メッセージ - B年 年間

 

「成長する種」の例え(マルコ4章26‐29節)

キリストが教えてくださった神の国についての例えを以下のとおりに理解しても良いと思います。

1.「人が土に種を蒔い(た。)

人間は、種を蒔くことができるが、種そのモノを作ることができません。それは、神御自身がお創りになり、その小さな粒の中で大きな植物にするDNAのプログラムを備えてくださいました。

2.「夜昼、寝起きしている内に種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」

人間は、経験上で種の成長を助けるために土をおこしたり、肥料を与えたり、水をやったりすることができます。しかし、種の成長が神の創造と命の神秘であり、人はこれについて何も決めることも、どうすることもできません。

3.「土はひとりでに身を結ばせるのであり、先ず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

種が成長する条件は、土の中にあるということにあります。種は土から栄養を取って自分の身を作り上げて行きます。

4.「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

人間は神が定めた時に、自由に、また無償の恵みとしてその実を刈り取ることができます。

この例え話は、神の国が神様と人間の関わりの中で実現していくことを促しています。種が神様の働き(また御言葉)を現し、土は人間の役目を表現します。神様は「紳士」です。その働きは小さな種のようで、御自分を押し付けることも、その偉大さのゆえに、人間の働きに何らかの強制や圧迫などを与えることはありません。神様がその慈しみによって、人間に神の国を無償、無条件に与えようとしてくださいます。

土が種を受け入れるように私たちは、自分の心に神様の働き (神の御言葉)を受け入れるならば、自分たちの内に神の命が誕生して神の国が自ら成長します。土の持っている成分が成長する種の栄養になっているように、私たちは、神様の働き(神の御言葉)のために自分自身を尽していくならば、神の国が私たちの内に実現していき、神様の命に与る者となります。世間の目では、人間が神の国のために犠牲になっているように見えますが、信仰の目で見れば、土と種のような密接に結ばれた関係の中にあるように、私たちは、神の国の恵みを自由に「刈り取る」ことができ、神様の愛と永遠の命に与る者となります。

 
メッセージ - B年 祭祝日

典礼暦年の始まりは、毎週の「主日」です。その日に信者は集まって、主の死と復活を祝い、同時に私たち自身の死と復活を、ある意味で、体験します。後代の典礼暦では、聖木曜日に主の晩餐の夕べのミサで、聖週間の雰囲気の中で、主の死と復活を記念します。その後の典礼暦の展開の中にこの「キリストの聖体」の祭日が現れることになります。

 

ちなみに、聖霊降臨祭の後に始まる「年間」(正確には、年間節)の中には、全部で7つの「主の祝祭日」があります。それらには、5世紀にさかのぼる古いものから20世紀に生まれた新しいものまでが含まれています。「キリストの聖体」は、西方教会に固有の4っつの祝祭日の一つとなっています。この祝日が始めて祝われたのは十三世紀(1247年)でした。それはリージュの修道女ユリアナが、1208年に受けた啓示に端を発すると言われています。教皇ウルバノIV性は、教令を発布し、聖霊降臨後の木曜日にこの祝日を設定しました。

これは、西方教会において教皇がその権威をもって新しい祝日を奨めた最初の霊となっています。後に、教皇クレメンスV世とヨハネXXII世がこれを確認してようやくこの時期に西方の全教会で祝日となりました。

 

さて、当日の三つの朗読に共通するテーマは「契約」です。第一朗読の出エジプト記と福音書では「契約の血」が共通しています。しかし、前者の契約の血は「雄牛の血」が神とイスラエルの民との契約のしるしとなっていますが、新約では「イエスの血」が神と人をつなげる契りの血となっています。第二朗読のヘブライ書では「キリストの血」。「血」は旧約聖書でも新約聖書でも「いのち」を指しています。イエスご自身が、その「いのち」つまり、生涯の奉仕を通して、人間と神のつながりを回復させてくださった、というのがキリスト教の信仰です。

そして、その和解の働きをキリスト者は担い、継続させていく恵みと使命を与えられていることを想起し、私達の生き方を整えていきたいと思います。

 
メッセージ - B年 祭祝日

 

朗読: 申命記4:32-34,39-40

ローマ8:14-17

マタイ28:16-20

 

三位一体の神秘を必死に考えている聖アウグスティヌスは海辺に歩いていた。そこで、とある男の子に目が留まりました。子供は自分の手で海の水を運んで、砂に掘った小さな穴に必死に入れていた。「何をしているの?」とアウグスティヌスは子供に声をかけた。「この海をあの穴に移動したい」と子供は答えた。「あの小さな穴で?…無理だよ」と。子供は微笑みながら答えた「あなたも、その小さな頭で三位一体の神秘を理解したい?」。

聖書は三位一体の本質はどういったものかについて説明していない。かえって、三位一体の主日に読まれる三つの朗読にあるように、神の働きに注目している。第一朗読で、モーセは約束の地に旅するイスラエルの民に向かって、今まで歩いてきた道乗りの中で、神が行われたことを思い起こすように促した。神は民の前で「しるしと奇跡を行い…、一つの国民を他の国民の中から選び出した」ことを思い出すように。神は、我が子を守る「父なる神」、昼も夜もイスラエルの民を約束の地に導いていく神である。

第二朗読は聖霊の働きを強調する。人は聖霊の導きによって、神の子とされる。聖霊に包まれる時に、私たちは親しみを込めて神を「アッバ、父よ」と呼びかけることができる。こうして、霊の働きによって、私たちは神の子であるキリストと共に「神の相続人」となれる。しかし、そのために、私たちもキリストが歩まれた道を歩まなければならない。共に栄光を受けるためには、共に苦しむことが不可欠な条件となる。つまり、キリストの働きが私たち自身の働きとならなければならない。イエスのように、聖霊に力づけられ、その導きに心を開く時に、今ここで一人一人に与えられている十字架を最後まで担っていくことが出来る。

マタイ福音書は、イエスがこの世でのご自身の働きを続ける使命を弟子たちにゆだねられる場面を描いている。マタイによれば、イエスが指示していた山に行って、イエスと最後に出会った弟子の中に、「疑う」ものもいた。正に、現代に生きる私たちの状況を現しているような気がする。それでも、イエスは自分を疑っている弟子、そして信仰の足りない私たちに、「すべての民を私の弟子にしなさい」という重大な使命を与える。主ご自身が「世の終わりまでいつも共にいる」からだ。

私たちは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けた。また、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授ける。たとえ三位一体の神秘を理解することが出来ないとしても、その働きに身をゆだねる時に、私たちの未完全な信仰が完成されていくように願いたい。

 
メッセージ - B年 祭祝日

(ヨハ15,26-27;16,12-15)

「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」使 2,7-8

バベルの塔の物語(創11,1-9)が教えている通り、人類は神を無視して、自分の力にだけ頼って幸せになろうとしている時、段々と分列して、互いに誤解したり、争ったりして、結果的に皆が不幸になるのです。

聖霊降臨の出来事は、バベルの塔の物語が描いている出来事と正反対の出来事です。元々互いに理解していなかった人たちは、聖霊の働きによって、互いに理解するようになり、キリストを中心とする共同体を作り、一緒に力を合わせて神のわざに協力することによって、創造主である神が求めている一致に向かって歩むようになりました。神における人類の一致こそ、神が最初から求めていることであり、すべての人にとって最高の幸福の状態なのです。聖霊降臨の日に生まれた教会は、全人類をこの目的に導く使命を与えられています。

洗礼の時に聖霊を与えられた私たち一人ひとりが、聖霊の導きに忠実に従い、イエス・キリストと同じように神の愛を示すことによって、多くの人々を神のもとに引き寄せることができますように祈りましょう。

 

 
メッセージ - B年 復活節

第一朗読:          使徒言行禄1,1-11

ルカ書物の第二冊目(使徒言行録)の始め(使徒1、1-11)ではルカによるキリスト論が示されている。約三年間続いたイエスの宣教活動の中で、イエスが教えたことと行ったことのすべてがルカの福音書に含まれている(使徒1,1)。これを読めば、イエスが神の子であるということが理解できる。イエスは弟子たちを選び、共に宣教活動をして福音を宣べ伝えるために、彼らに相応しい教育をされた。復活した後に、イエスは弟子たちに現れて神の国について最後の説明をした(使徒1、3)。イエスの最後の命令は、精霊降臨があるまでエルサレムに留まらなければならないというものであった(使徒1、4-5)。聖霊の力のうちに、弟子たちはまずエルサレムで、後にユダヤで、最後には地の果てに至るまでイエスの証人になることができる(使徒1、8)。この必要な準備を終えた上で、イエスは天に昇った(使徒1、2.9.11)。しかし、イエスは全ての人間に深津されるためや裁きするためや心理キリスト者を集まって天国に連れて行くためにいつか再び来られる(使徒1,7.11)。このルカの教えはカトリック教会の信仰宣言と同じである。

 

第二朗読:          エフェソ4,1-13

イエスが天に昇った後、弟子たちが聖霊の力のうちに福音を述べ伝えて原始キリスト教ができた。教会の信者たちはこの世にキリストの体として(エフ4、12)様々な立場を取って(エフ4,11)、完全な人になり、信仰によって一致し、イエス・キリストのことを完全に理解する(エフ4,13)ために一生懸命、信仰の道を歩いていく。この道を歩いていく間に、忍耐や寛容の心、謙虚(エフ4、2)などの心をもって教会の一致を造らなければならない。神は一人、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つなのだから、この世におけるイエスの体としての教会は一致したものである筈だ(エフ4,4-5)。しかし、この教会論的な教えよりも、イエスが天に昇ったという教えのほうが最も大切なのである(エフ4、10)。

 

福音朗読:          マルコ16,15-20

マルコによる福音書によれば、イエスは天に昇る(マル16、19)前に弟子たちに宣教命令を与えた(マル16、15)。弟子たちの義務は、全世界に行ってイエスの福音を宣べ伝えることであった。この福音を信じて洗礼を受けた人々は、救われた人々である(マル16,16)。イエスを信じる人々はイエスの霊の力で不思議なことを行うことができる(マル16、17.20)。信仰の道を歩いている人は、一人ではなく、いつも主であり復活されたイエスと共に歩いている。