本の紹介 - 本の紹介 |
E・M・バウンズ著「1分間の黙想 祈りの力」(日本聖書協会 2016年)
忙しいとき、私たちはその忙しさに追われて祈る暇もないと感じるか、祈ること自体さえ忘れてしまいます。けれどもそんなときこそ、本当は祈りが必要なのかもしれません。
本書は、そんな人のために、一年366日分(うるう年も安心!)の短い黙想と祈りの材料を与えてくれる本です。文庫本ほどのサイズの1ページが日付ごとに1日分として当てられており、さっと読むだけならまさしく「1分間」ですむほどの分量しかありません。
それぞれのページには、まずテーマとなる「見出し」があり、それから旧新約聖書から取られた「聖書の短い一節」が引用され、その聖書の言葉についての短い「解き明かし」があり、最後にやはり短い「祈りの言葉」があります。読むだけなら確かに1分間ですが、それをたった5分間にするだけでも、豊かな黙想と祈りの時間になるでしょう。聖書の言葉をゆっくり二、三回繰り返して読んだり、本にある解説だけでなく、もう少しだけ自分が感じる御言葉のメッセージに思いをはせてみたり、自分自身の言葉で祈りを加えてみたり、ほんの数分間心を据えるだけで、すばらしい恵みの時になると思います。
朝起きた時、通勤の途中に、休憩時間に、あるいは寝る直前に、短い時間でも黙想し、祈ることができる機会と習慣を与えてくれる本です。
メッセージ - B年 年間 |
ヨブ記はヨブの苦悩の叫びを取り上げた旧約聖書の書ですが、今日の第一朗読の箇所も、彼の苦しみが赤裸々にのべられています。「横たわれば・・・いらだって夜明けを待つ」「わたしの一生は機(はた)の梭(ひ)よりも速く/望みもないままに過ぎ去る」などの嘆きの言葉は、財産も子供たちも失い、全身を皮膚病に冒されて苦しんでいるヨブの心をよく表しています。
第二朗読のコリント書では、福音を告げ知らせるという自分の務めについて、パウロの熱意が語られています。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というパウロの思いは、私たちの心を動かす力を持つものだと思います。
福音朗読のマルコでは、先の二つの朗読箇所が持つメッセージが一つになっています。病人や悪霊に取りつかれた人たちが大勢イエスの元へ集まってきますが、ヨブのように彼らが上げる苦しみの嘆きの声にイエスは応えます。その後、イエスは人里離れたところで一人で祈られますが、人々がご自分を求めていると弟子たちに言われると、「他の町や村へも行き、そこでも宣教する。そのために私は出てきたのである」という、パウロも語った福音宣教の使命への思いを示されます。
私たちには苦しみがありますが、その叫びに応えて下さる主がおられるということに力づけられて、私たちも周りの人々の苦しみに目を向け耳を傾け、応えていくことができますように。
メッセージ - B年 年間 |
今日は年間第4主日に入りました。福音朗読では「神の聖者」として「権威ある新しい教え」を持ち、「汚れた霊」を追い出したイエス・キリストの姿が描かれています。イエスを見聞きした人々は皆非常に驚きました。言うまでもなく、律法学者とは違ってかつてのないイエス・キリストの言動を語りながら、マルコは間違いなくイエスこそが預言され、神のもとから遣わされた者だと人々に促したでしょう。まずここで福音記者の促しを心に留めながら今日の福音書を眺めることが重要なポイントだと思います。
汚れた霊、悪霊の話を聞くと、肉体的にも精神的にも丈夫なわたしたちは「そんなに関係ない」と言い、一安心で済むでしょう。しかし、信仰の観点から悪霊という存在を考えていけば、事情が一旦に変わってきます。もし悪霊というものを神に逆らう勢力、信仰者たちを神から切り離そうとする存在としてとらえたら信者のわたしたちは悪霊とはもはや関係ないと言えなくなってしまいす。
もし悪霊は「神に逆らう勢力」であれば、目に見えない一人ひとりの中で働いている力は 様々でしょう。わたしたちのそれぞれはその悪の働きを実感しているはずです。見事に回心 した使徒パウロであってもその内なる悪の力を痛感しながらその経験を分かち合ってくます 。「わたし(パウロ)は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず 、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律 法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、 もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つ まりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあり ますが、それを実行できないからです」(ローマ7,16-18)。
では、その悪の力は具体的にいったい何かと。また使徒パウロによれば、それは、「姦淫 、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い 、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」です」(ガラテヤ5,19-21)。神に従お うとしているわたしたちは日々、それらの力と絶えず戦っているのではありませんか。しか も時には悪の働きがあまりにも強すぎて、抵抗することが出来なくなってしまいます。まさ にイエスの命令に対しても、悪霊が簡単に出て行ったのではなく、実際に「汚れた霊はその 人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とマルコがその悪霊の力強さを語って います。悪と戦う時にもキリスト者のわたしたちもその「けいれん」を経験しているでしょ う。
第一朗読の申命記でも神は預言者を立て、彼らをとおしてイスラエルを戒めました。しかし、長い砂漠の道のり、そしてカナンに定住した後にも神に逆らう現われは決して弱くはなかったです。選ばれた民の歴史こそが自分たちの内での悪のた働きの強さが明らかになっているものです。
悪霊の働きの顔を再確認したキリスト者のわたしたちはどうすべきでしょうか。また今日の福音書がそれをヒントしてくれます。悪の力は強くてもイエスの命令、つまり神のことばに抵抗することが出来ません。み言葉こそが悪と戦うわたしたちの力になりますように。アーメン。
メッセージ - B年 年間 |
今日の3つの朗読の共通点は「神からの言葉を預かり、それを知らせる人物がいる」こと、また「何かが近づいて、何かが終わりを迎えようとしている」ことです。旧約聖書におけるキリストの先駆者かつ予型(トュポス)の一つとしてヨナという預言者があります。二人とも神から遣わされて、神の裁きを知らせ、人々に回心の機会を与えていました。しかし、二人の間にも若干の差があって、前者は神の正しい怒りと町の滅びを告げているのに対して、後者は時(カイロス)が満ちて、神の支配する国が実現され始めたということ強調します。そして、イエスはただその知らせの道具ではなく、その良き知らせ(エウァンゲリオン)を具現している人でした。イエスにおいてこそ神の国が近づいたのでした。この世の様々な事物はやがて変わったり、無くなったりするはずですが、訪れる神の国を迎え入れた人には、その代わりの国が既に今ここで——イエスご自身を中心としながら——用意されています。その事実を理解したならば、パウロが言っているような生き方が当然生まれてきます。すぐ何もかも諦めて世の終わりを待つため財産を捨てるのではなく、それをあたかも所有していないかのように持ちまた使用する、つまりそれに執着しないという生き方なのです。何も持たないより、適切なものだけを持ち、しかも正しく管理することの方がずっと難しいです・・・
メッセージ - B年 年間 |
第一朗読:1サムエル3, 3-10.19
唯一の神がサムエルと話しかけていたように、神は私たち一人一人に話しかけています。神は、神によって創造されたすべてのものを通して話しますが、それと同時に人によって創造されたもの、すなわち人間関係、社会、宗教、政治的・経済的システム、文明、文化、言葉、思考なども使って話します。世界は神のささやきでいっぱいです。神は沈黙しているのではなく、聖書の話によって種まく人のように言葉を蒔いている。神の言葉はほんのわずかであっても私たちの心に触れ、私たちを神に身を捧げる者へと変えていきます。しかし、神自身が私たちに語っていることを認識することは時に困難なこともあります。私たちはしばしばサムエルと同じ状況に陥ります。つまり、声は聞こえますが、誰が話しているか認識できません。彼と同じように、我々にもヘリのような人が必要です。他人の助けを借りれば、神が私たちに話していることが理解できます。そして、私たちは私たちに呼びかけた声に従います。今度は私達が、他の人が話しかけられた声を認識できるように手助けする番だということを意識するべきです。
第二朗読:1コリント7, 13-15.17-20
唯一の神が私たちに語りかけていることを認識したならば、私たちは、パウロのコリント人への手紙の言葉を神の言葉として受け入れたことになります。それはただパウロの意見というだけではありません。神はパウロの手を使って、私たちの体が神からもたらされると書きました(神は創造主です)。私たちの身体は、私たち自身の意志に従って使用するものではなく、それは聖霊、つまり神の御霊が住むことができる場所になるために創造されました。うちなる聖霊のみで唯一の神を礼拝することができるからです。聖霊がなければ、私たちは自分の体の中で神を礼拝することはできません。私たちの体は創造主を礼拝するために創造されたのです(1コリ7,20)。
福音朗読:ヨハネ1, 35-42
時が来ると、神はイエスによって私たちに語りましたが(ヘブ1,1-3)、この神の言葉は すべての人には受け入れられませんでした。イエスを神の言葉として認識した者が、洗礼 者ヨハネでした。彼はヘリのように、自分の弟子たちに神の言葉を示しています。洗礼者 ヨハネの弟子たちは、主の指示に従い、その言葉とともにあり、その言葉を認識し、その 人に関する知らせを他の人に伝えました。他の人たちは彼らを信じ、その言葉の弟子とな りました。その中には、ペトロと呼ばれるシモンもいました。彼と彼のすべての後継者は 、神が常に私たちに語りかけていることを世界中に思い起こさせます。