メッセージ - C年 年間

 

「イエスは言われた。『あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。』と。」

(ルカ9章20節)

イエス様は、御自分の弟子たちと群衆に問いかけた質問を各時代の信じる人と信じない人々に問い続けています。今も私たちに「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」と尋ねているでしょう。福音の人々の答は様々でした。群衆はイエス様を一人の預言者として見なしていました。それは不充分でした。使徒ペトロは、「神からのメシアです。」と言って正しく応えました。しかし、使徒ペトロでさえ、キリストを知っていても、彼の使命を理解することができなかったために、後、キリストを裏切ることになりました。

キリストの死と復活によって救いの業の証人である十二使徒が私たちに信条を残し、教会は洗礼の約束として用います。御ミサの時にも共に正しく、キリストは、「まことの神よりまことの神」と告白します。それにもかかわらず、わたしたちは、地方の信心や個人的な偏見によって、キリストに対する信じる心は異なり、キリスト自身を信じるのではなく、キリストについて自分のイメージという偶像を崇拝するのであります。ある信者にとってキリストは馬小屋で産まれた可愛いらしい小さな子、他の信者にとってキリストは無罪なのに受難を受けたかわいそうな方だと思い、同情するために教会に来ます。また他の信者たちは、キリストが復活した罪人の審判者だと思い、地獄に堕いないように御ミサの「努め」を果たしています。偏(かたよ)ったキリストについてイメージを持つ信者は、イエス様の愛と救いを感じ取ることも生きることもできません。

結果として、キリストよりも、仕事、クラブや遊びなどが優先され、神様のために余った時間だけをささげる消極的に御ミサに参加する信者が増えています。すなわち、いつも遅れて来る人、御ミサの時に教会の敷地に来ても聖堂に入らないでメールを送ったり、煙草をすったり、遊んだりする人、聖堂の中に入っても、度々メール交信をしたりする人、聖堂内でおしゃべりをしたりする人、聖歌も祈りもささげない人、御聖体を丁寧に受けていない人、派遣の祝福無しに私用のために早く帰る人などを、イエス様は見て、尋ねています。『あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。』と。

イエス様をまことの神であり、わたしたちの一人ひとりの神であると信じる者が、福音の中で書かれているように、キリストの愛に応えて、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってキリストに従い、同じ愛を持ってキリストのために命を失っても、救われるのです。」 (ルカ9章23-24節参照)

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ7・36-8・3


36〔そのとき、〕あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37この町に一人の罪深 い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38後ろからイエスの足もとに 近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見 て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40そこで、イエスがその人に向かっ て、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41イエスはお話しになった。「ある金貸 しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳 消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエ スは、「そのとおりだ」と言われた。44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは 足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたし が入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47だか ら、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」48そして、 イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50イエスは女に、 「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。2悪霊を追い出して病気を いやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それに スサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :悔い改めることの源

第一朗読:サムエル下12,7-10.13

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。 (2Sa 12:13 JAS)

第二朗読:ガラテヤ2,16.19-21

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。 (Gal 2:19 JAS)

福音朗読:ルカ7,36-8,3

だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」 (Luk 7:47 JAS)

 
メッセージ - C年 年間

「イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。ルカ 7:48-50

 

恐らく、どんな人でも自分が良い人であると他の人に思ってもらいたいし、何よりも、自分自身が自分のことをこのように考えたいのではないかと思います。けれども、良い人とは、どんな人なのでしょうか。

恐らく、多くの人にとって良い人とは、ファリサイ派のシモンが考えたように、悪いことをせずに、正しく生きる人、もっと具体的には、他人に害を与えない人、法律や他の決まりを守る人ではないかと思います。このように考えている人々は、人の行いを基準にして人を評価するわけですので、自分たちのように「良い人」になっていない人を批判したり、軽視したり、差別したりすることがあります。多くの場合、それは、傲慢の現れになっていますが、時に、それは、自分の「良さ」に対する疑問や不安を現すものにもなっています。自分よりも大きな悪を行っている人を批判したり、差別したりすることによって、自分の「良さ」を強調して、自信を付けようとしているわけです。

イエス・キリストは、ご自分の言葉と生き方によって教えてくださったように良い人とは、悪いことをしないだけではなく、他人のために善いことをする人、つまり愛に生きる人なのです。その意味での正しい生活は、人間の努力の結果ではなく、愛そのものである神、と同時に真の愛の源である神との正しい関係の結果なのです。

真に良い人になるために、他の人に害を与えないだけではなく、他人のために善を行うように全力を尽くす必要がありますが、同時に、自分の限界、また場合によって自分が悪かったことや正しい生き方を妨げる自分の執着、不安、恐れなどのような束縛を認めたうえで、父である神に心を開き、神の無条件の愛と共に、神ご自身を自分の人生に受け入れなければならないのです。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ7・11-17
11〔そのとき、〕 イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そば に付き添っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人 たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその 母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と 言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。