。多くの別名を持つことはその神の権力、パーワーを表わしています。名前が多ければ多いほど権力を持っているということです。たとえば、バビロンの神マルデゥックは50の名前を持っています。イスラム教の中でも、神(Allah)は100の名前を持っています。

神がモーセに現れる時に、モーセが神の名を尋ねるのは、このような背景と関係しています。イスラエルの民を説得するために、神は自分の権威・権力を示す名を表わす必要があります。「あなたの名は何か」というモーセの質問に対して神は「私はある」というたた一つだけご自身の名前、ご自身のアイデンティティを表わしています。神は存在そのもの、存在するすべてのものの根源だということです。その神は雲の上から語る神ではなく、モーセが羊の群れを飼っているときに出会う神;イスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神;歴史の中で、日々の生活のかなで、つらい時も、苦しいときも、いつもそばにいてくださる神です。

神が「私はある」というご自分の名をモーセに現すのは、自分の権力を見せびらかすためではありません。神がモーセに現れたのは、モーセに重大な使命を与えるためです。イスラエルの民を奴隷の束縛から解放するためです;約束の地に導いていくためです。モーセが神と出会うのは、自分の使命を受けるためです。その時に神が「私はある」という名をモーセに現すのはモーセを力付けるためです。民からの反発に直面する時、一人心細い時に、自分は一人ではなく神はいつもともにいてくださることを思い出すようにするためです。

モーセが神の名を訪ねる前に神はモーセを名前で呼びました。「モーセ、モーセ」。モーセという名前は「引き上げられたもの、救い出されたもの」という意味です。モーセ自身は水の中から引き上げられたものだからです。しかし、同時に、その名前は彼の使命を暗示しています。水の中から救われたモーセは水(紅海)を通ってイスラエルを奴隷の地から救う使命が与えられています。

四旬節の祈り、黙想、節制は私たちが神と出会うための手段です。祈りの中で神と出会います。自分の歩んできた道を振り返って黙想する中で神と出会います。節制を通して神と出会います。そして、その時に必ず見えてくるのは、どんな時でも、どんな不幸があっても神はいつも共にいてくださる神;神は苦しむ人を救ってくださる神だということです。

福音朗読のイエスの喩えの中で神様がどのような存在なのかを示しています。罪に罰を与える神でありながら、悔い改める時間を与えてくれる慈しみ深い神です。神は実を結ぶことを求める農園の主人でありながら、「来年まで実を結んでくれることを期待する」優しい主人でもあります。そして、喩えの中で農園の主人にお願いをした園庭は他でもなく神の御一人子イエスご自身です。「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」。イエスはやがて十字架の上でご自分が流した血を肥やしとして与えてくださいます。私たちが実を結ぶために。これがイエスに与えられた使命です。

モーセは神との出会いを通して自分の使命を受けました。私たちも熱心な祈りと節制と良い業を通して必ず神と出会うことができます。今置かれている状況の中で神様が私に与えてくださる使命は何でしょうか。それぞれに与えられた使命は違うかもしれません。確かなのは、存在するものの根源である神は、どんなことがあっても、いつも共にいて下さる神です。そして、「今」ではなくても「来年」実を結ぶこと待って下さるいつくしみ深い神です。

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メッセージ - C年 四旬節

第一朗読:創世記15,5-12.17-18
第一朗読の言葉はヤハゥエスト(J資料)の伝承を伝えている(創15,1-21)。年を取ったアブラムが神の約束通りのことが起こらない(創15,1)という不安を感じている時に、神は彼に再び約束するだけではなく、彼と契約をする(創15,18)。この契約によって神はアブラムに約束の地と子孫を与える(創15,4-6)。変わりに、神はアブラムから何も望んでいない。この種の契約は父と息子のような種類のものである。

第二朗読:フィリピ3,17-4,1
フィリピのキリスト者が信仰を守ることを精一杯続けるようにパウロはこの手紙を書いた(1,27)。フィリピのキリスト教信者にはさまざまな問題があった、そのうち最も危ないものは、あるキリスト者のやり方であった(3,17-19)。というのは、洗礼を授けられた人たちだけれどもキリスト者らしい生活をしていないのである。彼らは宗教的なことよりもこの世の考え方や振る舞いに関心を寄せた。それは危ないことであった。キリスト者の義務は自分の信仰を簡単な生活で証することである。

福音朗読:ルカ9,28b-36
すべての共観福音書には「主の変容」という物語があるが、それぞれ異なる部分がある。マタイによる、「主の変容」の目的はイエスがメシアであるということを表すことである。マルコによる、「主の変容」の目的はメシアの秘密を表すことである。ルカによる、「主の変容」の目的は、イエスが祈りの内に自分の受難について啓示することである。しかし、すべての共観福音書において、最も大切な教えは同じである。それは、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」ということである。イエス自身を証するのは、イエスではなく神ただ一人である。

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メッセージ - C年 四旬節

聖書は信仰の書です。今日の三つの朗読は、いずれも「神を信じる」ということがテーマになっています。
第一朗読の申命記では、モーセが神への信仰を告白しています。モーセにとって神は、苦境にある自分たちの叫びに耳を傾け、救いの手を差し伸べ、導いてくださる神でした。神に導かれてやってきた約束の地を目前にして、そこで取れる初物を献げるようにと、モーセは民に語りかけます。

第二朗読のローマの教会への手紙では、パウロが宣べ伝えている信仰の言葉を伝えています。それは、イエスが主であり、神がイエスを死者の中から復活させられた、ということであり、それを口で公に言い表し、心で信じるなら救われる、と言われています。

ルカによる福音では、荒れ野でイエスが悪魔から誘惑を受けられた話が語られます。食べ物・権力と繁栄・身の安全をちらつかせる悪魔に対し、イエスはただ主なる神に信頼することを選びます。

私たちにとって、主を信じる、神を信じるとはどういうことでしょうか。自分が信じている方は、どういう方でしょうか。表面的に、個人的に益となること、楽なことを信じるのは聖書的ではありません。モーセは荒れ野の厳しい旅の中で神に信頼し続けました。パウロは、十字架につけられて死にいたらされた方の復活こそ救いにつながると力強く語ります。イエスご自身も荒れ野の試練の中で、何か与えられるからではなく、神が神であるからと、悪魔ではなく神の言葉に信頼します。そしてそのイエスの父である神への信頼は、この四旬節に私たちが思い起こす、十字架に示されています。

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メッセージ - C年 年間

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ルカ6,45

誰しも、ゆるしの秘跡を受ける際に、または、他の機会に、自分の生き方を正す決心、つまり、悪い行いを止めて、良いことをする決心をしたことがあるのではないかと思います。そうだったならば、この決心を実現して、自分の生き方を本当に正すことができたでしょうか。おそらく、しばらくの間は、前よりも正しく生きることができたとしても、結果的に前の生き方、前の過ちや罪や怠りに、戻ってしまったのではないでしょうか。

イエス・キリストが教えてくださる通りに、本当の問題、つまり正しくない生き方の真の原因は、人間の心の中にあるのです。それは多くの場合、私たちが意識していない欲望、他の人や自分自身や神に対する非現実的な期待、また、根拠のない期待、間違った価値観やいろいろな執着、過去に負わされた心の傷などです。私たちが、自分の生き方を正すように強く決心して、全力を尽くしてこの決心を実行しようとしても、心の中にある原因自体が残っている限り、私たちの努力は空しくて、残念ながら失敗することに決まっているのです。

自分の生き方を正すために、罪やいろいろな過ちを犯さないように注意すること、努力することが大事ですが、同時に自分の心を知るように努力することも不可欠なのです。そのために、過ちであったとか、罪であったと思う行動を通して、自分が何を得ようとしていたのか、この行動の動機や原動力は何であったか、自分が何の感情に動かされたか、この感情は、何の期待や欲望を現しているかというような質問に対する答えを、自分の中で探究する必要があります。このようにして、自分の罪や過ちの原因を見つけたら、ただちにそれを意識的に手放すように努力する必要があるのです。

また、自分の「心の倉」から悪いものを捨てるだけではなく、「心の倉」に良いものを入れる必要もあります。最終的に正しい生き方とは、自分の努力の結果というよりも、神の働きの結果ですので、祈りをすることや神の言葉に耳を傾けること、また、自分にできることは何でも積極的にすることによって、何よりも神の働きに心を開くようにする必要があるのです。

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メッセージ - C年 年間

第一朗読のダビデの物語は大変感慨深いものです。自分を追い回って殺そうとする相手に報復する絶好の機会が与えられても、ダビデはサウルを殺すことを拒みました。「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」というのがダビデの理由です。ダビデは単に神からの罰を避けるためにサウルへの報復をしなかったのでしょう。決してそうではありません。自分を敵対した人であっても、ダビデはサウルの死を望んでいませんでした。「今日、主は私の手にあなたを渡されましたが、主が油注がれた方に手をかけることを私は望みませんでした」と。そしてその後、アマレク人との戦いで戦死したサウルの訃報を聞いたダビデは、サウルのことを「麗しき者」と呼び、サウルとその息子ヨナタンの死を大いに悲しみました。

ダビデがサウルに取った態度は、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉そのままです。イエスご自身も「敵を愛しなさい」ということを教えるだけではなく、生き方を持って模範を示しています。自分を十字架に掛けた人々のために、「父よ、彼らをゆるしてください。自分は何をしているのか分からないからです」。イエスが教える「愛の掟」は言葉ではなく、生き様です。そして、愛の実践の最も見える形、しかし同時に最も難しいのは「ゆるし」だということは、誰にでも日常生活の中で経験しているのではないでしょうか。

私たちは、「やられるとやり返す」ということが常識になっているような社会の中に生きています。国レベルでも、個人のレベルでも。しかし、これが世の中の基準となっていけば、世界に争いが後を立たなくなってしまいます。憎しみの連鎖を止めるのはゆるし以外に他にはないです。イエスの十字架はまさに憎しみをゆるしの力で自分の中に吸収して、愛に変えることではないでしょうか。

これは決して綺麗事ではありません。最初の人間、アダムの子孫カインは嫉妬によってその兄弟アベルを殺しました。しかし、パウロが言うように、私たちは土からできたアダムの似姿だけではなく、天に属するキリストの似姿にもなれるのです。人間は人を憎むこともできるが、同時に無条件に人をゆるすこともできます。人間はやられるとやり返す気持ちが湧いてくる、自分の頬を打つものにもう一方の頬を向けさせる力も備えられています。

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