メッセージ - B年 年間

バルティマイは、イエスが来られたと聞いて叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。道端で物乞いをしていた盲人だった彼が、まず最初に願ったのは、「目が見えるようにしてください」とか「私の目を開いてください」、「私をいやしてください」ということではなくて、「私を憐れんでください」でした。しかも、それは「叫び」としてあらわされました。イエスが近くまで来ているとは聞いたけれども、目が見えない彼には、どこを歩いているか、どこに立っているかまではわからない。ただ、この時を逃すことはできないと、必死になって、どこにいるか見えないけれども近くに入るはずのイエスに何とか聞いてほしいと、顔を上げて自分の周りを見回すように、そこら中に叫びかけました。

「私を憐れんでください」は、「私の目をいやして、見えるようにしてください」というよりも、もっと心の深いところから絞り出された、叫びです。それは、「私を見捨てないでください」「私のことを見てください」「私に目を留めてください」「私を否定しないでください」「まるで私が存在しないかのようにふるまわないでください」というような、単なる視力の問題を超えた、自分の全存在にかかわる悲痛な叫びでした。

周りにいた人々は、このバルティマイをしかりつけて黙らせ、彼の叫びをなかったことにしようとしました。それはつまり、彼がそこにいなかったことにしようとすることでした。それに対して、イエスは彼の叫び声を聞き、足を止め、自分の近くに呼びよせました。バルティマイの叫びに耳を傾け、目を留め、彼自身を、その痛みも望みも、すべて受け入れて憐れみ、いやしました。

盲人はティマイの子で名前はバルティマイであった、と記されていますけれども、福音書がいやしの奇跡を受けた人の名前にまで言及するのは、特別なことです。イエスにとって、この盲人は、群衆の中の名もない誰か、いてもいなくてもかまわない、誰でも代わりになりうる人ではありませんでした。バルティマイという名前を持った、一人の人として扱われました。

私たちは、叫びをあげている人々を必ずしも救うことはできないかもしれません。何もできないことのほうが多いかもしれません。しかし、何もできないとしても、人々の叫びに耳をふさぎ目を背けるのではなく、憐みの心を持って近づいていくように、一緒にいて共に喜び、共に苦しむように、イエスは私たちを招いています。

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メッセージ - B年 年間

見ることによってではなく、信じることによって マルコ10:46-52

身体的に盲目が即座にいやされたということよりも、弟子たちの霊的な目が閉ざされていて、主の真のアイデンティティと使命が見えなくなっていることの方が深刻です。私たちは、身体的な目よりも心と精神が明るく照らされていない限り、よく見えずに主に従うことができません。人生の苦難と試練、落胆と反対のさなかで、内的に主を必要とすることを敏感に感じることによってのみ、私たちは多くの内的・外的な障害を乗り越えて主に近づくことができます。その時、内的な喜びが見える形で、外側に現れるのです。

様々な人々、共同体、文化、言語、宗教について、私の見方は、先入観で盲目的になっていないでしょうか。人間的な弱さ、身体的な欠点、精神的な問題、文化的な特徴に基づいて、人々を裁いていないでしょうか。使命に生きる者としての自分の人生に必要なものは、しばしば目には見えないものであり、逆に見えているものは本質的ではない、ということがあることに気づくことができますように。主よ、見ることによってではなく、信仰によってあなたに従うことができますように。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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メッセージ - B年 年間

今日の朗読のメッセージは「奉仕」です。国の大臣を英語ではministerと言うように、本来なら共通善のために皆に仕える者だという意味です。イエスを師とする人は誰でも、ある程度イエスと同じ運命にあずかり、同じ目に遭わなければなりません。先生とかメシアとか神の子だったとしても、その基本的な姿勢は世俗の論理を覆しつつ人々に奉仕することがその使命でした。

イエス自身はもう自分に当たられた使命を果たし、人間とあらゆる点において似た者になりました。今度は私たちの当番です。つまり、イエスに似た者になっていかなければなりません。「弱さ」や「試されること」(罪を犯すことではないが)は、何も頑張らなくても自然にそれにあずかっていますが、何らかの形で生贄として自分の命を捧げることにおいては決意と努力が必要です。そこで初めて師キリストと本当の意味で類似するようになります。

もう一つのことが伺えます。特別な選びによってイエスと親しくなった人々、すなわち弟子は、ある意味で偉いとも言え、尊敬されるに値します。聖書的な言い方をするならば、ある人は主の左と右に座らせてもらえます。ただし、それは権利や尊厳が多ければ多いほど、責任や義務も強くなるということを意味しています。なので、この朗読は位階制を否定しているのではなく、地位も必要ではあるが地位とともに負担も大きくなっていくということを強調しているに他なりません。尊厳や神様に愛されることにおいては皆同じであることに変わりありません。

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テーマ - 翻訳

仕えるリーダーとなるために マルコ10:35-45

奉仕は奉献生活・宣教生活の特徴です。困窮している人、貧しい人、周縁に追いやられている人への無私の愛と謙遜な奉仕は、物事を変革する使命を持った弟子の特性です。他者に対して権威を持つことは、奉仕のためのものでなければなりません。しかし、世のものへの関心や力の誘惑は、主に無条件に従い、富、財産、権力を徹底的に放棄する必要がある霊的な歩みや宣教的献身において、重大な障害となりえます。
私は力ある地位や権力を望んで、預言的対話への献身を台無しにしていないでしょうか。自分のリーダーシップを責任・透明性・義務を伴う奉仕・管理だと理解しているでしょうか。自分の権威を悪用し、特に弱者・他者に頼らなければいけない人・未成年者・声を上げられない人を利用していないでしょうか。


(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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メッセージ - B年 年間

知恵の書 7,7-11

知恵と知識の違いは何ですか。どちらが先でしたか。知識がない人は知恵を照れるでしょうか。知識人は必ず知恵のある人でしょうか。知恵の書の著者にとって聡明を与えられるため祈りが必要です。彼の祈りの内容は切な願いです(知恵 7,7)。彼の願うものは、王座や王笏や富などではなく、それよりずっと大切なものである知恵でした(8−9行)。それだけではなく、健康と美に比べても、彼にとって知恵の方が最も重要なことです(10行)。彼にとって、知恵を通して、人は莫大な富を与えられます(11行)。福音朗読に登場する金持ちの男はそう思っていなかったでしょう。彼にとって、知恵を与えられるため、財産を全部売り払うということは何の意味もありませんでした。持っている財産に知恵を与えられることだけ望んでいたのではないでしょうか。だから、イエス様は彼に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言いました(ルカ10,21)。金持ちの男は自分の人生の安全を彼の所有物に置いて、人にも神にも信頼しませんでした。彼は「知恵のために全てを捨てたら、知恵を通して、莫大な富が得られる」という言葉に信頼しませんでした。

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