メッセージ - C年 四旬節 |
第一朗読:創世記15,5-12.17-18
第一朗読の言葉はヤハゥエスト(J資料)の伝承を伝えている(創15,1-21)。年を取ったアブラムが神の約束通りのことが起こらない(創15,1)という不安を感じている時に、神は彼に再び約束するだけではなく、彼と契約をする(創15,18)。この契約によって神はアブラムに約束の地と子孫を与える(創15,4-6)。変わりに、神はアブラムから何も望んでいない。この種の契約は父と息子のような種類のものである。
第二朗読:フィリピ3,17-4,1
フィリピのキリスト者が信仰を守ることを精一杯続けるようにパウロはこの手紙を書いた(1,27)。フィリピのキリスト教信者にはさまざまな問題があった、そのうち最も危ないものは、あるキリスト者のやり方であった(3,17-19)。というのは、洗礼を授けられた人たちだけれどもキリスト者らしい生活をしていないのである。彼らは宗教的なことよりもこの世の考え方や振る舞いに関心を寄せた。それは危ないことであった。キリスト者の義務は自分の信仰を簡単な生活で証することである。
福音朗読:ルカ9,28b-36
すべての共観福音書には「主の変容」という物語があるが、それぞれ異なる部分がある。マタイによる、「主の変容」の目的はイエスがメシアであるということを表すことである。マルコによる、「主の変容」の目的はメシアの秘密を表すことである。ルカによる、「主の変容」の目的は、イエスが祈りの内に自分の受難について啓示することである。しかし、すべての共観福音書において、最も大切な教えは同じである。それは、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」ということである。イエス自身を証するのは、イエスではなく神ただ一人である。
メッセージ - C年 四旬節 |
聖書は信仰の書です。今日の三つの朗読は、いずれも「神を信じる」ということがテーマになっています。
第一朗読の申命記では、モーセが神への信仰を告白しています。モーセにとって神は、苦境にある自分たちの叫びに耳を傾け、救いの手を差し伸べ、導いてくださる神でした。神に導かれてやってきた約束の地を目前にして、そこで取れる初物を献げるようにと、モーセは民に語りかけます。
第二朗読のローマの教会への手紙では、パウロが宣べ伝えている信仰の言葉を伝えています。それは、イエスが主であり、神がイエスを死者の中から復活させられた、ということであり、それを口で公に言い表し、心で信じるなら救われる、と言われています。
ルカによる福音では、荒れ野でイエスが悪魔から誘惑を受けられた話が語られます。食べ物・権力と繁栄・身の安全をちらつかせる悪魔に対し、イエスはただ主なる神に信頼することを選びます。
私たちにとって、主を信じる、神を信じるとはどういうことでしょうか。自分が信じている方は、どういう方でしょうか。表面的に、個人的に益となること、楽なことを信じるのは聖書的ではありません。モーセは荒れ野の厳しい旅の中で神に信頼し続けました。パウロは、十字架につけられて死にいたらされた方の復活こそ救いにつながると力強く語ります。イエスご自身も荒れ野の試練の中で、何か与えられるからではなく、神が神であるからと、悪魔ではなく神の言葉に信頼します。そしてそのイエスの父である神への信頼は、この四旬節に私たちが思い起こす、十字架に示されています。
メッセージ - C年 年間 |
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ルカ6,45
誰しも、ゆるしの秘跡を受ける際に、または、他の機会に、自分の生き方を正す決心、つまり、悪い行いを止めて、良いことをする決心をしたことがあるのではないかと思います。そうだったならば、この決心を実現して、自分の生き方を本当に正すことができたでしょうか。おそらく、しばらくの間は、前よりも正しく生きることができたとしても、結果的に前の生き方、前の過ちや罪や怠りに、戻ってしまったのではないでしょうか。
イエス・キリストが教えてくださる通りに、本当の問題、つまり正しくない生き方の真の原因は、人間の心の中にあるのです。それは多くの場合、私たちが意識していない欲望、他の人や自分自身や神に対する非現実的な期待、また、根拠のない期待、間違った価値観やいろいろな執着、過去に負わされた心の傷などです。私たちが、自分の生き方を正すように強く決心して、全力を尽くしてこの決心を実行しようとしても、心の中にある原因自体が残っている限り、私たちの努力は空しくて、残念ながら失敗することに決まっているのです。
自分の生き方を正すために、罪やいろいろな過ちを犯さないように注意すること、努力することが大事ですが、同時に自分の心を知るように努力することも不可欠なのです。そのために、過ちであったとか、罪であったと思う行動を通して、自分が何を得ようとしていたのか、この行動の動機や原動力は何であったか、自分が何の感情に動かされたか、この感情は、何の期待や欲望を現しているかというような質問に対する答えを、自分の中で探究する必要があります。このようにして、自分の罪や過ちの原因を見つけたら、ただちにそれを意識的に手放すように努力する必要があるのです。
また、自分の「心の倉」から悪いものを捨てるだけではなく、「心の倉」に良いものを入れる必要もあります。最終的に正しい生き方とは、自分の努力の結果というよりも、神の働きの結果ですので、祈りをすることや神の言葉に耳を傾けること、また、自分にできることは何でも積極的にすることによって、何よりも神の働きに心を開くようにする必要があるのです。
メッセージ - C年 年間 |
第一朗読のダビデの物語は大変感慨深いものです。自分を追い回って殺そうとする相手に報復する絶好の機会が与えられても、ダビデはサウルを殺すことを拒みました。「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」というのがダビデの理由です。ダビデは単に神からの罰を避けるためにサウルへの報復をしなかったのでしょう。決してそうではありません。自分を敵対した人であっても、ダビデはサウルの死を望んでいませんでした。「今日、主は私の手にあなたを渡されましたが、主が油注がれた方に手をかけることを私は望みませんでした」と。そしてその後、アマレク人との戦いで戦死したサウルの訃報を聞いたダビデは、サウルのことを「麗しき者」と呼び、サウルとその息子ヨナタンの死を大いに悲しみました。
ダビデがサウルに取った態度は、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉そのままです。イエスご自身も「敵を愛しなさい」ということを教えるだけではなく、生き方を持って模範を示しています。自分を十字架に掛けた人々のために、「父よ、彼らをゆるしてください。自分は何をしているのか分からないからです」。イエスが教える「愛の掟」は言葉ではなく、生き様です。そして、愛の実践の最も見える形、しかし同時に最も難しいのは「ゆるし」だということは、誰にでも日常生活の中で経験しているのではないでしょうか。
私たちは、「やられるとやり返す」ということが常識になっているような社会の中に生きています。国レベルでも、個人のレベルでも。しかし、これが世の中の基準となっていけば、世界に争いが後を立たなくなってしまいます。憎しみの連鎖を止めるのはゆるし以外に他にはないです。イエスの十字架はまさに憎しみをゆるしの力で自分の中に吸収して、愛に変えることではないでしょうか。
これは決して綺麗事ではありません。最初の人間、アダムの子孫カインは嫉妬によってその兄弟アベルを殺しました。しかし、パウロが言うように、私たちは土からできたアダムの似姿だけではなく、天に属するキリストの似姿にもなれるのです。人間は人を憎むこともできるが、同時に無条件に人をゆるすこともできます。人間はやられるとやり返す気持ちが湧いてくる、自分の頬を打つものにもう一方の頬を向けさせる力も備えられています。
メッセージ - C年 年間 |
今日の福音朗読はそのまま先週の朗読の続きです。イエスのメシア的な使命についての考察です。福音書全体にも見られるパターンだと言っても良いのですが、預言者や神から大事な役割を任された人々はまず自分の故郷から活動し始めるのが普通です。それから、最も親しい人を相手にすればするほど、断られたり使命が失敗で終わったり可能性が高いということも言えます。他方で、人間的な考え方に囚われてしまえばどうなるかというと、人々に受け入れてもらえるべく、厳しいお知らせを和らげて、人が聞きたそうな話をするという危険、傾向も考えられます。
イエスもまず育った故郷ナザレから神の言葉を告げる活動を始めます。いかにも人間らしく、その話を聞いた人々は(実は既に近くのカファルナウムという街でイエスが行なった癒しのことが耳に入ったようなので)、説教などは聞きたくなく、自分たちも奇跡が見たいと思っていました。イエスの語り始めた最初の頃の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」と「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し[た]」という言葉の断絶の著しさに驚かされます。イエスのエルサレムへの入城の時にもまた繰り返される現象ですが、やはり、人間の心は非常に変わりやすいものです。しかし、イエスはそれに負けず、人々の好みに流されてしまうようなことはしません。
イエスのような「預言者以上の使命」だけではなく、私たち一人ひとりには神から与えられた使命というものがあります。生まれる前から神によって特別な任命を受けます(第1朗読)。それらは似ても似つかぬもので、一つひとつ掛け替えのない役割であって、誰も代わりに果たすことができないのかもしれません。だからこそ、価値の優劣もありません。皆等しく、自分のミッションを誠実に成功させることに苦労しますし、周りの人々の支えがあれば嬉しいのですが、残念ながらそんなことは稀です。むしろ、みんなが知っているこの「ただの大工の息子」として知られている人は神の使者であり得るなんて想像できず受け止めることができないのと同じ、あるいは似たような経験をするに違いありません。
間に挟まれている第2朗読は無関係にも見えなくありませんが、実はどの使命よりも大事な使命、また、神から課され神のために成し遂げられる全ての役割に共通している本質について書かれています。それは愛に他なりません。預言する人や奇跡を行う人よりも、愛を実践している私たち一人ひとりの方が、目立たなくても、実はずっと優れているのだ、ということを強調しています。