メッセージ - C年 待降節

第一朗読 ミカ5:1-4a

第二朗読 ヘブ10:5-10

福音朗読 ルカ1:39-45

「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」。マリアはエリサベトに挨拶しましたが、どのような言葉で声をかけたのでしょうか。ルカはそれについて何も伝えていません。その代わりに、ルカが伝えているのは、その挨拶を聞いたエリサベトの中に起こったことです。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」。それはエリサベトが分かるぐらい、喜びのおどりでした。「あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」。

エリサベトの胎内に喜びおどったのは、やがてイエスの到来を準備する洗礼者ヨハネです。母エリサベトの胎内にいた洗礼者ヨハネはマリアの挨拶の声に反応しました。それは、マリアの胎内にイエスが宿っているからです。マリアの胎内にいるイエスの存在は人と人との関係を変えていくのです。マリアの胎内にいるイエスは、マリアとエリサベトの関係を親類以上の関係、すなわち信仰によるつながりという次元に高めてくれるのです。マリアの胎内にいるイエスは、エリサベトとその胎内の子の関係を親子以上の関係、すなわち救いの希望の実現を共に賛美する共同体として結んでくれるのです。マリアの胎内にいるイエスは、その到来を準備するヨハネを愛によってへりくだる喜びで満たしてくれるのです。

第一朗読のミカの預言にあるように、マリアの胎内にいて、エフラタのベトレヘムで生まれる「彼は立って、群れを養う。…。彼こそ、まさしく平和である」。イエスが私の内にいるならば、私は平和の道具となれるのです。マリア様のように、イエスが私の中に生まれるならば、私は人と人との繋がりをより高い次元に結ぶ道具となることができるのです。

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メッセージ - C年 待降節

テーマ :主は人を守る

第一朗読:ゼファニヤ3, 14-17

ゼファニヤはユダ王国のヨシヤ王の時代(紀元前641-609)に、預言者として宗教 的な活動を行った。紀元前7世紀からユダ王国はアシリヤ帝国の属州であったので、 この王国の社会、政治、宗教は改革が必要になっていた。ヨシヤ王にこれらの改革 をさせるために、ゼファニヤは活動した。特に、宗教的な改革をするようにゼファ ニヤは強く預言した。この予言には二つの部分があった。最初の部分(大きな部分 )は脅迫であった(1, 2-3, 8)。最後の部分(短い部分)は慰めである (3, 9-20)。第一朗読の言葉はユダ王国の将来についての慰めの預言である。

第二朗読:フィリピ4, 4-7

フィリピの信徒への手紙は、パウロが逮捕された時に書かれた書物である。一般的 に、それはローマの刑務所で生活していた時(紀元後59-61年)だと思われている 。しかし、この手紙の内容は明るい。信仰が強いパウロは自分がイエスを信頼して 神に感謝するのではなく、信者がいつも彼と同じことをするように第二朗読の言葉 の中で命じた。

福音朗読:ルカ3, 10-18

洗礼者ヨハネは、人々が自分の考え方と生活を直せるように、さまざまな役に立つ 教えをした(3, 10-14.18)。民衆は洗礼者ヨハネの教えを理解することができた(3, 15)。しかし、人間の心を直すためには完全な社会の制度を作ることが不足し ているということをヨハネは理解したので、聖霊の力を人間に与えられるイエスの ことを述べ伝えた(3, 16‐17)。

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本の紹介 - 本の紹介

このたび、日本聖書協会から新しい翻訳の日本語聖書、「聖書協会共同訳」が刊行されました。1987年に日本初のプロテスタント・カトリックの共同訳である「新共同訳」が発行されてから長い年月が経過しており、その改善を望む声に応えて出されたものです。

この翻訳は新共同訳と同じくプロテスタント・カトリック共同で行われましたが、その方針は新たに「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す」とされ、その実現のために原語担当者と日本語担当者が協力して訳文の作成に当たりました。

その他、新翻訳聖書事業についての情報は、日本聖書協会のウェブサイトにて見ることができます。翻訳事業の経緯や重要な訳語の変更、聖書協会共同訳の特徴など、詳細についての冊子、『聖書 聖書協会共同訳について』『聖書 聖書協会共同訳(特徴と実例)』のPDF版もあります。どうぞご覧ください。

また聖書協会共同訳聖書はすでに発売されており、全国の取り扱い書店、オンライン書店で購入できます。

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メッセージ - C年 待降節

今年も待降節をもって新しい典礼暦年が始まりました。典礼暦年の中での待降節の位置づけについて『典礼暦年と典礼暦に関する一般原則39』は次のように述べています。

「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」

二つの意味をもつため、待降節は二つの部分に分けられます。前半は待降節のはじめから16日までです。この間で、選ばれる毎日の聖書朗読の内容は終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向けるのです。後半は17日から24日に至る週日は、いっそう直接に主の降誕の準備に向けられています。

第一朗読では、バルク預言者は様々な困難や悲しみに沈んでいる民に希望に満ちたお知らせを告げました。神の輝きは民を照らし、悲しみを喜びへと変えてくださいます。この文脈では、当時、他国で圧迫されていた民にとってこの喜びというのは、神ご自身が必ず敵を征服し、選ばれた民を再び故郷に帰還させてくださるという最大の希望です。

福音朗読ではこの待降節の第二主日になると、いつも先駆者として洗礼者ヨハネが登場します。主の日が必ず来ます。また神の栄光は輝き出ます。人々は皆、神の救いを仰ぎ見る日が来ます。しかし、その備えとしてヨハネは民全体を招きます。つまり皆は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」よう招かれています。

その意味で、神が自らご自身の民のところに、またわたしたちの一人ひとりの心に、それぞれの家族や共同体に来ようとしてます。主は民の中に住まわれたいのです。しかし、主が来られるかどうかは心の道のあるか、ないかにかかっています。そうすると、この待降節で誰が誰を待ち望んでいるでしょうか。人間の我々は主が来られるのを待つどころか、それとも、主ご自身は人間が自ら喜んで主を中に受け入れる時を待っている、とも言えるでしょう。ここで、聖書の言葉を思い出します。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者 があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(黙示録3,20-21)。

主は遠くにおられるのではなく、わたしたちの戸口に立て待ておられるのです。

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メッセージ - C年 待降節

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」ルカ21,34

人間は、愛である神に象って、神との愛の交わりに生きるために創造されていますので、いくら努力しても、たとえ全世界を手に入れたとしても、この世のもので自分の心の飢え渇きを満たすことはできません。この世のものが満たすことのできない望みは、人間の偉大さを表していると同時に、人間にとって大きな苦しみの原因にもなっているのです。

この苦しみの原因を知らずに、心の飢え渇きを満たすことのできる方を知らない人たちは、この苦しみを少しでも和らげるために、自分の力によって満たすことのできる望みや欲望を、全力を尽くして満たそうとしていることがよくあるようです。確かに、そのような小さな望みや欲望を満たした瞬間ですらも、人間は喜びや満足感を味わいますので、暫くの間安らぎを楽しむことができます。けれども、最初はより簡単に満たすことのできた望みや欲望も段々大きくなるし、それにますます強く左右されてしまうようになります。また、イエスが言われた通りに、この人の心は段々と鈍くなります。

心の鈍くなった人は、心の飢え渇きを満たすことのできる方と出会う時、この方が自分にとって危険な存在であると思ったりするため、この方を喜んで受け入れる代わりに、怖くなって、この方を攻撃するか、この方から逃げてしまいます。こうして、せっかくのチャンスを無駄にしてしまうわけです

イエスこそが、私たちの心の飢え渇きを満たすことのできる方であると信じる私たちは、心が鈍くならないように罪を避けて、いつも目覚め、つまりイエスから与えられた使命を果たしながら、大きな希望の内にイエスを待ち望んで、いつでもイエスを喜んで迎え入れることができますように祈りましょう。