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恵まれない人々に心を留める マルコ10:17-30

自分の持っている物を分かち合うことができなかった金持ちの男の目に映った悲しみは、イエスの招きを理解していなかったしるしです。彼は自分の財産を失うことを恐れていました。しかしイエスの弟子は失うことによって得るのです(マルコ8:34-36)。後の者を先にすることによって、私たちは、自分の生をささげている主の存在に出会います。
最近行われた神言会の総会議は、次のように宣言しています。「私たちが実際に主ご自身に仕えるのは、貧しい人々や軽んじられている人々に奉仕するときです……み言葉は確かに彼ら一人一人のうちにおられます。み言葉に霊的に根差すことによって、私たちは後の者を先にするという宣教的使命に駆り立てられます。貧しい人々への宣教奉仕を強調することは、オプションではありません。そこにおいてこそ、私たちはみ言葉が世界におられるのを見出すからです。この使命は譲ることはできません」(2018年神言会総会議#42)。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

 
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マルコ10:2-16

人間の頑固さは、神のご計画に反することがあります。神の計画は初めから完全なので、変わることがありません。これは婚姻関係に限られたことではなく、兄弟姉妹としての私たちの生にもあてはまります。「私たちは主によって引きつけられ、一つにされた兄弟の共同体であり、そこにおいて私たちは人としてあるがままに受け入れられ、私たち自身であることをやめることはありません」(2018年神言会総会議参加者への教皇フランシスコの言葉)。「自分の心の頑なさ」によって、私たちは自分が欲しいもの(例えば免除・特権・利益など)を手に入れることがあるかもしれません。今日の福音は、痛切な問いを投げかけています。「これは神が私に望んでおられることだろうか、それとも私自身が望んでいることだろうか」。私たちの共同体としての生と宣教のための神のご計画を再発見するために、イエスの言葉に注意深く耳を傾ける必要があります。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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メッセージ - B年 年間

第一朗読の創世記で男と女が作られた話、また福音朗読の夫が妻を離縁することについての論争で、イエスが語られた「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という言葉を耳にするとき、どうしても夫と妻という夫婦の関係のことだけを考えがちですが、今日の朗読はいずれも、あらゆる人間関係に当てはまるものです。

私たちは、誰も一人で生きていくことはできません。誰もが「助け手」を必要としており、そしてまた誰か他の人の「助け手」となっています(創世記2:18)。夫婦、家族、友人、地域、学校や職場など、様々な人とのかかわりがあるとき、それは私が自分で一人で作り上げたものではなくて、まさに「神が結び合わせてくださったもの」(マルコ10:9)と感じられます。そして私たちは皆、一つの源である神のもとに、イエスと共に、兄弟姉妹とされています(ヘブライ2:11)。

もちろん、私たちが抱えている他の人との関係は、すべて好ましいものであるとは限りません。自分のせいなのか、相手のせいなのか、状況のせいなのか、どうしてもうまくいかないこともあります。けれでも、少なくとも自分の方からは、対等な関係を保ち続けるように呼びかけられています。すなわち、自分が利益を獲得し得をするために相手を利用するような、いびつな人間関係は、神のもとにある兄弟姉妹、お互いをわが身と感じるほど一体である夫婦、助け合いは、神が結び合わせてくださった人間同士の関係からは、かけ離れています。「神が私たちに望まれる関係」とはどのようなものか、自分の日常のかかわりの中で、考えたいと思います。

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メッセージ - B年 年間

知恵2:12, 17-20   ヤコ3:16−4:3   マコ9:30-37

福音書の中に、イエスは、誰が一番偉いかと権威を争っている弟子たちに、一人の子供 を抱き上げながら、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け 入れるのである」と言われました。自分たちの間に誰が一番偉いか、誰が一番信頼される、 誰が一番重要なポストに就くかと議論している弟子たちに、イエスは単に言葉で語るのでは なく、わざわざ一人の子供を抱けあげながら弟子たちに語りかけるのです。イエスは何を示 したかったのでしょう。

「抱き上げる」というシンボリック(象徴的)な動作は、イエスの言葉にもあるように 「受け入れる」、そして「祝福する」という意味合いがあります。子供を抱き上げながら 、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである」 と言われたイエスが弟子たちに伝えたかったことは、彼らがお互いに受け入れなければなら ない、そして、お互いに祝福しなければならないということです。それを目に見える形で弟 子たちに示していたのです。目に見える形で、「このように御父は愛する子を受け入れて、 祝福するのです。このように、神様は人間一人ひとりを無条件に受け入れて、祝福するので す。だから、同じようにあなたたちも互いに受け入れて、互いに祝福しなければならない、 ということをイエスは目に見える形で弟子たちに示したかったのでしょう。

ところで、お互いに祝福するということはどういう意味なのでしょうか。祝福は、英語 では、to bless という言葉があります。ラテン語ではbenedicereという言葉が表現されていま す Benedicereは、二つの言葉からなっている、bene(良い)とdicere(話す)という意味で す。つまり、誰かを祝福するということは、その人について良いことを話すということです 。子供を抱き上げたイエスが弟子たちに示したかったことは、弟子たちの間で、誰が一番偉 いか、誰が一番正しいか、誰が一番ふさわしいかと議論し互いに比較するのではなく、互い にありのままに受け入れて、お互いの良いことを話して、お互いに祝福しなければなりませ ん。お互いが神の愛する子だからです。

しかし、私たちも生活の中で体験しているように、積極的に人を祝福し、積極的に人の 良いことを話すことはそう簡単なことではありません。それよりは、人の悪口をしたり、人 の欠点を追求したりする方が多いかもしれません。

心から人を祝福するためには、やはり自分自身が祝福されるものという確信を持たなけ ればなりません。つまり、日々祈りの中で「あなたは私の愛する子」という神の祝福の声を 聞くことが必要です。自分は神の愛する子と確信を持っている人だけが、心から人を祝福す ることができます。人間は心の中にあるものを外に移しているのです。

ある日、太ってしまったブッダが木の下で瞑想していると、その近くに一人の若者が取 り掛かっていました。太っているブッダを見て、若者は「あなたは豚みたい」とブッダに向 かって言いました。仏様はゆっくり目を開けて、若者じっと見て、そして微笑みながら、「 あなたは神様みたい」と若者に言いました。若者は驚いて、「なぜそう言ってくれるの?」 と尋ねました。ブッダは答えました。「我々人間は自分自身の心の中にあるものを見ている 。私は毎日神様のことを考えている。だから目をあげて、あなたを見る時に、あなたは神様 のように見える」。

人への見方は、自分が日々神様と培う関係に大きく関わっています。

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メッセージ - B年 年間

今日の朗読では、まず「信仰」というテーマが浮かび上がります。使徒ヤコブが言うように、死んだものでないようにするために、信仰にはそれらしい行いが伴わなければなりません。しかし、この信仰の業とはいったいどういうものでしょうか。主に3つ考えられます。

• 証し:聖ペトロのように信仰はイエスを証しし、宣言します。理屈で何かを証明するのではなく、時々何を証ししているのかを自分でもよく分からない時があります。他の福音書には、その証言はペトロ自身から来た知恵ではなく、彼に御父によって表されたものとしてイエス様に褒められた、と書いてあります。この神様の啓示に心を開き、それに対して敏感であるのは信仰です。

• 艱難に耐え忍ぶ力:信仰は何か超自然的なものや奇跡を信じる能力ではなく、むしろ今の私たちに理解しがたい運命を受け止めるための支えです。言ってみれば、眼差しをもっと遠く向けて、目の前のことで一々揺るがされないことを意味します。それは結局聖ペトロにすぐできなかったことです。メシアが苦しみを帯びなければいけなかったことを受け止めるのは信仰の内にしかできませんし、私たち一人ひとりも常に楽に生きることができないことを理解するために信仰が必要です。

• 慈善:信仰は、神様について素晴らしく語ることではなく、神様が愛しておられる人を共に愛することなのです。単なる福祉活動とは違いますが、イエスに従い、イエスが自分を放棄して人々に支えたのと同じように、信仰者の私たちも何らかの形で「信仰のゆえに」困っている人を助けないと、私たちの信仰は独りよがりや、空っぽのものになってしまいます。

以前にもまして、今の時代は何についてでも様々な見方があり、皆が自分の意見を持ち、強調したがる時代です。教会においても、メシアとは誰か、教理や道徳は普遍的なものかどうか、教皇の権限はどこまであるかなど、色々な好都合の個人意見や自己主張が氾濫しています。しかし、それは本来の姿ではありません。多様性がある中でも、答えは神様が啓示したもの、時々受け入れがたいものです。メシアである他に何者でもないイエス・キリストを今日的状況に合わせて、いつも何か違うもの(哲学者、宗教の創始者、道徳の指導者、預言者、政治的な改革者・・・)としてだけ解釈するという誘惑に耐えるためにも信仰が必要なのではないでしょうか。

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