メッセージ - B年 年間

今日の朗読から浮き上がってくるテーマは「神の国」であり、また、それに属するための条件としての「信仰」です。キリスト者にとって、それはとても身近なものでありながらも、描写や説明しにくい現実です。とにかく、イエスの喩えから分かるのは、まずそれが弱くて傷つきやすいものだということです。少なくとも、芽生える時にはちっぽけなものにすら見えます。最初は説得力がなく、人から侮られたり笑われたりします。誰もそれに目を向けてくれません。それから、もう一つの特徴としては、もちろん人間の自由に委ねられてはいますが、ある意味で人間の努力に依らないものだということも見受けられます。一度神の呼びかけに答え、土台を据えたら、あとは何をしなくても神の力によってこの業が自然に大きくなっていきます、それを邪魔さえしなければ…。ただ、人間の傲りによって、やはりその結果を早く見たいし、しかも大きく見せたいということも見られます。信仰が自信や自慢と程遠く、過程であり、忍耐強く謙遜な人にしか委ねられません。ですから、信者として一番大事なことの一つは、「何もしないで神に任せる」ことと「自分でできるから、やってみせる」ことの間のバランスを見つけることなのではないでしょうか。

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メッセージ - B年 年間

第一朗読:創3,9-15

第二朗読:2コリ4,13-5,1

福音朗読:マルコ3,2-35

イエスの母、兄弟

3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3,31-35)

マルコによる福音書のこの一節を初めて読む人は皆、イエスのこの態度を奇妙に感じるか、あるいは無礼にさえ感じるであろう。しかし、母親や家族に反発することがイエスの本当の目的であろうか。本文を注意深く読めばすぐに、イエスは家族について何も語っておらず、彼らに会いたいとも無視したいとも言っていないことがわかる。この一節にはこの件に関する言及は何もないのである。イエスの母親と家族が彼を取り戻しに来て、彼らの前に出るよう求めたとき、イエスは群衆に教えを説いている最中であった。その家族の要求はイエスの仕事を妨げるものだった。なぜ母親と家族が群衆に交じってイエスの言葉を聞かず、イエスに群衆から離れて彼らのもとに来るように求めたのかという点について、マルコは情報を与えていない。その場所が混みあっていたために、イエスのところにたどり着くのが困難であったとか(その場合はイエスもまた簡単に外に出ることができないであろう)、あるいは彼らがイエスの教えを妨害したかったとか(それは彼らがイエスの伝道を受け入れていなかったことを意味するだろう)、そのような説明をするべきであろうか。しかし、イエスは家族に対しては一言も話さず、逆に家族の意味を両親と同じ血を受け継ぐものという狭義の「家族」から、同じ思想や信仰を共有するものという広義の「家族」へと拡大させた。イエスは言う「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。これは彼が新たな種類の家族を立ち上げたことを意味するのではあるが、それは伝統的で自然な解釈の家族を廃止するということではなく、共に生活し、共に働く他の人々にまでその定義を広げるということである。それが、キリスト教徒の最初の世代が自分たちを「兄弟姉妹(brothers and sisters)」と呼び合ようになった理由である。また、我々は成長すると家族(母親、父親、兄弟姉妹)のもとを離れ、新たに作った家族(夫、妻、子供)のために生きることになるが、そのことは我々が両親を忘れたり、自分自身の家族に注意を払うあまり彼らをないがしろにするというようなことを意味するわけではない。イエスはその思想、教え、行いによって、すべての人が同じ信仰の絆で結び付けられた一つの新しい家族を作り出した。

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メッセージ - B年 祭祝日

今日の三つの朗読箇所には、「契約」と「血」という言葉が共通して現れます。

第一朗読では、モーセが献げ物であるいけにえの血の半分を祭壇に、もう半分を民に振りかけ、イスラエルが神と契約を結びます。エジプトから救い出された民は、その救い主である神と特別な関係にあることを選びました。

第二朗読では、いけにえの動物の血ではなく、キリストの血こそが私たちの罪をあがない、神と人との間に永遠の契約を結ばせるものだと語られています。

福音朗読の、マルコ書による最後の晩餐である過越の食事の場面では、イエスが与えるパンをその体であるとすると共に、杯を人々のための「わたしの契約の血」であるとしています。過越、すなわちイスラエルの民が死の危機から命へと救い出された出エジプトを想起する食事において、イエスはこれから十字架の上で献げる死を通して人々を神の生命へと導く、その言葉が示されています。ですから、ミサの中で受ける聖体の内に、私たちはイエスが招いて下さった神との特別な関わりを思い起こします。

血は生命力の象徴であり、それゆえイスラエルの民は、肉は食べても血は口にすることはなく、生命の恵みを与えて下さった神に属するものとして特別に献げました。私たちはそのようなことは気にしませんが、それでもキリストの血の内に、神が与えて下さる生命の現れを見出します。

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メッセージ - B年 祭祝日

申命記 4:32-34, 39-40

ローマ 8:14-17

マタイ 28:16-20

アメリカで知り合ったお友達が最近日本に来ていただき、神学院で数日間滞在していました。帰る前にその知り合いは、「神学院はとってもいい共同体ですね」と言われました。数日間だけでしたし、ギリでそう言ってくださったのかなぁと半信半疑でその褒め言葉を聞いていましたが、出発の前にまた「本当にいい共同体ですね」と言われて、「あぁ、本当に思っているのかなぁ」と素直にその言葉を信じて、「有難うございました。今度院長に伝えておきます」と答えました。

先週、私たちは聖霊降臨を祝っていました。聖霊降臨は、集まっている人々の中に起こった出来事です。弟子たちがそれぞれ自分の家で、一人でいる時に聖霊降臨が起こったのではありません。聖霊降臨は、希望を失った人々、将来への不安を抱えながらも希望を失わずに心一つにして集まっている弟子たちの間に起こった出来事です。

今日は、三位一体の主日を向かいます。私たちが信じる唯一の神は孤独な存在ではないです。独りよがりの存在でもないです。私たちが信じる唯一の神は共同体的な存在、三位一体の神です。そして、神のあり方が全人類のあるべき姿でもあります。

マタイ福音書によれば、天に上げられる前にイエスが弟子たちに残した最後の言葉は、「すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

つまり、イエスが望んでいるのは、すべての人が三位一体の神の共同体の中に参与することです。神が共同体的な存在であるように、すべての人も一つの共同体となることが人類のあるべき姿です。弟子たちはそれを実現するための協力者となる使命を受けたということです。すべての人が聖霊に力づけられて、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるように協力することです。すべての人がキリストと共に共同の相続人となることを実現することです。

三位一体の神の主日は、神が共同体的な存在であるように、すべての人も一つの共同体であることを再確認する日ではないでしょうか。

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メッセージ - B年 復活節

毎年の復活節の終わりに、教会は聖霊降臨を祝っています。なぜなら、聖霊はイエス・キリストの世における使命を完成させているからです。復活したキリストが弟子に与えた最初の賜物だからです。師イエスの言葉を思い出し、理解させてくれる指導者だからです。少し想像しにくく理解しがたい聖霊を紹介するためには、聖書は様々なシンボルや様々な称号を使っています。まず、「真理の霊」、それから「弁護者」、「慰め主」、「心の光」などです。聖霊は賜物中の賜物なのです(ルカ11:13を参照)。

聖なる三位一体は、それぞれの位格には固有の働きがあっても、結局全てを業を三者ともに為しています。ですから、イエスの復活と聖霊降臨も非常に密接に結ばれています。興味深いことに、イエスはご自分を「聖霊において」御父に捧げたと書かれています(ヘブ9:14)。また、イエスを復活させた御父の霊が私たちのうちに住むなら、その同じ霊が私たちをも復活させてくださる、と聖書が述べています(ロマ8:11)。そして、聖霊は「命の与え主」とも呼ばれており、廃れてきたもの、衰えたものを再び生き生きさせる働きをしています。教父たちがこだわって強調していたように、聖霊との関わりが欠けてくるとイエス・キリストは大昔の人物でしかなくなり、彼の復活は記念や理念になってしまい、私たちの共同体も空回りしている人間的な組織になりかねません。

今日の朗読から伝わる最も強い印象の一つは、この聖霊は特に「一致の霊」であることです。同じ霊を受け、あるいは、同じ霊で満たされた人々は色々な違いがあっても、色々な言語を語っていても、それは対立に通じることではありません。聖霊降臨直後の教会は、今の世の中に足りない平和と一致(つまり多様性における一致)を見事に体現していました。それは画一化されたユニフォームなものではなく、むしろユニティーを目指し経験する一つの心・一つの体でした。これは、一回限りで獲得されたものではなく、常に把握されつつある不完全なもの、理想、それに近づいていく状態でなければなりません。私たちにさながら刻印として押されている聖霊はまだ完全な形で与えられているのではなく、ただ「保証として」与えられています。将来の完全な賜物、永遠の命への復活、神との完全な交わりなどをあたかも「前払い金」かのように先取りさせてくださるのも聖霊の働きに他なりません。また、聖書が伝えている聖霊の賜物とは、個人個人の持つ「愛、喜び、平和、柔和・・・」(ガラ5章における聖霊の実り)、すなわち自分さえ持っていれば満足できる「知恵、理解、力、畏敬・・・」(イザ11勝による聖霊の7つの賜物)だけではなく、それと同時に皆で経験する現実でもなければなりません。

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