メッセージ - B年 復活節

テーマ: 「あなたがたに平和があるように」

復活したキリストは御自分の弟子達に現れる度に、「あなたがたに平和があるように」と繰り返して挨拶します。「こんにちは」というような挨拶は、イスラエルの地域で、「シャローム(あなたに平和を)」と言う習慣があります。ところで、イエス様が言う「シャローム」とは、言葉の意味を考えない社会礼儀として用いるものではない、と福音の中で強調されています。それは、キリストは人の心の平和のために命を献げて、ご復活の勝利によって与えられるものだと言います。

本日の福音では、キリストの平和を生きるために幾つかの手段が教えられています。

復活したキリストが弟子達の真ん中に立ったということは、どんな人間共同体(家庭、教会、社会)も、キリストを中心にして生きる必要性があるということを促しています。

キリストが受難によって受けた手と脇腹の傷を弟子達に見せたということは、我々の一人ひとりがキリストによって死に至るまでに愛されたことを知り、秘跡の中でキリストの過越の神秘に与る大切さを教えています。

キリストが弟子達に息を吹きかけて神の霊を与えたことは、私達がキリストの心を持って神様の愛を実践していくことに遣わされていることを現します。

キリストが弟子達に罪を赦す権能を与えになったことは、私達が神に赦されて、人を赦すように召されているということを示します。

これを信じて実行するすべての人は、キリストの御復活による真の平和で満たされることでしょう。

 
主日の朗読聖書 - B年 祭祝日

ヨハ20,1-9

(1)週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(2)そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(3)そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。(4)二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。(5)身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。(6)続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。(7)イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。(8)それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。(9)イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである

 
主日の朗読聖書 - B年 祭祝日

テーマ: イエスは死者から復活された

第一朗読:     使徒10,34a.37-43

しかし、 神はこのイエスを三日目によみがえらせ、 現れさせてくださいました。 (使徒10:40 JAS)

第二朗読:     コロサイ3,1-4

こういうわけで、 もしあなたがたが、 キリストとともによみがえらされたのなら、 上にあるものを求めなさい。 そこにはキリストが、 神の右に座を占めておられます。 (コロ 3:1 JAS)

福音朗読:     ヨハネ20,1-9

彼らは、 イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、 まだ理解していなかったのである。 (ヨハ 20:9 JAS)

 
釈義 - B年 祭祝日

第一朗読(使徒言行録10・34a,37-43)では、ペトロが力強く、ナザレのイエスこそ神によって油注がれた者であり、生涯の癒しの活動の結果、木にかけられて殺されたが、三日目に復活された後、弟子たちに現れたことと、このイエスを信ずる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられることを証ししている。第二朗読(1コリント5・6b-8)では、パウロが「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」と呼びかけている。祝福と呪いの古い契約にもと付く自力達成としての誤った意味での自己実現ではなく、父なる神の子イエス・キリストがわたしたちの過越の子羊として屠られたことを祝うのである。福音書(ヨハネ20・1-9)では、残念ながら、ペトロもイエスが愛しておられたもう一人の弟子も、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記されている。墓は空っぽであったが、しかし、二人を含む多くの弟子たちにやがて、復活されたイエスが現れるとき、彼らは師イエス・キリストの生涯の教えと癒しの活動・その必然的帰結としての受難・処刑死(十字架上の)・復活を通して、父なる神の深い慈愛と救いの意志を理解したことであろう。そしてその復活の福音は信ずるすべての人々へ開かれているのである。

 
メッセージ - B年 祭祝日

 

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロ 3:1-2

 

使徒たちの中で、ゼベダイの子ヨハネと思われる「イエスが愛しておられたもう一人」の弟子だけが最後まで、つまり十字架のもとまでイエスに従いました。そのことができたのは、他の使徒よりもイエスを強く愛していたからでしょう。苦しみを受ける恐れや命を失う恐れを乗り越えるために必要な力をもたらした、イエスに対するこの大きな愛のゆえに、ヨハネはキリストの死のために他の使徒よりも深く悲しんだのではないかと思います。

そんなヨハネにとってイエスの復活は、どんな意義をもったのでしょうか。恐らく、それは何かの宗教的や神学的なことよりも、もう絶対に会うことの出来ないと思われた一番親しい人、自分の命よりも大切な友との再会が可能になったということだったのではないかと思います。復活されたイエスと出会ったヨハネはどんなに喜んだのでしょうか。

そしてそれよりも、素晴らしいことがありました。普段はどんなに深い友情であっても、どんなに美しい愛であっても、それには必ず終わりがあります。しかし、復活されたキリストはもう一度死ぬことがありませんので、いつまでもヨハネと共にいることが出来ます。それはもう何も、死さえもイエスと再会したヨハネを、イエスから引き離すことが出来ないということになるわけです。愛する人にとってそれ以上素晴らしいこと、それ以上喜ばしいことがあるのでしょうか。

イエスを信じるとは、イエスを愛することであって、イエスと永遠の絆で結ばれることなのです。この人は、ヨハネと数え切れないほど多くのキリスト者と共に、聖パウロの次の言葉を述べることが出来ます。すなわち、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)これこそ永遠の命であり、最高の幸福と喜びなのです。