メッセージ - C年 年間

ルカ7:11-17

イエスがある母親の、死んでしまった一人息子を起き上がらせたのは、この母親を見て、憐れに思ったからでした。それは決して、神の子としての自分の力を誇示するためではありませんでした。ですから、この癒やしに立ち会った人々も、奇跡を行ったイエスではなく、このような大預言者を彼らの間に現れさせ、民を心にかけてくださった「神を賛美した」、と言われています。

夫を亡くし、母一人子一人で生きてきたやもめが、たった一人の家族である愛する息子を亡くして悲しみにうちひしがれ泣いているのを見て、イエスは心を動かされ、憐れに思われました。そして、「近づいて棺に手を触れられ」ました。それは、強制されてではない、イエスの側からの積極的な介入、それも愛に基づく働きかけでした。

私たちの中で現される神の働きは、私たちを愛するがゆえの、神の側からの積極的な介入です。私たちを愛して下さる神は、私たちに近づき、手をさし延べ、触れて、手を取って起き上がらせてくださいます。私たちはそのさし延べられた手に気づいて、その手にすがって、引き上げていただくだけです。

 
メッセージ - C年 祭祝日

ルカ9:11b-17

イエスが5千人に食べ物を与える奇跡を行ったのは、12人の弟子がそれぞれ発見された町や村から帰ってきたばかりの時でした。彼らはイエスの名において教えたことや人々のために行ったことをイエスに報告しました。達成感を感じた一方、体力的には疲れていることは、想像できます。そこでイエスは弟子たちを連れてベトサイだという町に退きました。そこで力を取り戻すために静かな時間を過ごすのを考えていたことでしょう。しかし、その予定が群衆の耳に入ってしまいました。そこで、イエスは弟子たちをゆっくりさせる予定よりも、自分のところに来た群衆を優先し、彼らを迎え、彼らに神の国について語り、治療の必要な人々を癒しました。そして、夕暮れになっても群衆はなかなか解散してくれませんでした。

『群衆を解散させるように』という弟子たちの提案は合理的なものだし、現実味のある提案です。持っている五つのパンと二匹の魚で5千人を食べさせるはずがないです。しかし、イエスにとっての最優先順位はやはり目の前にいる人々です。せっかく自分のところに来た人々をそこで帰す訳にはいけません。決断に迫られる時の決断は、イエスのものの見方と弟子たちのものの見方の違いを示しています。弟子たちは、先ず自分の持っているものから、何が人々のために出来るのか、何ができないのかを考え、決断するのです。自分たちの現実の範囲内で、人々への奉仕をするということです。それに対して、イエスは先ず目の前にいる人々が最も必要とするものは何かということを考えた上で、そこで何をやらなければならないかを判断するのです。ですから、『群衆を解散させるように』という弟子たちの提案に対して、『いや、あなた方が彼らに食べ物を与えなさい』とイエスは弟子たちに言った訳です。

宣教現場から帰ってきて、せっかく休もうとする弟子たちに、イエスは新たな課題、新たな使命をまかせました。しかし、イエスは単に使命を任せるのではなく、弟子たちにそれを成し遂げる方法を教えました。それは、パンを取って、神に祈りを捧げて、裂いて、人々に渡すことです。そのパンはイエスご自身です。十字架の上でイエスは御自分を捧げて、御自分を裂いて、御自分を人々に明け渡すのです。ご自身を与えつくすことによって、イエスは全ての人に救いの恵みを有り余るほど注いでくださることで出来たのです。つまり、パンの奇跡は本当の意味で、十字架上で示されるということです。

今イエスが私たちに与えた使命、イエスが私たちに残したチャレンジは決して簡単なものではありません。私たちも、いろいろな面で、夕暮れに追われている弟子たちと同じように『群衆を解散させてください』とイエスに叫びたくなるような状況に迫られているのではないかと思います。このような時に、宣教の十字路に立たされる時に、私たちはやはりイエスの姿を見、その模範を習わなければいけないのです。私たちも、置かれている現実を見ながらも、目の前にいる人々を最後まであきらめないイエスに習わなければならないのです。私たちも自分を捧げること、自分を裂くこと(時間、持っているもの、など)、自分を明け渡すことが今まで以上に求められるのです。今の時代の人々はある意味でパンの奇跡を必要とするのです。その奇跡を実現するのが私たちの使命だということです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。

 

月曜日

今週の第一朗読、特に今日から木曜日までは、トビト記からトビトの話が読まれます。トビトの話は、信仰を歩む人の物語でもあります。そこには人の心のやさしさと強さ、苦しみと失望、そして、ドン底の苦しみから生まれる希望と信仰が生々しく描かれています。今日お聞きになった部分には、トビトの心の優しさがよく現れます。お祝いの食事を目の前にしても、それを食べずに異国の地ニネベの町に同胞の貧しいイスラエル人がいないかとずっと待っているトビト。危険なことだと知りながら、次々と殺されたイスラエル人を葬って、その死を悲しむトビト。そのトビトの心の優しさと強さは、祭司長や律法学者に捕らえられようと知っていても、怖がらずにまっすぐに彼らを批判したイエスの姿とダブっているような気がします。優しい人ほど強い、怖がらない、時には頑固にも見えることは、私たちも生活の中にも体験したことがあるのではないかと思います。

 

火曜日:

昨日に続いて、今日の第一朗読に、神の掟に忠実なトビトの姿が描かれています。目が見えなくなった苦しみの中にも、トビトは神が定められたことを忠実に守ろうとするのです。あの子ヤギの件で、『盗んだものなら、持ち主に返しなさい』というトビトのことばは『皇帝のものを皇帝に』というイエスのことばと、響きも言っている内容も大変似ています。デナリオン銀貨には皇帝の肖像、イメージ、顔があるのですから皇帝に返さなければならないですが、では、『神のものは神に返しなさい』と言う時に、イエスは何を指しておられるのでしょう。神の肖像、神の顔はどこに書いてあるのでしょうか。それは、神の似姿として造られた私たち一人ひとりのことです。この銀貨は皇帝に、しかしあなた自身を神に捧げなさいとイエスは質問する人々、そして私たちに言おうとするのではないかと思います。

 

水曜日:

今日は聖ボニヴァチオ司教の記念日に当たります。聖人は英国生まれで、ドイツそしてオランダにみことばを宣教し、殉教しました。聖人の取次ぎを願い、ヨーロッパの教会のために祈ります。教会離れの人が多い、ある意味では、今日の第一朗読のトビトとサラのように生きる希望を失いそうな状態のなか、神様のおん恵みによって、そしていろいろな人の働きによって、また成長する希望、生きる希望が与えら得るようように、ボニヴァチオの取次ぎを願って、祈りましょう。

 

木曜日:

今日で、トビト記からの朗読が終わりますが、話の結末は皆様がご存知のように、主の天使ラファエルの助けで、既に7人の男と結婚したサラは悪魔の力から救われ、無事にトビトの息子トビアと結婚することが出来たし、トビト自身も天使ラファエルがくれた薬で目が治りました。しかし、そのようなHappy Endingにたどり着くまでには、それぞれ苦しい中にも神様を信頼し続けてきたトビトもサラもいました。昨日のトビトの祈りとサラの祈り、そして今日のトビアの祈りの中に、神への信頼、神への愛というものが鮮明に現れます。トビトをはじめ、トビト記の中に出てくる人物を通して、私たちは神を愛すること、そして隣人を愛することを学ぶことが出来るのではないかと思います。ぜひ、時間があったら、トビト記の残りを読むことをお勧めします。

 

金曜日(イエスの御心):

今読んだ『失った羊のたとえ』、そしてこの後に出てくる『失ったコインのたとえ』と『放蕩息子のたとえ』、この三つのたとえ話は、ルカ福音書の心臓、心、中心だと言われています。ここには、罪人に対する神様の憐れみの御心、99匹の羊を残していても、失ったたったの一匹を探そうとする神様の愛が大変感動的に描かれています。自分が99匹の羊の仲間に入っていると思っているのであれば、あの羊の持ち主に文句をつけたくなるだろうと思います。しかし、自分があの失った羊、一人っぽちで道にさまよう孤独と不安にいるのが我が身だと気づいた時に、探してくれて、見つけてくれた有難さがどれだけ大きなのかが実感できるだろうと思います。

このたとえを話しているイエスにとって、これは単なるたとえではなくて、イエスにとっては現実です。イエスは命がけでその迷った羊を探す、いや、その羊を救うために命をかける、自分の命を捨てるのです。それぐらい、神は、イエスは迷った羊である私たち一人ひとりを愛してくださるのです。その愛に感謝し、その愛を無駄にしないように、その愛にこたえることが出来るものになりたいのです。

 

土曜日:

日本語には、「こらえる」ということばがありますが、マリア様が全てを心に納めていたということは、つまり、マリア様は全てを自分の中に「こらえていた」ということではないかなと思います。マリア様には耐えなければならないエピソドがたくさんあります。周りに説明のつかないし方で身ごもっていたこと、神殿でシメオンに「剣があなたの胸を刺し貫くだろう」と言われたこと、青年イエスを探してまわっていたこと、イエスの気が変になったといううわさが流れる時にイエスを迎えに行こうとしたこと、そして、十字架の下でわが子が苦しみながら死んでいくのを目の当たりにすること、その全てをマリア様は心に納める、全てを自分の中にこらえていたということです。こらえることがマリア様の愛の表れといえるのではないかと思います。

私たちも、日常の様々な困難にが立ち向かう時に、マリア様のような落ち着き、そしてマリア様のようにそれらを心に納め、こらえていく力を願いたいものです。

 
メッセージ - C年 祭祝日

(ヨハ16,12-15)

「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、

私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、

神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」ロマ5,1-2

 

イエス・キリストが私たちのために、ご自分の命を与えてくださったことによって、完全な愛というのは、愛する人のために自分自身の全てを奉献することであるということを、示してくださいました。

 

父と子と聖霊は、このような完全な愛を以て互いに愛し合っておられるがゆえに、つまり、互いに完全に与え合い受け入れ合うがゆえに、一致しておられます。したがって、父と子と聖霊は異なるペルソナ(位格)であっても、一体であり、唯一の神なのです。

 

すべての人が、三位一体の神の愛の交わりに参与するように招かれています。実は私たちは、愛によって神と結ばれて、神と一つになるために創造されていますので、この目的に達していない限り、私たちの心の望みは満たされないし、永遠に続く幸せを味わうこともできないのです。

 

神の御独り子が人間になって、あがないのわざを成し遂げることによって、罪のために神から離れていた人間は、再び神のもとに帰ること、神と和解すること、神と一つになることが可能となりました。その結果として、聖霊降臨の時、神はご自身を全人類に与えてくださったのです。

 

洗礼を受けることによって私たちは、聖霊とともに父と御子を受け入れましたが、三位一体の神の愛の交わりに完全に参与し、神と一体になるためには、私たちが自分自身を神に奉献する必要があります。キリストに従い、キリストのように隣人を愛するように努力することによって、すなわち自分のためではなく、他者のために生きるように努力することによって、私たちは少しずつ自分自身を三位一体の神にささげ、神の愛の交わりを深めていくのです。

 
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

「教会を信じる」とは、唯一の神である聖霊を信じる信仰箇条、「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」の中の一節、「聖なる普遍の教会」を信じるという信仰告白です。換言すれば、教会が聖霊の被造物であり、聖霊の現存と働きの場であるから教会を信じることは、神様である聖霊を信じることになります。

 

1.教会の名称

初代教会は、御自身のことを、「エクレジア(召集、呼び出されたもの)「キュリアケー(主に属するもの)」という二つの用語をもって名付けました。

「エクレシア」は、教会が人間によるものではなく、神御自身が呼んでくださった集いであるというアイデンティティを現し、「キューリアケ」は、教会が人間の力によって存在し運営されている社会組織ではなく、キリストを御自身の主(キュロス)とし、御心に適う組織を持ちながら神様の所有であり、地上の次元を超える永遠の存在、キリストによって救われて聖とされた集いでです。旧約時代の預言者たちが、イスラエルの民の神様との関係を、神様が「夫」とイスラエルが「妻」と名付け、両者を「夫婦」で表現されています。この比喩的な表現を意識して、初代教会は、自分のことを、「花婿」キリストに属する「花嫁」として言い表しました。

 

.「教会」の旧約時代の起源

1)神様に呼ばれた最初の人間

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちにあたえよう。」

(創世記1章27~29節)

初代教会の信者は、「世界は教会のために造られた。」と言いました。以上の創世記の第一創造物語(創世記1章)によりますと、神様は六日間で全世界を作り、最後にご自分に似せて象りとしてお造りになった人間にすべてをお与えになりました。人間は神様の造られたものであり、「神の似姿」として神様の愛の交わりに呼ばれ、多くの子孫に恵まれて自然界で神様の創造に参与するように呼ばれています。第二創造の物語(創世記2章)によりますと、神様が人間を造り、人間は楽園で神様との交わりの中で幸せに生き、天国の先取りを味わったのです。この太初物語の楽園の生活は、神様が永遠の昔からお考えになった神と人の交わりの教会の原点と理想の象徴でもあると言えます。

人間が神様のようになりたい程の傲慢によって犯した罪は、両者の関係を壊しました。これを象徴する人祖アダムとエヴァが犯した罪です。神様は、二人を交わりに呼んでくださいました。即ち、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3章9節)と。アダムは罪のために相応しくないと自覚し、「『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3章10節)と答えて交わりをお断りしました。お詫びもなく、罪の責任を認めようともしない人間は、自分で地上の楽園を終りにしました。ところで、「どこにいるのか」と人間を呼び出すという神様の行為は、「エクレジア(教会)」という未来の教会を呼び起こす声であるとも言えます。アダムとエヴァを罪に誘惑した悪魔に向って神様は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節)と言われて、救い主の誕生を予告し、神と人との親密な関係が戻る計画を啓示されました。その結果として、救いの歴史が始まり、その救いはキリストの御死去と御復活によって成就されました。そして、教会の時代が始まりました。

 

2)アブラハムの召命

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12章1~3節)

神様は、アブラハムを属していた故郷と家族から呼び出され、御自身に属すものとするためでした。その子孫も神様のものとするために、神様はアブラハムと契約を結ばれました。「主に属するもの」となるアブラハムの家は、「教会(キュリアケー)」の前兆となりました。神様が御計画なさった教会は、アブラハムの子孫に留まらず、彼の信仰によって、地上のすべての氏族に及ぶものであなければならないと約束してくださいました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6節)という御言葉は、アブラハムが生きた信仰によって、信じるすべての人の父となったことを示しました。教会は代々にわたって、アブラハムのような信仰を求めています。

 

3)モーセ時代の神の民

(主は彼らに語りかけて言われた。)今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19章5~6節)

エジプトの奴隷から解放され、約束の地を目指して砂漠を渡っていたイスラエルの民は、神様によってシナイ山のふもとに呼ばれ、モーセの仲介によって「神の十戒」を受け入れて「契約」を結び、「神の民」となりました。イスラエルは、神の声を聞き従うことと契約を守ることの条件で神の民となり、教会の前兆(前印)となりました。しかし、イスラエルは、罪を犯して、神様との契約を破りましたから、何世紀にわたって多くの預言者たちは救い主の誕生によって、新しい契約が完成されると預言しました。

例えば、預言者エレミヤを通して、神様がキリストによって救われた神の民は次の通りとなることを教えてくださいました。「(主はこう言われる。)『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、』と主は言われる。『わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。』」(エレミヤの預言31章33-34節)と。それは、未来の教会の使命について述べられた御言葉であると言えます。

 

4)ダビデに約束された永遠の王国

「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。(...)彼が過ちを犯すときは、わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。(...)あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

(サムエル記下7章12~16節)

神様の幕屋をエルサレムの中心に置き、深い信仰と熱い愛をもって神様に忠実なものとなり、多くの詩編をもって神様の御業を賛美し、神殿も建てようとした王ダビデに神様が以上に記されている約束を与えました。ダビデの子孫に与えられる王座が永遠に続くことは、預言されたダビデの子イエス・キリストが御復活によって実現されました。こうして、未来の教会は、神の国(王国)と言われ、人間ではなく、神様の義と愛によって統治されることを促しています。

 

3.「神の国」の到来として創立される教会

「イエスは(洗礼を受けた後)、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

(マルコによる福音1章14~15節)

 

キリストが宣べた伝えた福音とは、人間が罪のために神様から離れてしまいましたが、神様の愛は変わることなくいつも共にいることです。人となられた神の子キリストは、その目に見える表現です。人間の方から必要なのは、「悔い改め」であり、神様が人の心と人生を支配するために、罪を捨てて神様に立ち戻ることです。罪人が神ないがしろにして生きる世界に神様が君臨するようになることは、神の国の到来です。即ち、地上教会は、天国の先取りであり、人間が地上の生活を終わった後に天国に入ってから、天上で完成されます。

人間が神様を受け入れて救われるために、キリストは多くの例えを持って、神の国について語りました。度々、神の国は「種」に似ていると言います。神様はキリストを通して私たちに永遠の命を与えてくださいます。神側では我々の救いが実現されました。「種」の例えは、神様を信じることによって、私たちの内に神の命が成長し、人間は神の子どもになることを教えます。こうして、「教会」は、永遠の命の種を成長させる「神の畑」「ぶどうの木」「オリーブの木」などで表現されています。

そして、遊牧人のイスラエルに、イエス様は神の国を「羊の囲い()に例え、羊の命を守るために善き牧者となられました。そして、羊飼いが羊を牧場に導くように、キリストは先頭にたって、人を天国に導きます。したがって、教会は、「神の家」「神の家族」、「私たちの母」と呼ばれ、聖霊の交わりの中で、信者たちは、神様を自分自身の父、キリストを自分の兄弟、聖母マリアを自分の母と致しました。

 

4.教会の創立者であるキリスト

イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。 (マルコによる福音3章13~19節)

十二使徒に聖霊が注がれた時から教会の時代が始まります。したがって、教会は聖霊の被造物であると言います。聖霊に満たされた十二使徒が、神の子、キリストによって選ばれ、キリストから神の権能を受けて全世界に派遣されたので、教会の創立者は、キリストであると言います。使徒たちはキリストに属する者として、教会のモデルになります。イエス・キリストは、教会の頭です。キリストと一致して、教会は地上で悪霊を追い出し、キリストの権能を持って御言葉と秘跡に神の国を建設します。

キリストの権能を受けるとは、使徒ペトロのような信仰に基づくものであります。シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白した後に、イエスは言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイによる福音16章16-19節)と。キリストは使徒ペトロだけではなく、十二使徒がキリストと結ばれて救いの業を行うことができると約束し、権能を与えられました。

福音に基づくと、キリストは十二使徒に、洗礼によって教会のメンバーを増やし、罪の赦しと霊的な糧である御聖体という秘跡をキリストの名によって行う権能をお与えになりましたので、以下の福音箇所は、キリストが教会の創立者であることを証明します。

洗礼を授ける権能

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音28章19-20節)

罪を赦す権能

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音20章23節)

 

御ミサを献げ、エウカリスチア(聖体の秘跡)を授ける権能

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカによる福音22章19節)

 

結び:

聖霊の被造物である教会にキリスト自身が御父と共に生きておられます。次の講話の中では、ニケア・コンスタンチノポール信条が信じるために紹介する唯一普遍使徒的という教会の四つの特徴を中心にして紹介することになります。

 
メッセージ - C年 復活節

 

第一朗読:使徒言行録2,1-11

イエスは自分の死及び復活の後、四十日にわたって自分の弟子たちに現れ、彼らが人間の救いについてイエスの福音を述べ伝えられるように必要な準備をされました。この期間を終えた後、イエスは昇天し、イエスの弟子たちは、この世界で宣教活動を始める前に、天から降った聖霊を受け取りました。このおかげで彼らはイエスの命令どおり(使徒1,8)世界中に福音を述べ伝え、主イエスの証人になりました。しかし、聖霊降臨の主日にはそれ以上に重要な意味があります。まず、聖霊降臨とは終末的な時代が始まったということを証しする出来事です。預言者ヨエルによれば(ヨエル3,1-5)、この世界が終末を迎えるとき、唯一の神を信じているすべての人々が聖霊の力を受け,この力のうちに唯一の神の証人となり、救われた人々となります。終末の時代は聖霊降臨から始まり、今も続いています。この時代にキリスト者たちは証人としてこの世に暮らしています。また、聖霊降臨はキリスト教が神による正しい宗教であると確認できる出来事でもあります。もう一つの聖霊降臨の意味は、キリスト教が人間の力によって始まり,続けられ、最後まで真実の信仰を守るというものではなく、最初から最後まで聖霊の力で存在するということです。つまり、一人一人の信者も聖霊の力のうちに信仰の道を歩いているのです。

 

第二朗読:ローマ8,8-17

イエスの弟子達だけが聖霊を受け取ったのではなく、イエスを信じたすべての人々が聖霊を受け取りました。それは堅振式の時に行われたことです。その時からずっと信者一人一人が聖霊のうちに生きています。聖霊のうちに生きるということは、信仰や人生に関するすべてのことを、自分の力ではなく聖霊の力を使ってできるということです。それは人間の弱さと戦うこと(ローマ8、12-13)や救いに関すること(ローマ8、9-11)、キリスト者の尊厳(ローマ8,14-17)などを意味します。キリスト者として正しい生活ができるように、そして人間として幸せな生活が送れるように、聖霊の力が必要になります。

 

ヨハネ14,15-16.23-26

キリスト教の信者たちは、イエスが昇天してからは、一人で信仰の道を歩いているのではなく、イエスの約束通り聖霊を受け取って聖霊と共に最後までキリスト者の生活をしていきます。聖霊と共に生活をするということは、毎日の生活に聖霊の七つの賜物を使っているということです。堅振式の時に受け取った聖霊の賜物を使えば、信仰やキリスト者の生活を間違えることはありません。霊霊の七つの賜物とは次のものです:「知恵」(wisdom)、「悟り」(understanding)、「助言」(counsel)、「勇気」(fortitud/courage)、「知識」(knowledge)、「愛」(piety)、「畏敬」(fear of the Lord)。これらの賜物のおかげで、何よりも「唯一の神を愛し」、そして「自分のように隣人を愛し」という二つの掟が最も大事なことであると理解できます。