メッセージ - C年 年間 |
ルカ10:1-2, 17-20
イエスはご自分の宣教に先立って、まず七十二人を任命し遣わされました。私たちも皆、主に遣わされた宣教者です。七十二人の中の一人として、それぞれ自分の場に遣わされています。その派遣にあたって、いくつかのことが命じられています。
「働き手を送って下さるように主に願いなさい」
働くのは私たちですが、私たちを遣わされるのは神であり、そこに現れるのは私たちの力ではなく、神のみ業です。
「財布も袋も履物も持って行くな」
物質的な何かではなく、神の助けがあることに全幅の信頼を寄せるよう求められます。
「途中でだれにも挨拶をするな」
道草を食いながら、井戸端会議で時間をつぶしながら行く余裕はありません。他の何かに気を取られず、まず第一に神の国を告げ知らせるよう急かされています。
「『この家に平和があるように』と言いなさい」
私たちが告げるのは平和です。ですから神の国は「平和」と言い換えることができます。平和とは、第一朗読のイザヤによれば、母が子を慰めるような神の愛です。
「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」「家から家へと渡り歩くな」
必要なものは感謝して頂きますが、自分が欲しい報酬のために働くのではありません。また、よりよい報酬を求めて、あっちに行ったりこっちに行ったりするのは良いことではありません。
「その町の病人をいやし、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい」
これまでのほとんどのことは、派遣されるに当たっての心構えでしたが、ここで私たちに託されている中心的な使命がのべられています。
それは言葉と行いの両方で、神の国(平和、つまり神の愛)を示すことです。
狼の群れの中に送り込まれる羊だとしても、力強く歩んでいくことができるよう、これらのことを私たちへの励ましと導きとして心にとめたいと思います。
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
「聖書が教えるカテキズム」2016年5月の講話
序.
天地創造の時から御父の御心の内に計画された教会は、御子イエス・キリストによって創立され、聖霊の注ぎによって地上で実現されました。イエス・キリスト御自身の言葉と使徒たちの教えに基づきますと、教会はただ一つであり、聖霊によって聖とされ、すべての人のために普遍であり、使徒たちが残した信仰を土台にして未来へと発展しています。したがって、ニケア・コンスタンチノポール信条は、「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。」と言って教会に対する信仰を宣言します。信仰宣言の原文によりますと、教会の特質の順番は、「一」、「聖」、「公(普遍)」、「使徒伝承」となります。教会が一つであると強調されています。
この講話は、教会の四つの特質、そして教会が持つ精神や特徴などを紹介します。
1.「一」である教会
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音17章21~23節)
以上の引用は、キリストが御受難を受ける前に、最後の晩餐の時に弟子たちの前に御父にささげられた祈りの一部です。キリストは弟子たちを始め、すべての信者の一致のために力強く御父に祈りました。弟子たちが福音宣教して誕生するすべての教会共同体は、キリストの内に完全に結ばれるためです。一つになる心は、キリストが最後の晩餐の時に制定された御聖体の秘跡の内に現しました。即ち、イエス様は一つのパンを取って、御自分の体に聖変化され、弟子たちに分け与えてくださいました。こうして、唯一の主、イエス・キリストは弟子たちの内に生きるようになって、彼らを御自分の内に一つにしてくださったのです。
多種のたまもの、様々な民族や文化、多様な任務や生活様式にある教会が自分の特質として一つであるとは、唯一の神にその源があり、唯一の教会の創立者主キリスト、地上に教会を誕生させ、満たして成長させる唯一の主なる聖霊によるものです。その結果として、教会は唯一の信仰宣言、唯一の洗礼、一つの礼拝をもって神様を賛美します。一致を完成させる絆は、キリストが十字架上で表した無限な神様の愛です。
教会の一致を損なうのは、神様の限界ではなく、人間側の罪です。教会共同体内外の争い、異端、背教、離教などの罪は分裂をもたらし、教会全体を種々の団体や宗派などに分かれます。しかし、神様の変わらぬ愛は、私たちを違ったり分けたりすることは決してありません。神様は、いつも全教会が一つになるように聖霊を注いでくださいます。
2.「聖」である教会
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ教会への手紙3章12-17節)
人間の本性が罪によって傷を負っているから、教会の信者も、罪深い者です。ところで、以上の御言葉は、私たちに神様がお考えになった人間らしい聖なる生き方を描いています。神の子、イエス・キリストは、この世に、「罪人を招いて悔い改めさせるために」(ルカによる福音5章32節)、そして、ご自分の死と復活によってすべての人を聖とするために来られました。キリストは、代々にわたって洗礼や他の教会の秘跡を通して、一人ひとりの信者を聖化させ、神の子どもとする恵みを与えてくださいます。したがって、使徒パウロはこう書いています。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ教会への手紙5章26-27節)と。
教会の「聖」は、地上において未完成のままです。人間の行いのためではなく、教会で実現される神様の恵みと救いの業によって、教会は「聖」です。聖性の魂は愛です。聖性の完成は救いの恵みに応えた信者の内に天上の教会で完成されます。そのために教会の信者がこの地上で、謙遜に自分の罪深さを認めて悔い改め、神様の恵みに心を開き、その慈しみと愛に応え、キリストのように生きることに招かれています。
地上においても神様の恵みに忠実に生きた信者を、教会は列聖します。列聖された聖人たちは、困難にあっても神様の愛に応えて聖なる生き方の模範を示し、今よりも代々にわたって教会の霊的な刷新に貢献する者となりました。特に、キリストとの親密な関係の中で生涯を生きた聖母マリアの内に、教会がまったく聖なるものであることを信じています。
3.「公(普遍)」である教会
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音28章19-20節)
教会の名称となる「カトリック」(ラテン語でCatholica)という言葉は、「普遍」という意味を持っています。教会は、神様のものですからすべてのためであり、欠けることなく「すべてを含む」という意味です。以上の御言葉の引用の中では、イエス様が御昇天なさる直前に遺言として残した教会の普遍性の意味を言われています。教会は、特定の宗教団体(例えばカトリック教会)のためではなく、特質として、すべての人を含むものにしなければなりません。教会は宣教するためにキリストによって派遣され、キリストの教えを伝え、洗礼を授けて、すべての人をキリストの弟子にし、三位一体の交わりの中に加わるように使命を受けているからです。キリストがすべての人の救い主であり、教会の内に現存されるので、私たちは普遍の教会を信じます。
全世界に広がる「部分教会」は、教区や小教区に分けられているが、すべてが普遍です。なぜなら、各共同体がキリストの名によって集まり、同じキリストがそこに現存するからです。そして、すべての部分教会は、ローマ教会との交わりよって御自分の普遍性を目に見える特質とします。初代のローマ教会の教皇は使徒ペトロだからです。イエス様は使徒ペトロに次のように言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)と。いわゆる、使徒ペトロが告白した信仰は、十二使徒の信仰告白を総括し、その信仰の上に教会を建てる約束してくださったからです。
4.「使徒伝承」である教会
「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネによる福音20章19-22節)
以上の福音箇所の中に記されている御復活なさったキリストの言葉によりますと、使徒伝承である教会には三つの意味があります。
① 教会は「使徒という土台」(エフェソへの手紙2章20節)の上に建てられたものです。
② 教会は、使徒たちがキリストから聖霊を頂いて、キリストによる成し遂げられた救いの 恵みの管理者に任命され、キリストと同じ使命を果たすように遣わされています。
③ 教会は、世の終わりまで使徒の後継者である司教団によって教えられ、導かれ、聖化されるようにキリストによって選ばれています。そして、キリストが世の終わりまでいつも共におられることを約束してくださいました。(マタイによる福音28章20b節)
5.教会の定義
教会は、信仰生活の体験によって、自分自身を次のように定義しています。「教会は、神の民、キリストの体、聖霊の神殿である」と。
1)教会は神の民である。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」(ペトロの第一手紙2章9~10節)
神の民である教会は、歴史上のすべての宗教、民族的、政治的団体と異なり、神御自身に属して統治されています。そのメンバーは体の誕生によるのではなく、水と霊によって「上」から生れた者です。油注がれた者として、キリストの持っている救いの使命を果たし、神様の子どもの品位と自由を持っています。その使命は、「地の塩、世の光」として、人類に神様の救いを芽生えさせ、その目的は、キリストと一致して神の国の実現に貢献することです。キリストの祭司職に与って世界を聖別し、キリストの預言職に与ってキリストについて証をし、キリストの王職に与って神様の愛を持って奉仕のために自分を尽して捧げられたものとなります。
2)教会はキリストの体である
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(コリントの第一手紙12章27~28節)
イエス様は、ご自身の霊によって全世界に広がる教会の一人ひとりの信者の心に生きておられます。それぞれの信者は神から頂いた賜物を用いながら救いの業を行っています。この意味で教会の信者は、イエス・キリストの体となります。したがって、全世界で救いの業を実現していくのは、「全キリスト」である教会であると言います。キリストは「教会の頭」(コラサイ1,18)であり、教会はキリストの「花嫁」であるとも言います。その目に見えるしるしは、御ミサの時に信者たちが頂くキリストの御体です。聖体拝領によって唯一のキリストは多くの信者の内に生きるようになり、皆はキリストの神秘体になるのです。イエス・キリストは、最後の晩餐の時に御自身をぶどうの木に例え(参考資料:ヨハネによる福音15章)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言われました。枝が木に繋がっていなければ枯れてしまうから、キリストは、すべての人が永遠に生きるために、御自身に繋ぐように強いて教えてくださいました。
3)教会は聖霊の神殿である
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
(コリントの第一手紙6章19~20節)
神様を否定しない限り、聖霊の働きは、どんな人の内にも可能です。しかし、洗礼によって神様の子どもとなる聖霊を受けた信者は、聖霊の住まいになります。使徒パウロは、信者の一人ひとりは「聖霊の神殿である。」と言います。私たちは、人間的な弱さや罪深さによって聖霊の働きを妨げることがないように、心を開いて聖霊の愛の働きが教会と世界を清め、生かしていくために聖霊の道具になるように呼ばれています。
6.教会の精神を示す四つの特徴
「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
(使徒言行録2章41~42節)
聖霊降臨の後に、使徒ペトロは集まった群衆に、キリストの死と復活によって成し遂げられた救いの業について証しすると、その日に3千人程が洗礼を受けて、地上の目に見える教会が発足されました。教会の信者を識別する精神は使徒言行録を引用された上記の箇所の通りです。
一つ目は、「使徒の教え」です。それは、使徒たちがキリストの内に見出した神様を紹介し、救いの福音を宣べ伝えることです。
二つ目は、「相互の交わり」です。それは、神様の呼びかけに応えて神様の家族として一つに集まることです。
三つ目は、「パンを裂くこと」です。それは、最後の晩餐の再現である御ミサに参加してキリストの内に皆が一つになることです。
四つ目は、「祈ることに熱心」です。それは、祈りを形式的ではなく、三位一体の交わりの中での神様と親密の交わりを作り上げることです。
結び
次回は、「聖徒の交わりを信じる」という信仰の内容を意識して、地上の教会の構造と召命、そして天上の霊的な教会を紹介することになります。
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(ルカ9,51-62)
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」ルカ9,51
人類の歴史を見ると、殆どの権力者は、手に入れた権力を弱い人や完全に無力な人々の利益のために用いるのではなく、自分自身や自分の仲間の利益のために用いているということが分かります。また、何らかの悪事を行ったためではなく、権力者に逆らったために罰せられることも、珍しくないでしょう。
以上の経験に基づいて、多くの人は、最高の支配者、最高の権力者である神が、この地上の多くの支配者や権力者と同じように振る舞っておられると、思い込んでいるようです。イエスを歓迎しなかったサマリア人を滅ぼし、復讐しようとしていたイエスの弟子たちは、きっと、このように考えていたのでしょう。
天から来られた方として、神のことを完全に知っておられたイエスは、多くの人々が想像している神とまったく異なる神を、ご自分の言葉と行いによって現してくださいました。弟子たちに、復讐を禁じることによってイエスが教えてくださったのは、神がご自分に逆らう人々に対して、絶対に罰を与えないし、復讐もしないということなのです。「エルサレムに向かう決意を固められた」ことによって、イエスは神についてさらに素晴らしいことを現してくださいます。
イエス・キリストが、ご自分に対して敵意を持って、ご自分を殺そうとしていた権力者が大勢いるエルサレムに行かれたのは、この人たちを滅ぼすためではなく、この人たちにも神の愛を現し、回心へと呼びかけ、神との愛の交わりに招くためなのです。確かにイエスは、権力者たちがご自分の証しを受け入れないこと、ご自分の呼びかけと招きに応える代わりに、ご自分を殺してしまうことを知っておられました。それにもかかわらず、エルサレムに行くことにされたのは、苦しみを避けたい、ご自分の命を守りたいというような望みよりも、彼らにも神の愛を現したい、彼らを神のもとに導きたいという望みの方が強かったからです。その意味で、エルサレムに行くことは、ご自分に対して敵意を持っていた人に対する真の愛の表現であったとともに、すべての人々に対する神の愛を現す行動でもあったのです。
神の意志に逆らって罪を犯した人間や、大きな悪事を行い、他の人と神ご自身を傷付けた人さえを愛し続けて、この人の救いを求め、いつも和解と愛の交わりへと招いておられる神に信頼して、神の招きに応える人がますます増え、神の国が発展していきますように祈りましょう。
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テーマ : キリスト
第一朗読:ゼカリヤ12,10-11;13,1
第一朗読の言葉はゼカリヤ書の第二部分(ゼカリヤ9-14)終末論的な教えに関する言葉です。紀元前4世紀に書かれた言葉は「刺し貫いた者」についての預言です。預言者が誰についてこの預言をしたかがよく分かりませんが新約聖書の中では「刺し貫いた者」はイエスです(ヨハ7、37-39;19、34.37)。
第二朗読:ガラテヤ3,26-29
第二朗読の言葉は「律法と信仰」に関する問題(ガラ3,1-4、20)についてのパウロの論戦の中の一つの議論です。パウロによれば人間は信仰による義を強いられます(ガラ3、24)。信仰によって義と認められたすべての信者たち(ユダヤ人だけではなく異邦人にも)はイエスの業おかげで神の子供になりました。
福音朗読:ルカ9,18-24
イエスについて人々の意見は異なっていました(ルカ9、18-19)。イエスの弟子たちの中でペトロがイエスの質問に正しい答えをしました(ルカ9、20-21)。しかし、質問に正しい答えを出すこととイエス自身を正しく理解できることは同じことではありません。だから、神のメシヤであるイエスが人間として(人の子として)受難を受けます(ルカ9、22)。弟子たちはこのイエスの説明を復活際まで理解できませんでした。
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この主日に朗読される福音(ルカ7,36-50)は、イエス様がファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着かれた時に、罪深い女がやって来て涙で彼の足を濡らして自分の髪の毛で拭い、接吻して高級の香油を塗った出来事を描いています。ファリサイ派の人は、イエス様が神様から来られた預言者なら罪深い女を追い払ったはずだと思い込んで、キリストを不審に思っていました。
真面目に働く人に報い、働かない人を辞めさせること、義人を誉め、悪人を罰することは社会常識になっています。自分に親切な人を愛し、失礼な人に対して反感を持って遠ざけることも人間の常識とも言えるでしょう。しかし、このような世間的な価値観を神様に当てはめることは大変な間違いです。神様は、義人を天国へ、罪深い人を地獄へ送ろうとする方ではありません。本日の福音が紹介するファリサイ派の人は、このような過ちを犯しました。
神様の愛と慈しみは、私たちの行いによって変わることなく、私たちに無償で無条件に与えられるものです。私たちが神様を愛したから、神様は私たちを愛してくださったのではなく、神様は先に私たちを愛し、罪深い私たちをイエス・キリストの十字架の死によって赦してくださったのです。自分が義人であると思ったファリサイ派の人は、神様に罪の負債がないと思い込んで、キリストに対する小さな親切だけを表します。罪をたくさん犯した女は、すべてを無償に赦された喜びから、キリストに対する大いなる愛を示しました。したがって、キリストは、ファリサイ派の人に、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」と仰いました。
私たちは、自分と他人の罪の重さを比較してはいけません。なぜなら、罪によって人類の本性が傷つけられているので、誰であれ、大変な罪を犯す危険にさらされているからです。大切なのは、人間の罪深さに目を向けることなく、神様の愛、恵み、慈しみと赦しを見つめて、それを心に留め、喜びと感謝の内に生きることです。特に信者は、洗礼の恵みを受け、罪を取り除いて永遠の命を頂き、御ミサに参加して永遠の命の糧に養われている恵みをたくさん生きているはずです。天国は地上で稼いで得るものではなく、神様の救いによる恵みです。この恵みに与るために、神様の愛に応えて愛を実践して生きることは、信仰生活の最も大切な側面です。
神様の愛に応えずに悪事を行うなら、救いに与れない恐れがあります。私たちは神様に愛されたから愛することができるので、不完全な人間の常識を超えてキリストに倣い、相手の善悪に関係なく、すすんで人を愛して無償の愛で人を赦すように招かれています。