聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き |
神の言葉が命の糧となるために
聖書を読む人のための手引き
目次
・神の作品
・人間の作品
・人間の言葉となられた神の言葉
・救いのための真理
・神の自己啓示
・旧約聖書の形成
・新約聖書の形成
・使徒たちと司教たちの権威
・新約聖書の正典化
・旧約聖書の正典化
・聖書記者たちの意図を理解する
・聖霊の光のもとに読む
・聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払う
・教会全体の生きた伝承従って聖書を読む
・信仰の類比に留意する
・寓意的意味
・道徳的意味
・天上的意味
・第1段階:読書
・第2段階:黙想
・第3段階:祈り
・第4段階:観想
参考書
„Jak powstało Pismo Święte” Ks. Wojciech Pikor, 2010
“The Bible Compass” Dr. Edward Sri, 2009
“Gdy otwierasz Biblię” Ks. Rajmund Pietkiewicz, 1995
「教会における聖書の解釈」、教皇庁聖書委員会、1993
「カトリック教会のカテキズム」、1992(2002の翻訳)
「神の啓示に関する教義憲章」、第2バチカン公会議、1965
「福音書の歴史的真理性に関する指針」、教皇庁聖書委員会、1964
メッセージ - C年 年間 |
(ルカ11,1-13)
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」ルカ11,1
宇宙万物の創り主である神は、全能者であるだけではなく、私たち一人ひとりを愛してくださる父でもあるのです。この愛のゆえに、神は私たちに必要な恵み必要な善を、常に、しかも、無条件に与えてくださるのです。
残念ながら、多くの人々は、神を信頼する代わりに、自分の思考や欲望、または、他の人の間違った助言を信頼していますので、神に向かって心を閉じて、神の賜物を受けないばかりか、自分の心の真の望みを満たすことのできないもの、結果的には自分に害を与えるものさえをも手に入れるように、一生懸命努めています。
幸いにも、やがて自分の力の限界を認めて、神に向かって祈る人もいます。確かにこの人たちは、自分の欲望が満たされることしか求めておらず、つまり、間違った動機に基づいて祈っていますが、神が彼らの期待通りに応えなくても、イエスが教えてくださったように信頼と忍耐を持って祈り続けるならば、少しずつ間違った欲望から、また、何の根拠のない期待、場合によって非現実的な期待から清められて、自分たちや他の人にとって真の善であるものを求めるようになるのです。
そして、自分が持っているすべての良いものが神から与えられたものであり、この賜物によって神がご自分の愛を表してくださる事実に気付いて、それを自覚するようになる人は、神を信頼するようになって、神が与えてくださるすべての賜物を受けるだけではなく、神の導きに従って生きるようにもなるのです。
このような祈りと生き方によって、人間は最高の賜物、つまりすべての良いものの与え主である神ご自身を、受け入れるために必要な心の準備ができるのです。神に象って、神に似せて創造された人間は、神ご自身を受け入れ、自分自身を神にささげることによって神と一つになって初めて、完全な安らぎ、完全な幸福、しかも永遠に続く安らぎと幸福を味わうようになるのです。
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
「聖書が教えるカテキズム」2016年6月の講話
序.
この講話のテーマは、使徒信条の第三箇条が聖霊に対する信仰告白(「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」)の中の2節を含みます。
その一つの「聖徒の交わり」という節は、神様の御心に沿った信者同志、ならびに信者と神様との理想的な交わりに望みをかけます。信者も罪を犯すので、その「聖」は人間の力ではなく、教会の中で生き、働かれる聖霊によるものです。信者の一人ひとりが聖霊の恵みによって罪から解放されて清められるから、教会は次の節、「罪の赦し」を信じます。ニケア・コンスタンチノポール信条は、「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め(る)」と宣言します。すなわち、罪人を聖徒(聖人)に変化するのは、教会が父と子と聖霊の御名によって授ける「唯一の洗礼」によるものであると伝えています。いわゆる、洗礼を受けた信者は聖霊によって聖徒になり、至聖なる三位一体の神様の交わりに加わります。
「聖徒の交わり」は、ギリシア語で「コイノニア」、ラテン語で「コムニオ」と言います。初代教会の信者は、自分の内に神様の霊が生きていることを信じた故に、お互いのことを、「聖人」と言いました。そして、教会の誕生以来、「聖徒の交わり」の頂点は、主イエス・キリストが十字架上の死によって実現された「罪の赦し」、またキリストの御復活の命に与るために最後の晩餐の時に制定された御ミサの集いです。それは、御ミサの中でキリストの死と復活が現在化され、信者たちは御聖体の内に生きておられるキリストの御体と御血を拝領して聖化され、神様の命に満たされて唯一のキリストの内に一つになる「コムニオ」の神秘に与ります。
1.霊的善の分かち合い
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2章43~47節)
聖霊降臨の後に地上の教会の交わりは、使徒言行録の引用通りになっていました。初代教会の「聖徒の交わり」によって皆は、無償に与える喜びと無償に頂く喜びがあり、キリストによって一つに結ばれた喜びもありました。それは霊的な善の分かち合いと言います。こうして、教会の交わりの中で次のような分かち合いを実践することになっていると言います。
① 信仰の分かち合い
教会は使徒たちから受けた教えによって信じ、それを分かち合いました。
② 秘跡の分かち合い
洗礼は、神様と人との聖なるキズナの始まりとし、その頂点と完成はエウカリスチア(御聖体の秘跡)にあります。(「家ごとにパンを裂く」とは、御ミサのことです。)
③ カリスマの分かち合い
聖霊は、教会を建てるために一人ひとりに特別の恩恵を与えます。それは、カリスマ(賜物)と言います。賜物を自分のためではなく、信者はキリストの愛を持って分かち合うことによって全体の益となり、教会の発展にも繋がります。
④ 所有の分かち合い
すべてのものは神様が造られたものです。キリスト信者は、主の財産の管理者だから、所有を分かち合うことによって人を助け、活かす使命があります。
⑤ 愛の分かち合い
信者は、自我を捨てて神様のために生きるなら、真の愛を持って教会の交わりを聖とします。生者も死者も連帯関係の中で多いなる恵みの中に生きることになります。したがって、使徒パウロは、ローマ教会に次の言葉を書いています。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ教会への手紙14章7-8節)
2.天上の教会と地上の教会との交わり
御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、キズのない者、とがめるところのない者としてくださいました。揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
(コロサイ教会への手紙1章18-23節)
この聖書の箇所は、教会の交わりが地上の次元を超えることを明らかにします。教会の頭であるキリストが御自分の死と復活によって天と地を御自分の内に和睦させたので、したがって、唯一の教会には、目に見える地上の状態、そして、目に見えない天上の天国と煉獄の状態、合せて三つの状態があります。
1)地上の教会の状態
地上で洗礼を受けた者は信者であり、聖霊の恵みによって神様の子どもの資格を受けています。教会の中で一人ひとりが固有な立場と異なる任務があり、使命はただ一つです。すべてに及ぶ神の国の完成のために一人ひとりの信者は、キリストの神秘体の一部となるように招かれています。(参考聖書箇所:一コリント12,12-26)聖徒の交わりの中で共にキリストを生きる者だから、神様の前に皆は誠に平等です。
教会の役務は、キリストの愛と救いの業をこの世で執行する秘跡と密接に結ばれています。秘跡を授ける権能は、キリストから十二使徒に託されたもので、これをイエスの名によって行われています。使徒の後継者は神様から召命を受け、叙階の秘跡によってキリストの祭司職に与るように聖別された司教たちと司祭たちです。司教団と司祭団を助けるのは、叙階された助祭たちです。彼らは代々にわたって、キリストの代理者となって、キリストの名によって教え、典礼と秘跡を授ける奉仕によってキリストの救いの業を教会の中で実現していきます。彼らから秘跡を受けるすべての信徒が、神様への様々な奉仕によって教会を発展させます。こうして教会は、異なった奉仕のために位階制度をもっています。
キリストは、使徒たちの間で使徒ペトロに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16章18-19節)と言われ、かれを選び、教会の頭とされたのです。使徒ペトロの後継者ローマ教会の司教である教皇様は、司教団を代表し、皆を一つに結びます。
司教、司祭、助祭は叙階によって聖別された信者なので、彼らのことを「聖職者」と言います。叙階されていない他の信者の皆は、「信徒」と言います。また、福音の薦めにしたがい、聖職者と信徒に関係なく、貞潔、聖貧、従順を誓って神様に自己奉献した者を、「修道者」と言います。それぞれの修道会は、模範的な「聖徒の交わり」を共同生活の中で実現しようとして、そのカリスマに応じた教会の使命を果たすために奉仕します。信徒は、聖職者から秘跡を受けて、キリストと共に教会共同体や家庭、また社会生活の中で神様から頂いた賜物を活かし、地上で神の国の実現のために奉仕して貢献します。
2)天上の教会の状態
「私たちの地上の住みかである幕屋(体)が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(第二コリント教会への手紙5章1-2節)。
引用された御言葉によりますと、使徒パウロは、聖徒の交わりが天上の教会で完成されると言います。神様によって義と認められた人たちは、地上の人生を終った後に、天国に入って救われます。天国で神様の栄光に包まれている信者は、キリストと密接に結ばれています。祈りと秘跡の内に地上の教会と天上の教会は一つになり、地上にいる私たちは、天国に先に召された仲間たちと一緒に神様の前に集い、神様を誉めたたえて天国の先取りを頂くことができます。「聖徒の交わり」の中で、私たちは天国にいる聖人たちの執り成しを願うことができます。また、彼らは神様の恵みによって、私たちの信仰生活の助けとなれます。
地上の信仰生活を送って、小罪や罪の償いを充分に果たしていない不完全なままに天に召されたすべての死者のために、教会は祈るように教えます。なぜなら、聖書の中では次のような御言葉があります。「罪から解かれるように死者のために祈ることは、聖であり健全な考えである。」(第二マカバイ記12章45節)と。カトリック教会は、死者が清められる教会の状態を煉獄と言います。死者は、自分の時が過ぎたので、自分のために何もできないが、地上の教会のために祈って執り成すことができます。そして、地上に生きている信者と天に召されて煉獄の状態にある信者がお互いのために祈り、赦し合う故に両状態の教会信者は、「聖徒の交わり」を実現して行き、救いの完成の天国に導かれます。
(以上の理由により、カトリック教会は煉獄の存在を認めています。ところで、キリスト自身も聖書も煉獄について具体的に何も教えていないので、カトリック以外のキリスト教のある宗派は、死による人を清める状態があることを認めても、煉獄の存在を認めていません。)
3.教会の中での執り成し
「(イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。』」(ヨハネによる福音14章12-14節)
三つの状態にある唯一の教会は、聖徒の交わりとしてキリストの内に一つの家族に形成され、生者と死者が神様の子どもとして相互の愛の故に至聖なる三位一体の栄光に与れます。その愛の中で全教会はお互いのために執り成しています。
イエス様の内に神性と人生が一つになりますから、神様との間に私たちの真の仲介者は、イエス・キリストのみです。したがって、教会の祈りは、いつも、「私たちの主イエス・キリストによって」ささげられています。私たちが天国に入るためにイエス様は、地上で命を献げ、御復活して最初の人間として天国に昇られました。三つの状態の教会に現存する唯一主、イエス・キリストのお陰で、私たちは聖徒の交わりの中で一つの家族となります。キリストに合せて諸聖人も私たちのために執り成し、また、私たちも先に天に召された死者のために執り成すことができます。
罪の汚れを知ることなく、聖霊に満たされてこの世に御子イエスを生んだ聖母マリアは、親子の間にある誰よりもキリストと親密の関係を持ち、キリストのすべての救いの出来事を「心に納めた」(ルカ2,19)方であると福音は啓示します。したがって、教会は聖母マリアを信仰の模範、聖徒の交わりの「範型」、私たちのために御子に執り成す母であると言います。私たちも、聖母マリアのようなキリストとの親密の関係を求めて聖母マリアに執り成しの祈り(特にアヴェ・マリアの祈り)をささげる信心をもっています。
そして地上で信仰生活の極みに達した信者たちが天国に入ってキリストと密接に結ばれると、教会は信じます。地上で彼らにささげた執り成しの祈りが聞き入れられて奇跡によって、その聖性が証明された場合、教会は、彼らを列聖し、聖人と名付けます。彼らの残した模範と執り成しによって私たちをキリストとより密接に結ばれる力となります。
4.「罪の赦しを信じます」
「(イエスは使徒たちに)息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音20章22-23節)
以上の福音の箇所には、復活したキリストは使徒たちに地上で罪を赦す権能をお与えになりました。赦す権能は、人間の力によるものではなく、キリストが使徒たちを通して教会に与えてくださった聖霊によるものです。したがって、教会は、聖霊を信じるから、「罪の赦し」の信仰を告白します。聖マルコによる福音の中で、「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」(マルコによる福音16章15-16節)と書いています。「罪の赦し」のために、福音を信じて洗礼を受けねばならないとイエス様は協調しています。したがって、教会はキリストが制定された罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を信じます。この洗礼は、人間の本性の汚れである原罪を聖霊によって取り除き、人を神様の子どもにします。
キリストは、十字架上で流された血によって、人類を罪から解放しました。それを永久に執行するために、キリストは最後の晩餐の時に、「杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マタイによる福音書26章27-28節)と言われました。こうして、キリストの死と復活の記念する教会のすべての秘跡がすべての人の罪の赦しのために効果的であることを、教会は信じます。
結び
次回は、聖霊の恵みによって、キリストの救いが私たちの体の復活と永遠の命を頂くことによって私たちの内に実現する信仰の内容を紹介することになります。即ち、「体の復活、永遠のいのちを信じます」という使徒信条の最後の2節を紹介します。
メッセージ - C年 年間 |
テーマ: 「善きサマリア人の例え話」
キリストの「善きサマリア人」の例え話は、エルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われて半殺しにされた人が、ユダヤ教の聖職者である祭司とレビ人によって助けられることなく、ユダヤ人の敵と見なされていたサマリア人によって救われたことを紹介します。この福音の目的は、慈悲深い者になるように教えることより、「何をしたら永遠の命を受け継ぐか」という律法の専門家の質問への答えです。
律法の専門家は、聖書から答えが分かっていましたが、イエス様を試すために質問しました。だから、キリストは、あなたが聖書を読んでいる通りであるとお答えしました。その答えは、「愛の掟」を二つ守ることです。即ち、すべてを尽して神様を愛すること、隣人を自分のように愛することです。この点については、イエス様と律法の専門家の考えが一致しています。しかし、次の「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の質問は、両者の心が極端に違うことを示しています。
律法学者たちは、律法を守らない罪人が神様に嫌われている敵であると見なして、彼らを憎むことが正しいと思っていました。福音の律法の専門家は、周りの人が律法を破るから、誰も隣人だと思いませんでした。「隣人を愛し、敵を憎め」という伝統的な教えに対し、キリストは、「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)とお教えになりました。
福音の祭司とレビ人が律法を守っても、永遠の命を頂く保証はないとイエス・キリストは指摘します。よって、ユダヤ人の聖職者である福音の二人は、自分の都合に合せて聖書を解釈して、汚れるからと思って怪我人を隣人だと認めることなく、愛の欠如のために永遠の命を受け継ぐことができない状態にあります。しかし、異邦人のサマリア人が律法を知ることも守ろうともしないのに、永遠の命を受け継ぐことができるとイエス様は証明しました。なぜなら、彼は敵の国の人をも、自分のように愛する実践によって隣人関係を示しました。
現代に生きる私たちは、律法学者のように自分を正当化しようとして、決めた祈りをしたり、守るべき御ミサに与ったり、掟を守もったりするからと言って、これだけで永遠の命を受け継ぐと思ってはいけません。
「わたしの隣人とはだれですか」という質問によって、永遠の命への道を見出すことができません。なぜなら、その質問をする人は、自分を愛する人を捜しますが、自ら誰をも愛していない状態を表します。キリストは、律法学者に薦められたように、私たちの一人ひとりにも永遠の命を受け継ぐ方法を教えてくださいます。それは、次のような質問をいつも自分に言い聞かせることです。
「わたしは、出会うすべての人の隣人になっているか。」と。
メッセージ - C年 年間 |
ルカ10:1-2, 17-20
イエスはご自分の宣教に先立って、まず七十二人を任命し遣わされました。私たちも皆、主に遣わされた宣教者です。七十二人の中の一人として、それぞれ自分の場に遣わされています。その派遣にあたって、いくつかのことが命じられています。
「働き手を送って下さるように主に願いなさい」
働くのは私たちですが、私たちを遣わされるのは神であり、そこに現れるのは私たちの力ではなく、神のみ業です。
「財布も袋も履物も持って行くな」
物質的な何かではなく、神の助けがあることに全幅の信頼を寄せるよう求められます。
「途中でだれにも挨拶をするな」
道草を食いながら、井戸端会議で時間をつぶしながら行く余裕はありません。他の何かに気を取られず、まず第一に神の国を告げ知らせるよう急かされています。
「『この家に平和があるように』と言いなさい」
私たちが告げるのは平和です。ですから神の国は「平和」と言い換えることができます。平和とは、第一朗読のイザヤによれば、母が子を慰めるような神の愛です。
「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」「家から家へと渡り歩くな」
必要なものは感謝して頂きますが、自分が欲しい報酬のために働くのではありません。また、よりよい報酬を求めて、あっちに行ったりこっちに行ったりするのは良いことではありません。
「その町の病人をいやし、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい」
これまでのほとんどのことは、派遣されるに当たっての心構えでしたが、ここで私たちに託されている中心的な使命がのべられています。
それは言葉と行いの両方で、神の国(平和、つまり神の愛)を示すことです。
狼の群れの中に送り込まれる羊だとしても、力強く歩んでいくことができるよう、これらのことを私たちへの励ましと導きとして心にとめたいと思います。