メッセージ - B年 復活節 |
第一朗読:使徒言行録1, 11-11
第一朗読の言葉が使徒言行録、すなわちルカによる福音書から続いている第二冊の書物の始まりである。ルカによる福音書が主の昇天で終わる(ルカ24, 44-53)ので、使徒言行録は主の昇天から始まる(使徒1, 1-11)。イエスは自分の父のところに戻る前に、弟子が信仰の道を歩き続けるために必要な準備をすることができた。弟子の信仰を強めて、聖書の言葉が理解できるように説明し、宣教できるように聖霊の力を受けるまでエルザレムに留まるよう命令した後にこの世に離れた。キリスト教の教えによればイエスはこの世に再び来られる。この時、栄光を帯びて来られる。
第二朗読:エフェソ1, 17−23
第二朗読の言葉は分かりにくいかもしれませんが、キリスト教の神学に非常にとって奥深い教えが含まれている。だから、一つずつ節の説明をしよう。17節に、著者は手当人が神の神秘を深い理解ができるように神から必要な啓示と知恵がもらえるように祈っている。18節と19節によって、信者たちは心(心の目)を使って、三つの重要な神秘が理解しなければならない。それは、彼らの希望、彼らの将来の栄光、彼らが神からいただいた神の力である。20節に、神は自分の力があらわれるわざでイエスを復活させ、天においてご自分の右の座に着かせられたことである。つまり、イエスの栄光が神のわざである。21節に、神の右の座に着かせられたイエスは永遠に全ての存在するものを支配する。22節に、天に生きているイエスは教会の頭であり、捨ての信者たちを支配する。23節に、イエスを信じている人々はイエスの体であるという。22節と23節の意味はイエスとキリスト教は一致しており、教会がイエスの恵みで存在し続けて、イエスの栄光が教会だということである。
福音朗読:マルコ16, 15−20
キリスト教はイエスの体であり、この世界でイエスの手である。と言うのも、この世に存在する教会の目的はイエスに命じられたことをする(15節)。命じられたことは 全世界に福音を宣べ伝えることである。キリスト者たちの義務は福音を宣べ伝えることだが、この福音の言葉を聞く人々は自由に選択する。教会は、この義務をイエスが再び来られる日まで果たさなければならない。
メッセージ - B年 復活節 |
ヨハネの言葉遣いには「愛」という言葉の他に、「掟」や「命令」という概念も多く登場します。現代人にとってはその二つの間に解消できない対立があります。愛は自発的なものでなければならず、都合と関係なしに命じられることは矛盾ではないか、と思う人が少なくありません。今の世の人は何も命じられたくない、誰によっても決められないことを理想として目指しています。その代わりに、人を支配したり、人に義務を課したりすることは同じ気持ちで拒否したりしないのは残念です。必ず愛されたいけれど、自分から極みまで愛することをためらってしまいがちです。
興味深いことに、聖書に「神の命令」とか「神のみ旨」とか出てくる際、それは神が勝手に決める、一方的な申し付けではないことに気づきます。しかも、たまたま言う言葉と拘束力を添えて出す命令が別々ではなく、前者も後者も神の言葉はすべて守るに値します。拘束というと少し暗い不自由なイメージがありますが、いったい神様は何を言い、何を望み、何を命じているのでしょうか。復活節の朗読を読み返すと、分かりやすいです。まず、神のみ旨は永遠の命だと書いてあり、また、すべての人が御子を信じ救われ、誰も滅びないことがイエスが神から受けた命令です。使徒たちも、神の望みが私たちの聖化に他ならないなどと述べています。
そして、代表的なのはイエス・キリストの「新しい掟」、すなわち他の掟を廃止するどころか、ある意味ですべてをまとめる掟です。そこで一番分かるのは、立法者として何か外から課している義務ではなく、自分自身も行なっていること、生き様、命を共有しているだけだということです。誰かを愛することは「神が命じたから」義務だとか、「イエスのために」求められているとかではなく、またキリストの愛のような真似でもなく、むしろイエスの愛を受けて、その愛をもって神と人とを愛することであって、信仰者としての当然の結論なのです。
メッセージ - B年 復活節 |
復活節も第6主日となって聖霊降臨が近づき、第一朗読では初代教会における聖霊の働きが語られています。聖霊が異邦人の上にも注がれ、民族的な垣根を越えて福音が広がって伝えられていく様が描かれています。
第二朗読と福音朗読では「愛」がテーマとなっています。第二朗読で使徒ヨハネは「互いに愛し合いましょう」と呼びかけますが、その愛はそもそも神によって私たちに示されたものであるとされています。私たちがお互いに愛するという時、それは私たちの人間的な、感情的な好き嫌いではなくて、イエス・キリストの十字架によって示された、神の愛にならうことです。
そのイエスも、今日の福音朗読の箇所で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と神の愛に基づいて弟子たちを愛されたことを強調しています。その愛は、損得によらない「自分の命を捨てて愛する」というものです。第二朗読で語られているイエス・キリストの十字架上の死こそが、その究極的な形です。
そしてやはり、使徒ヨハネと同じように、イエスも「互いに愛し合いなさい」と言われています。愛を受けていることを知っているだけでは不十分で、愛を知っているなら、同様に自分も実際に愛するよう招かれているということです。
愛を受けていることをよく理解して感謝し、自分もまたその愛を実践することで、第一朗読のように喜びの福音が世界へと広がりを見せ、「神は人を分け隔てなさらない」というペトロの言葉が人々に受け入れられるのではないでしょうか。
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今日のテーマは、有名な「ぶどうの木—枝」の喩えです。簡単に聞こえるかもしれませんが、実はとても凝縮されたメッセージを潜めています。まず、キリストにつながっていることは、ただ電池がなくなった時に充電するために一時的に接続するためにつながるのではなく、キリストとの一致の内に生きることを指しています。いや、もっと言えます。キリストから、さながら樹液のように力を受け続け、その力によって生かされるというイメージです。私たちが実際善い行いという「実」をもたらすのは、神からの力があってこそです。さらに、それぞれ違う実を結ぶかもしれませんが、同じ栄養を受けて同じ幹につながっている枝はお互いも一致しなければなりません。花が葉っぱより大事だということはあり得ないのです。とにかく、永遠に生きるためには、時々キリストを訪れたり、しばらくキリストと共にいたりするのではなく、キリストのうちに留まること、またいただいた恵みを外へと表したかどうかということが問われます。
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今日は、伝統的に「良い羊飼いの主日」と呼ばれる日曜日を祝っています。ご周知のとおり、良い羊飼い、もしくは良い牧者という聖書のイメージが生んだ描き方は、イエスを表す最も古い方法の一つです。実は、十字架に架けられたイエス像よりも古い描き方なのです。
このイメージは非常に凝縮された内容を含んでいます。以下の幾つかの点が注目に値します。
• イエスは唯一の羊飼いであり、群れを一つに集めます、つまり教会の調和と一致を指しています——キリストを中心とする教会は皆が勝手に意見を持ち寄る場ではありません。それは、もちろん、ただの中央集権的な独裁主義ではなく、むしろ各部分の役割を尊重しながら安定を目指す考え方です。
• 羊を飼うという行為は、後に使徒たちに委任されるわけだが、治めるとか搾取するとかではなく、命をかけてまで守るということを意味します。指導者になった者、なりたい者は、そこからたくさん見習う必要があります。
• ある描き方によれば、中央にあるキリストは羊飼いではなく、羊たちを率いる同様の雄羊であって、全てにおいて本性も運命を同じくするという意味を込めています。キリストも子羊であって、最も優れた意味で人間性を身にまとっています。
• 人間には色々なことが分からない、不思議に思うことがありますが、キリストには「緑の牧場」に通じる道が分かります——険しい部分もあるかもしれませんが、羊である私たちを豊かな命へと導くことを神から命じられているので、素直に信頼するしかありません。
• キリストはまず自ら同じ道を通りました。教父たちが好んでいた言い方をすれば、キリストは一つでなければなりません——頭は先に天に入りましたが、その体である教会はそれに従い、後で入らなければなりません。キリストが完全になるために私たちを自分の方へと引っ張っています。
それと同時に、今日は世界召命祈祷の日にも当たりますので、数の多い神学生・志願生を神に願うのではなく、まず神のみ旨に適った人、良き羊飼いと生を共にする人が今日にも招かれるよう祈りたいと思います。