J.S.バッハ :『ヨハネ受難曲』より
メッセージ - B年 四旬節 |
今日の受難朗読で一番興味深い言葉は、やはり、福音記者がわざわざアラマイ語で記した「我が神、我が神、どうして私を見捨てられたのか」というイエスの叫びです。実は、詩編の引用であり、他にも詩編にメシアの自覚を持っていたイエスに当てはまる箇所がいくつかあります。それを合わせて吟味する価値があるのではないでしょうか。
詩編22編2節
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、
救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
詩編31編6節
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
詩編40編7節
あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/
ただ、わたしの耳を開いてくださいました。そこでわたしは申します。
御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻[む]
詩編69編22節
人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。
詩編116編10節
わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも…
(全ての引用は新共同訳聖書による)
そこで、普通のユダヤ人が一生に渡って何回ともなく唱えた詩編なので、きっと暗記していたとも思われます。なので、イエスは確かに人類と同一化するために、一見すれば神に拒まれた身分の者になってくださったのですし、そこで初めて人間らしい、いや、人間よりも人間的な気持ちを味わいました。そうでなければ、すべての人間を救うことができなかったからです。しかし、心を打たれるのは、そういう絶望に極みにあっても、神の名を呼んでいること、信頼を込めて神に祈っていることなのです。実は、その叫び声を聞いていた周りのユダヤ人誰もがその詩編の続きを思い起こすことができたはずです。そこは失望の気持ちで終わるのではなく、遠くはるかに神の業、その栄光と勝利が垣間見られます。
「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」(30−32節)
そして、もっと不思議なのは、ヘブライ人の手紙によれば、苦難のしもべであるイエスのこの叫びはなんと聞き入れられたと書いてあります。ただ、すぐにでも、人間の想像している仕方ででもなく、神の知恵による形で聞き入れられました。
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今日の朗読では、次の文が一種のキーワードとなるのではないでしょうか。
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、[…]御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました。」
ここでは二つの従順について語られています。完全なイエスの従順、とそれに学びあやかる私たちの従順。厳密に言えば、イエスが私たちのために神に「従う者となって」くださった(フィリ2:8)からこそ、私たちも神に従うことができます。直接ではなくて、(神を具現する)イエスに従うことによって、実は神に従うのです。私たちにはイエスを抜きにして神を拝んだり、神を賛美したり、神に祈ったり、神に従ったりすることは不可能です。しかも、イエスの従順を真似るのではなく、極みまで従順だったイエスと共に神に聞き従うということに招かれています。
イエスの招きに相応しい従順というのは、第1朗読でも触れられていた「古い法」のような外から課せられ、義務として与えられたものではありません。イエスの生きていたような「[神を]畏れ敬う態度」とは、心に刻まれた、誰も命じなくても自発的に為される態度です。何をするかを理解し、従順を求める人をよく知っていることが前提です。イエスと共に神に聞き従うことはただの義務や強制ではなく、愛されていることを意識した愛の行為なのです。そして、その結論として、イエスに従うことは同じ論理でいえばイエスが遣わす人に従うことにも繋がります。しかし、昔も現在もやはり教会においても民主化を求める人が絶えません。従順という非常にキリスト教的な徳がどこかに消えたようで、最後に残ってしまうのはただそれぞれの意見でしかないのではないでしょうか。
イエスが福音においても自分自身に対して求めている姿勢は、自分に仕えることでも、自分の仲間であることでも、自分と交流や意見交換をすることでもなく、「自分に従うこと」でした。すなわち、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と。そこから、神との関係に生き、やがて神の家に住むためには、イエスと基本的に同様に(形はいろいろあっても)一粒の麦として地に落ちて、死に、またイエスに結ばれて再び芽生えるしかないことが分かります。
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第一朗読 : 歴代誌下36, 14-16.19-23
歴代誌下の著者は「なぜエルザレム神殿が壊されたか」と「なぜバビロニア捕囚の時代になったか」という質問に答える時、ユダヤ教の信者の無信仰と不正義的なやり方が理由であるということを示した。しかし、ペルシヤの王クロスの命令(バビロニアに入るユダヤ人たちはエルザレムへ戻ることができるという命令)が歴代誌下の著者にはイスラエル国民を救うための神の業だと捉えられた。
第二朗読 : エフェソ2, 4-10
キリスト者にとって救いは神の業である。救いは、信仰によって神からただでもらった恵みである。このただの恵みの泉は神の愛である。人間に対する神の愛の形は、イエスを使って行った業である(すなわち受難と復活)。
福音朗読 : ヨハネ3,14-21
人間に対する神の愛に限りはあるか。福音者ヨハネは、神の愛には限りがないと考えた。神が自分の御子をこの世に遣わす理由は、事実の証明ではなく愛であった。神が自分の御子をこの世に送る目的は、裁きではなく救いである。
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2.灰や塵を伴う行為
前回は「灰」や「塵」が持つシンボルとして、比喩としての意味について聖書の記述から考えました。今回は、実際に灰や塵が使われている聖書の中の場面に注目したいと思います。灰を頭にかぶる、塵の中に座る、地面の塵の上を転がる、という灰や塵に関した行為が、旧約聖書の中ではよく見られます。また、これと合わせて、着ている服を引き裂く、髪の毛や髭をそり落とす、粗布をまとう、嘆きの声を上げる、祈る、断食する、などの行為も伴うことが多々あります。
まず、「灰/塵をかぶる」「灰や塵の上に座る」などの行為は、既に起こったか、これから起ころうとしている災難・悲惨な出来事に際して行われます。例えば、
敗戦の知らせを伝える伝令の兵士が「頭に土をかぶっていた」(サムエル下1:2)
逆に敗戦の知らせを受けたヨシュアと長老たちは、「地にひれ伏し、頭に塵をかぶった」(ヨシュア7:6)
国の中で反乱が起こったとき、逃亡したダビデは「頭に土をかぶっていた」(サムエル下15:32)
家畜や子供たちを失い、自身もひどい皮膚病にかかったヨブは「灰の中に座り」(ヨブ2:8)、彼を見舞った友人たちも「嘆きの声を上げ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまいて頭にかぶり、七日七晩、ヨブと共に地面に座っていた」(ヨブ2:12-13)
ハマンの策略でペルシャ国内のユダヤ人たちが迫害された時、「多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆に暮れた」(エステル4:3)
「我が民の娘よ、粗布をまとい、灰を身にかぶれ。ひとり子を失ったように喪に服し、
苦悩に満ちた嘆きの声を上げよ。略奪する者が、突如として我々を襲う」(エレミヤ6:26)
更に、このような災難を神の裁きによる罰と捉えて、灰や塵をかぶり、その上に座って、自分の罪を悔いたり神の憐れみを求めたりする場合があります。
預言者ヨナによる滅びの宣告を受けたニネベの王は、「王位を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」、人々にも断食を命じ、悪の道を離れるように呼びかけて、滅びを免れようとした(ヨナ3:6-9)
エルサレムの荒廃について、ダニエルは「主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ」、イスラエルの罪を告白して救いを求めた(ダニエル9:3-4)
悔い改めようとしない町々に向かって、イエスが「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」(マタイ11:21)
このように「灰をかぶる」「塵の上に座る」という行為の目的は、自分の惨めさや弱さを神の前に示して、あるいは謙虚さ、従順さ、へりくだりの姿勢を示して、神の憐れみを求めるという儀式的な行為でした。「私はあなたの憐れみがなければ、助けがなければ何もできず、みじめなままです。だから憐れんで下さい」という嘆きの願いを表していました。
現代の私たちも、四旬節の始めに灰を頭に受け、この祈りを自分のものとします。ただ「灰を受ける」あるいは四旬節に勧められる「断食」「節制」という行為自体に恵みがある訳ではなく、そこに心が伴わないなら意味がありません。
預言者イザヤは、既に語っています。
「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう…そのようなものがわたしの選ぶ断食だろうか…頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とは…虐げられた人を介抱し、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58:4-9)
「灰をかぶる」という行為に込められた意味を心に留め、正面から向き合いたくはない自分の罪や弱さを見つめ、神の前に素直に認めたいものです。四旬節は、このような自分のために主イエスは十字架の苦しみを受けられ、そして復活された、という恵みに感謝しながら、その恵みを与えられた神に立ち返る時なのです。