メッセージ - A年 年間

「主よ、助けてください」という病気の娘を持つ女の切実な願いに対して、イエスは「子供達のパンをとって子犬にやってはいけない」と答えました。イエスが彼女の願いを拒否したのは、彼女がイスラエル人ではなく、カナン人だからです。このようなやり取りを聞くと、イエスは女を差別したと言われても仕方がありません。しかし、イエスは意図的に彼女を差別しようとしたのか。決してそうではありません。

マタイ福音書全体のコンテキストの中でこの話を読むと、そこにはイスラエルから始まる救いが最終的にすべての人に広がっていくというマタイの思想が反映されていることが分かります。マタイ福音書において、アブラハムの子ダビデの子であるイエスが最後に天にあげられる前に弟子達に命じたのは、全世界に行って、すべての人に福音を述べ伝えることです。このようなマタイのコンテキストの中でカナンの女の物語を読むと、そこにはイエスがもたらす救いが「イスラエル」という地域的・限定的な範囲からすべての人に及ぶ普遍的なものとして広がっていくプロセスが分かります。

神はイスラエルの人々だけではなく、すべての人の救いを望んでおられることは第一朗読のイザヤの言葉、及び第二朗朗読のパウロの言葉で明確になっています。パウロは、ユダヤ人と異邦人に及ぶ救いの普遍性は神の憐れみと慈しみによるものであることを強調しています。つまり、すべての人の救いは神の業であり、神がすべての人を救うためにイニシアチブをとっています。パウロは、人の不従順でさえも、人々を救う神の憐れみが示されるためだと語っています。

しかし、神による救いの呼びかけは人の応答を求めています。つまり、人は不従順のままにはいられません。イザヤは神の憐れみの業に対する人々の具体的な行動について語っています。「正義を守り、恵みの業を行う」ことが求められています。神に対する信仰が求められているということです。

その意味で、カナンの女の願いに対するイエスの否定的な返事は結果的に彼女の揺るぎない信仰を示すことになります。イエスは彼女の信仰に感心しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。しかし、イエスが彼女の娘が癒されるのは他でもなく、神の憐れみによるものだということは彼女の言葉から明確になっています。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」。彼女がイエスに示す信仰は、神の憐れみに対する応答に他なりません。

私たちも皆、神の憐れみによって「今」ここで生きています。信頼を持って全てを委ねるカナンの女のような揺るぎない信仰で応えることが出来ますように。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読(マタイ14:22-33)は、イエスが湖の上を歩く、という奇跡の箇所です。イエスは弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に先に行かせました。ところが舟は嵐に遭い、弟子たちは波に悩まされ。そこに湖の上を歩いてイエスが近づくと、彼らは「幽霊だ」と恐怖のあまり叫び声をあげました。しかし、イエスが「安心しなさい。わたしだ」と呼びかけ、舟に乗り込むと風が静まった、という話です。

この話の途中には、ペトロが自分も水の上を歩いて湖上のイエスに近づかせてほしい、と望むエピソードが挿入されています。ペトロは水の上を歩くことができましたが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけます。イエスはペトロに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いました。

実際にこれらのことがすべて文字通りに起こったかどうかはともかく、弟子たちが困難や恐れをどう乗り越えるかが描かれたお話です。湖で波風におそわれたとき、弟子たちが頼るべきは、嵐に翻弄される舟ではなくて、嵐の湖にまったく影響されていないイエスでした。初めは目の前にいるイエスのことがわからずに恐怖が積み重なっていきましたが、イエスを舟に迎え入れると風が静まりました。イエスへの信頼よりも強風への恐れが強くなったときにペトロが沈み始めた、というのも印象的です。

私たちも日々生きていく中で波風に打たれ、嵐に襲われるとき、恐れや不安が生じるのは当然です。うまくいかない、もうだめかもしれない、そう感じることもあります。けれども、その波に飲み込まれないようにするためには、その困難や不安を生み出している世の中の「あたりまえ」を越えたところに私たちの信頼を置くしかありません。私にとって、イエスはそれに足る方でしょうか。この世界の価値観をこえた大切な真理があると信じ切ることができているでしょうか。

 
メッセージ - A年 年間

日々忙しく慌しい生活をしている私たちは、やはり一週間に一度ぐらいは、ゆっくり体も心も休ませる時間が欲しいと思います。そのために、多くの人は日曜日を休みの日として取っています。その一日にしっかり休みを取れば取るほど力を溜め、エネルギーを得ることができると思っています。しかし、よく考えて見れば、日曜日にしっかり休みを取るからと言って、必ず力を溜め、エネルギーを得ることができるとは限りません。なぜなら、エネルギーや活力、健康や意思は人間の作るものではなく、全ては恵みの源である神から与えられるものだからです。

「休日」とは英語で、Holidayと表します。Holy-Dayそれは「聖なる日」なのです。キリスト教はイエス・キリストが復活した日曜日を「聖なる日」としてミサを捧げます。また、「休暇」とは英語で、Vacationと表します。このVacationの動詞は、Vacateと言い、それは「空にする」という意味です。つまり、休暇の楽しみRecreationRe-Create(再び創造する)」となります。本来、休息とは、心を空にして、新しく創造される聖なる日なのです。

教会は、ミサや交わりを通して、疲れきった心を空にして神様の霊を吸い込み新しく創造される場なのです。きょうの福音(マタイ171-9)によると、日々の宣教活動のため疲れ切っているペトロたちを見たイエスは、すぐに高いタボル山に連れて行かれたのです。この聖なる山で主イエスはペトロたちに神の栄光を表し、生きるエネルギーを授けてくださったのです。喜びに満たされたペトロはイエスに、「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。」と告白しました。このペトロの信仰告白を別の言葉で表現すれば、「主よ、この聖なる場所に連れて来てくださったことを感謝します。この場所であなたの栄光を体験し、疲れきった心に満ち溢れる恵みを授けてくださったことを感謝致します。本当に、今まであなたに従って来たこの人生は無駄ではありません。」と言えるでしょう。

教会はある意味で現代のタボル山です。私たちはイエス様に招かれ、特別に選ばれて、教会まで連れてきていただいた者です。教会で、主イエスは、私たちに神の栄光を示し、ご聖体を通してエネルギーを授けて下さるのです。是非、きょうのペトロの信仰告白をいつも自分のことばとして、主の前で「主よ、この素晴らしい場所に連れて来てくださったことを、感謝致します。この場であなたと出会って、本当に幸せです。ミサに与ることによって、あなたの栄光を体験し、ご聖体を頂くことによって、エネルギーを得て、生きる希望に満たされました。どうぞ、主よ、いつもこの場所に連れて来てください。」アーメン

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音箇所は、天の国、つまりは神の国とはどのようなものであるかを語っているたとえ話です。この箇所では三つのたとえ話が出てきますが、特に最初の二つの「畑に隠された宝」と「高価な真珠」の話についてよく教えられるのは、解釈が一つではないということです。では、どういった解釈が出来るのかを見ていきましょう。

この箇所を普通に読んでいくと、隠されている宝や高価な真珠というものが、天の国、あるいはイエス自身であって、それを手に入れるためなら、自分の持っている全てを投げうっても構わない程の価値があるのだ、と解釈することが出来ます。とても直接的なメッセージの受け取り方ですが、これはこれで、その通りだな、と思える解釈だと思います。

もう一つ、別の解釈をするならば、この「宝」や「真珠」が、私たち一人ひとりの人間であると考えることもできます。今日読んだ箇所のもう一つのたとえである「漁」の話では、魚を集めている漁師が、良いものと悪いものを分けていますが、この話の中の漁師とは、神自身だと考える方が自然です。そうすると、この箇所の三つのたとえ話は、一貫して、買い求める、探し求める人が神であり、求められている宝や真珠、魚といった存在が私たち人間の方であるのだと読むこともできるわけです。今日の福音は、天の国がどういうものかを説明している箇所ですので、受け取り方によって、天の国は「非常に価値あるもの」、「全てを投げうっても手に入れるべきもの」と理解することも出来ますし、あるいは「全ての人間一人ひとりを招いている場所」なのだ、と考えることもできるのです。どちらの解釈も正しいと言えるでしょうが、個人的には、神自身が私たち全ての人間を招いている、求めているのが天の国である、という後者の考え方の方が好きですね。一人ひとりの人間というのは、神に求められるほどに価値のある、宝のような存在であるわけです。

それでは、求められている存在の私たち自身は、その神からの招き、呼びかけにどう応答しているでしょうか、応答すべきでしょうか。それぞれ生き方が異なる中で、自分としてどのように神に応えていくことが出来るか、私たちは、天の国がどういうものであるかを理解すると同時に、この点についても、しっかりと考え、日々の生活において実践していくことが肝要です。イエスが語るメッセージを様々な解釈で受け取りつつも、そのメッセージに対して、自分はどうしていくべきなのか、そこを考えることは、いつも大切であるのです。

 
メッセージ - A年 年間

今日、私達は年間第16主日を迎えました。今日の御言葉では「忍耐」について深く描かれています。「忍耐」についてマタイ福音書で、イエス様は毒麦の例え話を使って、神様の忍耐力を表して下さっています。福音書では次のように書かれています。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」毒麦を抜かないで、そのまま刈り入れまで生かしておく様は、神様の忍耐強さを表しているようです。

世を裁くその時まで、神様は罪人も、正しい人も平等に忍耐強く見守ります。すぐに悪人を裁かないのは、神様が罪人に対して悔い改める機会を与えているとも取れます。つまり、神様は広い愛の視点から人間をとらえて下さっているのです。

しかし、弱い人間である私たちは人生や生活の中で、しばしば忍耐力を試されることがあります。人間関係、自身の健康、家族や仕事のことなどです。毒麦の例えにあるように「世の終わりまで」、つまり神様目線で問題に耐え抜くことは、私たち人間にとって容易なことではありません。時には少し短気になってしまって、愚痴や文句が私たちの口から洩(も)れてしまうこともあるでしょう。

今日の御言葉に目を向けてみましょう。神様は最後の最後まで、黙って善悪を見守りました。私たちも、直面する困難をじっと耐え忍ぶことができるように、神様に願いましょう。どうか、裁きの時が来たら、私たちが正しい者として神様の前に立たせていただけますように。