メッセージ - B年 年間

 

第一朗読:ダニエル12,1-3

第二朗読:ヘブライ10,11-14.18

福音書: マルコ13,24-32

 

毎回典礼年度が終わる時には、キリスト教の終末論的なテーマに関する朗読を取り上げている。人間の人生だけではなく、神に造られた全世界にも限りがある。人間は自分の命の限界を知らないし、世界の限界も知らない(マコ13、32)。これからまだ長い間生きると思っている人が突然亡くなる場合もあれば、間もなく死ぬであろうと思っている人がそれから長い間生きながらえるという場合もある。原初キリスト教の人々には、「主の日」が間もなく来ると思われていた(マコ13,30)が、現在までそうはなっていない。しかし、それがこれまで行われなかったからといって、将来にも行われないだろうと考えるのは間違いである。人間の経験上、すべての物質には限りがあるとわかっている。それは物質界も同じである。キリスト者として、世界の終わりを知ることより「主の日」のために相応しい準備をすることが必要である。準備というのは、キリストの教え通りの生活をすることである。それは世界の終末に関することだけではなく、この世から人間が離れる時とも関係がある。

今日の朗読によれば、世界の終末は人間の行いによって始められられることではなく、神によって決められることである。ダニエル書によれば、大天使ミカエルは神の国民を特別激しい迫害から救うために来られる。その時、亡くなった人々が目覚める(復活する)。これは旧約聖書の中で初めて体の復活について直接的に語られた箇所である。目覚めた人々の中で、ある人は永遠の生命(天国)を得、ある人は恥と憎悪(地獄)にまみれる。それは復活した後で行われる裁きの話である。マルコによる福音書によれば、救い主であるイエスはキリスト者たちを特別な困難から救うために再び来られ、すべてのイエスを信じている人々がそこに集まった。この人々がイエスの信者である。イエスが我々のために自分の命をいけにえとして捧げてくださったおかげで、人間は罪から解放され、神と我々の間が平和になった(へブライ10,14.18)。神の人間となったキリスト者はこの世におけるイエス・キリストの証人にならなければならない。

それ以外にも、新約聖書に終末論的な詳しい教えが数多くあるが、根本的な教えは今日の朗読に含まれている。それは、キリスト者として証人にならなければならないということである。しかし、そうすれば迫害が起こるだろう。この迫害の目的はキリスト者を滅ぼすことではなく、キリスト者の信仰を試すことである。迫害から救われるためにイエス・キリスト(メシア)が来られる。その時、死者は復活した後にイエスと共に集まって裁きを受け、天国に入って永遠に生きる。

毎回典礼年度が終わる時に朗読の内容がキリスト教の終末論的なテーマに関するものであることの目的は、我々がキリスト者として毎日生活しながら「イエスの日」、「主の日」を待つようにするためである。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

 

テーマ:神殿の賽銭箱に金を入れる様子

福音:マルコ12章38-44節

キリストは神殿の賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれにお金を入れる「様子」を見ておられました。ユダヤ教の律法が全収入の10分の1を神様にささげねばならないと教えたので、金持ちは献金をたくさん入れていました。ところで、貧しいやもめが、最も薄い銅貨(レプトン)2枚だけをささげました。それは、1クアドランスで、デナリオンの64分の1でした。古代ローマ帝国の1デナリオンが1日の労働に相応しい賃金に比べると、やもめの献金は現在の150~200円ぐらいの価値がありました。

キリストは、弟子たちを呼んで、このやもめが誰よりも多く、神様にささげたと教えてくださいました。その理由は、キリストがその前に話したことの文脈から分かります。即ち、イエス様は、金持ちの律法学者が自分の偉さを見せるために、人の前に大金を神殿にささげていたが、実際に貧しいやもめたちの家を喰い物にしていると警戒します。収入の10分の1の献金は、彼らが神様に対する特別の思いを持ってささげたわけではなく、律法に背かないためでした。また、彼らは、神殿に献金をささげる「様子」を利用し、人から誉れを受けること、義人であること、力あることや偉いものであること等を人に見せていました。傲慢な彼らは社会の中で挨拶されること、会堂や宴会で上座に座らせてもらうように好んでいました。

キリストは、賽銭箱にお金を入れる「様子」を見ておられた時に、献金の額を気にしませんでした。大切なのは、献金をささげる心の「様子」でした。イエス様は、金持ちの献金がたくさんだったが、神様の栄光のためではなく、神様に対する愛のためでもありませんでした。大金をささげたとしても、何の犠牲もなく、余ったお金をささげたから、神様を愛する「様子」が見られませんでした。

やもめの献金は、最も薄い銅貨2枚しかささげませんでしたが、イエス様は弟子たちに、このやもめが誰よりもたくさん入れた「様子」に気付くように導きました。神様の前に、やもめの2レプトンが生活費全部であるならば、金持ちの10分の1の献金を遥かに超えています。そして、やもめの富は、神様を愛する心でした。彼女にとって神様が自分のすべてだったから、自分の財産も、神様に対する限りない信頼の内に人生そのものを神様にささげたということになります。賽銭箱にささげた僅かな献金は、彼女が心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思いを尽して神様を愛していたという最大な掟を完全に果たした証しでした。

現代、社会生活において私たちの誰でも、収入を自分の生活費や教育、また人の生活を支えるためなどに使うことは当たり前のことです。しかし、やもめの献金は私たちに、自分たちが持っているものの100%が神様の恵みによるものであること、神様に無条件で限りなく愛されれていることを意識させます。この愛に応えて、私たちも貧しいやもめのように、すべてを尽して神様を愛し、自分の人生のすべての局面をもって、神様にすべてを委ねることを教えていると思います。

 
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

 

第5講話は、神のひとり子の地上の人生の神秘を紹介します。ニケア・コンスタンチノポール信条の中で、次の節があります。

「主は、わたしたち人類のために、わたしたちの救いのために天からくだり、

聖霊によっておとめマリアから体を受け人となられました。

ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、

苦しみを受け…」

信条は、キリストの受肉(神の子は人間になること)と過越(キリストの死と復活のこと)の神秘について信仰の内容を提言しますが、キリストの福音宣教について何も述べていません。ところで、イエス様の生涯は、御受難と御復活という過越の神秘を目的とし、その意味を反映するものであると聖書から知ることができます。したがって、キリストの受肉と過越の神秘を福音全体の文脈の中で理解し、キリストによる救いを信じる必要があります。キリストの地上の生涯は、最初から最後まで、人間の罪深さによって苦しみに満たされ、十字架による世の救いと罪に対する神様の愛の勝利を明確にし、キリストの御復活の神秘に与る喜びの内に完成されます。

 

1.御降誕の神秘

「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2章6~11節)

 

神の子「メシア(キリスト)」は、人間として御生れになる時、場所がなかったので馬小屋で御生れにならなければなりませんでした。その苦しみの理由は、人間の自己中心の罪深さにあります。そして、イスラエルの王ヘロデは、救い主が御生れになったことを知るようになると、地上の権力を失うことを恐れて、その命を狙ってベツレヘム中に生れたすべての幼い男子を殺しました。キリストが両親と共にエジプトに逃げなければならなかったという苦しみ(マタイ2章13~18節)に遭いました。これによって私たちは、キリストが地上で初めから命の危険と苦しみに遭遇されたことが分かります。

しかし、受肉の神秘は、善意の人々に救いの喜びを与えました。天使のお告げを受けた聖母マリアと聖ヨセフを初め、ベツレヘムの羊飼いたちと東方の博士たちは、神様が人と共にお住みなったことで大いに喜びました。彼らに続き、今に至るまで教会は御降誕の神秘を再現する典礼の中で救い主が私たちの所に来られることを信じ、全世界の人と共にそれを喜び祝います。

 

2.主の洗礼の神秘

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マルコ1章12~13節)

 

洗礼者ヨハネは、キリストを迎えるために悔い改めに招き、多くの人に洗礼を授けていました。その洗礼は、罪人がヨルダン川に入って罪を告白し、水の中に自分の身を“沈む (バプテスマ) ”ことによって罪深い自分が死ぬこと、また、水から立ち上がることは、神様(また、キリスト)に出会うに相応しく、新ししい人になったしるしです。

罪のないキリストが罪人の所に降って来られ、彼らと共にヨハネから洗礼を受けることは、キリストの過越の神秘と密接に結ばれています。というのは、キリストが使徒ヤコブと使徒ヨハネに、「このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ10章38節)という質問された時に、御自分の御受難と御復活の恵みによって洗礼が完成されることを促しています。キリストは、人間が洗礼の内に過越の神秘による神の救いの実現を現すために御自身も洗礼を受けられました。引用しました福音箇所にあるように、キリストが水から上がると、父なる神様は、キリストをとおして人類に天国を開き、聖霊を送って、神の子を聞き従って信じる人に救いに与ることを約束してくださいました。したがって、私たちの一人ひとりの内にその救いが実現するために、キリストが受けた洗礼を、私たちも受けねばならないと信じています。

 

3.誘惑に打ち勝つ神秘

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4章1-11節)

 

神の子キリストは、その人生のすべての次元で私たちと同じようになり、悪魔から誘惑も受ける苦しみを味わいました。砂漠でのキリストの断食は、人間が自分の力によるのではなく、神様によって生かされていることを教えています。旧約時代の神の民イスラエルは、モーセ時代(出エジプト記)にエジプトの奴隷から解放されて、約束の地カナンへと40年間砂漠を渡って歩まれた時、神様によって養われていただけなければ死んだに違いということを経験しました。それにもかかわらず、彼らは旅中、欲望に負けて神様に対してつぶやき、多くの罪を犯したことがあります。キリストが行った40日間の断食は、出エジプトの40年間砂漠でのさ迷いを反映します。「石がパンにするように」という誘惑は、人間の物欲で、神殿の屋根から飛び降りる誘惑は快楽欲で、国々の繁栄を得るように悪魔を拝む誘惑は、名誉欲で、人生の中でわたしたちが遭遇するすべての誘惑を表現します。キリストは謙遜に御父のみ言葉に従うことによって誘惑に打ち勝ち、御父との一致の故に悪魔を退ける道を示してくださいました。

 

4.神の国の神秘

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ 13 章31-32節)

 

キリストは、その公生活の中で、物質的に、また霊的に貧しい人々に福音を宣べ伝えました。四つの福音書が、神の国についてキリストが教えた56の例え話を紹介しています。また、キリストの内に神の国の到来が実現しているしるしは、キリストが行った奇跡の内に現れます。キリストが悪霊を追い払い、病人を癒し、死者を甦らせ、水をぶどう酒に変え、パンの増加などの奇跡を行いました。福音書は32ほどの奇跡を紹介しています。その他にキリストが教え、また行った業が、数えきれないほどあります。

そのみ教えの中で、キリストは何回も、神の国を地に蒔かれた種に比較しておられます。その一つは、上に引用しました「からし種」の例えです。からし種は、最も小さな種であると言われていますが、一粒を地に蒔けば、新しい命が生れ、大いなるものになり、多くの実を結び、鳥などの住みかとなり、たくさんの生命を支えるようになります。キリストは、種は、「み言葉」であると教えたこともあります。キリスト自身が、受肉された神のみ言です。キリストは、わたしたちを生かして救うために、「からし種」の程に小さくてなって謙遜な者となり、地に落ちた種のように、御受難を受けて葬られました。しかし、御受難の内にキリストの最大な愛が実現されました。種から新しい命が芽生えるように、キリストは私たちに永遠の命を与えるために御復活なさったのです。私たちも、自分たちの心にみ言葉の種を蒔けば、キリストの受難に与って自我に死に、キリストに生まれ変わって永遠の命に与り、わたしたちの内に神の国が実現されるのです。

 

5.最後の晩餐の神秘

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子達に与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

(マタイ26章26-28節)

キリストは、最後の晩餐の時に、弟子たちとのお別れの苦しみを味わいました。キリストは、御父の御心に従い、多くの人の罪の赦しのために血を流して、命を献げようとすることを明確にしてくださいました。それは、罪を犯していないキリストが人類の代表者として、父なる神様に御自身を清い「いけにえ」としてお献げになったのです。その血は、神様との契約の血となり、人類と神様が一つに結ばれる救いの業の表現です。御父に献げようとする十字架の「いけにえ」を、キリストは12使徒をとおして教会にお委ねになりました。パンの内に御自分の体を、ぶどう酒の杯に御自分の血を秘められて、弟子たちにそれを取って頂くようにお命じになりました。また、遺言として、この最後の晩餐の意味どおりに世々にわたって、記念としてすべての人の間に行うように残してくださいました。それは、すべての御ミサの中で、多くの人は、キリストの死と復活に与って救われるためです。

 

6.オリーブの園(ゲッセマネ)での悶えの神秘

イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」(ルカ22章39-46節)

 

御受難は、地上の権力争いによってキリストが犠牲になってしまった結果ではありません。ゲッセマネの園で、キリストは御自分の意志によって御父の御心に従って世を救うために御受難をお選びになりました。引用した福音箇所にあるように、人間の本性を持ったキリストにとってそれは、悶え苦しむほどに大変な選択でした。イエス様はその時、弟子たちに、誘惑に堕らないために絶えず祈るようにと招いてくださいました。神の使いがキリストを力づけたように、わたしたちは、神様への信仰と信頼によって神様の救いの恵みを受けることができるのです。

 

7.ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられた神秘

「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて言った。『あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。』(...)ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」

(ルカ23章13-15節、20-25節)

以上の福音箇所は、信仰宣言の「ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、」の信仰内容を紹介します。キリストの御受難は、抽象的な出来事ではなく、むしろ、歴史的の具体的な出来事であり、ローマ総督が下した死刑の宣告に従うことを証明します。ローマ総督ポンティオ・ピラトは、キリストの内に罪を見出せませんでした。その判決は、「十字架に付けろ」と叫んだ民の意志を果たすためでした。上記の福音の箇所が描いているように、神様とキリストを拒む民の罪はイエス様を十字架に付けたのです。また、時間と空間を超えて私たちの犯す罪も、キリストを十字架に付けるのです。

キリストは、罪の赦しのために十字架に肯定的な意味を与えました。その御受難は、キリスト(神様)の無条件の愛によって私たちの罪が赦され、私たちに救いの恵みをもたらしたのです。

 

結び

主の御降誕の神秘と過越の神秘は、教会の信仰生活の中心となります。真の神はへりくだって罪人の所に来られ、ありとあらゆる苦しみに遭遇しました。それを受け入れることによって、キリストは救いをもたらす神様の完全な愛を、また永遠の命をもたらす神の国の到来を実現しました。それは、アダムの罪の時から神様が御計画なさった救いの営みの実現です。聖なる者になるようにと招かれている私たちは、信仰の生き方によってこの救いの恵みに与ることができるのです。預言者イザヤが来るべき救い主(メシア)の使命を次の言葉を持って裏付けます。

彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。

われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。

主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。(イザヤ53章1-6節)

 
メッセージ - B年 年間

マコ10,46-52

 

「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」マコ 10:48

 

私たちがイエス・キリストを信じるというのは、盲人のバルティマイのように「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び、イエスを信頼して、イエスに私たちの暗闇を照らしていただくように、つまり歩むべき道を教えていただくように願うということなのです。そして、バルティマイのように、今も私たちは色々な形で、例えばキリストの教えに逆らう消費主義や快楽主義の価値観やそれに基づく生き方を押しつけられることによって「黙らせよう」とされています。つまりイエスに近づかないように、イエスの道を歩まないようにされるのではないかと思います。

 

一生懸命に働いている消費主義や快楽主義の宣教師たちは、自分たちが何をしているか分からなくても、イエスに照らされている私たちは、彼らに騙されないように、イエスが示してくださった道を眺めるだけではなく、実際にこの道を歩むことによって、この道は本当に真の命に繋がっているということをますます強く自覚する必要があります。

以上の意味でイエスを信じるというのは、大きな恵みであって、幸せに生きるための大きなチャンスであると同時に、大きな責任です。この恵みを無駄にせず、このチャンスを生かすように、やはり日常生活においてイエスの道を歩む必要があります。そのとき、自分たちが豊かな命に生きるようになるだけではなく、まだ暗闇に留まっているため、いろいろな偽預言者に騙されて死に向かって歩む人たちのために光となることによって、彼らに対する責任を果たします。それによって、その人たちにも命に向かう道を見出すチャンスが与えられるわけです。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

 

第一朗読:イザヤ 53,10-11

第一朗読の言葉は、第四僕の賛歌(イザ52,13-5312)の一部である。僕とは、神の僕としてのメシヤのような方であり、彼は神の御旨を完全に行う。しかしそれを実現するために、彼は驚くべき道を歩かなければならない。この道の目的は、彼自身が満足することと、彼の知識によって多くの人々を義とすることである。この目的を達成するために、彼は自分の命をいけにえとしなければならない。このいけにえは、私たちの罪過が許されるのに必要となる捧げものである。自分では罪を犯さなかった僕だが、私たちの罪を彼の咎とした。

この賛歌は救いの道を示している。人間は神の僕の業によって救われた者となった。この僕はイエスである。僕の業というのはイエスの受難と復活のことであった。

 

第二朗読: ヘブル 4,14-16

神の僕、神の子イエスは天に昇り、天国に存在している。しかし、決してこの世を旅する教会と離れているわけではない。イエスはいつも我らと共にいる。イエスはこの世に生きているときに受難にあったことから、人間の心を知っており、人間の弱さに同情できる。罪という点だけは違うものの、その他の点は人間と同じように経験している。イエスは私たちの心を完全に理解することができる。だからこそ私たちは、信仰を堅く守り、常に神のあわれみと恵みを求めていれば、必ず助けを受ける。神はイエスによって人間のために働く。

 

福音書:マルコ 10,35-45

マルコによれば、イエスの弟子たちは最後までイエスの教えやイエスの考え方などを完全に理解することができなかった。今日の福音書の言葉にあるように、ヤコブとヨハンの兄弟はイエスに特別な頼み事をした。彼らは神の国ができた後、イエスに続く二番目と三番目の地位につかせてほしいと頼んだ。この依頼はヤコブとヨハネがイエスの教えを全く理解できていなかったことを示している。彼らにとっては神の国というのはイスラエル王国であるが、それはイエスの教えとは全く異なる。神の国は人間の心の中に存在する国である。つまり、人間が神の御旨に従うとき、その人の心の中には神の国が存在している。神の国の中では、イエスが王である。しかし、イエスが王になった理由は神の御旨通りに人間を救うために自分の命を捧げたからである。ヤコブとヨハネにとって神の国への道は受難の杯であり、イエスのように信仰のために迫害を受けることである。