メッセージ - C年 年間

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」ルカ 9:51

人類の歴史を見ると、殆どの権力者は手に入れた権力を弱い人や完全に無力な人々の益のために用いるのではなく、自分自身や自分の仲間の利益のために用いているということが分かります。また、何らかの悪事を行ったためではなく、権力者に逆らったために罰せられることは、珍しくないでしょう。

以上の経験に基づいて、多くの人は、最高の支配者、最高の権力者である神がこの地上の多くの支配者や権力者と同じように振る舞っておられると思い込んでいるようです。イエスを歓迎しなかったサマリア人を滅ぼし、復讐しようとしていたイエスの弟子たちは、きっと、このように考えていたでしょう。

天から来られた方として、神のことを完全に知っておられたイエスは、多くの人々が想像している神とまったく異なる神を、ご自分の言葉と行いによって現してくださいました。弟子たちに復讐することを禁じることによってイエスが教えてくださったのは、神がご自分に逆らう人々に絶対に罰を与えないし、復讐もしないということなのです。「エルサレムに向かう決意を固められた」ことによって、神についてのさらに素晴らしいことを現してくださいます。

イエス・キリストがご自分に対して敵意を持って、ご自分を殺そうとした権力者が大勢いるエルサレムに行かれたのは、この人たちを滅ぼすためではなく、この人たちにも神の愛を現し、回心へと呼びかけ、神との愛の交わりに招くためなのです。確かに、イエスは、権力者たちがご自分の証しを受け入れないこと、ご自分の呼びかけと招きに応える代わりに、ご自分を殺してしまうことを知っておられました。それにもかかわらず、エルサレムに行くことにされたのは、苦しみを避けたい、ご自分の命を守りたいというような望みよりも、彼らにも神の愛を現したい、彼らを神のもとに導きたいという望みの方が強かったからです。その意味で、エルサレムに行くことは、ご自分に対して敵意を持っていた人に対する真の愛の表現であったとともに、すべての人々に対する神の愛を現す行動でもあったのです。

神の意志に逆らって、罪を犯した人間を愛し続け、大きな悪事を行い、他の人と神ご自身を傷付けた人の救いを求めて、いつも和解と愛の交わりへと招いておられる神に信頼する人、この招きに応える人がますます増え、神の国が発展していきますように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ9・18-24


18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律 法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、 日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのであ

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

第一朗読:ゼカリヤ12,10-11;13,1

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。 (Zec 12:10 JAS)

第二朗読:ガラテヤ3,26-29

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。 (Gal 3:26 JAS)

福音朗読:ルカ9,18-24

イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」 (Luk 9:20 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ : キリスト

第一朗読:ゼカリヤ12,10-11;13,1

第一朗読の言葉はゼカリヤ書の第二部分(ゼカリヤ9-14)終末論的な教えに関する言葉です。紀元前4世紀に書かれた言葉は「刺し貫いた者」についての預言です。預言者が誰についてこの預言をしたかがよく分かりませんが新約聖書の中では「刺し貫いた者」はイエスです(ヨハ7、37-39;19、34.37)。

第二朗読:ガラテヤ3,26-29

第二朗読の言葉は「律法と信仰」に関する問題(ガラ3,1-4、20)についてのパウロの論戦の中の一つの議論です。パウロによれば人間は信仰による義を強いられます(ガラ3、24)。信仰によって義と認められたすべての信者たち(ユダヤ人だけではなく異邦人にも)はイエスの業おかげで神の子供になりました。

福音朗読:ルカ9,18-24

イエスについて人々の意見は異なっていました(ルカ9、18-19)。イエスの弟子たちの中でペトロがイエスの質問に正しい答えをしました(ルカ9、20-21)。しかし、質問に正しい答えを出すこととイエス自身を正しく理解できることは同じことではありません。だから、神のメシヤであるイエスが人間として(人の子として)受難を受けます(ルカ9、22)。弟子たちはこのイエスの説明を復活際まで理解できませんでした。

 
メッセージ - C年 年間

 

「イエスは言われた。『あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。』と。」

(ルカ9章20節)

イエス様は、御自分の弟子たちと群衆に問いかけた質問を各時代の信じる人と信じない人々に問い続けています。今も私たちに「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」と尋ねているでしょう。福音の人々の答は様々でした。群衆はイエス様を一人の預言者として見なしていました。それは不充分でした。使徒ペトロは、「神からのメシアです。」と言って正しく応えました。しかし、使徒ペトロでさえ、キリストを知っていても、彼の使命を理解することができなかったために、後、キリストを裏切ることになりました。

キリストの死と復活によって救いの業の証人である十二使徒が私たちに信条を残し、教会は洗礼の約束として用います。御ミサの時にも共に正しく、キリストは、「まことの神よりまことの神」と告白します。それにもかかわらず、わたしたちは、地方の信心や個人的な偏見によって、キリストに対する信じる心は異なり、キリスト自身を信じるのではなく、キリストについて自分のイメージという偶像を崇拝するのであります。ある信者にとってキリストは馬小屋で産まれた可愛いらしい小さな子、他の信者にとってキリストは無罪なのに受難を受けたかわいそうな方だと思い、同情するために教会に来ます。また他の信者たちは、キリストが復活した罪人の審判者だと思い、地獄に堕いないように御ミサの「努め」を果たしています。偏(かたよ)ったキリストについてイメージを持つ信者は、イエス様の愛と救いを感じ取ることも生きることもできません。

結果として、キリストよりも、仕事、クラブや遊びなどが優先され、神様のために余った時間だけをささげる消極的に御ミサに参加する信者が増えています。すなわち、いつも遅れて来る人、御ミサの時に教会の敷地に来ても聖堂に入らないでメールを送ったり、煙草をすったり、遊んだりする人、聖堂の中に入っても、度々メール交信をしたりする人、聖堂内でおしゃべりをしたりする人、聖歌も祈りもささげない人、御聖体を丁寧に受けていない人、派遣の祝福無しに私用のために早く帰る人などを、イエス様は見て、尋ねています。『あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。』と。

イエス様をまことの神であり、わたしたちの一人ひとりの神であると信じる者が、福音の中で書かれているように、キリストの愛に応えて、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってキリストに従い、同じ愛を持ってキリストのために命を失っても、救われるのです。」 (ルカ9章23-24節参照)