メッセージ - C年 復活節 |
テーマ: 「イエスは、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルカ24章51節)
イエス・キリストは、三日目に死者の中から復活して弟子たちに何度も現れ、四十日目に身体と共に御昇天なさったと福音の中で書かれています。 今日、教会が御昇天を記念してお祝いをするに当たり、私たちはこの救いの神秘に与るように、御言葉にもとづいてこの出来事の意味を心に留めましょう。
人となった神の子、キリストは、歴史上の一人の人間として決まった場所で生れ、生活し、活動なさいました。御自分の死と復活によって成し遂げられた救いの業も歴史的な事実であり、それは、ローマ総督ピラト時代にユダヤ人の過越の祭の準備の日に、エルサレムで実現されました。キリストの業を目撃して体験できた人は、時間的にも、範囲的にも非常に限られていました。復活したキリストに出会った人が数百人に留まっていると書いています。ところで、御昇天の出来事は、キリストの救いの業を超越させました。キリストとの地上の出会いとその救いに与ることは、時間的にも空間的にも限られていたが、御昇天によって普遍的なものとなりました。キリストは、ご自身の存在をみ言葉と秘跡の内に秘められ、成し遂げられた救いの神秘を弟子たちに委託し、彼らを全世界に派遣されました。こうして、いつの時代の人も、どこでもキリストに出会うことができ、代々とこしえに誰もがキリストの救いに与ることができるようになりました。
キリストの御昇天をもって、地上の人生は一時的なものであることを実感させられます。キリスト者とは、地上の人生の目的を知る人であり、キリストのように生きるため、神様の愛とキリストの死と復活について証しするために生きる者です。神様のお望みは、地上の生活を終わった後にすべての人が天国に入ることです。人間が送る地上の生活は必ず終ります。ところで、キリストは御昇天をもって、人生が天国への旅であることを示し、天国を目指していく模範を示してくださいました。キリストは、御昇天の際に、十二使徒を、御自身の復活の証人として全世界に遣わされました。
ところで、キリストは弟子たちに自分の思いや気持ちに従がって証しすることをお許しなりませんでした。本日の福音の中でキリストは御昇天の直前に十二使徒に、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい。」(ルカ24章49節)と言い残してくださいました。また、第一朗読の中で聖ルカは、イエス様が御昇天の直前に次の言葉を弟子たちに語ってくださったと言います。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまでわたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)と。即ち、キリストは、聖霊降臨を待つようにお命じになりました。そして、聖霊に満たされた者は、初めてキリストによる救いの出来事について証しすることができます。換言すれば、聖霊ご自身が私たちを道具にして、キリストの死と復活について証しするのです。
現代教会の福音宣教も、聖霊の望まれるままに行われる所では、多くの実を結びますが、人間の計画を優先する世俗化の環境では衰える現実に遭遇します。今日、典礼上で再現されるキリストの御昇天は、十二使徒に倣って聖母マリアと共に祈りの内に留まります。洗礼と堅信の秘跡の中で頂いた聖霊が自分たちの内に働くように致しましょう。キリストの死と復活によって成し遂げられた救いの業を自分たちの生活を通して実現して行くことができますように祈り、支え合って行きましょう。天に昇られたキリストは、弟子たちを祝福していたように、私たちの信仰生活を祝福し、御自身の霊を持って、世の終わりまで私たちと共に生きておられます。
メッセージ - C年 復活節 |
(ヨハ14,23-29)
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」ヨハ14,27
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」というイエスの言葉は、ミサが行われる度に唱えられるほど重要なものです。この言葉を語られた後にイエスは、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14,27)という言葉を付け加えて、自分が与える平和と一般的に考えられている平和とは、違うものであると強調されました。
ある国語事典によれば、平和とは、「心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活ができる状態」です。考えてみれば、そのような平和を実現するためには、悪い行い、他人を悲しませ、傷付けるような行いを避けるだけで十分です。それは簡単に見えるかもしれませんが、人類はそのような平和さえもなかなか実現できないのです。歴史を見れば誰でも分かることですが、自分の幸福だけを求めている人は、自分が弱い時、相手と争うことが自分の損失になるだろうと思う時、悪いことを諦めて、以上の意味での平和を保つように努力しますが、相手より強くなって、相手を攻めることが自分の利益になると思う時には、平和を簡単に破ります。
イエスが与えてくださる平和とは、シャローム、すなわち人間の完全な幸福の状態です。この平和を実現するためにイエスは、私たちを利己心から解放し、神と他の人々との正しい関係に導いてくださいます。正しい関係というのは、相手に悪いことをしないだけではなく、相手を尊敬すること、相手の善を求めて、そのために積極的に力を尽くすこと、すなわち相手を愛することなのです。
人々は神と他の人々との愛によって結ばれる時だけ、すべての人々が心の中で求めている平和、しかも永遠に続く平和が実現されるのです。この恵みを常に願い求めましょう。
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
序.
前回の講話の中で信仰宣言の弟三箇条の預言者を通して語られる聖霊について話しました。この度、ニケア・コンスタンチノポールの信条の「聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け(る。)」という信仰内容について話すことになります。それは、「時が満ちた」と言われるキリストの時代に聖書が語る聖霊の働きになります。即ち、聖霊が御父から降り、キリストとの一致の内に地上で救いの業を実現し、復活したキリストによって使徒たちに与えられ、御昇天後にキリストが御父のもと使徒たちに遣わされたのです。それは、聖霊降臨の出来事であり、地上の教会の誕生です。
1.神の子キリストの受肉の神秘を成し遂げる聖霊
「天使(ガブリエル)は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』 マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。』」 (ルカによる福音1章30~35節)
以上の福音箇所は、「神のお告げ」と言います。神様から遣わされた天使ガブリエルは、聖母マリアは、神様の恵みと愛に満たされて、聖霊によって神の子を身ごもったことを伝えます。そして、この出来事は、神様が王ダビデに約束してくださったこと、また、旧約の多くの預言預言が語った言葉の成就であることを証明され、信じるために提供されています。
2.聖母マリア、エリザベト訪問の時に働かれる聖霊
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」
(ルカによる福音1章41~45節)
聖霊に満たされて御子を宿したマリア様は、エリザベトが子を身ごもったことを知り、奉仕しに行きます。聖母マリアが天使の挨拶を受けて聖霊に満たされたように、エリザベトは、聖母マリアの挨拶を受けて聖霊に満たされたのです。同時に、エリザベトの胎内の子、神様の摂理の中でキリストの先駆者としてこの世に生れる将来の洗礼者ヨハネも聖霊に満たされたのです。
3.洗礼を受ける時にキリストに注がれる聖霊
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音3章21~22節)
洗礼者ヨハネは水で洗礼を多く人々にのに授けていました。それは、キリストに出会う準備としての悔い改めの業であり、心の清めのしるしでした。ところで、洗礼者ヨハネがキリストに洗礼の授けていた時に、聖霊の働きが目撃されました。洗礼者ヨハネは、これについて次のように証しします。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネによる福音1章33~34節)こうして聖霊は、イエス様が神の子であることを証し、天国を開いて御父のお声を聞かせて、至聖なる三位一体の啓示を致しました。
キリストは、受肉の瞬間から聖霊に満たされて、初めから神の子、キリストです。主の洗礼の時、聖霊の注ぎは、一人の人間としてイエス様の生き方を変え、救い主の使命を果たすようになるに「時が満ちた」ことを目に見える表現となりました。キリストはギリシア語で「油注がれた者」(ヘブライ語でメシア)と言います。それは、主の洗礼の時の「聖霊の注ぎ」を比喩的に指す名称であり、地上の神様の代理であることを表します。
イエス様ご自身も、故郷ナザレの会堂で、イザヤの預言(61章1-2節)が自分の内に実現したことを証しました。「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4章18~21)と。
4.キリストによって約束された聖霊
1)ニコデモへの約束した聖霊
「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。“あなたがたは新たに生まれねばならない”とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」
(ヨハネによる福音3章5~8章)
キリストを訪ねたファリサイ派のニコデモ、ユダヤ人の議員は、イエス様が救い主であると信じて、これからどうすればいいかと尋ねました。以上の福音箇所がありますと、キリストの答えには、水と霊による洗礼が人を新しく生まれさせるという説明がありました。そして、人の救いは、人間の力によるのではなく、神様の神秘的な救いの計画に従がっての聖霊の思うままの働きによって実現されるものであると教えてくださいました。
2)最後の晩餐の時に約束した聖霊
「(イエスは言われた。)『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』」
(ヨハネによる福音14章15-18節)
キリストはご受難を受ける前にご自分の弟子たちとお別れに過越祭の食事をなさったときに、御自身の代りに御父から聖霊を遣わすことを約束してくださいました。ところで、聖霊を頂く条件とは、キリストを愛し、その言葉を守ることになっています。遣わされた聖霊は、弁護者(Paracletos =「共にいる方」)であるから、死を超えて永遠に私たちと一緒にいることを約束してくださいました。これに続きキリストは、「その方は、私のものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハネによる福音16章15節)と仰せになって、聖霊の内にご自身現存を弟子たちに残してくださることを教えてくださいました。同じ意味で、マタイによる福音によりますと、復活したキリストは、「わたしは世の終わりまで、あなたがたと主にいる」(マタイによる福音28章20b節)と仰せになったのです。
3)御復活なさったキリストが弟子たちに吹きかける聖霊
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』と。」
(ヨハネによる福音20章21~23節)
以上の福音箇所は、復活したキリストは御自身の息吹によって弟子たちに聖霊をお与えになったことを示します。聖霊は、キリストの霊でもあり、彼らに罪を赦す権能をお与えになりました。キリストは聖霊の力によってご自身の救いの使命を弟子たちに委託して、世の終わりまでそれを実行して行くように派遣してくださいました。
5.聖霊降臨
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章1~4節)
キリストが御昇天なさった後に、弟子たちは祈りの内に約束された聖霊を待ち望んで、九日目に、以上に表現された体験をしました。聖霊降臨の「激しい風」とは、聖書原文の “Pneuma(プネウマ)”が、「息」、「霊」をも意味します。十二使徒は、キリストのご復活の命が自分たちの内に力強く働くことを体験しました。聖霊降臨の「炎」とは、彼らが神様の愛で満たされたことを表現します。その愛は炎のように彼らを清め、理性を照らし、導き、神様に向って成長させました。聖霊降臨の「舌」は、言葉をもって人にメッセージを伝える道具として象徴的な意味から、弟子たちに福音を宣べ伝える力、誕生した教会を聖霊の交わりに加えて、人と神様との交わりを実現する聖霊の働きを表現します。
聖霊降臨の日に十二使徒はまったく変わりました。ユダヤ人の指導者たちを恐れてドアを閉めていた彼らが、町に出て、大胆にキリストの死と復活について証しし、三千人に洗礼を授け、地上に目に見えるキリストの教会を設立したのです。これこそは、聖霊の働きによるものです。
6.教会の中で働かれる聖霊
使徒パウロは初代教会で聖霊の働きについてたくさん述べられていますが、それは以下の三つの聖書箇所で紹介されています。
① 神様との交わりを可能にする徳を与える聖霊
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントへの第一手紙13章13節)
② 教会に賜物を与える聖霊
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
(コリントへの第一手紙12章4~11節)
③ 実を結ばせる聖霊
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤへの手紙5章22~23節)
したがって、聖霊は信者に信仰の恵みを与え、永遠の頂く希望を与え、神様と一つに結ばれれる愛の徳を与えます。そして聖霊は、一人ひとりに異なる賜物を与えます。人間は、その賜物を教会の中で愛を実践して行くために分かち合い、奉仕し合うことによって豊かになり、聖霊の交わりの中で皆が一つに結ばれます。このような共同体は、上述された聖書箇所の実を結ぶことができます。
結び
この講話の中で、新約聖書をもとにして聖霊に対する信仰の内容を紹介致しました。聖霊は、人間の内に神の働きを表現するので、聖書の中で聖霊のみを礼拝する箇所が少ないのです。しかし、御父と御子の御業を教会と聖会の内に実現するので、聖霊が教会で御父と御子と共に礼拝されているということを教会は宣言します。
次の講話は、聖霊の被造物である教会に対する信仰を紹介します。
第9講話「父と子から出る聖霊を信じます」
By Ziebura Eugeniusz
「聖書が教えるカテキズム」2016年3月の講話
序.
前回の講話の中で信仰宣言の弟三箇条の預言者を通して語られる聖霊について話しました。この度、ニケア・コンスタンチノポールの信条の「聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け(る。)」という信仰内容について話すことになります。それは、「時が満ちた」と言われるキリストの時代に聖書が語る聖霊の働きになります。即ち、聖霊が御父から降り、キリストとの一致の内に地上で救いの業を実現し、復活したキリストによって使徒たちに与えられ、御昇天後にキリストが御父のもと使徒たちに遣わされたのです。それは、聖霊降臨の出来事であり、地上の教会の誕生です。
1.神の子キリストの受肉の神秘を成し遂げる聖霊
「天使(ガブリエル)は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』 マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。』」 (ルカによる福音1章30~35節)
以上の福音箇所は、「神のお告げ」と言います。神様から遣わされた天使ガブリエルは、聖母マリアは、神様の恵みと愛に満たされて、聖霊によって神の子を身ごもったことを伝えます。そして、この出来事は、神様が王ダビデに約束してくださったこと、また、旧約の多くの預言預言が語った言葉の成就であることを証明され、信じるために提供されています。
2.聖母マリア、エリザベト訪問の時に働かれる聖霊
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」
(ルカによる福音1章41~45節)
聖霊に満たされて御子を宿したマリア様は、エリザベトが子を身ごもったことを知り、奉仕しに行きます。聖母マリアが天使の挨拶を受けて聖霊に満たされたように、エリザベトは、聖母マリアの挨拶を受けて聖霊に満たされたのです。同時に、エリザベトの胎内の子、神様の摂理の中でキリストの先駆者としてこの世に生れる将来の洗礼者ヨハネも聖霊に満たされたのです。
3.洗礼を受ける時にキリストに注がれる聖霊
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音3章21~22節)
洗礼者ヨハネは水で洗礼を多く人々にのに授けていました。それは、キリストに出会う準備としての悔い改めの業であり、心の清めのしるしでした。ところで、洗礼者ヨハネがキリストに洗礼の授けていた時に、聖霊の働きが目撃されました。洗礼者ヨハネは、これについて次のように証しします。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネによる福音1章33~34節)こうして聖霊は、イエス様が神の子であることを証し、天国を開いて御父のお声を聞かせて、至聖なる三位一体の啓示を致しました。
キリストは、受肉の瞬間から聖霊に満たされて、初めから神の子、キリストです。主の洗礼の時、聖霊の注ぎは、一人の人間としてイエス様の生き方を変え、救い主の使命を果たすようになるに「時が満ちた」ことを目に見える表現となりました。キリストはギリシア語で「油注がれた者」(ヘブライ語でメシア)と言います。それは、主の洗礼の時の「聖霊の注ぎ」を比喩的に指す名称であり、地上の神様の代理であることを表します。
イエス様ご自身も、故郷ナザレの会堂で、イザヤの預言(61章1-2節)が自分の内に実現したことを証しました。「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4章18~21)と。
4.キリストによって約束された聖霊
1)ニコデモへの約束した聖霊
「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。“あなたがたは新たに生まれねばならない”とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」
(ヨハネによる福音3章5~8章)
キリストを訪ねたファリサイ派のニコデモ、ユダヤ人の議員は、イエス様が救い主であると信じて、これからどうすればいいかと尋ねました。以上の福音箇所がありますと、キリストの答えには、水と霊による洗礼が人を新しく生まれさせるという説明がありました。そして、人の救いは、人間の力によるのではなく、神様の神秘的な救いの計画に従がっての聖霊の思うままの働きによって実現されるものであると教えてくださいました。
2)最後の晩餐の時に約束した聖霊
「(イエスは言われた。)『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』」
(ヨハネによる福音14章15-18節)
キリストはご受難を受ける前にご自分の弟子たちとお別れに過越祭の食事をなさったときに、御自身の代りに御父から聖霊を遣わすことを約束してくださいました。ところで、聖霊を頂く条件とは、キリストを愛し、その言葉を守ることになっています。遣わされた聖霊は、弁護者(Paracletos =「共にいる方」)であるから、死を超えて永遠に私たちと一緒にいることを約束してくださいました。これに続きキリストは、「その方は、私のものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハネによる福音16章15節)と仰せになって、聖霊の内にご自身現存を弟子たちに残してくださることを教えてくださいました。同じ意味で、マタイによる福音によりますと、復活したキリストは、「わたしは世の終わりまで、あなたがたと主にいる」(マタイによる福音28章20b節)と仰せになったのです。
3)御復活なさったキリストが弟子たちに吹きかける聖霊
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』と。」
(ヨハネによる福音20章21~23節)
以上の福音箇所は、復活したキリストは御自身の息吹によって弟子たちに聖霊をお与えになったことを示します。聖霊は、キリストの霊でもあり、彼らに罪を赦す権能をお与えになりました。キリストは聖霊の力によってご自身の救いの使命を弟子たちに委託して、世の終わりまでそれを実行して行くように派遣してくださいました。
5.聖霊降臨
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章1~4節)
キリストが御昇天なさった後に、弟子たちは祈りの内に約束された聖霊を待ち望んで、九日目に、以上に表現された体験をしました。聖霊降臨の「激しい風」とは、聖書原文の “Pneuma(プネウマ)”が、「息」、「霊」をも意味します。十二使徒は、キリストのご復活の命が自分たちの内に力強く働くことを体験しました。聖霊降臨の「炎」とは、彼らが神様の愛で満たされたことを表現します。その愛は炎のように彼らを清め、理性を照らし、導き、神様に向って成長させました。聖霊降臨の「舌」は、言葉をもって人にメッセージを伝える道具として象徴的な意味から、弟子たちに福音を宣べ伝える力、誕生した教会を聖霊の交わりに加えて、人と神様との交わりを実現する聖霊の働きを表現します。
聖霊降臨の日に十二使徒はまったく変わりました。ユダヤ人の指導者たちを恐れてドアを閉めていた彼らが、町に出て、大胆にキリストの死と復活について証しし、三千人に洗礼を授け、地上に目に見えるキリストの教会を設立したのです。これこそは、聖霊の働きによるものです。
6.教会の中で働かれる聖霊
使徒パウロは初代教会で聖霊の働きについてたくさん述べられていますが、それは以下の三つの聖書箇所で紹介されています。
① 神様との交わりを可能にする徳を与える聖霊
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントへの第一手紙13章13節)
② 教会に賜物を与える聖霊
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
(コリントへの第一手紙12章4~11節)
③ 実を結ばせる聖霊
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤへの手紙5章22~23節)
したがって、聖霊は信者に信仰の恵みを与え、永遠の頂く希望を与え、神様と一つに結ばれれる愛の徳を与えます。そして聖霊は、一人ひとりに異なる賜物を与えます。人間は、その賜物を教会の中で愛を実践して行くために分かち合い、奉仕し合うことによって豊かになり、聖霊の交わりの中で皆が一つに結ばれます。このような共同体は、上述された聖書箇所の実を結ぶことができます。
結び
この講話の中で、新約聖書をもとにして聖霊に対する信仰の内容を紹介致しました。聖霊は、人間の内に神の働きを表現するので、聖書の中で聖霊のみを礼拝する箇所が少ないのです。しかし、御父と御子の御業を教会と聖会の内に実現するので、聖霊が教会で御父と御子と共に礼拝されているということを教会は宣言します。
次の講話は、聖霊の被造物である教会に対する信仰を紹介します。第9講話「父と子から出る聖霊を信じます」
By Ziebura Eugeniusz
「聖書が教えるカテキズム」2016年3月の講話
序.
前回の講話の中で信仰宣言の弟三箇条の預言者を通して語られる聖霊について話しました。この度、ニケア・コンスタンチノポールの信条の「聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け(る。)」という信仰内容について話すことになります。それは、「時が満ちた」と言われるキリストの時代に聖書が語る聖霊の働きになります。即ち、聖霊が御父から降り、キリストとの一致の内に地上で救いの業を実現し、復活したキリストによって使徒たちに与えられ、御昇天後にキリストが御父のもと使徒たちに遣わされたのです。それは、聖霊降臨の出来事であり、地上の教会の誕生です。
1.神の子キリストの受肉の神秘を成し遂げる聖霊
「天使(ガブリエル)は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』 マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。』」 (ルカによる福音1章30~35節)
以上の福音箇所は、「神のお告げ」と言います。神様から遣わされた天使ガブリエルは、聖母マリアは、神様の恵みと愛に満たされて、聖霊によって神の子を身ごもったことを伝えます。そして、この出来事は、神様が王ダビデに約束してくださったこと、また、旧約の多くの預言預言が語った言葉の成就であることを証明され、信じるために提供されています。
2.聖母マリア、エリザベト訪問の時に働かれる聖霊
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」
(ルカによる福音1章41~45節)
聖霊に満たされて御子を宿したマリア様は、エリザベトが子を身ごもったことを知り、奉仕しに行きます。聖母マリアが天使の挨拶を受けて聖霊に満たされたように、エリザベトは、聖母マリアの挨拶を受けて聖霊に満たされたのです。同時に、エリザベトの胎内の子、神様の摂理の中でキリストの先駆者としてこの世に生れる将来の洗礼者ヨハネも聖霊に満たされたのです。
3.洗礼を受ける時にキリストに注がれる聖霊
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音3章21~22節)
洗礼者ヨハネは水で洗礼を多く人々にのに授けていました。それは、キリストに出会う準備としての悔い改めの業であり、心の清めのしるしでした。ところで、洗礼者ヨハネがキリストに洗礼の授けていた時に、聖霊の働きが目撃されました。洗礼者ヨハネは、これについて次のように証しします。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネによる福音1章33~34節)こうして聖霊は、イエス様が神の子であることを証し、天国を開いて御父のお声を聞かせて、至聖なる三位一体の啓示を致しました。
キリストは、受肉の瞬間から聖霊に満たされて、初めから神の子、キリストです。主の洗礼の時、聖霊の注ぎは、一人の人間としてイエス様の生き方を変え、救い主の使命を果たすようになるに「時が満ちた」ことを目に見える表現となりました。キリストはギリシア語で「油注がれた者」(ヘブライ語でメシア)と言います。それは、主の洗礼の時の「聖霊の注ぎ」を比喩的に指す名称であり、地上の神様の代理であることを表します。
イエス様ご自身も、故郷ナザレの会堂で、イザヤの預言(61章1-2節)が自分の内に実現したことを証しました。「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4章18~21)と。
4.キリストによって約束された聖霊
1)ニコデモへの約束した聖霊
「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。“あなたがたは新たに生まれねばならない”とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」
(ヨハネによる福音3章5~8章)
キリストを訪ねたファリサイ派のニコデモ、ユダヤ人の議員は、イエス様が救い主であると信じて、これからどうすればいいかと尋ねました。以上の福音箇所がありますと、キリストの答えには、水と霊による洗礼が人を新しく生まれさせるという説明がありました。そして、人の救いは、人間の力によるのではなく、神様の神秘的な救いの計画に従がっての聖霊の思うままの働きによって実現されるものであると教えてくださいました。
2)最後の晩餐の時に約束した聖霊
「(イエスは言われた。)『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』」
(ヨハネによる福音14章15-18節)
キリストはご受難を受ける前にご自分の弟子たちとお別れに過越祭の食事をなさったときに、御自身の代りに御父から聖霊を遣わすことを約束してくださいました。ところで、聖霊を頂く条件とは、キリストを愛し、その言葉を守ることになっています。遣わされた聖霊は、弁護者(Paracletos =「共にいる方」)であるから、死を超えて永遠に私たちと一緒にいることを約束してくださいました。これに続きキリストは、「その方は、私のものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハネによる福音16章15節)と仰せになって、聖霊の内にご自身現存を弟子たちに残してくださることを教えてくださいました。同じ意味で、マタイによる福音によりますと、復活したキリストは、「わたしは世の終わりまで、あなたがたと主にいる」(マタイによる福音28章20b節)と仰せになったのです。
3)御復活なさったキリストが弟子たちに吹きかける聖霊
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』と。」
(ヨハネによる福音20章21~23節)
以上の福音箇所は、復活したキリストは御自身の息吹によって弟子たちに聖霊をお与えになったことを示します。聖霊は、キリストの霊でもあり、彼らに罪を赦す権能をお与えになりました。キリストは聖霊の力によってご自身の救いの使命を弟子たちに委託して、世の終わりまでそれを実行して行くように派遣してくださいました。
5.聖霊降臨
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章1~4節)
キリストが御昇天なさった後に、弟子たちは祈りの内に約束された聖霊を待ち望んで、九日目に、以上に表現された体験をしました。聖霊降臨の「激しい風」とは、聖書原文の “Pneuma(プネウマ)”が、「息」、「霊」をも意味します。十二使徒は、キリストのご復活の命が自分たちの内に力強く働くことを体験しました。聖霊降臨の「炎」とは、彼らが神様の愛で満たされたことを表現します。その愛は炎のように彼らを清め、理性を照らし、導き、神様に向って成長させました。聖霊降臨の「舌」は、言葉をもって人にメッセージを伝える道具として象徴的な意味から、弟子たちに福音を宣べ伝える力、誕生した教会を聖霊の交わりに加えて、人と神様との交わりを実現する聖霊の働きを表現します。
聖霊降臨の日に十二使徒はまったく変わりました。ユダヤ人の指導者たちを恐れてドアを閉めていた彼らが、町に出て、大胆にキリストの死と復活について証しし、三千人に洗礼を授け、地上に目に見えるキリストの教会を設立したのです。これこそは、聖霊の働きによるものです。
6.教会の中で働かれる聖霊
使徒パウロは初代教会で聖霊の働きについてたくさん述べられていますが、それは以下の三つの聖書箇所で紹介されています。
① 神様との交わりを可能にする徳を与える聖霊
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントへの第一手紙13章13節)
② 教会に賜物を与える聖霊
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
(コリントへの第一手紙12章4~11節)
③ 実を結ばせる聖霊
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤへの手紙5章22~23節)
したがって、聖霊は信者に信仰の恵みを与え、永遠の頂く希望を与え、神様と一つに結ばれれる愛の徳を与えます。そして聖霊は、一人ひとりに異なる賜物を与えます。人間は、その賜物を教会の中で愛を実践して行くために分かち合い、奉仕し合うことによって豊かになり、聖霊の交わりの中で皆が一つに結ばれます。このような共同体は、上述された聖書箇所の実を結ぶことができます。
結び
この講話の中で、新約聖書をもとにして聖霊に対する信仰の内容を紹介致しました。聖霊は、人間の内に神の働きを表現するので、聖書の中で聖霊のみを礼拝する箇所が少ないのです。しかし、御父と御子の御業を教会と聖会の内に実現するので、聖霊が教会で御父と御子と共に礼拝されているということを教会は宣言します。
次の講話は、聖霊の被造物である教会に対する信仰を紹介します。
メッセージ - C年 復活節 |
第一朗読:使徒13,14.43-52
第一朗読の言葉は、パウロとバルナバの第一宣教旅行の間にピシディア州のアンティキアで行ったパウロの演説の一部であり、パウロが異邦人に対して宣教活動をする理由が示されています。パウロとバルナバは宣教活動する際、初めにユダヤ人に福音を述べ伝え、ナザレのイエスがメシアであると証ししまたが、この福音を認められなかった人々が大勢いました。このことにより、パウロとバルナバが異邦人に迎えられることになりました。このユダヤ人の大きな間違いが、異邦人に対して大きな恵みになりました。唯一の神を知らない異邦人がイエスを信じることで唯一の神の計画に入り、救われた人々となりました。ユダヤ人の間違いと異邦人の信仰の両方が、唯一の神による救いの計画の一部でした。神の御旨は、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために」ということですから。
第二朗読:黙示録7,9.14-17
イエスの時代までは、唯一の神を知らない異邦人に救済の可能性はありませんでしたが、キリスト者たち、特に聖パウロの宣教によってイエスに救われた人々になりました。だから、新エルサレム、天のエルサレムにユダヤ人だけではなく異邦人も唯一の神に向かって永遠に礼拝することができます。このことについて、福音者ヨハネが世界の終末について説明する書物(黙示録)の中で、啓示が現れたことが示されています。すべての人間は唯一の神に造られた者ですから、すべての人間が唯一の神に礼拝することが真実です。
福音書:ヨハネ10,27-30
イエス・キリストを信じている人々が彼の持ち物となり、イエスが羊飼いと呼ばれ、信者達が羊と呼ばれています。信者たちがイエスの声(教えと掟)に従い、イエスが信者達を世話し、守ります。イエスを信じているすべての人々(ユダヤ人も異邦人も)がイエスと共に永遠の命を迎えています。最後まで信仰を守れば、イエスを信じている人々はイエスの持ち物として、イエスの教会という体を通して天国に入ることができます。イエスの持ち物として私たちは心の平安を得ます。
メッセージ - C年 復活節 |
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」 (ヨハネ21,6)
本日の福音が紹介するキリストの復活の出来事は、御復活の目的について教えさせるものがあります。弟子たちが自分の意志に従がって漁に出て夜通し働いても、空しく、何も獲れませんでした。ところで、イエス様の一言、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」に聞き従うと、一瞬の内に大きな魚153匹もかかりました。即ち、復活したキリストに聴き従うことは、人生を苦しみから喜びへと変えます。
人間が神様に従わない時、傲慢になって互いの分裂を起こし、命の主である神様から離れて罪と死の餌食になると、聖書全体は教えています。ご復活なさったキリストは命の主です。漁をしていた7人の弟子たちは、復活したキリストに従った瞬間から、初めて自分たちが目指している目標に達するばかりでなく、彼らの想像を遥かに超えた多くの魚を獲ることができました。そして、彼らは、復活したキリストに気付いて仲間に紹介する喜び、キリストに出会う喜び、キリストと共に交わる喜び、キリストの内に一致の喜びを味わうことができたのです。
神の子は人間となって、私たちに死に至るまで御父に従順の模範を示してくださいました。それは、私たちが命の主であるキリストに従うことによってのみ、地上の生活を成功させ、彼との一致の内に永遠に生きることができるためです。
弟子たちが獲れた魚の153匹という具体的な数字、それは当時知られていた魚の種類の数です。以前、ペトロを弟子に呼ばれたキリストは、人間をとる漁師にすることを約束してくださいました。この度の不思議な漁の奇跡は、キリストがペトロに、魚ではなく、出かけて人間をとる漁師としてすべての民に、主のご復活の「網」を打つ時が来たことを促してくださいました。
現代に生きる私たちは、キリストの神秘体としてご復活の信仰を証し、すべての人々が命の主であるキリストに従がって永遠の命に与るように働きかける使命に目覚める必要があります。その使命を果たすことができるように、神言会の創立者聖アーノルド・ヤンセンに倣い、次の言葉を持って祈りましょう。
「イエスの御心がすべての人の心に生きるようにしてください。」