メッセージ - B年 年間 |
テーマ: 「神にはできる。神は何でもできるからだ。」
― マルコによる福音10章17~30節のメッセージ
本日の福音の内容は次のとおりです。金持ちの青年は、イエス様に走り寄り、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょう」と尋ねました。イエス様が第一条件として神の十戒を守るように教えられたが、彼はイエス様に、子供の時から守ってきたと答えたのです。そして、イエス様は、彼に財産を貧しい人に施してキリスト御自身に従うことだけが欠如していると言われました。しかし、彼はたくさんの財産があったから、悲しみながらキリストから去って行きました。そこでイエス様は、金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しいと言われたので、弟子たちは、誰が救われるかと心配しました。ところで、キリストは、人間にできないことが、神様はお出来になると言われたのです。神様と福音のために地上のすべてのものを残してキリストに従う人は、地上でも百倍恵みを受け、後の世では永遠の命を受けると約束してくださいました。金持ちの青年が遭遇した悲劇に、わたしたちも度々、さらされているので、彼の過ちを分析致しましょう。
地上に生きるために人間には、三つのような富があると言えます。一つ目は、人間の体を生かすために物理的な富です。換言すれば、それはわたしたちが生きるために、食べ物、着る物、住まいなどです。二つ目は、精神的な富です。人間として生きるためにわたしたちは、他人との交わりのために特定の文化と言語の中で心が育てられています。その中で、隣人愛、正義、平和やお互いを支え合うことのような道徳や美徳などの価値です。三つ目は、信仰の恵みによって頂く霊的な富です。それは、聖霊の恵みです。この恵みによってわたしたちは神に愛されていることを知って神を愛することができ、神に生かされていることを認め、永遠の命に繋ぐことができます。地上の人生の中で、この三つの価値は、互いに影響し合って左右されています。
福音の金持ちの青年は、物理的な富に恵まれていました。そして、自分は神の掟を守っているから、神様に祝福されて金持ちになったと思ったようです。ユダヤ教の概念によりますと、神様との契約の中で実現する人の救いが、神の掟を守る条件に伴うものだから、掟を守らない人は呪われ、守る人は祝福されていると考えていました。その理由で、彼は自分の得を考えて、若い時から律法のすべてを守り抜きました。金持ちの青年は、地上の生活において自分が完璧であると思い込んでいましたが、永遠の命を受け継ぐことについて自信がなくて、キリストに尋ねました。
キリストは、彼に財産がたくさんあるが、彼の心は空っぽで満たされていないことを見抜きました。その心を精神的な価値と霊的な富で満たすように、キリストは彼に決定的なチャンスをお与えになりました。即ち、彼に、御自身と富と選択を委ねました。残念なことに彼は、キリストを拒み、富を選んだのです。彼が富を管理していたということよりも、富は彼とその人生を支配していました。そして、貧しい人に施しを断ることによって、人間の精神的な価値である隣人愛や正義などを拒みました。また、キリストから離れることによって、彼は神様の愛と捜し求めていた永遠の命を自ら打ち切ったのです。宗教的な規則を徹底的に守るたてまえの信心深さは、神様を愛したからではなく、自分だけを愛し、誰よりもすばらしい人であるという優越感がありました。
金持ちに、神の国に入るよりもラクダが針の穴を通る方がまだ易しいと仰せになったイエス様に反応して、弟子たちは、殆どの人が財産を持っているから、誰が救われるかということを心配し始めました。これに対して、イエス様は、救いが富を持つか持たないかということによるものではないと指摘されました。神様と神の国のために自分の人生とすべてを捧げる人は、この世の中でも百倍の報いを受けるということを約束してくださいました。私たちは、この地上の物も、命も、心も、神様の愛によるものであることを認め、その愛に応えて神様の愛を世の中で実践して神の国を広めるなら、神様と繋がって永遠の命に与る者となると教えてくださいました。
自己中心やこの世のものに執着し易い私たちは、自らの力で永遠の命を受け継ぐことはできません。キリストは、わたしたちの一人ひとりが望むならば、助けてくださいます。
「神にはできる。神は何でもできるからだ。」
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(マコ9,38-43.45.47-48)
「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」ヨハ17,17
イエスは大勢の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出していましたが、イエスが神によって遣わされたことを信じなかった人も、イエスを妬んで殺そうと図っていた指導者さえも、その不思議なことに力を否定することができず、非常に大きくて確実なものとして認識していました。不思議に、イエスが救い主であると信じなくても、その力だけを認め、イエスの名を使って、イエスと同じように奇跡を行い、同じように悪霊を追い出す人もいたようです。けれどもこの人たちは、「イエスの名によって」ではなく、あくまでも「イエスの名を使って」そうしたのです。
「イエスの名を使って」何かをするのと、「イエスの名によって」何かをするのとは、何が違うのでしょうか。「イエスの名を使って」働く人たちは、イエスとの個人的な関わりを持たずに、イエスの意向や望みを考えずに、ただイエスの力や権威を用いて、自分自身が良かったとか、利益になるだろうと思ったようなことをします。けれども、「イエスの名によって」何かをするというのは、信仰や愛によってイエスと結ばれ、心を一つにして、イエスの望みに従うことなのです。ですから、後者だけをキリストの弟子と呼ぶことができるわけです。
「イエスの名を使って」働く人は、いろいろな良いことをしても、イエスと関係のない生活を送っていますが、「イエスの名によって」働き、生きる人は、段々とイエスとの関係を深め、イエス自身の姿に変えられていきます。そのために、この人はますます力強くキリストの愛を現して、多くの人をキリストのもとに導きます。あなた自身は、どちらだと思いますか。「イエスの名を使って」働く人でしょうか。それとも「イエスの名によって」働く人なのでしょうか。
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第一朗読:知恵2、12.17-20
悪い行いをする人々は、二つの道から一つの道を選ばなければならない。一つは悪い行いを捨て、悔い改めて義人として生活する道である。この道は「命の道」と呼ばれる。もう一つは悪いことをし続け、義人に対して攻撃する道である。この道は「死の道」と呼ばれる。義人に対して攻撃することは悪人の悪意から始まり、悪心へと続き、悪い行いに終わる。第一朗読の言葉によれば、悪い人々は自分自身を理解する代わりに彼らの違反行為を指摘する義人を倒すという道を選んだ。悪い人々は、すべての人々は悪いところがあるので、義人も弱いところがあると考えていた。だから、彼らは義人を殺すことを決めた。このことは一般的に現代にも当てはまる事実であるが、この言葉は予言としてイエスの時に実現された。
第二朗読:ヤコブ3、16-4、3
ヤコブはこの手紙の受取人だけにではなく、私たちにも直接的で厳しい、けれど正しい教えを伝える。すべての悪いこと(乱れ、戦争、争いなど)の源は人間の妬みと欲望である。自分の意志と自分の思想のとおりに、自分の力で目的を達成することを望んでいる人々は成功できない(ヤコブ4、2)。自分の心の中に平和がない人々は、社会の中でも平和的な生活ができない人々である。ヤコブにとって目的を達成するために必要なことの一つは、神の知恵である(ヤコブ3,17)。この上からの知恵は正しい祈り、すなわち神の栄光のために祈る時に学ばれる(ヤコブ4,3)。
福音書:マルコ9,30-37
イエスと一緒に生活し、宗教的な活動をしている使徒たちはイエスがメシヤであるということが理解できなかっただけではなく、メシヤについて自分の考え(イエスの考えとは違う)を持っていた。彼らは心の中にまだ妬みと欲望があったので、自分の目的を達成することに集中した。彼らの目的はイエスの活動によってユダヤ人の社会の中で偉大な人物になるということであった。それだけではなく、十二人のうち誰もが最も偉大な者になりたいという気持ちがあったのでお互いに争った。この問題をもとに、イエスは偉大な人物になるために最も相応しい方法を教えた。すなわち、自分のためより他の人々のために生きる人は一番偉大な人になれるということである。他の人々のために生きるということは、一番上の者として他の人々に命令することではなく、この人々のために働かなければならないということである。イエスは神の子として罪人である人間を永遠の死から救うために自分の命を捧げた。大人の社会の中で子供が大事に育てられることは当然のことであるが、だからといって子供が偉大だとは思われていない。子供のような者でも、すべての僕を受け入れる者は神を受け入れるということである。
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マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。
通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。
ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。
ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。
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マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。
通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。
ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。
ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。