メッセージ - C年 復活節 |
「『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」ヨハ 21,18
多くの人が相手のとがをゆるすということは、相手の弱さや相手が行った悪に目をつぶって、見えない振りをしたり、それを忘れたりすることや、仕方がないからと思って悪いことを我慢することや、相手の行為が悪かったにもかかわらず、それを正しいものや良いものとして認め、その人を無罪にすることであると考えているようです。その考えが正しければ、ゆるすことは結果的に、相手にそのまま生きる許可を与えることになり、相手の成長を止めることになるでしょう。
復活されたキリストは、ご自分を裏切ったペトロに現れ、彼に彼の罪を認めさせてから、イエスが集めた人々を導くという使命を再び与えてくださいました。そして、ペトロがイエスに従い、この使命を果たすならば、つまりイエスと共に生きるならば、自分の弱さや罪から解放されて、愛において成長し、心の望み通りに、イエスと同じように完全に愛するようになるということを約束してくださったのです。
ペトロに対するイエスの態度を見ると、ゆるすということは、悪かったことを悪かったこととしてはっきりと認めた上に、相手を否定せずに、相手に対して希望を持って信頼しつづけること、また、その人の成長を信じて、この成長を支えることであるということが分かります。
メッセージ - C年 復活節 |
典礼歴C年に読まれるルカ福音書によれば、イエスの遺体が納められた墓を訪れた婦人たちが見たのは、空の墓でした。輝く衣の人たちの言葉により、「人の子は罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」とイエスが語られていたのを思い出した彼女たちは、弟子たちに一部始終を語りましたが、不信と驚きをもたらしただけでした。
しかし、ご存じのように、その後彼らはそれぞれ復活のイエスに出会う体験し、聖霊に力づけられて、やがて力強く福音を宣べ伝えるようになります。恐れ、疑い、驚いていた人々が、迫害にあっても揺るぎなく主に従って歩み続けるその力は、復活体験により与えられたものでした。
私たちにとって、私たちの生活の中で、イエス・キリストとの出会いはどのように実現されているでしょうか。いつどこに何を通してイエスの現存を感じているでしょうか。私たちはそこから力を得ているでしょうか。
共におられる主イエスを探し当てることができたとき、私たちは死、絶望、弱さ、罪から立ち上がるという復活に与ることができます。
メッセージ - C年 四旬節 |
今日からは、聖週間が始まります。この第6主日は受難の主日か、もしくは枝の主日とも呼ばれます。この日、つまり主イエス・キリストが、過越の神秘を完成するために、エルサレムにお入りになったという出来事を思い起こします。そのため、主なミサの開祭の部分では主のエルサレムの入城が記念されます。この儀式で枝の祝福以外に入城の福音も朗読されます。今年はC年ということで、(ルカ19,28 40)が選ばれます。
この儀式をもってわたしたちはかつてエルサレムにいた群衆にならって歓呼のうちに枝を手にして主イエスをエルサレムに迎えるよう招かれています。と同時に、今日では、キリスト者のわたしたちがこの枝の行列をもって喜びのうちに主の跡に従ってかつてのエルサレムではなく、主と共にご受難の道を辿り、また主と共に天上のエルサレムに、つまり、永遠に神の支配する天国にも入ろうするのです。枝を祝福の祈願文はそのヒントをくれます。祈願文には「全能永遠の神、この枝を祝福してください。主・キリストに喜び従うわたしたちが、ともに永遠の都エルサレムに入ることが出来ますように」とあります。
聖書の中で、エルサレムという言葉にはいくつかの意味があります。大きく別けてみれば、少なくても三つの意味あります。
先ず、一つ目の意味は場所的なもので、かつてのイスラエルの都です。イスラエル人にとってエルサレムは政治と宗教の集中的な都市でした。このエルサレムに2回ほど神殿が建設されました。このエルサレム神殿で契約の箱が安置され、神のためのいけにえが絶えず捧げられ、神ご自身がそこにおられる聖なる都ともされました。
次に、二つ目の意味は人格化的もので、つまり、信じる民をさす言葉です。そのため、民に対して呼びかけるときに、「エルサレムよ」という表現がよく使われています(詩147,12;マタ23,37 39;ルカ13,34 35;など)。
最後に、三つ目の意味は天上的なものをさします。この意味で、エゼキエルや黙示録、パウロ書簡などにはよく出てきます(エゼ48,30 35;イザ24,23;ガラ4,25 26;ヘブ 12,18 24;黙3,11 13 21, 1 5 9 27;など)。
以上の意味で、これから始まる聖週間の典礼をとおして、ただかつての出来事を記念するだけではなく、キリスト者のわたしたちが主の跡に従って十字架の道を共にし、復活される主イエスに永遠の都に至ることが出来る恵みを願い求めましょう。
メッセージ - C年 四旬節 |
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリ3,8-9
イエスと出会う前にパウロは、律法に逆らって罪を犯す人が必ず罰せられると考えていました。そして、この罰を恐れて、律法を守るように一生懸命に努力していたわけです。けれども、そのような動機は十分ではありませんでした。時に、律法に逆らう欲望の方が、罰に対する恐れよりも強かったので、この欲望に強いられて、自分の意志に逆らって、罪を犯すことがあったようです。律法は、パウロの罪を現わすことができても、彼をこの罪から守ることができなかったのです。
イエス・キリストと出会うことによって、パウロはまず次のことを知りました。すなわち、神は、その部下に対して横暴を極めている法律制定者のように、人間の現状を考えずにいろいろな掟を押しつけて、それに従わない人を罰するような方ではなく、その子どもを愛している父であり、いろいろな掟によって、幸せと豊かな命に導く善が何であるか、また、不幸と滅びに導く悪が何であるかを教え、私たちを正しい道、つまり幸せと豊かな命に辿り着ける道に導いてくださる方であり、この道からそれる人を罰することによってこの人の苦しみを増すのではなく、正しい道に戻るように励まし、力付ける方であるということです。この事実を知ったパウロは、罰に対する恐れから解放されましたが、パウロを罪の支配から解放したのは、イエスに対する彼の愛なのです。
パウロは、イエスの素晴らしさとイエスの愛の偉大さを知ってから、自らイエスを愛するようになりました。そしてその愛のゆえに、彼は何よりもイエスと共に、イエスの愛に忠実に生きることを求めるようになりました。この望みは、今まで得たものを保ちたいとか、苦しみを避けたいとか、自分の命を守りたいというような望み、つまり多くの場合に罪の原因となっていた望みよりも強いものでしたので、パウロはどんな状況においてもイエスと共に生き、イエスに従うことができました。イエスご自身が、父である神が示してくださった道だけを歩む方ですので、イエスに従うことによってパウロは、永遠の命と最高の幸福に導く道を歩むことができたわけです。
メッセージ - C年 四旬節 |
この日曜日は、四旬節という慎ましい季節の最中でありながらも、節制や回心だけではなくその喜びと希望を思い出させてくれる日です。質素であることと喜ぶことと相反していないのです。何かに向かって準備していくということは、確かに負担や苦労にも伴われ、難しいこともいっぱい我慢しなければなりません。しかし、第1朗読のイスラエル人と同じように「約束された地」を常に念頭に置きながら、今先取りしている喜びをいつか完全に味わうことになるという慰めに支えられています。
聖アウグスティヌスなどが言っていたように、悲しみの原因が自分の過ちと堕落であるとすれば、真の喜びをもたらすのは、罪から立ち上がり、悔い改めることです。第2朗読が4回も繰り返している言葉で言うならば、「和解する」ことがそれなのです。赦していただく必要があることを認めるのに素直さと勇気がなければなりませんが、実は神と和解することはそれほど難しくありません。なぜなら、実は、私たちが先導することではなく、神ご自身が第一歩を踏み出してくださっているからです。
それらのことをよく描いているのは今日の福音朗読です。有名な放蕩息子の物語(譬え話)の1番のポイントは、父親がこの駄目な息子を苦しいほどに待ち続けていた、彼が父の元に立ち戻ろうとするやいなや、準備していた謝りのセリフを唱えさせてもらえる間も無く、まず父ご自身が先に彼の方へ走り寄って、大事な大事な息子を迎え入れる、ということなのではないでしょうか。そこには「権利」や「利益」の論理のために場所がなく、ただただ純粋な恵みが溢れています。つまり、神の恵みをどのようにすれば得られるのかではなく、無償にいただいている祝福をいかにして無駄にしないかが私たちの課題なのです。