聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

「聖書が教えるカテキズム」20162月の講話

序.

カトリックの信条は、弟一箇条で御父である神様を信じる信仰、第二箇条で御子イエス・キリストを信じる信仰、第三箇条で聖霊を信じる信仰という内容を含んでいます。聖霊に対する信仰は、使徒信条の次のような節から成り立っています。

「聖霊を信じ、

聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」

ニケア・コンスタンチノポールの信条は、聖霊に対する信仰を以下のとおりに提言します。

「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。

聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来生のいのちを待ち望みます。」

 

聖霊に対するカトリック教会の信仰は、神様の第三ペルソナである聖霊とその働きである神様の命をこの世に与えること、そして聖霊の被造物である教会を信じることです。イエス・キリストは御昇天する直前に聖霊降臨を預言します。「 イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天+に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録1章7-9節)その九日目に聖霊降臨の出来事が実現され、地上に目に見える教会が誕生し、聖霊を信じることは教会の信仰箇条となりました。

聖霊は、三位一体の神様の一つのペルソナ(位格)であることをキリストによる啓示から分るようになりました。また、第7講話でも紹介しましたように、キリストは最後の晩餐の時に弟子たちに御自身の代りに御父のもとから聖霊を送ることを約束してくださいました。

この講座の中では、聖霊の働きが教会に限らず、世の初めからキリストに至るまで聖霊は、旧約の預言者を通して働き語られ、聖書全体は聖霊の働きを様々な象徴で表現されています。

 

1.聖霊の呼称と象徴

1)ヘブライ語の「ルアー、Ruah」である聖霊

第二講話で、紹介しましたように、創世記は、世界創造の「初め」に、「神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1章2節)と記されています。ここにヘブライ語の“Ruah Elohim”は、「神の霊」と訳されています。ルアー(Ruah)は、風、息吹、命の源を意味し、理性と自由意志を持つ霊的な存在を指しています。その意味を取って、キリスト教の神学は、キリストが啓示された聖霊に当てはめる存在であると信じています。ギリシア語の「プネウマ(Pneuma)」はヘブライ語の「ルアー(Ruah)」の翻訳となります。

 

2)ギリシア語の「パラクレートス・Paracletos」である聖霊

第7講話にも紹介しました最後の晩餐に語られたイエス様の言葉(ヨハネ16章7-15節)によりますと、聖霊は「弁護者」であると言います。ラテン語の“Advocatus(アドヴォカトウス)は「助けに呼ばれた者」という意味のことばです。(現在、advocatusha裁判などの弁護士のことです。)日本語の「弁護者」は、罪人の私たちを神様の前に弁護する方を示す用語です。しかし、原文のギリシア語で“Paracletos”は「共におられる方」という意味です。誰よりも身近な親しい存在である聖霊が人間を神様との交わりに加えられることを意味します。パラクレトスが同時に罪に定めた人の無罪を主張する者を指し示しますので、聖霊は、罪人の私たちを正し、神様の交わりに相応しくしてくださる方であることを示します。

 

3)他の聖霊の呼び名

聖霊は、旧約聖書で「神の霊」や「主の霊」と呼ばれます。キリストは、「弁護者」であると同じ意味で「慰め主」や「助け主」と言い、また、「真理の霊」(ヨハネ14,17)と言います。初代教会は、「キリストの霊」(ロマ8,9)、「御父の霊」(ルカ4,18)「栄光の霊」(一ペトロ4,14)、「神の子とする霊」(ロマ8,15)という名称を用いていました。

 

4)聖霊の働きを表現する象徴とその意味

働きによって、聖霊が以下のとおりに表現されています。

①    「息」は、命を与える霊

②    「風」は、神の到来を実現する霊、

③    「水」は、命、清め、「渇き」を癒す霊

④    「火」「光」は、愛、英知、導き、照らし、清め、成長を与える霊

⑤    「舌」は、神様との交わり、神様について証しする霊

⑥    「塗油」は、救い、喜び、癒し、一致、力、勝利、聖別、神の代理とする霊

*  油注がれた者=メシアであり、キリストであること

⑦    「雲」は、神の現存を現す霊

⑧    「証印」や「霊印」などは、神に属するようにし、とする霊

⑨    「手」は、助け、賜物を与える聖霊、愛の奉仕実現する霊

⑩    「指」は、悪霊を追いはらう聖理の業、神の掟を心に記し人を変える力である霊

⑪    「鳩」は、人に平和な住まい、聖潔、忠実、再生の恵み与える霊、

聖霊は、誠の神様である故に、以上の聖霊の働きの表現は、地上において至聖なる三位一体の神様の働きであると提言することができます。以上に紹介しました聖霊の象徴を聖書の中で啓示されている聖霊の働きを心に留める助けとなります。

 

2.「預言者をとおして語られた」聖霊

「預言者」と言われているのは、旧約時代にも新約時代にも神のことばを告知するために聖霊が霊感(息吹)を与えたすべての人たちです。この人たちの内にある聖霊の働きによって、ユダヤ教とキリスト教の聖なる伝承を持つ信じる共同体が誕生し、そのメンバーは神様を知って共に生き、神様の救いの業に与るように聖化されることができます。その伝承の中で聖霊の働きかけによって記された神のことばは、「聖書」と言います。

 

1) 世界の創り主である聖霊

聖書の初めに次の御言葉が書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記1章1~3節)世界創造の働きの中で、神のことばと共に聖霊の働きがあると聖書は言います。無の混沌に、存在と秩序を、暗闇に光を照らす聖霊は、神様の英知を現します。

 

2)人間創造に参与する聖霊

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」(創世記1章26節) 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(創世記2章7~8節)

神様は人を御自分の似姿に象って創られ、御自分の「息吹」である聖霊によって命を与えてエデン(喜び)の園に住まわせました。こうして聖霊は神様の愛です。人間は自由意志を持って神様の愛に答えて生きるならば、聖霊に満たされて永遠に生きることができます。

 

3)約束の霊

人間は、その最初の先祖アダムとエヴァの時から罪を犯し、神様の愛との命から離れて死すべき者となりました。しかし、神のゆるぎない愛の故に救いの約束は、楽園での陥落の瞬間から始まります。即ち、誘惑者である蛇の姿を取った悪魔に、神様は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く、彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節)と言われて、人間の子孫が悪と戦う苦しみを受けるが、悪魔に打ち勝つことを預言し、救い主が生まれる約束をしてくださいました。この瞬間から、聖霊はこの約束の実現に向けて救いの歴史を出発させてくださいました。旧約時代にわたって、聖霊は、神様がご計画をなさった救いの営みを、救い主キリストの誕生に向けて運んでくださいました。そして、多くの預言者を通してキリストの到来のために準備してくださいました。

聖霊によって神様がイスラエルの最初の先祖アブラハム(紀元前19世紀)を選びました。神の救いの約束が実現するために、人間側からの信仰生活が必要です。アブラハムは、神様への信頼の故にすべてを捨てて神様が示す人生を始めました。その信仰の故に、神様は、彼に「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章3節)ということを約束してくださいました。アブラハムを信じるすべての人の父と呼ぶようになりました。即ち、救いの約束に与るために信仰の恵みを受け、それに自由意志を持って応えて生きる必要があることを示しました。

王国時代に、預言者ナタンはダビデ王(紀元前10世紀)に神様から預かった次の預言を伝えました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サムエル記下7章12-14節)と。したがって、旧約時代にメシアへの待望は、「ダビデの子」の内に実現し、彼は永遠に続く神の国をこの世に実現する約束となりました。それは、キリストが創立した「教会」の預言です。

預言者イザヤは、メシアが聖霊の力によって救いの業を成し遂げることを次のように預言した。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤの預言61章1節)と。イエス様ご自身が、この預言が御自分の内に実現したと証しされました(ルカによる福音4章18‐19節)。

 

3.「神との契約」(律法)の中で働かれる聖霊

旧約聖書は、救いの歴史の中で神様は人間と四つの契約を結んだことを紹介します。それは、ノアの契約、アブラハムの契約、シナイ山の契約とダビデの契約です。神様は、救いの約束だけではなく、救いに導くために選ばれた人と選ばれた民と契約を結んでくださいました。それは、救いの条件を果たしていく限り、神様と結ばれることになり、救いにあずかることができるのです。その契約の条件は、神様がモーセに与えられた「神の十戒」を中心とする律法です。契約の締結を可能にするのは、人間側で働かれる聖霊でした。聖霊こそは神様に信頼する信仰と神様を愛する恵みの霊です。

 

1)「ノアの契約」

イスラエルの歴史前の出来事として聖書が紹介するノア物語の中で、堕落した人類が洪水に滅ぼされたが、無垢なノアの一家は動物と一緒に箱舟に乗って救われたことを紹介します。洪水の後に、感謝のいけにえを献げたノアと、神様は契約を結んだことについて次の御言葉が書かれています。「更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(創世記9章12-13節) 円を描いて天と地を一つに結ぶように見える虹は、ここで正しい人を愛の内に神様と結ぶ聖霊の働きである「永遠の契約」を表現します。

 

2)「アブラハムの契約」

アブラハムはイスラエル人の最初の先祖であり、その契約は、歴史的な出来事である証明されます。創世記は、アブラハムに向けて次の神様のことばを啓示します。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。(創世記17章4-7節)換言すれば、この契約の本質は、神様がアブラハムの血筋による子孫と、彼の信仰を受け継ぐ多くの民の「信じる人の父」となることです。神様は御自分の霊によって、神の民を作り、最終的にキリストが設立した教会を聖霊によって誕生するように導く契約です。

 

3)「シナイ山の契約」

シナイ山の契約は出エジプト記 19-24章の中で描かれています。シナイ山で神様がモーセに与えられた「神の十戒」で特徴づけられ、神のことばを守ることによって民は罪と悪から解放されて、神様と結ばれることによって真の自由な身分となります。聖霊の導きによって約束の地を目指して進むイスラエルの民は、信仰の内にすべての民が天国へと歩むことを促しています。神様と人間を結ばれる契約は、いけにえによって表現されました。屠られた小羊の血によって聖霊は、民を罪から清め、いけにえの煙は天と地を繋ぐように、神様と神の民が与え合う愛によって一つに結ばれる救いの業を表現します。

 

4)「ダビデの契約」

ダビデの契約は、シナイ山の契約に基づいてあり、ダビデの王座が、彼の子孫であるキリストによって永遠に続くという約束によって特徴づけられます。神様と人との間の愛と忠実が契約の条件となります。

 

結び.

神様が預言者たちを通して約束してくださった救い主と聖霊の注ぎによる救いは、歴史上、神の子の誕生によって実現され、キリストが実現した新しい契約は究極なものであり、すべての人がこれに与るように呼ばれています。次の講話の中で「時が満ちた」というキリストの時代に働かれる聖霊を紹介することに致します。

 

 
メッセージ - A年 待降節

 

(ルカ1,4-4.14-21)

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ルカ4,18-19

福音記者聖ルカが、自分の福音書をテオフィロという人のために書き記すと伝えています。テオフィロという名は「神に愛されている者」、また「神を愛している人」を意味します。父である神はすべての人を愛していますので、この福音書は、誰か一人の人のために書かれたのではなく、すべての人のために書かれたということになります。同じことを聖書全体についても言うことができます。すなわち、聖書は父である神がいろいろな人を通じて、御自分の愛する子らのために、送ってくださった手紙であるということなのです。

誰かが愛する人に手紙を送るとき、まず自分の愛を表したいのではないかと思います。同じように、父である神は聖書の言葉によって、私たち一人ひとりに対するご自分の愛を表しているのです。

また、親が自分の子どもに手紙を書くならば、その中でいろいろな注意をしたり、アドバイスを与えたりするし、子どもが困っているならば、その子を励まし、力付けるような言葉も書くでしょう。同じように、聖書の言葉によって、父である神は私たちを教え、導き、慰め、励ましてくださるのです。

そういう意味で聖書はどんな本よりも重要な書物ですが、その言葉は父である神が求めておられるような実を結ぶために、それを読む人には、神に対する信頼と開かれた心が必要です。なぜなら、多くの場合、神の教えは、私たちが慣れている考え方に逆らっているし、私たちの考え方の変更と同時に、生き方の変更をも要求しているからです。私たちは、聖書を読んで理解したことを実行することによってだけ、その言葉をますます深く理解することができるし、神の愛をますます強く実感し、自分が歩むべき道、また、父である神が私たちに与えてくださる使命を知ることができます。さらに、暗闇や困難の時にも聖書を読み続けると、神の言葉は必ず私たちを励まし力付けてくださるので、どんなときにも神のことばを読み、それに従って生きることができますように祈りましょう。

 
メッセージ - C年 年間

 

第一朗読:イザヤ62,1-5

第二朗読:1コリント12,4-11

福音書:ヨハネ2,1-12

 

キリスト教会とは、イエスを信じる全信者のことであり、この世におけるキリストの体である(1コリ12、27)。教会の中で不必要な人は一人もいない。すべての個人は教会にとって大切な者である(1コリ12,12-26)。一人一人が教会の委員として、信者として、キリストの体の一つの部分として、神から貰った聖霊の賜物によってキリストの体である教会のために生きることは、教会の共同体のために生きることである。

第一朗読は、予言者イザヤが、まだエルサレムが倒れている間に述べた、将来訪れるエルサレムの栄光についての予言である。国民の心を守るためにはそうすることしか出来なかったが、それ以上に非常に重要なことであった。この予言によって、ユダヤ人たちの心の中に国民の伝統や宗教の伝統などを守るのに必要な力が引き起こされた。イザヤは神から貰った賜物をユダヤ教を守るために使った。

使徒パウロがコリントの使徒への手紙を書いた理由は、信者たちが一つの教会であり、一つのキリストの体であり、共同体であるということを理解せず、教会の中でそれぞれのグループが自分達の栄光を望み、他のグループに対して競争するという関係を作っていたからである。競争することで、社会的な事件だけではなく宗教的な事件も起こっていた。例えばどのグループが神から最も大切な霊的な賜物を貰ったかという争いは一つの問題であった。このような問題を正すため、パウロは霊的な賜物について二つの重要な教えを与えた。それは、すべての霊的な賜物の源と、その目的である。霊的な賜物の源はいつも唯一の神であり、霊的な賜物の目的はキリストの体である教会の共同体を建てることである。

賢振式の時にキリスト教の信者たちは聖霊の賜物を受け、教会の共同体を建てるために霊的な賜物を使い、共同体として信仰の道を歩くことがキリスト者らしい心掛けである。

ヨハネ福音者によれば、カナでの御礼の際に行われたイエスの最初の秘跡は、体を癒すことや汚れた霊を追い出すことなどに関することではない。婚礼の時にぶどう酒が足りなくなるということは、世話役にとって恥ずかしいことであり、花婿と花嫁にとってよくないしるしであった(ヨハ2,3)。それは客の関与するところではなかった(ヨハ2,4)が、マリアの懇願により、イエスは困難に陥った人々を助けた。このような社会的な背景があるイエスの最初の軌跡は、イエスの栄光の現れ(ヨハネ2、11)というだけではなく、イエスがこの世で良い心を持っている人々の手(ヨハ3,7-8)を使って、必要とする人々を助けるということを証しする。

 
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「聖書が教えるカテキズム」20161月の講話

この講話は、使徒信条の中で、(主イエス・キリストは、)三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます」という節、また、ニケア・コンスタンチノポールの信条の「(主イエス・キリストは、)聖書にあるとおり、三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。という節について、聖書の中で啓示されたことを紹介し解説するものです。

回心してキリストを信じるようになった使徒パウロは、十二使徒から受け継いだ信仰を以下の引用どおりにまとめました。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」(一コリント15章3-6節)

キリストが誠に死せられ、そして誠に御復活なさったという過越の神秘は、聖書にあるとおりの神様の御計画に沿った世の救いの成就です。死から命へと移って御復活なさったこと、そして地上から天国へと移って御昇天なさったことは、キリストの過越の神秘の本質です。十字架上の死によって成し遂げられた罪に対する愛の勝利は、御復活の勝利と密接に結ばれています。キリストの死が私たちの罪の赦しのためであり、その御復活は私たちを神様の命に与からせるためであると言います。この真理は、キリスト教の信仰の源泉であり頂点でもあります。

復活は、自然法則と人間の理性の限界を超えるものであり、科学的に証明されるものでもありません。復活は理性の理解を超えているからこそ、信仰の内容です。信仰は、神の啓示と恵みを知って、地上の次元を超え、私たちに限りのない神様の世界を開くところから始まります。信仰は、信じる対象である神様を愛するために知ることを求めて、神様と人間の交わりを深めるものです。キリストを愛する人が復活したキリストを信じ、信仰の内に神様に出会う者です。

 

1.歴史の中で実現した超越的出来事であるキリストの復活

1)空の墓が証しするキリストの復活

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」(ヨハネ20章1-10節)

 

週の初めの日、朝早くキリストの遺体に油を塗って清めに行った婦人の三人は、空の墓を見て、キリストの遺体が運び出されたことを思い込みました。その報告を聞いた使徒ペトロとこの福音書の著者である「もう一人の弟子」、使徒ヨハネは、キリストの墓に走って行きました。空の墓の様子を見た使徒ヨハネは、「信じた」と告白します。なぜなら、キリストの遺体がなく、遺体を覆う亜麻布と頭を包んだ覆いが別々の所にあったので、キリストが運び出されたなら、亜麻布と覆いとを一緒にしたに違いありません。イエス・キリストは、起き上がり、死に属する物を脱いで死の門を超え、御復活なさったと、二人の弟子は判断することができました。二人は、御復活のことが理解できなかったという時点で復活の信仰が誕生しました。その信仰は、聖書に書いてあるとおり、またキリストの言葉どおりである出来事だったという判断に基づいてのものでした。

 

2)傷痕によって識別される復活のキリスト

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20章24-28節)

 

使徒トマスは、キリストに対する信仰を自分の理性の限界の中で御復活を信じようとしましたので、他の人の証しではなく、体験によって信じたかったです。福音の知らせを受ける所から信仰が始まるので、キリストは彼に、「見ないで信じる人は幸い」という注意しておられました。以上の福音箇所は私たちの信仰のために、次のようなメッセージを送ります。

御復活なさったキリストは、部屋の戸が閉じたままでしたが、弟子たちの真ん中に現れました。キリストの復活は、前の人生に戻るものではなく、その体は、聖霊の力に満たされて別の命に移り、時空には置かれず、この世の次元を超えて、望む所と時に思いのままに存在するようになりました。御復活なさったキリストは、亡霊ではなく、十字架につけられた特徴となる体の傷痕が残り、同じ身体を持っていました。弟子たちにお遇われになった時に、キリストは、御自分の顔の特徴ではなく、手と脇腹をお見せになりました。弟子たちはキリストに触れ、食事を共に食べることもできたのです。キリストは、復活した最初の人間です。イエス・キリストは、神様の前に全人類の代表です。(ルカ24章42節)

御復活なさったキリストの最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」です。人間にあらゆる恐れを与えるのは、罪と死です。キリストは十字架の死によって世の罪を赦し、復活を持って死に打ち勝ちました。私たち皆は御復活の信仰によってキリストの平和を生きることができます。復活のキリストに出会った使徒トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白しますから、私たちも教会の交わりの中で同じ信仰に招くのです。

 

3)パンを裂くことで分かる復活したキリスト

「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ24章25-31節)

キリストの復活を信じなかったエマオの弟子たちの二人(ルカ24章13-31節)は、故郷に戻る最中、旅人の姿をもってキリストに出会い共に歩き出したが、彼らは、自分の悩みのうちに落ち込み、御自分について聖書全体に書かれている言葉が実現したことを説明して貰ったにしても、イエス様だと分かりませんでした。キリストが泊まる場所でパンを裂いて賛美の祈りをささげた時に復活したキリストに気付きました。その姿が見えなくなったことは、ご復活なさったキリストがパンの秘跡の中に現存する信仰を持つためです。また、日常生活においてもキリストの復活を生きるとは、与える愛をもって神様から頂いた賜物を分かち合って人を生かしていくことにあると、教会は信じています。

 

2.御昇天なさったキリスト

「 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16章19~20節)

 

御復活の後、イエス。キリストは40日間、弟子たちに現れ、彼らと共に食べ飲みをし、全世界の人々に福音を宣べ伝え、洗礼を授け、御自分の弟子にするように派遣しました。そしてキリストは、彼らの前に体と共に天に昇られました。神の子としてというよりも、最初の人間として天に昇られました。秘跡によって、キリストと一致している人々は、キリストの神秘体として天国に入ることができます。ここに人類の救いの完成があります。

「神の右の座」に着かれるとは、神として栄光を受けられたということです。このようにしてキリストによって、人間性は三位一体の交わりに加わりました。したがってキリストの内にすべての人は神様と一つに結ばれることができるのです。

 

「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28章16-20節)

 

キリストは、御昇天の直前に、御自身が天と地の主であることを言い現しました。イエス・キリストが、御昇天の後に、弟子たちが授ける洗礼と宣べ伝えるみ言葉の内に現存し、世の終わりまで君臨すると言い残してくださいました。教会の信仰生活は、キリストと一致して約束された天国への旅です。神様においては、世の救いが完成されました。人間側では、悪との戦いが世の終わりまで続きます。必要とされるのは、人間が自由意志を持ってキリストによる救いに与り、その愛に答えて自分のすべてを神様に委ねることです。悪との戦いの中で、教会はキリストが約束してくださった再臨を待ち望み、早めてくださるように、「マラナタ(主よ、来て下さい)」(一コリント16章22節)と祈ります。

 

3.生者と死者を裁くために来られるキリスト

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25章31-40節)と。

 

人間となって人の罪のために受難を受けられた神の子キリストは、人間を裁く権利があります。世の終わりにキリストが再臨し、すべての人を裁かれると聖書に書いています。上記のキリストの言葉によりますと、洗礼を受けていなかった人も、その善い行いによって救われる可能性があると言います。しかし、神様を知っても与えられた恵みを拒んだ人は、その罪の故に山羊のようにより分けて永遠の罰を受ける可能性があると言われました。別の聖書箇所でキリストは御自身について、「御子は裁くためではなく、救うため」(ヨハネ3章17節)に来られたと言われました。罪を犯してキリストは我々を憎んだり、妬んだりしません。キリストの愛はゆるぎないものです。神様の恵みを拒絶する者は、自分を裁いて愛の霊を拒否することによって自ら永遠の罰を選ぶことになります。神様がすべての人に託した愛の霊に答えて生きる人は、キリストと共に永遠に君臨することができると教会は信じています。

 

結び。 最後の晩餐の時(ヨハネ16章)に、イエス・キリストが弟子たちに御自身は御父のもとに昇って行き、御父のもとから聖霊を遣わしてくださることを次のような言葉を持って約束してくださいました。

 

「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16章7-15節)

 

こうして弟子たちは御昇天の後に、聖霊が降るまで9日間エルサレムで祈りの内に留まりました。

 
メッセージ - C年 降誕節

 

テーマ:「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 

ルカによる福音は、初めにイエス・キリストの誕生の次第を紹介し、そして、青少年時代について、「両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ2,51)と書き記しています。本日の福音は、大人になったイエス様を紹介します。凡そ30歳になったイエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時からイエス様の人生は全く変わりました。青少年の時代のイエス様は、神の子、救い主の生き方ではなく、私たちと同じような人生を送っていました。保護者の聖ヨセフは、大工として、イエス様を自分の子供のように育てたので、少年イエス様に大工の仕事をさせたに違いありません。地域社会の人々も、きっと、イエス様が大工になることを期待していたことでしょう。しかし、洗礼の時に、神様がイエス様に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたので、この瞬間から、イエス様は、人の思いではなく、神様の御心にしたがっての生き方に変えてくださいました。私たちは今日、主の洗礼の祝日にあたってそれを祝います。

カトリックの洗礼は殆ど、水の注ぎによって授けられています。それは、神様の子供とする聖霊の注ぎを表現する式です。ところで、原文のギリシャ語では、洗礼のことを「バプテスマ」と言います。それは、「浸す」、「沈む」や「つける」などの意味を持つ言葉です。いわゆる、それは今までの古い生き方を水に沈ませて終りにし、新しい出発をすることを促しています。キリストは、このことを種の例えをもって説明します。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12,24)と。人間は地上の生活の中で、洗礼によって自我に死に、神様の御心にしたがって神の国の一員となる恵みを受けます。キリストの洗礼こそは、私たちのために模範となりました。

人を愛するためにその期待に応えて奉仕し、自分を尽すことは、尊いことです。しかし、自己愛のためや人から誉れを受けるために、人間は、神様ではなく、この世の目を伺って悪にしたがって人生を送るようになります。もしかすると、何十年前に洗礼を受けた私たちは、この世の価値に誘惑されて何度も罪を犯して「古い自分」に戻ってしまったこともあるかもしれません。「古い自分」とは、人祖アダムとエヴァの罪の後遺症によって人間らしくない歪曲された自分です。アダムとエヴァの罪は、自我を優先にして神の愛と御心を拒んだことにあります。それは、彼らの恥となりました。その罪は世々にわたって、人間の本性に原罪という罪深さを負わせるものとなりました。「古い自分」は、アダムとエヴァのように自己中心で、傲慢のために自分を良く見せようと思って、優越感と劣等感を持ったり、嫉妬や恨みなどの罪に悩まされて、悪を行う者です。人から誉れを受けるために自分の悪い側面を隠そうと思って、私たちは、「偽りの自分」を作り上げます。その偽りが暴露してしまうことを常に恐れて、不幸な生活を送るようになってしまいます。

主の洗礼の祝日は、洗礼の時からキリストが御父のみ旨にしたがっての「新しい人」となられたように、私たちの一人ひとりが洗礼を受け、自我に死に、「古い偽りの自分」を終わらせて、御心に適う「新しい自分」を三位一体の交わりの中で作り上げ、神様の愛と平和の内に幸せに生きるような、神の子どもとしての人生に招くお祝いです。