メッセージ - C年 年間 |
第一朗読:サムエル記下5,1-3
統一イスラエル王国の時代(約紀元前1020年から926年まで)に三人の王がいた。それは、サウロ王(べニヤミン部族)と、ダビデ王、ソロモン王であった(ユダ部族)。十二ある部族のうち、すべての部族がダビデを王として選んだ理由として三つ挙げられる。まず、彼がユダヤ人であるということ。そして、ユダヤ人の部族のために戦ったということ。そして何より、彼が神によって選ばれた人だということである(2サム3,2)。ここで重要なのは、ダビデがイスラエルの指導者であるということだけではなく、彼が唯一の神の国民を牧する僕であるということである。
ダビデは民主主義的な契約によって王になった。そして紀元前1002年から970年まで、ダビデが統一イスラエル王国の王であった。
第二朗読:コロサイ1,12-20
人間を救う計画は父である神の業である(1,12-13)。この計画はイエスによって完成されたものであり、イエスは天の国の王である。そして、私達はイエスの王国の者である(3,2)。コロサイ1,15-20の、キリストの賛歌と呼ばれるこの部分が、キリスト教におけるキリスト論に関する根本的な教えである。この賛歌は次のキリスト論的な教えを含んでいる;イエスは全世界を創造する以前に存在する(1,12-17);復活したイエスは教会の頭である(1,18);イエスは神の最後にして完全な啓示である(1,19);イエスは人間の救い主である(1,20)。
福音朗読:ルカ23,35-43
イエスの受難の時には、イエスが王であると信じる者は、イエスと一緒に十字架に付けられた罪人だけであっただろう (23,24)。ユダヤ人の指導者はイエスを批判し、イエスがメシヤであるということを信じていなかった(23,35)。ローマ帝国の兵士たちはイエスの罪を表して「ユダヤ人の王」と言う表現を使った(23,37)。おそらく、その時イエスの弟子達もイエスが王であるということを信じていなかっただろう。しかし、神によってイエスの復活がなされたことで、イエスが王であるということは証された。イエスはこの世の王であり、裁判者であり、救い主であり、命であり、真実であり、永遠である。
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テーマ:「神殿の見事な石と奉納物の飾り」(ルカによる福音21章5-19節)
エルサレムの神殿は、見事なもので、そこに巡礼していたイスラエルの人々の誇りでもあり、信じる人にそこに現存する神様の偉大さと栄光を示していました。この神殿がことごとく崩れてしまう日が来るとイエス様が預言なさると、人々は世の終わりの出来事だと思い込んで、それはいつ起こるかを知りたかったのです。イエス様は、人々の問い掛けに応えようともせず、神殿の滅びと世の終わりが同じことではないと説明し、神殿が滅びるかどうかということよりも、自分の人生、自分の心が滅びるかどうかを心配すべきであることを促しました。
信じる教会共同体の中で、神様に献げられた聖堂は、どんなものよりも美しく飾られることは当たり前のことであるはずです。なぜなら、本物の信者は誰よりも神様を愛し、神様に一番良いものを献げているはずだからです。自分を愛している信者は、「教会が貧しいものでなければならない」というようなスローガンを言って、自分が豊かになるように祈りたがるのです。聖堂や福音の神殿の飾りなどは、信じる共同体の心の美しさと豊かさを反映するものでなければなりません。エルサレムの神殿も神様へ愛をはんえいして見事なものとして建設されましたが、キリストの時代に、その栄華と美しさは、多くの場合、神様を愛する心を反映するものでなくなりました。大きな石と飾りを楽しみましたが、神様を喜ぶことが二次的なものになり、多くのユダヤ人は神殿の境内で行われた商売に関心を持つようになりました。だから、その神殿が滅びるとキリストは仰せになったのです。
使徒ヨハネは、愛のない信仰は死んだものであると言います。したがって、肝心なのは、私たち自身が神様の住まいとなって、生きる神殿となることです。教会は、キリストの御体によって養われているキリストの神秘体です。私たちが天国に入って神様と共に永遠に生きるために、キリストはこの世に来て、御自身を隅の親石となって、私たちの内に「神殿」を創り上げて行きます。生きる信仰を持つ私たちがその神殿の「生きる石」となります。こうして、教会の中で神様が生きるようになり、私たちは天国の先取りを喜ぶことができるのです。
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イエスが伝え、私たちが信じている「復活」は「よみがえり」「蘇生」とは異なります。それが「よみがえり」「蘇生」であるなら、「復活」は、今私たちが生きているこの世の命の延長でしかありません。だから「復活」を「よみがえり」の意味でしか捉えていなかったサドカイ派の人々は、この世の結婚と跡継ぎの制度を復活にあてはめてイエスに難癖をつけ、論争を挑んできました。
しかし、それは大変な思い違いでした。復活の命は、この世の命とは全く異なるものです。だからこそ私たちは今、苦しみや痛みがあるとしても、希望を持って、喜びを持って生きています。不完全な世の中に垣間見える神の愛を信じながら、力づけられて簡単ではない日々を生きています。第一朗読のマカバイ記や、第二朗読のテサロニケの教会への手紙でパウロが語っているとおりです。現実に目を向けるとき、そこには確かに悪があり、苦があります。しかし、神は悪を悪のままで、苦しみを苦しみのままで、死を死のままで捨て置かれることはない。それをすべてくつがえす復活によって、神はその愛と力を示されます。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という主イエスの言葉の通り、神は、今ここで生きている私たちの神であり、復活の命に生きている者の神でもあります。これまでも、今も、これからも、そして永遠に私たちを愛し養って下さる神のいつくしみに信頼して、まっすぐに歩んでいくことができますように。
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ルカ18,9-14
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカ18,14
人の期待を満たしたら、この人が私たちに対して好意的になって、私たちがこの人から求めているものをもらう可能性が高くなるというような人間関係の現実に慣れている多くの人が、神もまた同じように働いておられるのだと思いがちです。けれども、ファリサイ派の人と徴税人についてのたとえによって、イエスが私たちにそのようなイメージと全く異なる働きをなさる神の姿を現してくださいます。というのは、もし、神が多くの人が考えているように働かれたならば、義とされたのは、徴税人ではなくファリサイ派の人でした。なぜなら、罪を犯していた徴税人ではなく、律法に従って生きようとしていたファリサイ派の人が、掟が表している神の望みを満たそうとしたからです。
このたとえによってイエスが私たちに教えてくださっているのは、神にとって大切なのは、人間の過去ではなく、人間の現在、つまり人間が今まで何をしてきたかとか、どのように生きていたかということではなく、それによってどんな人になってきたか、特に、どれだけ神に関して心を開いているかということなのです。
神が示してくださった道を歩むことによって、神に近づくこと、神をますます強く信頼して、神に対して心をますます広く開けることは理想ですが、たとえのファリサイ派の人のように、正しい生活を送ることによって傲慢になり、心を閉ざす恐れがあります。逆に、いろいろな過ちを犯して、苦しい体験をすることによって自分の弱さと、神のいつくしみと助けの必要性を認識して、神に対して心を開く可能性があるのです。
罪を犯すことによって人は命の源である神から離れて、自分の滅びに向かって行きますので、絶対にこの道をお勧めすることはできませんが、キリストの教えに基づく生き方にも、傲慢になる危険性があるということを意識しながら、どんな道を歩んでも自分の功績ではなく、神のいつくしみ深い愛に頼ることができますように祈りましょう。
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第一朗読:出エジプト17,8-13
紀元前6世紀に編集された出エジプト記には、モーセの生涯やモーセの活動などに関する物語が含まれている。一般的にいえば、出エジプト記の神学的な目的は、ユダヤ人の神、唯一の神が自分の国民を守るということを伝えることである。第一朗読の言葉はイスラエルとアマレクの戦争に関する言葉である。アマレクはエザウの子孫であり、イスラエルの永遠の敵である。この戦いにおけるイスラエルの勝利は兵士の力によるものではなく(17,11)神の業である(17,12)。神の業が現れるように祈る必要があった。モーセが祈っているその時に、ヨシュアは戦っていた。これら二つは相反する業だが、この物語においては互いに関連する業となった。手を上げることが、ユダヤ教では願いや祈りの印であり、モーセの手が上がったままの時にはヨシュアが優勢だったがモーセの手が下がったとたんにヨシュアが劣勢になった。この戦争におけるユダヤ人の勝利は彼らの力ではなく神の業によるものであり、神に与えられたものだった。この物語の意味は、祈りがなければ勝つことはできないということで、それは戦争だけではなく、一般的に人間の人生にも関係することである。
第二朗読:二テモテ3,14-4,2
テモテはエフエソ教会の司教として信者たちに教えと教育を与えるのが義務であった(4,1-2)。そのためにはパウロから教えてもらった福音とキリスト教の伝承に従うことが必要であった(3,14-15)。パウロの言葉によるところのキリストのからだである教会において、個人のキリスト者にとって最も大切なことが二つある。それは学んだ教え、つまり伝統のことと聖書のことである。この二つのことに、この世を旅する教会、そして一人一人の信者達が集中しなければならない。また、この二つのことは信者の力、信者の知恵、信者の目印の源である。信者は、教会の教え、教会の典礼、教会の伝統を学ばければならない。そして、聖書を毎日読まなければならない。
二テモテ3,16‐17をもとに、聖書の霊感に関することについてのキリスト教の教えが作られた。聖書の霊感とは、信仰や心理に関する聖書の言葉の教えに間違いはないというものである。この言葉を学び、それに従い、それを信じ、信者として迷うところがあってはならない。
福音朗読:ルカ18,1-8
いつ何時でも祈るべきであり、 失望してはならないということを教えるために、 イエスは群衆にこのたとえ話をした。一回だけ言われたことはほとんど言われなかったことと同じであり、一回だけ頼まれたことはほとんど頼まれなかったことと同じである。両親と子供の関係を見たら理解ができるだろう。なぜ、長い間頼み続けなければならない場合があるのだろうか。一生懸命祈っている間に、人間の心や人間の態度などは変化する。この変化が起こるように、人間には祈りの内に生きることが必要である。