聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

霊的な読書とか、神聖な読書という意味のレクティオ・ディヴィナ(ラテン語:Lectio Divina)は、聖書の読書に基づく祈り、また、神の言葉の黙想の方法として、もうすでに教父の時代、つまり、4,5世紀から活用されていましたが、12世紀のグイゴという名のカルトジオ会の修道士が、レクティオ・ディヴィナの基本的と思われた四つの部分、ないし段階を説明する文書を書きました。この段階とは、lectio(読書)、meditatio(黙想)、oratio(祈り)、contemplatio(観想)です。

 

◎ 第1段階:読書

この段階の目的は、黙想の対象となっている聖書の個所を理解することです。そのために、まず、この個所をゆっくり読みます。この文書の表現形式(出来事の叙述や歴史的な物語とか、説教やたとえ話とか、詩など)を意識してから、読んだ本文に対して可能な質問をして、その中で答えを探します、例えば、 何が(起こっているか、取り扱われているか、課題となっているか)、誰が(登場するか、対話するか、話しの対象となっているか、)、何を(話すか、するか)、どこで、また、いつ(この出会いや出来事が起こっているか)、どのように(反応するか)、どのような感情が表現されているか、何故などです。

特に、今まで何回も読んだために良く知っている聖書の箇所を読むときに、細かくて、「当たり前」と思われるような質問をすることによって、今まで気が付かなかったことを発見することも、本文をより深く理解することもできるのです。

 

自分の質問に対する答えを本文の中に見出せないことがあります。それは、この個所が伝えているメッセージを理解するために知らなくてもいいものであるかもしれません。それとも、この書の最初の読者にとって、常識的なことであって、よく知られているために書く必要もないようなことであったかもしれません。ですから、多くの場合、読んでいる文書を理解するために、できるだけこの書の最初の読者の立場になって、この読者がこの文書をどのように理解したかということを考える必要があります。もちろん、そのために扱っている書は、いつ、どのような現状におかれた人のために書き記されたかということを知ることが必要です。また、この書の対象は、ユダヤ人であったならば、彼らの世界観とか、普段の言い方とか、イスラエルの歴史や旧約聖書の知識などを土台にして、考える必要もあるのです。結果的に、聖書辞典や注解書などを読んで、勉強する必要になることが多いわけです。

 

◎ 第2段階:黙想

黙想の目的は、扱っている個所において、神の言葉を見出すこと、つまり聖書の個所によって神が自分に伝えようとしておられることや与えてくださるメッセージを読み取ることです。

 

読んだ言葉は、自分にとって、どのような意味を持つか、どのような注意や励ましや戒めや導きなどについて考えることができますが、特に神の言葉がなかなか見出せないときに、以下のように感情や記憶や理性や想像などを用いて、段階的に黙想することもできます。

 

・感情の活用

扱っている個所を再び最初から最後までゆっくり読みますが、今回は、文書を一つずつ読んでから、短い間をとって、自分の心の動きを調べます。自分の心の動きを調べるとは、浮かんだ感情、例えば、喜び、悲しみ、不安、恐れ、平安、退屈、無感情などを意識するということです。

 

・記憶の活用

何か心の動きを見出したら、そこで読書を止めて、浮かんだ感情を見つめます。この感情は何(言葉、場面、人の反応)によって起こされましたか。どうしてでしょうか。何の体験や出来事や出会いなどが思い起こされましたか。それと関連するもの(出会った人、行った場所、見た映画、読んだ本など)は、何でしょうか。

 

・理性と想像の活用

このみ言葉や自分の心の動きによって神が今の(こんな現状にいる、こんな選択に直面している、こんな問題で悩んでいる)自分に何を伝えたいのでしょうか、何を示したいのでしょうか、どんな導き、使命、励まし、主意などを与えてくださるかについて考えます。

 

◎ 第3段階:祈り

たとえ、祈る人がそれをはっきりと意識しなくても、祈りはいつも、神の働きや神の呼びかけに対する人間の応えです。レクティオ・ディヴィナをしているときに、このことが特にはっきりと見えています。 要するに、この段階において、前の段階であった黙想のときに見出した神の言葉に対して自分が応えます。黙想によって、最近神から特別な恵みをいただいたということに気が付いたならば、祈りは、感謝になります。黙想を通して、イエス・キリストのすばらしさの新たな側面を示されたならば、祈りは、賛美になります。このように、自分が聞き取った神の言葉によって、祈りは、お詫び、願い、約束、決心、または、実際的な行動などにもなりえるのです。

 

◎ 第4段階:観想

観想とは、感情、記憶、理性と想像などのような機能を超えて、静けさの中で神の御前に憩うことです。読書、黙想と祈りの段階で、私たちが様々な機能を用いて、神の言葉を理解するように、また、読み取った神の言葉に応えるように努力しますが、現実的に考えれば、自分の考えとか、自分の望みや欲を神の言葉として間違えて、神に従うことを求めても、いつの間にか自分自身の道を進むことになることは、決して珍しくありません。つまり、意識しなくても、自分の働きによって、神の言葉や神の働きを実際に妨げることがあるということです。確かに、後で、自分の生き方とその結果を正直に振り返るならば、自分の間違いに気づくことができます。そして、自分の間違いを素直に認めた上で、それを繰り返すことがないように気を付けるならば、そのような過ちを犯すことが段々と少なくなります。

 

けれども、真の観想において私たちは、自分の意識を神に向けながら神の前に静かに留まり、神の働きを承諾すること以外に何もしませんので、神の働きを妨げることもないのです。そのために、観想において神は、私たちの内で自由に働くことができますので、私たちは、神の望み通りに、段々とイエスの姿に変えられるのです。もちろん、観想の時に人間は、理性や感情などのような機能を用いないので、読書、黙想と祈りと違って観想は、私たちが記憶できるような体験にはならないのです。静けさの中で過ごす時間は、本当に観想であるかどうかということを自分の生き方の変化、特に他の人に対する態度の変化によってしか分かりません。要するに、私たちの生き方は、段々とイエス・キリストの生き方に近づいているならば、神の御前に過ごす時間は、本当に観想であるという確信を持つことができるのです。

 

観想は、人間がそれをしたいからできるようなことではありません。観想は、イエス・キリストによる神との関わりの発展の結果であり、神の恵みなのです。すべての人々を愛してくださり、すべての人々の愛を求めておられる神は、例外なくすべての人々にこの恵みを与えたいという確信を持つことができます。けれども、神は、この恵みをいつ与えてくださるかということが分かりません。この恵みを受け入れるために、自分にできることとは、自分の心を準備するということだけなのです。神の言葉を黙想したり、理解したことを実行したりすることによって、イエス・キリストとの交わりの内に生きながら、「忙しい祈り」、つまり、自分が様々な機能を用いて、いろいろな働きした後に、静けさの中で留まって、自分の意識を神に向けることは、心の優れた準備であるということが言えると思います。

 

レクティオ・ディヴィナを行うことは、聖書を読書したり、聖書の言葉を黙想したりするだけではなく、生きた神の言葉であるイエス・キリストと交わることなのです。他の人との関係の場合と同じように、この交わりの内容、つまり、自分が感じている喜びや平和とか、発見している新しい思想や気づきなどのような内容よりも、この交わり自体に忠実であることが大事なのです。したがって、自分の聖書の霊的な読書が期待通りの実りをもたらさないと思っても、それを忠実に続けること、つまり、できるだけ毎日、最初から決めた(イエスに約束した)時間に行うことによってだけ、この交わりが段々と深まるのです。初めごろ、考えることや、感じること、また、話すことがほとんどですが、祈りが発展すればするほど、すなわち、イエスとの交わりを深めれば深めるほど、静かな時間が長くなるのです。自分が一生懸命に聖書の言葉を考えたり、それを分析したりすることによってよりも、静けさの中で、神の働きを受けることによって、神の言葉の意味を理解できます。また、自分の力を発揮することによってよりも、静けさの中で、神からいただいた力によって、聞き取った神の言葉を忠実に実行することができるのです。

 

このように、私たちは、聖書を尊敬し、聖書を読んだり、研究したり、その言葉を黙想したりするのは、この本を知るためというよりも、この本を通してイエス・キリストを知るため、つまり、イエス・キリストと愛の絆によって結ばれ、イエスに従って生きることによって、愛の交わりの完成である完全な一致に辿り着くためなのです。カトリック教会が教えている通りです。「キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」くださることが不可欠です。」(カテキズム108)

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

どんな書物を読むときにも、それを読む目的によって、読み方自体も、その結果も変わるでしょう。聖書も同じです。聖書を神の言葉として読みたいならば、聖書が作成された目的、つまり私たちが救いのために必要としている真理を伝えるために書かれた書物であるということを意識し、その真理を見極めるために読まなければなりません。前に述べたように、人間の作品でもある聖書を通して神が伝えてくださる真理を見出すために、まず、人間の作者の意図を理解する必要があります。聖書記者が書き記した文書を通して表現しようとした意味は、伝統的に「文字どおりの意味」、または、「字義的意味」と呼ばれています。また、神がこの文書を通して伝えてくださる真理は、「霊的意味」、または、「霊性的意味」と呼ばれています。文字どおりの意味と霊的意味は、特に新約聖書において、同じであることがよくあります。それは、聖書記者が救いのための真理を直接に表現しているからです。けれども、聖書記者が、自分で書き記した文書を通して、どのような真理を伝えているかということがはっきりと分からなかったことは、特に旧約聖書において、珍しくありません。この真理は、イエスの死と復活、また、イエスが啓示してくださった他の真理によって、はじめて明らかにされたのです。

 

カトリック教会のカテキズム(115,117)において、霊的、寓意的、道徳的、天上的意味とに細分されています。「これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです」(カテキズム115)。

 

◎ 寓意的意味

聖書の本文は、直接的にいろいろな人物や出来事、また、場所やものについて語っても、多くの場合、間接的にイエス・キリスト、また、イエス・キリストの救いの働きについて語っています。ですから、聖書を読むときに、今読んでいる個所のイエス・キリストとの関連について考察することは、非常に有意義なことです。

 

例えば、イスラエルの民の過ぎ越し、つまり、エジプトから解放され、紅海を通過したことは、キリストの過ぎ越し、つまり、イエスの死者の中からの復活、また罪とその結果であるに死に対する勝利を意味します。エジプトに売られたが、結果的に自分の家族を助けたヨセフとか、イスラエル人をエジプトから導き出したモーセは、救い主の前表、または、表象であるということです。

 

◎ 道徳的意味

聖書には、神が与えてくださった戒め、また、イエス・キリストの教えや聖パウロのいろいろな指示は、私たちに真の善と真の悪を示し、正しい価値観と同時に、正しい生き方をはっきりとした仕方で教えてきます。けれども、聖パウロが語る通りに、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(1コリ10・11)。ですから、表面的に見るだけで、正しい生き方についての教えと関係のない出来事や物語やいろいろな人々の働きや経験などは、私たちを正しい行動に導く可能性がありますので、聖書のあらゆる書、あらゆる個所を読むときに、自分がより正しく生きるための導きやヒントを探すことは、大切なことです。

 

聖書から正しい生き方を学ぶことが大事ですが、決定的、つまり、私たちの生き方と共に私たち自身を実際に変えるのは、学んだことを実行することなのです。学んだことを実行することによって、「古い人」を脱ぎすてる、つまり、正しくない生き方を少しずつ辞めると同時に、「新しい人」を身に着ける、つまり、少しずつ正しい生き方を自分の自然な生き方にするということもありますが、聖霊の導きに対する自分の信頼が深まり、聖霊の働きに対して心をだんだん広く開きます。また、聖霊の導きに段々と敏感になりますので、聖書を読むときにも、日常的な体験においても、聖霊が私たちに語る言葉をますます正しく、ますますはっきりと理解することができるようになるのです。

 

天上的意味

神は、人間にご自分を求めさせ、人間をご自分のもとへと引き寄せるために、人間の創造の目的である、神の国や永遠の命とも呼ばれる天国のすばらしさをいろいろな出来事や言葉を通して現してくださいます。ですから、聖書が記されているいろいろなことがらや出来事の永遠の意味を考察することもできます。

 

ダキアのアウグスチヌスは、以上の四つの意味を次のように短く表現しています。つまり、「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」。

 

1993年4月15日に教皇庁聖書委員会が発行した「教会における聖書の解釈」において、霊性的な意味を次のように定義し、聖書を読む人がそれを見極めるために重要なことを次のように指摘しています。

 

「一般的原則によれば、霊性的意味とは、キリスト教信仰にしたがって理解されるもので、聖書本文を聖霊の影響のもとで、キリストの過越秘義とそこから来る新しい命の文脈の中で読むとき、その本文によって表現されている意味であると定義することができる」(1413)。

 

「霊性的意味は、想像や知的推論によって導かれる主観的解釈と混同してはならない。それは、聖書本文がその本文にとって外ものではない実際の事実、つまり過越の出来事とその汲めども尽きぬ生産力と関係をもつことにより湧き出てくる。この過越の出来事こそ、全人類のためにイスラエルの歴史の中でなされた神の介入の頂点である」(1416)。

 

「共同体の中にしても個人的にしても、霊性的解釈が正真正銘の霊性的意味を見出すのは、ただこの展望にとどまっている場合だけである。そのとき、聖書本文と過越秘義と聖霊における命の現状という3つの位相の現実が関係しあう」(1417)。

 

要するに、洗礼を受けたことによって、神の命にあずかって、キリストの弟子、また、神の子どもとして生きている人は、聖書の本文を忠実に読むと同時に、イエス・キリストがご自分の死と復活によって成し遂げた救いのわざを土台にして、自分が生きている現状を意識しながら、聖霊の導きに従って聖書を読むならば、どんな時代、どんな文化であれ、自分が生きている具体的な状況において最も必要な真理、最適な導きを見出すことができるということなのです。

 

聖書をこのように読むために、教会の2000年の歴史において様々な具体的な読み方が作られましたが、代表的で、多くの聖書の読み方や神の言葉の黙想の仕方の基礎にもなっているレクティオ・ディヴィナ(霊的な読書)を紹介したいと思います。

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

聖書は、私たちの救いのために必要な真理を誤ることなく伝えていると認めても、この真理をどのように見分けることができるか、また別の言い方をすれば、聖書を読んで自分が見えてきたことは神が私に伝えたかったことであるかどうかということをどのように確かに知ることができるのでしょうか。というのは、聖書において神の言葉は、人間の言葉で表現されていますので、他の人間の言葉と同じように、この言葉からいろいろな意味を読み取ることができる、つまり、この言葉のいろいろな解釈、その内に間違った解釈が可能であるということです。このような可能性は、聖書を読むに当たって、現実的で、非常に大きな問題なのです。

 

第2バチカン公会議の公文である「神の啓示に関する教義憲章」の中で、この問題について、次のように書いてあります。「神は、聖書の中で、人間を通して人間の方式で語ったので、聖書の解釈者は、神が何をわれわれに伝えようと欲したかを見極めるためには、聖書記者たちが実際に何を表現しようと意図したのか、神が彼らの言葉によって何を明らかにしようと望んだのかを、注意深く研究しなければならない」(『啓示憲章』12)。要するに、神が私たちに何を語るかということを読み取るために、まず、人間の作者が何を伝えようとしたか、また、この文書の最初の読者はこの文書をどのように理解したか、ということを正しく理解する必要があるということです。

 

◎ 聖書記者たちの意図を理解する

「聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた『文学類型』、当時普通であった感じ方、話し方、物語方を考慮する必要があります。実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています」(カテキズム110)。

 

考えてみれば、本文が書かれた言葉さえ知らないがゆえに、翻訳でしか読めない聖書の一般読者には、読んでいる文書の表現形式や文書が関連している歴史的な状況を意識することがある程度まで可能であっても、この文書のもともとの意味を読み取ることは、全く不可能です。したがって、「聖書記者たちの意図を発見する」ことは、古典文学や聖書を専門的に研究している学者たちの仕事となります。けれども、私たちは、聖書をより正しく理解するために、学者たちが編集した聖書辞典や注解書などを勉強する必要があります。また、自分に分かる言語のいろいろな翻訳を読み、それを比較することによって、各言葉や表現の元々の意味やその範囲の理解を深めることも可能なことで、とても重要なことなのです。

 

◎ 聖霊の光のもとに読む

聖書を神の言葉として読む人にとって、人間の作者の文書を理解することは、神が語ってくださる言葉を理解するための手段に過ぎないものです。神の言葉を見出すために、人間の作者の言葉の真の意味を基礎にして、聖書の作成に関わったすべての人を導いてくださった聖霊に照らされて聖書を読み、解釈しなければならないのです。自分の理性だけを頼りにし、聖霊の導きを無視して、また、聖霊の存在や聖霊の働きさえも信じないで聖書を読むことは、他の本を読むことと同じことになります。聖書を研究して聖書記者の言葉の意味が分かっても、神の言葉を理解することができないということになるわけです。聖霊の光のもとに聖書を読むために、まず信仰と聖霊の導きに従いたいという望みが絶対不可欠なものになります。聖書を読む前に、聖霊に導きを願い求めることは、この信仰を新たにし、心を開くために大切なことになります。聖書を読む前に、例えば、次のような祈りを唱えることができます。

 

「聖霊、来てください。

いつも、聖書の言葉を通して、私に語り、

神の愛を現して、導きを与えてくださることを感謝します。

神の言葉を理解することができますように、

私の心を開き、理性、感覚、記憶を照らしてください。

理解したことを実行し、愛に成長することができますように、

私の心をあなたに対する信頼と愛で満たし、力付けてください。

私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。」

 

けれども、聖霊の導きに従って聖書を読むつもりであっても、また、自分が聖霊の導きに従って聖書の言葉を解釈しているという強い確信を持っていても、実際に、自分の考えや望みにだけ従い、場合によっていろいろな先入観に支配されて、全く間違った結論を出すことは、決して珍しいことではありません。このような危険性を避けて、聖書の読者が、実際に聖霊の導きに従って聖書を読み、それを解釈するために、第 2 バチカン公会議の公文において教会が三つの規則を与えています(カテキズム112-114参照)。

  • 第1の規則は、聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うこと、
  • 第2の規則は、教会全体の生きた伝承に従って聖書を読むこと、
  • 第3の規則は、信仰の類比に留意することです。

 

◎ 聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払う

聖書に含まれている書は、千年以上の間で、全く異なる状況において生きていた非常に多くの人々によって作成れていますが、同時に、神の自己啓示の発展と神の救いの計画の実現の過程を表すもの、最初からはっきりとした目的を目指しておられた聖霊の導きに従って作成されたものです。つまり、神が聖書のすべての書の真の作者ですので、すべての書が、絶対に互いに矛盾していない神の言葉を伝えているのです。確かに、聖書記者は書き記した様々文書を通して、互いに矛盾していることを伝えていますが、各々文書によって伝えられている神の言葉を見出せば、この言葉は、矛盾していないだけではなく、互いに補い合いながら、一つの真理を伝えているということが分かります。

 

例えば、創世記の第1章によると、神に象って、神の似姿として創造された人間は、最初から男と女に創造した。けれども、創世記の第2章によれば、神は、まず男だけを土から創造しました後、女を、しかも、男のあばら骨から創造したのです。この物語を表面的なレベルだけで見れば、互いに矛盾していて、一つが事実であるならば、もう一つは嘘になるわけです。けれども、この物語が伝えている普遍的な真理を見出せば、二つとも、同じ人間の別の側面を表し、より完全に人間についての真理を教えているということが明らかになります。要するに、人間には、神ご自身に象る霊的な次元、例えば、不滅の霊魂や愛する能力などがあると同時に、この世の一部である肉体的な次元もあるという真理と、性別などのような違いがあっても、すべての人は同じ本質を所有しているがゆえに平等であり、互いのために愛の対象になり得る存在であるという真理なのです。

 

旧約聖書の神は、正義の神で、厳しくて、時に残酷な方であるが、新約聖書の神は、優しくて、いつくしみ深い方であるという印書を受ける人が非常に多くいるようです。けれども、このような印象は、聖書の表面的な読み方の結果に過ぎないものなのです。実は、旧約聖書も、新約聖書も、同じ神の言葉ですし、同じ神を現しているのです。聖書全体は、イエス・キリストを頂点とする神の自己啓示の発展とイエス・キリストの受難と復活を中心とする神の救いの計画の実現の過程を伝えていますので、確かに、聖書において啓示や救いの計画の様々な段階と、人間の様々な受け止め方や理解の仕方が見出せます。ですから、神の真の啓示と真の働き、つまり神の言葉と、人間の、時に不十分、時に間違った反応や表現、つまり人間の言葉を区別して、旧約聖書を正しく理解するために、イエス・キリストの行いと言葉、また、イエスの死と復活を基準にして、旧約聖書を読まなければならないのです。

 

でも、逆にも言えます。つまり、新約聖書、もっと具体的に言えば、イエス・キリストの行いと言葉を正しく理解するために、神が遣わしてくださったメシアのための準備の期間でもあって、イエスの生涯の環境と同時に活動の舞台にもなった旧約聖書を読む必要があるということです。実は、新約聖書と旧約聖書は、互いに矛盾していないだけではなく、互いに照らし合っているのです。この事実を聖アウグスチヌスの言葉がきれいに表現しています。「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」(「七書についての諸問題」2・73: カテキズム129参照)。

 

神の計画の一貫性の結果である、聖書全体の一貫性を認めることは、部分的な個所から間違った結論を出さないために、非常に大事なのです。例えば、イエスが語った「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11-32)から、神は、回心した罪人を必ず受け入れてくださるという正しい結論を出しても、神は、たとえの父と同じように、罪人の回心を待っておられても、この人の回心のために何もなさらないという間違った結論を出すことも可能です。けれども福音記者聖ルカが、「放蕩息子」のたとえの前に乗せた「見失われた一匹の羊」のたとえ(ルカ15・4-6)の中心的なメッセージを見れば、神は、罪人が回心するように、たとえの羊飼いと同じように働いてくださることが分かります。つまり、神がたとえの父と同じように、罪人の回心のために何もなさらないという結論は、間違っているということも分かるわけです。実は、聖書全体が現している通りに、神は、罪人をご自分のもとに導き、愛の交わりに受け入れるために、常に働いておられます。そのためにこそ、御ひとり子を罪人のところに遣わしてくださった、また、イエス・キリストにおいて神ご自身が私たちのところに来てくださったということも言えるのです。

 

要するに、聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うとは、聖書全体が、一人の作者である神ご自身によって作成された一つの書物として認めた上で、自分が聖書の別々の個所から互いに矛盾しているような結論を出したら、その内の少なくとも一つの結論が間違っている(両方とも、間違っているという可能性もある)ということを認めるということなのです。また、いろいろな所から読み取った様々なメッセージの関連を見出して、それを一つの大きなメッセージに繋げたり、一つの個所から読み取った神の言葉によって、他の個所を照らしたり、その理解を深めたりすることでもあるのです。

 

確かに、いくら考えても、いくら祈っても、他の個所で見出した神の言葉と調和しているようなメッセージを、なかなか見出すことのできない個所が聖書にあります。けれども、神の言葉を信頼して、聖書を忍耐強く読み続け、読んだことを正しく理解するためにできることをし続けると、教会が教えている通りに、聖書全体は、一貫し、調和のとれたメッセージを伝えていて、表面的に読むときには全く関係ないか、矛盾している書や個所は実際に深く繋がっているということが少しずつはっきりと見えてきます。そのとき、本当に同じ霊がすべての聖書記者を導いてくださったこと、神ご自身が聖書の真の著者であるという事実を実感できるのです。

おそらく、この実感は、聖書を忍耐強く読み続けることの一つの大きな実り、一つの大きな恵みです。この恵みを受けた人は、大きな安心と確信をもって聖書を読みながら、神との対話を続けることができると同時に、人類の歴史においても、自分自身の人生においても、神の働き、神の導きを見出すことができるようになります。結果的にこの人は、この世が与えることのできない安心と喜び、また、何よりも強い希望に満たされて生きるようになるのです。

 

◎ 教会全体の生きた伝承に従って聖書を読む

ペトロの第2の手紙の中に次のように書かれています。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(2ペト1・20-21)。「自分勝手に解釈すべきではない」というのは、一人で聖書を読んだり、個人的に解釈してみたりすることではありません。いけないのは、イエス・キリストの証人であり、イエス・キリストからイエスの名によって教える権威を与えられた使徒たちの教えを無視すること、また、彼らの教えに逆らうような聖書の解釈の仕方です。

 

使徒性は、新約聖書に属している書を識別するための中心的な基準でしたので、新約聖書のすべての書が使徒たちの教えを伝えているという確信を持つことができます。けれども、使徒性が新約聖書の正典化の過程において中心的な基準であったというのは、教会は、聖書が形成される前にすでに、聖書と異なる形において使徒たちの教えを持っていたということです。教会は、文書以外の形で使徒たちから受け継がれたものも、イエスの福音を忠実に伝えるものであると信じて、それを聖なる伝承として認めて、「聖伝」と呼びます。

 

使徒たちは、3年以上にわたりイエス・キリストに従っていて、イエスが語った言葉を聞くことによってだけではなく、イエスの行いやいろいろな人々に対するイエスの態度を見ること、また、イエスと共に祈ったり、食事をしたり、旅をしたりすること、また、他の様々な体験をすることによってイエスから言葉で表現できないことを含める多くのことを学びました。イエスが受難を受ける前にも、復活された後にも、イエスと接することによって、また、イエスが遣わしてくださった聖霊を受けて、聖霊の働きによって彼らの考え方、彼らの生き方、彼ら自身が変わったのです。したがって、彼らは、イエスから与えられた使命を果たし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、説教したり、聖書に基づいて他のユダヤ人と論じ合ったりしただけではありません。彼らは、自分たちの生き方とか、多くの奇跡を含む宣教活動や回心した人々に洗礼を授け、キリスト者の共同体とその組織を作ること、また、他のキリスト者と共に祈りや貧しい人々を助けたりすることを含む共同体の生活によって、言葉のみで伝えることのできないことを伝えたのです。

 

聖パウロは、キリスト者たちに(後で新約聖書の一部となった)手紙だけではなく、口で伝えたことも、自分の生き方によって伝えたことも固く守るように呼び掛けていました(2テサ2・15、1コリ11・1)。その通りに、教会は、2000年前から、聖パウロと他の使徒たちから受け継いできたことをその教えと生活、また典礼などにおいて保ち、それを次々の世代に伝えてきたし、これからも、世の終わりまで、伝え続けるのです(カテキズム78、『啓示憲章』8参照)。

 

教会は、聖伝と聖書の繋がり、また、両者の重要性を次のように説明しています。「聖伝と聖書とは互いに密に結びつき、通じ合っている。というのは、神という同じ源から流れ出ている両者は、ある程度は一体であって、同一の目的を目指しているからである。実に聖書は、神の霊の息吹によって書き記されたものであるかぎり、神の語りかけであり、他方、聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばをその後継者たちに余すところなく伝達するものである。こうして彼らは、真理の霊に照らされながら、神のことばを告げ知らせつつ忠実に保ち説明し広めるのである。したがって、教会が、啓示されたすべてのことについて確信を得るのは聖書だけからではない。それゆえ、両者は等しく敬虔な心と尊敬の念をもって受容され尊重されなければならない」(『啓示憲章』9)。

私たちは、教会が保ってきた聖伝に従って聖書を読み、それを解釈するならば、使徒たちが伝えた教えを忠実に解釈している、つまり聖書を正しく理解しているという確信を持つことができます。使徒たちから受けた聖伝は、聖書と同じように変わることがありませんが、教会の聖伝の理解が常に深まっています。ですから、聖伝に従って聖書を読むとは、昔から伝わってきたことをそのまま繰り返すのではなく、聖伝に逆らわないように注意しながら、それを自分の現状に適用したり、現代の人に分かりやすい言葉で表現したり、その理解をさらに深めたりするということなのです。

 

◎ 信仰の類比に留意する

聖伝に従って聖書を読むつもりであっても、聖伝を間違った解釈をすれば、聖伝に従うことにはなりません。そのために、聖書を正しく読むための第3の規則は、信仰の類比に留意することになっています。この規則の意味を理解するために、まず、使徒たちの後継者の役割と教会の教導職のことを理解する必要があります。

 

教会は、聖書と聖伝という形において、神の言葉(福音)という信仰の聖なる遺産を直接的に、または、間接的に、使徒たちから受けました。この信仰の遺産を保つこと、それを説明すること、また、それを広めることは、使徒たちの後継者である司教たちの務めです。このような務めを与えられた司教たちは、聖ペトロの後継者であるローマの司教、つまり教皇様と一致しているときに、教会の教導職となっています。実は、教会の教導職にだけ、使徒たちを通して教会が託された神の言葉であるイエスの福音を決定的に解釈する権威があるのです。

 

教会の教導職について、第2バチカン公会議は、次のように教えています。「その権威は、イエス・キリストの名において行使される。もちろん、この教導職は、神のことば上にあるのではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。すなわち、神の命令と聖霊の助けによって神の言葉を敬虔に聞き、尊く保ち、忠実に説明する。しかも、神により啓示された信じるべきこととして提示するすべてのことを、この一つの信仰の遺産からくみ取るのである」(『啓示憲章』10)。

 

ですから、誰かが聖伝に従って聖書を読み、使徒たちが伝えた教えに忠実に聖書を解釈したいならば、自分の考えよりも、教導職による教会の正式的な教えを優先にしなければならないのです。それは、自分の結論が教会の教えに矛盾しているならば、間違っているのは、教会ではなく、自分自身であるということを素直に認めた上で、間違った結論を手放すことなのです。このように、教会の教えは、聖書を読む人を間違った解釈から守っているわけです。

 

一つの例として「罰」のことを考えてみましょう。新旧約聖書の多くのところで、「神が罰を与える」と述べられています。教会の教えを知らずにそのような個所を読むと、神はいつくしみ深い父であるのではなく、この世の権力者のように自分の権利を守るために、それに逆らった人を復讐するような方、または、無慈悲な審判者のように、人の内面的な状態や動機を無視して、この人の善を全く考えずに、法律に定めた刑罰を下すような方であるというような間違った結論を出すことがあり得ます。けれども、罰と言われているのは、「外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです」(カテキズム1472)という教会の教えを知ったら、神は、罪となる人の行いの結果を許しても、罪人を罰するために、彼をいろいろな苦しみに合わせたり、彼に苦しみを与えたりするような方ではないということが分かります。罰について教会の教えを土台にして聖書を読むと間違った結論を出すのを避けることができるだけではなく、今まで絶対にそれがありえないと思った個所にも、イエス・キリストが現してくださったいつくしみ深い父の姿を見出すことができるのです。このように、教会の教えは、聖書を読む人を間違った解釈から守るだけではなく、聖書の言葉の理解を促し、それを深めるのです。

 

考えてみれば、初代教会のキリスト者は、新約聖書を読む前に、使徒の教えを熱心に聞き、使徒たちが伝えた伝承を受けて、それに生きていました(使2・41-42参照)。使徒たちの教えは、新約聖書に属する書を識別する基準になっていただけではありません。使徒たちが、イエスがなさったことや教えてくださったことに基づいて、旧約聖書を読んではじめて、聖書の言葉の真の意味を見出したように、キリスト者は、使徒たちから受けたことに基づいて新約聖書と旧約聖書を読んで、その言葉を理解していたに違いないと思います。私たちも、使徒たちの教えを伝え、それを正しく解釈している教会の教えに基づいて聖書を読むと、間違った解釈を避けることができるだけではなく、その教えを知らずに読むときに全然分からない言葉を理解すること、また、部分的にしか理解していなかった個所をもっと深く理解することができるのです。

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

 

聖書は、いろいろな人が書き記した73冊の書から成り立っていますが、73冊すべてが聖なる書であること、つまり、本当に聖霊の霊感によって書かれて、神が人間に伝えたいを思われたことを誤りなく伝えていることは確かなことなのでしょうか。言い換えれば、聖書と呼ばれている本は、本当に神の言葉であるという確信を持つことができるのでしょうか。神ご自身がこのすべての書の著者であることを認める証明書を発行されたわけがないですから、誰が、どのように、また、どんな権威を以てそれを決めたのでしょうか。この質問に答える前に、まず、神のことを知る方法、特に神の自己啓示のことと聖書が形成された過程を説明する必要があると思います。

 

◎ 神の自己啓示

人間は、神から与えられた理性によって、様々なことを知り、理解することができます。理性のためにこそ、科学の発展とともに、私たちが生きている世界の構成や人間自身の精神や体の仕組みなどの理解が段々と深まって、技術も高まっていき、昔は、誰も想像もしなかったようなことができるようになっています。同じ理性のために、人間は、何が正しいか、つまり、どのような行動が人間を生かし、人間の益になるか、また、どのような行動が人間に害を与えるかということ、つまり、道徳的な基準をある程度まで知ることができます。また、世界や人間のことに関する知識に基づいて論理的に考察することによって、存在しているすべてのものの第一原因であり、創造主である存在、つまり、私たちが見える現実を超えている神が存在しているという結論を出すこともできます。つまり、理性によって人間は、少なくとも、神が存在していることと創造主であることを知ることができるということです(ロマ1・20-23参照)。

 

けれども、私たちは、理性の力によってのみ神について知ることのできないことをも知っています。例えば、神は唯一でありながら、父と子と聖霊という三方の一体であること、つまり三位一体の神秘を知っています。実は、このような認識は、神ご自身の啓示による認識です(カテキズム50参照)。ヘブライ人への手紙の中に次のように書き記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブ1・1-2)。この言葉からも分かることですが、神は、自分のことを最初から完全に現してくださったのではなく、良き教育者のように、人間の心の状況や理解力に合わせて、少しずつご自分のことを現してくださったのです。神の自己啓示の過程の頂点は、神の御ひとり子であるイエス・キリストなのです。啓示の過程の発展は、聖書の形成の過程の中で見られます。

 

◎ 旧約聖書の形成

神のわざであるすべての被造物そのものは、神の、いわゆる、自然の啓示ですが、神はいろいろな自然の現象や出来事を通して、また、人間のいろいろな体験を通しても語られるのです。神は、アブラハムを召し出してから、彼の生涯の中で、また、彼の子孫から生まれたイスラエルという民族の歴史の中で、特に力強く、特にはっきりとした形で人間にご自分を啓示し、この世界に対するご自分の計画を実現してこられました。イスラエル人が体験した神の働き、特にエジプトから解放されたことやシナイ山で神と契約を結んだことは、まず数百年の間に口頭で次の世代に伝えられましたが、凡そ紀元前10世紀から、口伝された諸伝承が少しずつ文書化されたのです。紀元前8世紀と6世紀の間、多くの預言者たちが活躍していました。彼らは過去や現在の出来事の中で見出した神のメッセージ、いろいろな教えや注意や導きを宣べたりしていました。この言葉を自ら書き記す預言者もいましたが、多くの場合、彼らの弟子や後の人が預言者の生涯や彼らが宣べた言葉を書き記したのです。国家を失う経験をしたイスラエル人は、捕囚からパレスチナに戻った時に、自分たちの国民のアイデンティティを再意識し、それを保ち、次の世代に伝えるために、ユダとイスラエル王たちの歴史やいろいろな資料に書き記されていた捕囚前の歴史やエルサレムの物語、また、捕囚時代の物語をまとめたり、必要に応じて文書化したり、いろいろな資料や様々な伝承を合併したり、再編集したりしました。こうして、預言書の作成は、紀元前6世紀までに終わりましたが、モーセ五書は紀元前5世紀に完成されました。その後、ダニエル書やマカバイ記を含めて、いくつかの書が書かれましたが、1世紀に、旧約聖書の最後の書として、知恵書が書き記されました。要するに、旧約聖書の一番古い文書が書かれてから、最後の文書が書かれるときまで、千年以上がかかったということになるわけです。

 

このように非常に長い過程の結果として作成された書が、聖書であるとは、聖霊が文書を書いた人に霊感を与えて、この人を導かれたからだけではなく、元々の出来事や書の主人公となった人の生涯の中で働いたから、また、この出来事や人の言葉や行いを伝えた人々においても神が働き、彼らに神が伝えてくださった言葉の意味を変えることなく、正しく伝える恵みを与えてくださったから、そして、口頭で伝えられた伝承を文書化した人も、いろいろな文書を編集したり、資料を合併したりした人も聖霊の導きに従ってこの作業を行ったからです。要するに、聖書の作成のすべての段階で、また、この作成に関わったすべての人々において神が働いたからこそ、神が最初から伝えたかったことが誤りなく伝えられ、聖書は、神の言葉となっているということです。

 

◎ 新約聖書の形成

新約聖書に含められているすべての書は、比較的に短い間、つまり、たったの50年の間に書かれましたが、新約聖書は、基本的に旧約聖書の作成過程と同じような過程の結果です。けれども、新約聖書の作成期間が短いために、この過程の各段階は、はっきりと見られます。

 

まず、神の特別な働き、神の自己啓示の頂点として、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで」(ヘブ1・3)あるイエス・キリストの生涯、特にパレスチナにおけるイエスの行動と教え、キリストの死と復活がありました。イエスご自身がご自分の教えを書き記したというような記録がないですが、イエスは、ご自分の活動の早い段階で、ご自分の証人となるために12人の弟子を選んで、彼らに「使徒」、つまり、「遣わされた者」という名を付け、彼らに特別な教育を与えられました。そして復活されてからイエスは、この使徒たちにご自分の教えをすべての人々に伝えるように命じて、彼らを全世界に派遣されたのです(マコ16・15;マタ28・19-20;マタ24・14;使1・8参照)。カトリック教会のカテキズムの中で次のように教えています。「主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された福音を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源として、すべての人にのべるよう、また彼らに神のたまものを与えるよう使徒たちに命じました」(カテキズム75)。

 

福音書が度々示している通りに12人の使徒たちは、イエスの行いを目撃し、イエスの言葉を自分の耳で聞いても、それをなかなか理解することができなかったのです。けれども、彼らは、昇天されたイエスが約束通りに遣わしてくださった聖霊を受けて、イエスの指示に従って旧約聖書を読むことによって、イエスの行いとイエスの言葉の真の意義を見出し、キリストから与えられた使命を果たして、イエスの証しを立てながら、その生涯と教えを忠実に宣べ伝え、その意義を説明するようになりました。使徒たちは、様々な状況に置かれている、いろいろな人々にイエスの福音を宣べ伝えましたので、それを聞いている人々に理解してもらうために、必要に応じてイエスの教えを聞いた通り、また、イエスの行いを見た通りに伝えたのではなく、それをある程度まで編集したり、適応したりしていたのです。

 

イエスの弟子たちの宣教活動の結果として、イエス・キリストを救い主として認めたキリスト者の共同体が次々と生まれてきました。聖ルカがキリスト者の共同体の生活を次のように描いています。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使2・41-42)。イエスを証しし、イエスの福音を伝えたのは、使徒たちだけではなかったのですが、聖ルカが伝えている通りに、使徒たちは、特別な権威をもって、宣教活動をし、弟子たちから特別に尊敬されて、共同体の中心的で、指導的な立場にいたのです。

 

このときに宣教師たちは、主に口頭で福音を伝えました。その頃キリストの行いや教えについての文書も書かれたようですが、後に新約聖書に含まれた書簡という形の文書は、聖パウロによって、西暦50年代に入ってから書かれました。勿論、聖パウロは、この書簡を聖書として書くつもりがありませんでした。ただ、自分が創立した共同体において何らかの問題が起こったと聞いても、すぐにそこへ行けないときに、この共同体を教え、戒め、励まし、指示するためにこの書簡を書いたのです。聖パウロは、具体的な共同体のために書簡を書きましたが、それを読んだ他の共同体のキリスト者が、それを自分の共同体のためにも用いることができるということが分かると、この書簡を写して、新しい写本を作ったため、聖パウロと他の指導者が書いた文書は、キリスト教の世界の中で少しずつ広まったのです。

 

実は、福音書は、書簡と異なる形を取っても、書簡と同じような目的のために作成されたのです。つまり、福音記者たちは、イエス・キリストの生涯やイエス・キリストの教えすべてを、次の世代とか、全世界の人々に伝えようと思って福音書を書き記したのではありませんでした。初代教会の諸共同体には、新しい、つまりイエスが活動をなさった時になかったような疑問や問題や困難が生じていましたので、福音記者たちは、自分たちの共同体のこのような疑問や問題や困難に対して、イエスの教えやイエスが示してくださった模範に基づいて、必要と思った教え、励ましや導きなどを与えるために、自分の記憶や手元にあった資料の中から必要と思ったものだけを選んで、この共同体のキリスト者たちに理解しやすくなるように編集したり、解釈したり、相応しいと思った表現を用いたりしたのです。つまり、福音記者たちは、各共同体の状況や必要性に応じて、以前に使徒がしたようにイエスの教えを適応化したということです。一人ひとりの福音記者が異なる現状にあって、異なる問題や困難にあった共同体のためにその福音書を書いたと同時に、福音記者一人ひとりは、性格とか生まれた環境や受けた教育も異なっていたし、イエスの教えや神学の課題に関する好みも異なっていましたから、すべての福音記者は、同じイエスの生涯と教えを元にしていても、異なる福音書を作成したわけです。

 

◎ 使徒たちと司教たちの権威

聖パウロの書簡が示しているように、早い段階で、初代教会において間違った教えを宣べた人がいました。この場合、教えが正しいかどうかということを決めるために決定的な権威をもっていたのは、使徒たちでした。使徒たちは、この権威を教会から与えられたのではなく、イエスご自身から与えられたのです。ご自分の教えをすべての人々に伝えるように使徒たちを遣わしたイエスは、この派遣について次のように言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハ・21)。要するに、イエス・キリストは、神の名によって語る権威を父である神から与えられたように、ご自分の名によって語る権威を使徒たちに与えてくださったのです。聖パウロは、1世紀にキリスト者の意識を表して、使徒たちについて、次のように語ります。彼らは、「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を」(2コリ3・6)神から与えられた者、「キリストの使者の務めを果たしている」(2コリ5・20)者、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(1コリ4・1)であると。要するに、キリスト者は、最初から、イエス・キリストが使徒たちに与えてくださった権威を認めて、使徒たちがイエス・キリストの名よって語る、イエスの代理人であることを認めたからこそ、ある教えが正しいものであるかどうかということを使徒たちに決める決定的な権威があるということを認めていたわけです。

 

使徒たちは、この権威、つまり、キリストの代理として、キリストの名によって語る権威を、彼らが任命した自分たちの後継者に伝えました、このことは、キリスト者によって、最初から認められていました。これについて、聖パウロも(例えば、1テモ3・1-7;テトス1・7-9)、教父たち(例えば、ローマの聖クレメンス、アンチオキヤの聖イグナチオも)書いて、使徒たちの後継者、つまり司教たちの権威を認ると書いています。

 

使徒たちは、キリストご自身から与えられた権威、また、彼らが司教たちに伝えたこの権威は、教えの正しさを決めるときに決定的なものであっただけではなく、どのような書が聖霊の霊感によって書かれたか、つまり、どのような書が神の言葉で、聖書に属するものであるかということを決めるときにも、決定的なものでした。

 

◎ 新約聖書の正典化

旧約時代にあったように、初代教会のキリスト者は、「正典的な意識」、つまり、彼らが持っていたある書が、他の書と違って、彼らのキリスト者としての生活のための基準となっているという確信を持っていました。この確信を、聖パウロの言葉が描いています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(2テモ3・16)。そのために、キリスト教の各共同体は、ユダヤ教会から受け継がれた聖書と同じように重要であり、有益になると思った書を集めていましたし、他の共同体が持っていた書を写したりしたのです。

 

2世紀の前半に、多くの場合司教でもあった教父たちは、自分たちの共同体のために、正典と考えた書のリストを作り始めます。その頃から、教父たちは、四つの福音書とパウロの書簡を、ユダヤ人の聖書と同じ権威のある書として認めていました。西暦202年に亡くなったリオンの司教聖イレネオが、ユダヤ人の聖書を「旧約」、そして、正典として認められたキリスト者の書を「新約」と呼び始めました。

 

全ての共同体は、同じ書を霊感に基づいて書かれたものとして認めたわけではありませんし、各共同体において出来上がった正典的な書のリストは異なっていて、すべては、部分的なものでした。それから、教父たちは、最初から拒否した書が次々と出回るようになったし、マルチオンのような異端者たちは、自分たちの正典を作り始めましたので、使徒的教会の正式的な正典を決めることが必要になったのです。27の書を含む新約聖書の正式的な正典は、まず、393年のヒッポンの教会会議と397年のカルタゴ教会会議において教会を代表して集まった司教たちによって承認されましたが、その後、多くの教皇と公会議によって再確認されました。

 

凡そ300年もかかった新約聖書の正典化の過程において、ある書を正典に加える一番大事な基準、つまり、聖書に属する書として承認する一番大事な条件とは、この書の使徒性でした。書の使徒性とは、使徒が自分自身でこの書を書き記したということだけではなく、この書が、何らかの仕方で使徒の伝承につながっていること、例えば、使徒の弟子や協力者が書いたものであるか、使徒や弟子が残した資料の合併や編集の結果として作成されたものであるということです。ある書を聖書に属する書として認めるために用いられた他の基準とは、書の普遍性、つまり、この書が一つの共同体や一つの地方のみならず、世界中の共同体によって使われていることです。それから、正統性、つまり、書全体が、使徒の教えと一致していることと、書が読書や教えるためにのみならず、典礼においても用いられていたことでした。


新約聖書の正典化の過程は、教会全体、特に使徒たちからキリストの名によって教える権威を受けついた司教たちによる識別の過程でもありました。教会の指導者であり、司牧者である司教たちがその権威を持っていなければ、どの書が聖霊の霊感に基づいて書かれたかが分からなかったのです。したがって、聖書を神の言葉として読むために、使徒たちの後継者の権威を認める必要があります。逆に言えば、使徒たちの後継者である司教たちの権威を認めていない人には、カトリック教会の識別を信頼する根拠も、新約聖書を神の言葉をして認める根拠もないために、聖書が本当に神の言葉であるという確信を持つことができないのです。

 

◎ 旧約聖書の正典化

ユダヤ教は、伝統的に聖なる書物を三つのグループに分けていました。第1のグループは、モーゼの5書です。第2のグループは、預言書です。そして、第3のグループは諸書です。1世紀のユダヤ教の世界において、第1と第2のグループに含まれてあった書は、はっきりと決まっていたし、この書は、普遍的に聖書として認められていましたが、第3のグループに属する書は、はっきりと決めていなかったし、このグループに含まれた書の権威について疑問を持つユダヤ人のラビもいました。けれども、ユダヤ教にとってエルサレムの神殿が中心となっていた時に、ユダヤ教の聖書の正典が正式的に決まっていなかったことは、問題にされなかったようです。けれども、神殿が破壊された西暦70年からユダヤ教は、自分たちのアイデンティティをはっきりとし、それを保つために新しい基礎を求めたのです。聖書がユダヤ教の自然な基礎になったわけですが、どの書が聖書であるかということをはっきりと決める必要になったわけです。ユダヤ教のラビの間で行われた議論の結果として、2世紀の終わりごろや3世紀の初めごろに、ヘブライ語やアラム語で書かれた39の書を聖書として認めるようになりました。そして、ギリシア語で書かれた7の書(トビト記、ユディト記、知恵の書、シラ書、バルク書、マカバイ記上、マカバイ記下)は、聖書として認められず、正典に入りませんでした。けれども、39書が普遍的に認められるようになっても、その中のいくつかの書についての議論は、まだ5世紀まで続けられたのです。

 

キリスト教が生まれた1世紀に、ユダヤ教の正典がまだはっきりと決められていなかったし、2世紀の終わりごろにラビたちによって正典から外された7の書は、少なくとも七十人訳聖書(旧約聖書のギリシア語の翻訳)を用いたユダヤ人によって聖書として認められていました。また、この7の書の中の三つが、クムランで発見された写本の中にありましたので、クムランの共同体もこの書を聖書として認めていたという結論を出す学者もいます。

 

この7の書は、1世紀のユダヤ教の中で、どれほど広く認められていたかということが分からなくても、キリスト教が最初からこの書を旧約聖書の他の書と同じように、権威のある書として用いたということは確かです。初代教会は、ユダヤ人たちが2世紀の終わりに拒否した7の書を含めて、旧約聖書の46書を用いたのみならず、382年のローマの教会会議、393年のヒッポン教会会議と397年のカルタゴ教会会議において、正式的に承認されたのです。

 

キリスト教の立場から考えれば、使徒の後継者である司教たちに新約聖書の正典を承認する権威があったように、旧約聖書の正典を承認する権威もありましたが、ユダヤ教のラビたちには、そのような権威があったと言える根拠はないのです。

 

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聖書の解釈 - 聖書を読む人のための手引き

聖書は、一冊の本に見えても、実際には73冊の書を集めている「図書館」のような書物なのです。聖書の中に入っている一番古い文章は、紀元前10世紀に書かれたものです。一番遅い段階で書かれた文書は、西暦1世紀のものです。つまり、聖書全体は、千年以上の間に作成されて、非常に多くの人によって書かれた文書、しかも、複数の言語(ヘブライ語、アラム語、ギリシア語)で、様々な所で、様々な政治的や経済的な状況において書かれたものです。聖書において、歴史的な物語やたとえ話、預言的や黙示的、また、詩的な表現形式とその他の文学類型が使われています。

 

 

◎ 神の作品

 

それほど多くの相違を持っている書物が、なぜ、一つの聖書になっているのでしょうか。それは、聖書に含まれているすべての書物に一つの重要な共通点があるからです。この共通点とは、共通の作者、つまり、神ご自身なのです。実は、聖書が他のすべての書物と違って聖なる書であるのは、そのためなのです。勿論、神が聖書の作者であるとは、神ご自身が文書を書かれたということではありません。553年にコンスタンチノープルで開かれた公会議の中で、教会は次のように教えました。「尊き母なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしています。なぜならそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからです」(第2コンスタンチノープル公会議)。

 

 

◎ 人間の作品

 

第2バチカン公会議の公文書の中でカトリック教会は、聖書が聖霊の霊感によって書かれたことを次のように説明します。「神は聖書を作り上げるにあたってはある人々を選び、彼らの才能と能力を利用しつつ採用したのである。こうして、神が彼らのうちで彼らを通して働くことによって、彼らは真の作者として、神が欲することのすべてを、またそれだけを、書き物によって伝えたのである」(『啓示憲章』11)。要するに、神は主な作者であっても、唯一の作者ではありません。言われた言葉をのみ書き記す秘書のようではなく、神から受けた啓示を、個人の才能と能力に応じて自分の言葉で文書を書いた人間である聖書記者も真の作者です。そのために、聖書の言葉は、神が伝えたいと望まれたことだけではなく、文書を書いた人の性格や趣味、また、その人の知識や世界観、また、当時の常識や、考え方などを表しているわけです。

 

 

◎ 人間の言葉となられた神の言葉

 

神の作品である聖書は、同時に人間の作品でもあるとは、大きな神秘です。実は、この神秘は、イエス・キリストが真の神であり、真の人間であるという神秘と同じです。この神秘について教会は、次のように教えています。「かつて永遠なる父のみことばが人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神のことばは人間の言語で表現されて人間のことばと同じようなものにされた」(『啓示憲章』13)と。イエス・キリストは、罪を除いて他の人と同じ人間になったように、聖書において神の言葉は、誤りを除いて人間の言葉と同じものになったのです。言い換えれば、人間の言葉となった神の言葉は、真理を誤ることなく伝えているということです。それについて、カトリック教会のカテキズムに次のように書かれています。「霊感によって書かれた書は、真理を教えます」(カテキズム107)。また、「神の啓示に関する教義憲章」には、次のように書かれています。「それゆえ、霊感を受けた作者すなわち聖書記者たちが主張していることはすべて、聖霊によって主張されているとしなければならない。したがって、聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものと公言しなければならない」(『啓示憲章』13)。

 

 

◎ 救いのための真理

 

聖書を正しく理解するために、少なくとも、聖書に対して根拠のない期待を持たないために、聖書が誤りなく伝えている真理の特徴を意識しなければならないのです。それは、私たちが、自分の救いのために必要としている真理なのです。言い換えれば、私たちが聖書を読むのは、天文学や物理学、また、医学の範囲に入っている事実、また、歴史的な出来事に関する事実を知るためではありません。なぜなら、そのような知識は、救いの恵みを受けるために必要ではないからです。考えて見れば、優れた学者になって、世界の構成や人間の体の構成を知るようになっても、人生の目的やその意義、また、正しい生き方を知らない可能性、また、実際に正しく生きていない可能性があるでしょう。逆に、難しい科学を知らなくても、正しく、つまり、創造主である神の意志と同時に、人間の本質に沿って、人間らしく生きることが可能です。聖書においては、このような真理、つまり、創造主である神が人間のために定めた目的に向かって歩むために必要な真理のみを見出すことができるのです。

 

聖書を正しく理解し、結果的に聖書の言葉によって生かされるために、聖書の最も根本的な特徴、つまり、聖書は、神の作品でありながら、人間の作品でもあるという特徴を常に意識しなければならないのです。神が聖書の作者であるとは、聖書の内容、つまり聖書が伝えている真理、救いのために必要な、普遍的な真理は、神によって決められたということです。そして、人間が聖書の作者であるとは、この真理を伝える方法、つまり表現の形式、文学的な形などは、人間が決めたということです。

 

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