メッセージ - C年 年間

今日の福音によれば、大勢の群衆がイエスについて来ましたが、本当の意味でイエスについてきている、イエスの弟子になろうとしている人は少なかったようです。そこでイエスは、自分についてきて本当の弟子になりたいなら、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹などの家族、さらには自分の命までも捨てること、そして自分の十字架を背負ってついてくることという、二つのことを彼らに求められました。

自分の家族を愛することは当たり前のことです。しかし、自分の家族「だけ」を愛することはイエスの弟子にはふさわしくありません。自分の命を惜しいと思わない人はいません。しかし、自分の命「だけ」が大切だと思う人はイエスの弟子にはふさわしくありません。自分の近くにいる人だけを抱え込むとき、自分のものだけを抱え込むとき、それ以外のものを「背負う」余裕はありません。自分に属するものだからという理由で愛するとき、他のものを愛することを捨てています。

家族であれ、命であれ、自分のものだけに執着して他人のことはどうでもかまわない、自分のものが大丈夫ならそれでいい、という生き方を否定すること、その自己中心的な価値観を捨てること、憎むことこそ、イエスが求められていることです。自分の家族に対する愛を、自分の命を大切にする気持ちを、ほんの少しだけ外側に広げてやることは私たちにもできることです。イエスご自身も、自分の周りに集まってきた人、自分の話を聞いて神のみ旨を行う人のことを「わたしの母、私の兄弟、姉妹」と呼んで愛されました。第二朗読でも同じことが語られています。オネシモはフィレモンの奴隷でしたが、しかしパウロはフィレモンに呼びかけて、彼を奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れるようにと呼びかけています。

教会は血のつながらないものが集まっている共同体ですが、私たちがまずその中で互いに助け合い、愛し合って生きるなら、それこそこのことばの証しになります。そしてその愛を更に世界へと広げる第一歩となります。それはたやすいことではなく、時にはまさに十字架を背負うようなつらいことかもしれません。それでも私たちがしがみついているものを捨てて、「腰をすえて」自分の弟子になりなさい、そうイエスは私たちに語りかけています。

 
メッセージ - C年 年間

 

(ルカ14,7-14)

「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」ルカ14,13-14

 

 

イエスは、宴会やパーティの催し方ではなく、神の国について教えています。イエスが神の国について教えてくだったのは、神の国に入るように招かれている私たちの心の中で、神の国に入りたいという望みを起こすため、また、神の国へと導く道を教えるためだったのです。

 

イエスは、ご自分が教えてくださることを必ず実践しておられる方です。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を」招くことについての教えも、例外ではありません。イエス・キリストご自身が催してくださった宴会というのは、最後の晩餐と同時に、過ぎ越しの神秘、つまり、キリストの十字架上の死と復活の再現にもなっているミサ聖祭、感謝の祭儀なのです。ミサ聖祭に招かれている人たちは、自分の力だけによって、絶対に幸せになることのできない人、神の恵みを受けても、何のお返しもできない人々ばかりなのです。

 

ミサの中でイエスは、私たちのために二つの食卓を準備しておられます。一つは、御言葉の食卓です。もう一つは、イエスご自身の体の食卓です。したがって、ミサの中で私たちは、神の言葉とイエスご自身の体、つまり、どんな美味しい食べ物や飲み物に、勝る「食物」によって養われていますし、目に見える兄弟姉妹だけではなく、イエスご自身との、イエスによって三位一体の神との、つまり、どんなに楽しい仲間にも勝る方々との、交わりの恵みを与えられているのです。このようなミサは、神の小羊の婚宴に譬えられている、神の国の先取りなのです。なぜなら、神の国とは、最高の喜びと平和、つまり至福に満たされて、三位一体の神と救われたすべての人との、愛の交わりに生きることだからなのです。したがって、開かれた心を持ってミサに参加することによって、私たちはある程度まで、神の国の現状を体験することも、神の国の生き方を身に着けることもできるのです。

 

私たちは、意識的にミサに参加し、神の愛について学び、それを実際に体験し、実感することによって、仲間のキリスト者やイエス・キリストとの愛の交わりを深めることができますように、そして、日常生活において、イエス・キリストと共に、また、キリストのように生きること、つまり、自分の楽しみや他の利益ではなく、無償の愛を基準にして生きることによって、神の国へ向かって歩みながら、多くの人々を神の国へと導くことができますように祈りましょう。

 

 

全能永遠の神よ、

あなたを愛する心をお与えください。

復活の信仰に生きるわたしたちが、

人々の中で、

絶えずそのあかしを立てることができますように。

聖霊の交わりの中で、

あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

 

 

 
メッセージ - C年 年間

テーマ: 「わたしには受けねばならない洗礼がある。」(ルカ1250)

 

この主日ミサの福音(ルカ12章49~53節)の中では、私たちを驚かせるキリストの言葉があります。それは、「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。」とか、「地上に平和をもたらため(...)ではなく、むしろ分裂だ。」とか、家族の人が互いに対立して分かれることについてなどのキリストの言葉です。聖書全体から、私たちは、キリストが愛し合うことを教えて平和の君であること、罪、死やあらゆる分裂から私たちを救う方、御自分の内にすべてを一つに集めるために来られた方であることが分かります。では、何故、キリストは、弟子たちにこれと矛盾する言葉を語られたのだろうか、と私たちに強く考えさせるものがあります。

福音が伝えるキリストの語られる「火」「分裂」の言葉は、私たちがキリストの宣べ伝えられた福音とそのなさった救いの業に応えて、自分たちの人生を変えたのだろうか、という力強く問い掛けるものがあると思います。「この世の平和」は、人間の自我、自己中心、欲望のために度々、立て前に過ぎず、ガマン、妬み、劣等感、憎しみなどに満ちていることに気付く必要があります。イエス様は、このような平和を否定して、最後の晩餐の時に弟子たち(現在に至るまで御ミサに与る私たちに)、世が与える平和ではなく、世が与えることができない真の「神の平和」を私たちに与えると約束してくださいました。

「火」は、金を精錬するものですから、昔から「神の裁き」を表現します。日常の生活の中で、神様からの善を、つまらないもの(罪深さ)から“精錬される”という神様の救いの働きは、火で例えられています。ここでキリストは、この世が地上の価値のために神様の愛とキリストの救いを拒んだりすることを指摘します。キリストは家庭に平和を望み、家族の分裂をけして望んでおられません。ところで、この福音の中で、自分の家族がキリストとの一致を妨げるようなことであるならば、分裂はやむを得ないと言われています。なぜなら、家族のメンバーではなく、キリストのみは、私たちの救い主、私たちの神だからです。

福音の中でキリストが用いる「火」の象徴は、もう一つの大きな意味があります。それは、「神様の愛の火」です。イエス・キリストは、救いの完成を切にお望みになり、御自分の死と復活によって世の救いを成し遂げ、天にお昇りになって御父の元からこの世に愛と永遠の命の賜物である聖霊を遣し、人の心を燃え立たせることを望んでおられます。それは、聖霊降臨の時に実現し、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、(弟子の)一人ひとりの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされた。」(使徒言行録2章3-4節)ということを弟子たちが体験したことです。そして、地上の教会(神の国)が誕生し、多くの人々は聖霊の満たしを受けました。

イエス・キリストは、今日の福音の中で、私たちに聖霊を遣わすため、先に「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言っておられます。以前、ヨルダン川でキリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、キリストについて、「その方は聖霊とであなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3章16b節)と証ししました。いわゆる、キリストが語られるもう一つの洗礼は、御自分の死と復活です。洗礼の意味どおりに、水に人間の古い自分が沈み、水から立ちあがった回心する人間が新しい人生を送ると同じように、キリストは死に葬られ、死者の内から復活して、新しい命をお定めになったので、洗礼の恵みを完成してくださいました。キリストの御受難を目撃した人は、キリストの予告通りに分裂し、ある者は、「十字架につけろう」と叫び、他の者は十字架の死に至るまで従がってご復活に望みをかけました。十字架の死に至るまでのキリストの愛が地上に燃えることを、この福音の中で強く望まれています。それは、キリストのような無償、無条件、無限の神様の愛の炎です。

キリスト者であるならば、私たちは教会で洗礼を受けたことでしょう。ところで、その式が意味するキリスト者らしい人生を、私たちは送っているでしょうか。全生涯は、聖霊に満たされて愛の火に燃えるように、これからも私たちにも、イエス様のような「受けねばならない洗礼がある」と思います。

 
メッセージ - C年 年間

「グレゴリオ」の名で呼ばれる教会の聖人は何人もいますが、この名前の由来となっている言葉は、ギリシャ語の「グレーゴレオー」です。この動詞が今日の福音の中で使われていて、「目を覚ましている」と訳されています。この言葉の意味は「目を覚ましている」と言っても、単に「眠っていない」「目を開けている」ということではなくて、「用心深くいること」「油断せずにいること」「警戒を怠らないこと」です。

いつ来るか分からない主人を待ち構えて、目を覚ましてぬかりなく備えているしもべのようになるように、また、泥棒がいつやってきてもそれを防ぐことができる家の主人のようになるように、私たちは招かれています。たとえ真夜中であっても、予想しない日であっても関係ありません。仕事にはフルタイムもパートタイムもありますし、フルタイムでも休みの時間、休みの日はあります。けれども、私たちがキリスト者であること、キリスト者として生きることに休みはありません。キリスト者であるということは、日曜日にミサのために教会に行くときだけではなく、24時間、365日、キリスト者として「目を覚まして」「怠ることなく」キリストに従うことです。

毎日の生活の中で、私たちは予想しないとき、思いがけないときに主イエス・キリストと出会います。いつも目を覚ましている、忠実なしもべとしてその時を迎えられますように。

 
聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

霊的な読書とか、神聖な読書という意味のレクティオ・ディヴィナ(ラテン語:Lectio Divina)は、聖書の読書に基づく祈り、また、神の言葉の黙想の方法として、もうすでに教父の時代、つまり、4,5世紀から活用されていましたが、12世紀のグイゴという名のカルトジオ会の修道士が、レクティオ・ディヴィナの基本的と思われた四つの部分、ないし段階を説明する文書を書きました。この段階とは、lectio(読書)、meditatio(黙想)、oratio(祈り)、contemplatio(観想)です。

 

◎ 第1段階:読書

この段階の目的は、黙想の対象となっている聖書の個所を理解することです。そのために、まず、この個所をゆっくり読みます。この文書の表現形式(出来事の叙述や歴史的な物語とか、説教やたとえ話とか、詩など)を意識してから、読んだ本文に対して可能な質問をして、その中で答えを探します、例えば、 何が(起こっているか、取り扱われているか、課題となっているか)、誰が(登場するか、対話するか、話しの対象となっているか、)、何を(話すか、するか)、どこで、また、いつ(この出会いや出来事が起こっているか)、どのように(反応するか)、どのような感情が表現されているか、何故などです。

特に、今まで何回も読んだために良く知っている聖書の箇所を読むときに、細かくて、「当たり前」と思われるような質問をすることによって、今まで気が付かなかったことを発見することも、本文をより深く理解することもできるのです。

 

自分の質問に対する答えを本文の中に見出せないことがあります。それは、この個所が伝えているメッセージを理解するために知らなくてもいいものであるかもしれません。それとも、この書の最初の読者にとって、常識的なことであって、よく知られているために書く必要もないようなことであったかもしれません。ですから、多くの場合、読んでいる文書を理解するために、できるだけこの書の最初の読者の立場になって、この読者がこの文書をどのように理解したかということを考える必要があります。もちろん、そのために扱っている書は、いつ、どのような現状におかれた人のために書き記されたかということを知ることが必要です。また、この書の対象は、ユダヤ人であったならば、彼らの世界観とか、普段の言い方とか、イスラエルの歴史や旧約聖書の知識などを土台にして、考える必要もあるのです。結果的に、聖書辞典や注解書などを読んで、勉強する必要になることが多いわけです。

 

◎ 第2段階:黙想

黙想の目的は、扱っている個所において、神の言葉を見出すこと、つまり聖書の個所によって神が自分に伝えようとしておられることや与えてくださるメッセージを読み取ることです。

 

読んだ言葉は、自分にとって、どのような意味を持つか、どのような注意や励ましや戒めや導きなどについて考えることができますが、特に神の言葉がなかなか見出せないときに、以下のように感情や記憶や理性や想像などを用いて、段階的に黙想することもできます。

 

・感情の活用

扱っている個所を再び最初から最後までゆっくり読みますが、今回は、文書を一つずつ読んでから、短い間をとって、自分の心の動きを調べます。自分の心の動きを調べるとは、浮かんだ感情、例えば、喜び、悲しみ、不安、恐れ、平安、退屈、無感情などを意識するということです。

 

・記憶の活用

何か心の動きを見出したら、そこで読書を止めて、浮かんだ感情を見つめます。この感情は何(言葉、場面、人の反応)によって起こされましたか。どうしてでしょうか。何の体験や出来事や出会いなどが思い起こされましたか。それと関連するもの(出会った人、行った場所、見た映画、読んだ本など)は、何でしょうか。

 

・理性と想像の活用

このみ言葉や自分の心の動きによって神が今の(こんな現状にいる、こんな選択に直面している、こんな問題で悩んでいる)自分に何を伝えたいのでしょうか、何を示したいのでしょうか、どんな導き、使命、励まし、主意などを与えてくださるかについて考えます。

 

◎ 第3段階:祈り

たとえ、祈る人がそれをはっきりと意識しなくても、祈りはいつも、神の働きや神の呼びかけに対する人間の応えです。レクティオ・ディヴィナをしているときに、このことが特にはっきりと見えています。 要するに、この段階において、前の段階であった黙想のときに見出した神の言葉に対して自分が応えます。黙想によって、最近神から特別な恵みをいただいたということに気が付いたならば、祈りは、感謝になります。黙想を通して、イエス・キリストのすばらしさの新たな側面を示されたならば、祈りは、賛美になります。このように、自分が聞き取った神の言葉によって、祈りは、お詫び、願い、約束、決心、または、実際的な行動などにもなりえるのです。

 

◎ 第4段階:観想

観想とは、感情、記憶、理性と想像などのような機能を超えて、静けさの中で神の御前に憩うことです。読書、黙想と祈りの段階で、私たちが様々な機能を用いて、神の言葉を理解するように、また、読み取った神の言葉に応えるように努力しますが、現実的に考えれば、自分の考えとか、自分の望みや欲を神の言葉として間違えて、神に従うことを求めても、いつの間にか自分自身の道を進むことになることは、決して珍しくありません。つまり、意識しなくても、自分の働きによって、神の言葉や神の働きを実際に妨げることがあるということです。確かに、後で、自分の生き方とその結果を正直に振り返るならば、自分の間違いに気づくことができます。そして、自分の間違いを素直に認めた上で、それを繰り返すことがないように気を付けるならば、そのような過ちを犯すことが段々と少なくなります。

 

けれども、真の観想において私たちは、自分の意識を神に向けながら神の前に静かに留まり、神の働きを承諾すること以外に何もしませんので、神の働きを妨げることもないのです。そのために、観想において神は、私たちの内で自由に働くことができますので、私たちは、神の望み通りに、段々とイエスの姿に変えられるのです。もちろん、観想の時に人間は、理性や感情などのような機能を用いないので、読書、黙想と祈りと違って観想は、私たちが記憶できるような体験にはならないのです。静けさの中で過ごす時間は、本当に観想であるかどうかということを自分の生き方の変化、特に他の人に対する態度の変化によってしか分かりません。要するに、私たちの生き方は、段々とイエス・キリストの生き方に近づいているならば、神の御前に過ごす時間は、本当に観想であるという確信を持つことができるのです。

 

観想は、人間がそれをしたいからできるようなことではありません。観想は、イエス・キリストによる神との関わりの発展の結果であり、神の恵みなのです。すべての人々を愛してくださり、すべての人々の愛を求めておられる神は、例外なくすべての人々にこの恵みを与えたいという確信を持つことができます。けれども、神は、この恵みをいつ与えてくださるかということが分かりません。この恵みを受け入れるために、自分にできることとは、自分の心を準備するということだけなのです。神の言葉を黙想したり、理解したことを実行したりすることによって、イエス・キリストとの交わりの内に生きながら、「忙しい祈り」、つまり、自分が様々な機能を用いて、いろいろな働きした後に、静けさの中で留まって、自分の意識を神に向けることは、心の優れた準備であるということが言えると思います。

 

レクティオ・ディヴィナを行うことは、聖書を読書したり、聖書の言葉を黙想したりするだけではなく、生きた神の言葉であるイエス・キリストと交わることなのです。他の人との関係の場合と同じように、この交わりの内容、つまり、自分が感じている喜びや平和とか、発見している新しい思想や気づきなどのような内容よりも、この交わり自体に忠実であることが大事なのです。したがって、自分の聖書の霊的な読書が期待通りの実りをもたらさないと思っても、それを忠実に続けること、つまり、できるだけ毎日、最初から決めた(イエスに約束した)時間に行うことによってだけ、この交わりが段々と深まるのです。初めごろ、考えることや、感じること、また、話すことがほとんどですが、祈りが発展すればするほど、すなわち、イエスとの交わりを深めれば深めるほど、静かな時間が長くなるのです。自分が一生懸命に聖書の言葉を考えたり、それを分析したりすることによってよりも、静けさの中で、神の働きを受けることによって、神の言葉の意味を理解できます。また、自分の力を発揮することによってよりも、静けさの中で、神からいただいた力によって、聞き取った神の言葉を忠実に実行することができるのです。

 

このように、私たちは、聖書を尊敬し、聖書を読んだり、研究したり、その言葉を黙想したりするのは、この本を知るためというよりも、この本を通してイエス・キリストを知るため、つまり、イエス・キリストと愛の絆によって結ばれ、イエスに従って生きることによって、愛の交わりの完成である完全な一致に辿り着くためなのです。カトリック教会が教えている通りです。「キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」くださることが不可欠です。」(カテキズム108)

 

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