メッセージ - B年 年間

今日の福音では、会堂長ヤイロの娘のいやしという物語の中に、もう一つ別のいやしの物語、十二年間も出血していた女の人の話が入り込んでいます。二つのいやしの物語が交錯し、つながりがないように見えて戸惑いますが、しかしそこには共通することがあります。
イエスは、自分に触れていやされた女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。元気に暮らしなさい」と語りかけました。そして娘が亡くなったという知らせを受けたヤイロには「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、その娘には「起きなさい」と呼びかけました。両者に共通するのは、信じることが必要であるということ、いやしとは単に病気がなくなり命が助かることではなく、起き上がって、喜びを持って生きる力をもらうことである、という点です。
第一朗読の知恵の書では、神は命を与え、生かすためにこそ万物を造られた、と言われます。第二朗読のコリントの教会への手紙では、パウロが、主から恵みを豊かに受けているのだから、自分も他の人々に対して豊かに与える者になるようにと呼びかけます。
私たちは自分が豊かに与えられているという信仰に基づいて、力を受けて立ち上がり、いやしを頂いて歩み続けます。そしてその歩みの中で、神の恵みに応えてお互いに与え合うことが求められています。

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お知らせ - お知らせ

聖書を生活の中で共に歩んでゆく身近な『友』とすることができるように、神言会聖書使徒職委員会では「聖書を『友』にする講話シリーズ」と題して、様々なテーマから聖書にアプローチする講話シリーズを始めることになりました。今回は以下の通り、「芸術」をテーマにお届けします。


聖書を『友』にする講話シリーズ 第1回

テーマ「聖書と芸術」

日時:2018年7月7日(土) 午後3:30~4:30

場所:カトリック南山教会 大聖堂 (名古屋市昭和区南山町1)

講師:ヤコブ・ライチャーニ師 (神言会司祭・南山大学准教授)


申し込みなどは不要です。お待ちしております。

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メッセージ - B年 年間

今日の朗読から浮き上がってくるテーマは「神の国」であり、また、それに属するための条件としての「信仰」です。キリスト者にとって、それはとても身近なものでありながらも、描写や説明しにくい現実です。とにかく、イエスの喩えから分かるのは、まずそれが弱くて傷つきやすいものだということです。少なくとも、芽生える時にはちっぽけなものにすら見えます。最初は説得力がなく、人から侮られたり笑われたりします。誰もそれに目を向けてくれません。それから、もう一つの特徴としては、もちろん人間の自由に委ねられてはいますが、ある意味で人間の努力に依らないものだということも見受けられます。一度神の呼びかけに答え、土台を据えたら、あとは何をしなくても神の力によってこの業が自然に大きくなっていきます、それを邪魔さえしなければ…。ただ、人間の傲りによって、やはりその結果を早く見たいし、しかも大きく見せたいということも見られます。信仰が自信や自慢と程遠く、過程であり、忍耐強く謙遜な人にしか委ねられません。ですから、信者として一番大事なことの一つは、「何もしないで神に任せる」ことと「自分でできるから、やってみせる」ことの間のバランスを見つけることなのではないでしょうか。

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メッセージ - B年 年間

第一朗読:創3,9-15

第二朗読:2コリ4,13-5,1

福音朗読:マルコ3,2-35

イエスの母、兄弟

3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3,31-35)

マルコによる福音書のこの一節を初めて読む人は皆、イエスのこの態度を奇妙に感じるか、あるいは無礼にさえ感じるであろう。しかし、母親や家族に反発することがイエスの本当の目的であろうか。本文を注意深く読めばすぐに、イエスは家族について何も語っておらず、彼らに会いたいとも無視したいとも言っていないことがわかる。この一節にはこの件に関する言及は何もないのである。イエスの母親と家族が彼を取り戻しに来て、彼らの前に出るよう求めたとき、イエスは群衆に教えを説いている最中であった。その家族の要求はイエスの仕事を妨げるものだった。なぜ母親と家族が群衆に交じってイエスの言葉を聞かず、イエスに群衆から離れて彼らのもとに来るように求めたのかという点について、マルコは情報を与えていない。その場所が混みあっていたために、イエスのところにたどり着くのが困難であったとか(その場合はイエスもまた簡単に外に出ることができないであろう)、あるいは彼らがイエスの教えを妨害したかったとか(それは彼らがイエスの伝道を受け入れていなかったことを意味するだろう)、そのような説明をするべきであろうか。しかし、イエスは家族に対しては一言も話さず、逆に家族の意味を両親と同じ血を受け継ぐものという狭義の「家族」から、同じ思想や信仰を共有するものという広義の「家族」へと拡大させた。イエスは言う「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。これは彼が新たな種類の家族を立ち上げたことを意味するのではあるが、それは伝統的で自然な解釈の家族を廃止するということではなく、共に生活し、共に働く他の人々にまでその定義を広げるということである。それが、キリスト教徒の最初の世代が自分たちを「兄弟姉妹(brothers and sisters)」と呼び合ようになった理由である。また、我々は成長すると家族(母親、父親、兄弟姉妹)のもとを離れ、新たに作った家族(夫、妻、子供)のために生きることになるが、そのことは我々が両親を忘れたり、自分自身の家族に注意を払うあまり彼らをないがしろにするというようなことを意味するわけではない。イエスはその思想、教え、行いによって、すべての人が同じ信仰の絆で結び付けられた一つの新しい家族を作り出した。

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メッセージ - B年 祭祝日

今日の三つの朗読箇所には、「契約」と「血」という言葉が共通して現れます。

第一朗読では、モーセが献げ物であるいけにえの血の半分を祭壇に、もう半分を民に振りかけ、イスラエルが神と契約を結びます。エジプトから救い出された民は、その救い主である神と特別な関係にあることを選びました。

第二朗読では、いけにえの動物の血ではなく、キリストの血こそが私たちの罪をあがない、神と人との間に永遠の契約を結ばせるものだと語られています。

福音朗読の、マルコ書による最後の晩餐である過越の食事の場面では、イエスが与えるパンをその体であるとすると共に、杯を人々のための「わたしの契約の血」であるとしています。過越、すなわちイスラエルの民が死の危機から命へと救い出された出エジプトを想起する食事において、イエスはこれから十字架の上で献げる死を通して人々を神の生命へと導く、その言葉が示されています。ですから、ミサの中で受ける聖体の内に、私たちはイエスが招いて下さった神との特別な関わりを思い起こします。

血は生命力の象徴であり、それゆえイスラエルの民は、肉は食べても血は口にすることはなく、生命の恵みを与えて下さった神に属するものとして特別に献げました。私たちはそのようなことは気にしませんが、それでもキリストの血の内に、神が与えて下さる生命の現れを見出します。

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