メッセージ - B年 四旬節 |
第一朗読は有名な十戒です。十戒はイスラエルの民にとって神の民として従うべき規範でしたが、神の子として「聖なる者となる」というのは、私たちにとって四旬節のテーマの一つではないでしょうか。この出エジプト記版の十戒が申命記版の十戒と異なっているのは、安息日を聖別しなければならないのは「主が創造の後に安息日を聖別されたから」という理由を挙げていることです。
第二朗読では、十字架につけられて死んだキリストの惨めに見える姿が、私たちにとっては逆説的に強さであり、神の知恵である、と語られています。信仰のない人にとっては愚かさであり、つまずきであっても、キリスト者である私たちにとって何が大切なのかを見失わないようにしたいものです。
福音朗読では、いわゆる「神殿の清め」の出来事が語られています。「祈りの場、神との出会いの場であるはずの神殿が商売の家にされている」というところから、更に「本当の神殿とは建物ではなく、そこに神の御旨と働きが見出されるイエスご自身である」というところにまで議論が進みます。
いずれの朗読箇所も、「神の民になるとはどういうことなのか」「自分にとって大切なことは何か」「キリストの姿が私に語りかけるメッセージは何なのか」「どこで神と出会うのか」などの問いを私たちに投げかけています。ふりかえりと回心の時である四旬節に、キリスト者としての自分のアイデンティティと信仰の中心を見直したいと思います。
テーマ - テーマ |
四旬節の始まりの日である灰の水曜日には、「灰の式」が行われます。その中で司祭が灰を頭にかけるときに、「回心して福音を信じなさい」か「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」という言葉を唱えます。この「灰」そして「塵(ちり)」という言葉は、似たような意味で、聖書、特に旧約聖書の中で用いられます。
1.取るに足りないものとしての灰、塵
まず、灰や塵は取るに足りないもの、役に立たないもののシンボルとして用いられています。
罪深いソドムとゴモラの町を神が滅ぼそうとされたとき、思い返すようにアブラハムが反論します。
「私は塵や灰にすぎませんが、あえて、我が主に申し上げます。五十人の正しい者に五人足りないかもしれませんが、それでもあなたは町のすべてを滅ぼされますか」(創世記18:27)
また、ヨブは惨めな姿になった自分について語ります。
「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵や灰のようになった」(ヨブ30:19)
原初史物語において、禁じられていた木の実を食べて隠れていたアダムに、神が言います。
「お前は汗を流してパンを得るようになる。土に帰るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る」(創世記3:19)
この「お前がそこから取られた塵」は、さかのぼって創世記2章の創造物語を思い起こさせます。
神は取るに足りない土の塵で人を作り、鼻に命の息を吹き入れて生きる者とされたが、けれどもその与えられた命がなくなれば、やはり価値のない土の塵に戻ってしまいます。
イザヤ26:19でも、死者とは塵の中に住まう者とされており、塵は死を連想させるものです。
メッセージ - B年 四旬節 |
四旬節を始めるにあたって、二つのイメージを提供する朗読があります。一つは洪水、そのもたらす荒廃と新しい創造です。もう一つは砂漠、沈黙と孤独さ、自分との戦いです。実は、敵対する他人と戦うより、自分自身の弱さと戦う方がずっと難しかったりするし、そのためにある種の砂漠の経験と訓練が必要です。重要なメッセージとして、神は滅びではなく、命を望んでいるということがそこには響いています。謙って、自分の惨めさを認め、悔い改める人を神は滅ぼしたりはしません。神は私たちの味方なのです。
洪水も砂漠も古い世界の堕落と混沌とを意味しています。改正できないものを場合によって滅ぼすしかありません。神が計画してくださった「新しい天と新しい地」とは、前からあったものを完成させ、実現させるようなものだけではありません。むしろ新たな出発です。昔回心する機会を拒んだ人には第2のチャンスが与えられます、イエス・キリストの到来において。人類が再び洪水によって滅びることはないのですが、罪に溺れることは洪水の後も絶えることがありませんでした。それで、不正な人の代わりに義人のキリストが自分を無にする必要でした。
そういう意味で、洪水は洗礼の予型でした。地を堕落した人々から清めるのではなく、人々を罪から、古い考えから清めるために制定されたのです。それに本当に効力があるためには、イエス・キリストの出来事が不可欠です。キリストが身代わりになって、悪の波に飲み込まれ、新しい命へと復活したのでなければ、洗礼には象徴的な意味しかありません。しかし、キリストが混沌の力に打ち勝ち復活したならば、洗礼は新しい創造を意味するはずです。だからこそ、初期キリスト教の墓場には頻繁に鳥の姿が描かれ、しかもそれは聖霊の象徴である鳩ではなく、ノエが箱舟から飛ばせ、洪水が去ってしまい新しい命が芽生え始めたことを告げた鳥なのだ、と思われます。そして、もし洗礼が霊的な洪水から人を救うのなら、新しい箱舟というのは教会のことに他なりません。すなわち、荒波の立つ現代世界を無事に航海できるようにするのが教会の使命なのです。
テーマ - テーマ |
四旬節は、その字面の通り「四十日の期間」を表します。私たちキリスト者にとって一年で最も大切な時である、主のご復活までの40日間の準備期間です。実際には、主の復活を祝う主日である日曜日の6日間+40日で46日となります。
今回は、この「40」という数字がシンボルとして示す様々な意味について、聖書の記述から考えたいと思います。
1.一世代としての40年
何人もの士師や王の治世、あるいは祭司の任期などが40年であった(ギデオン-士師記8:28、エリ-サムエル記上4:18、ダビデ-サムエル記下5:4・列王記上2:11、ソロモン-列王記上11:42、ヨアシュ-歴代誌下24:1)。
出エジプトの後、荒れ野の旅において40年が経って世代が代わった(ヨシュ5:6)。
2.区切り、節目、一つのまとまりの単位としての「40」
きりが良い数字としての「40」です。
イサクが結婚した時(創世記25:20)、エサウが結婚した時(創世記26:34)、40才であった。
40万の歩兵が集まる(士師記20:2)。
らくだ40頭にのせた贈り物がエリシャのもとへ送られる(列王記下8:9)。
3.試練の時としての「40」
この意味での「40」が特に四旬節に深い関わりがあるでしょう。
雨が四十日四十夜続き、洪水が起こった(創世記7章)。地上の肉なるものすべてに死がもたらされた。
四十日四十夜、モーセがシナイ山に留まる(出エジプト記24:18、34:28)。パンも水も摂らず、その後十戒が与えられる。
四十日の偵察(民数13:25、14:34)。エジプトを脱出し、約束の土地へ入ろうとする際の出来事。
イスラエルは神への不信のために、四十年に渡って荒れ野を放浪しなければならなくなる(民数記14:33、32:13)。
預言者エリヤが四十日四十夜の旅をする(列王記上19:8)。命をねらうアハブ王から逃走し、神の山ホレブに着くと、そこで新しい使命を与えられる。
預言者ヨナがニネベの人々に、四十日後の滅びを預言するが、人々は悔い改めて災いが撤回される(ヨナ3:4)。
エジプトに対し、四十年間の荒廃が預言される(エゼキエル29:11-13)。
有罪の者へのむち打ちの数は罪状に応じるが、四十回を限度とする(申命記25:3、第二コリント11:24)。
旧約の「40」、特に四十年の荒れ野での放浪の旅が、新約の「40」に影響を与えています。
イエスが四十日間、荒れ野で断食し、試みを受ける(マタイ4:1-11;マルコ1:12-13;ルカ4:1-13)。
以上のように、私たちが過ごす四旬節の40日間というのは、私たちの信仰が試される試練の時でもあります。このまとまった時を通して、私たちは自分のあり方についてよく考え、自らの生き方を振り返り、神に立ち返るのです。
メッセージ - B年 年間 |
第1朗読 創世記3、16−19
第2朗読 1コリ10、31−11、1
福音書 マルコ1、40−45
唯一の神に完全な者として造られた人間は、自分自身が行った罪によって、弱さや苦しみや死などを味わう者となりました。現在の人間は、働くことと休むこと、健康と病気、悲しみと喜び、生きることと死ぬことなどを知る者です。しかしそれよりも、一人では十分でないという状態が一番厳しいことだと思います。そして、人間関係も大変難しいことです。人間が犯した罪の影響で、この状態は世界が終わるまで変わりません。
だから、この世でうまく生活できるように、互いに協力しなければなりません。「お互いに大事に」という表現は「愛のうちに人間の関係を作ろう」という意味に受け取れます。それは、強い人間が弱い人間の状態を見て助けてくれるということです。弱い人間とは、様々な状況がありますが、その中の一つは病気です。誰でもいつか、その弱さを味わうことになります。人間の力で癒せる病気もありますが、癒すことができない病気もあります。現代では、我々の国では少なくとも皮膚病を癒すことは簡単にできますが、まだそれが大きな問題となる国もあります。イエスの時代には、皮膚病は治らない病気だったので、皮膚病を患っている人は、しばしば村や町から離れたところに一人で皮膚病患者の集団に入れられました。その時代、皮膚病を治すためには奇跡を起こすしかありませんでした。今日の福音書の言葉によれば、主イエスはその奇跡を行いました。それは人間を助けるため、そして唯一の神の栄光を現わすために行った奇跡でした。
現代の世界でも治らない病気、つまり人間が病気に負けることはいくらでもありますし、奇跡が起こるようにという希望を持つより他に何もできないこともあります。そのような時、人間は唯一の神から助けていただくために、信仰を持って希望のうちに祈りの中で願います。その時、人間はできる限り病人に対して尽くし、時間も、力も、お金も捧げます。そのように行動する時、助けてあげる人は一つのことを理解する必要があります。それは「人間に対して行っている全ての良いことは、唯一の神の栄光をあらわすことだ」ということです。