メッセージ - C年 復活節

 

(ヨハ20,1-9)

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロ 3:1-2

使徒たちの中で、ゼベダイの子ヨハネと思われる、「イエスが愛しておられたもう一人」の弟子だけが最後まで、つまり十字架のもとまでイエスに従いました。そのことができたのは、他の使徒よりもイエスを強く愛していたからでしょう。苦しみを受ける恐れや命を失う恐れを乗り越えるために必要な力をもたらした、イエスに対するこの大きな愛のゆえに、ヨハネはキリストの死のために他の使徒よりも深く悲しんだのではないかと思います。

そんなヨハネにとってイエスの復活は、どんな意義をもったのでしょうか。恐らく、それは何かの宗教的なことや神学的なことよりも、もう絶対に会うことの出来ないと思われた一番親しい人、自分の命よりも大切な友との再会が可能になったということだったのではないかと思います。復活されたイエスと出会ったヨハネはどんなに喜んだことでしょうか。

そして、それよりも素晴らしいことがありました。普段はどんなに深い友情であっても、どんなに美しい愛であっても、それには必ず終わりがあります。しかし、復活されたキリストはもう一度死ぬことがありませんので、いつまでもヨハネと共にいることが出来ます。それはもう何も、死さえもイエスと再会したヨハネを、イエスから引き離すことが出来ないということになるわけです。愛する人にとってそれ以上に素晴らしいこと、それ以上に喜ばしいことがあるのでしょうか。

イエスを信じるとは、イエスを愛することであって、イエスと永遠の絆で結ばれることなのです。イエスを信じている人は、ヨハネや数え切れないほど多くのキリスト者と共に、聖パウロの次の言葉を述べることができると思います。すなわち、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)これこそ永遠の命であり、最高の幸福と喜びなのです。

 

 
メッセージ - C年 四旬節

 

第一朗読: イザヤ50,4-7

第一朗読の言葉は、イザヤの二番目の主の僕の賛歌から引用した文です。この言葉で最も大切なメッセージは、主の僕への迫害に関する部分です。主の僕は唯一の神の言葉を聞き、唯一の神に教えられた通りに話し、疲れた者を言葉で励まします。しかし隣人に認められず、暴力や強い批判などを受けます。それは、いつ、どこであっても変わらない、主の僕の人生です。イザヤの時代のみならず、イエスの時代であっても、現代であっても同じことです。今日のみ言葉の礼拝では、この言葉がイエスの受難について予言します。

 

第二朗読: フィリピ2,6-11

イエスは唯一の神の僕です。なぜなら、イエスが唯一の神の救いの計画を完成したからです。イエスは唯一の神の御旨の通りに、罪の束縛や永遠の死から人間を解放しました。しかしそのために、イエスは自分の命を捧げなければなりませんでした。人間の救済はイエスの受難や復活によってなされた神の業です。この業についてパウロは具体的に説明し、この説明がキリスト教神学における一つの根本的な教えになりました。まず「キリストは、神の身分である」という表現は、イエス・キリストが永遠の神であることを表しています。つまり「イエスが神になった」という考え方は間違っているということです。次の、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」という部分は、イエス・キリストが神の身分でありながら人間になったということです。つまり、イエス・キリストは二つの身分(完全な神の身分と完全な人間の身分)を持っていたということです。その次の、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とは、ナザレのイエスが人間として唯一の神を信頼し、人間を救うために自分の命を捧げたことを示しています。また次の、「神はキリストを高く上げ」という部分は、人間に認められなかったイエスが神に認められて復活した後、天国まで高く上げられたことを表しています。次に「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とありますが、これはイエスが唯一の神から絶対的な権利を与えられ、全世界の支配者であり裁判官であり救い主である存在になったことを意味しています。最後の、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」という一節は、すべての人々がイエスを信じるということが望まれていることを表しています。

 

福音書:  ルカ22,14-23,56

今日の福音書はイエスの受難に関する部分です。聖ルカはイエスの受難について次の大切な教えを示しています。すなわち、イエスの最後の晩餐がキリスト教の最初のミサになったこと(ルカ22、14-23)、ペトロがイエスの弟子たちの頭になるということ(ルカ22、24-38)、オリーブ山で行われたイエスの弟子たちの信仰の試験(ルカ22、39-62)、イエスの裁判(ルカ22,63-23、25)、十字架上でのイエスの死(ルカ23、26-56)です。ルカによるイエスの受難は、イエスとその周りの人々との様々な人間関係に特に注意が向けられています。登場する一人一人が、イエスとその受難に向けて異なる態度を取っています。

 
メッセージ - C年 四旬節

ルカ13,1-9

 

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」ルカ 13:3

 

正しく生きる人であっても、正しくない生き方をしている人であっても、おそらく、世の終わりまで他人の悪い行いやいろいろな事故によって様々な害を受けることがあるでしょう。つまり、私たちは、いくら気をつけても、どんなことをしても、そのような苦しみを完全に避けることができないということです。

けれども、そのような苦しみを避けることができなくても、私たちは出遭う悪や苦しみによって滅ぼされること、また、命と最高の幸福の源である神から切り捨てられるというような究極的な苦しみと同時に絶対的な悪を避けることができます。そのために必要なのは、悔い改めなのです。

悔い改めるということは、メタノイアをすること、つまり自分の考え方や価値観を正すということなのです。正しい価値観を持つということは、悪を悪として、自分に害を与えるものを害を与えるものとして認め、善を善として、自分を生かすものを自分を生かすものとして認めることなのです。

それは、簡単なことに見えるかも知れませんが、実際には難しいことなのです。なぜなら、私たちは互いに矛盾している情報を与えられていますし、多くの場合は善や幸福を楽しみや快楽と間違って、物事の表面的な魅力や偽りの価値によって騙されるため、なかなか正しい判断ができないからです。

私たちは、善を悪から見分け、自分を生かすものを、自分に害を与えるものや自分を死なせるものから見分けるようになって、正しく考え、正しい判断をしたいならば、私たちを創造してくださったゆえに、誰よりも私たちのことを知っておられる方、しかも、私たちを愛してくださり、私たちのために善だけを求めておられる方の言葉に耳を傾け、この言葉に従う必要があるのです。

 
メッセージ - C年 四旬節

 

第一朗読: 創世記15,2-12.17-18

唯一の神はアブラハムと契約した。この契約には二つの要点があった。一つはアブラハムの子孫に関するもので、もう一つはアブラハムの子孫に与えられる約束の地に関するものである。約束したときには、アブラハムはまだ妻サライとの間に息子が生まれていなかったし、まだ自分の土地も持っていなかった。アブラムは年老いており、自分の力では信じられなかったが、神の言葉によって信頼した。その時代の習慣として約束のしるしが必要だったので、アブラハムは唯一の神にいけにえを捧げた。そのおかげで約束は果たされた。約束の一つ目は短期間のうちに完成されたが、契約の二つ目は完成されるまでに何百年もかかった。

 

第二朗読:フィリピ3,17-4,1

パウロの宣教活動によって、フィリピの人々の中でキリスト者になった者があったが、彼らはキリスト教ではない社会の中に存在して様々な迫害を受けた。その時あるキリスト者はキリスト者らしい習慣に従うかわりに、キリスト者ではない人々の習慣に合わせて生活したので、パウロはその信者たちにキリスト者としての生活について説明した。まず、キリスト者の本国がこの世ではなく天国であると伝えた。それは、この世界のことよりキリストの言葉に集中しなければならないということである。キリスト者はこの世を旅する人として生活しなければならない。つまり、目指すのはこの世界のことではなく宗教的なことである筈だ。この宗教的なことの中で最も大切なのは、イエスの再臨である。その時、キリスト者たちは迫害から救われるだけではなく、イエスと一緒に天国に戻ることができる。キリスト者の本国が天国だからである。しかし、それはイエスの約束である。この約束が完成されるまで、キリスト者らしく生活しながらイエスの言葉を信頼していなければならない。

 

福音書:ルカ9,28-36

イエスは山で祈っていうちに、いつしかモーセとエリヤと語り合っていた。モーセとエリヤはユダヤ教の歴史の中で最も大切な指導者であった。モーセは唯一の神の律法を民衆に伝えた。つまり、モーセというのは律法である。エリヤは唯一の神の宗教が迫害される時に、事実信仰と宗教を守るために予言者として活動した。したがって、エリヤというのは予言者たちの代表である。この三人、モーセ、エリヤとイエスはイエスの受難について話していた。そのことしかこの話の内容はわからない。しかし、この話の内容よりもっと大切なことは、唯一の神の証である。「これはわたしの子、選ばれた者。かれに聞け」という証は三つのことを表している。まず、唯一の神がイエスを自分の子と呼んでいること。次に、イエスが人間として神に選ばれた者であり、神の救いの計画を完成する者であること。最後に、唯一の神を信じている人々がイエスの言葉に従わなければならないことである。この三つのことを信じて、この教え通りに生活するキリスト者たちが、やがてイエスと一緒に本国に入る。

 
メッセージ - C年 四旬節

 

テーマ:「あなたは神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4,8)

四旬節の第1主日に当たって教会は、「イエス、荒れ野で悪魔から誘惑を受ける」という福音箇所が朗読されます。この福音の中では、次のようなことが私たちを驚かせます。イエス様が神の子であるにもかかわらず誘惑を受けたということや、人となった神自身を誘惑する強引な悪魔のあつかましさなどです。もう一つの驚きは、悪魔が悪いことをするように唆すのではなく、聖書に書かれた神様の御言葉を用いて、ズル賢い方法でキリストを誘惑するということです。人間に過ぎない私たちはなおさらではないでしょうか。誘惑を受けて負けてしまう私たちは大きな警戒心をもって気を付けなければなりません。

イエス・キリストは、三つの誘惑を退きました。その第一は、「神の子なら、この石に、パンになるように命じたらどうだ。」という誘惑です。荒れ野で40日間祈りと断食してきたイエス様が空腹を覚えていたので、キリストを愛する人もきっと、体の健康を心配して、イエス様に御馳走を食べさせたい気持ちがあることでしょう。別の福音箇所にあるように、空腹を感じた群衆にキリストは、五つのパンを取って、それを増加して5千人を養った奇跡を行いました。同じように、石がパンになるような奇跡それ自体が何も悪くありません。問題は、誰の意志に従がって奇跡を行うかということです。神様の御旨であるならば、それは、偉大な救いの業になります。しかし、悪魔の薦めであるから神様の御心から離れて、死をもたらす悪に近づくことになります。したがって、悪魔が神の言葉を語ろうとも、キリストはその言葉に従わず、誘惑に負けない模範を私たちに示してくださいました。

人祖アダムとエヴァが悪魔の誘惑に負けた罪は、全人類の罪の象徴となりました。悪魔は二人に、神様のようになるという素晴らしいことを薦めました。アダムとエヴァは悪魔の言うことを聞いたから、既に神様の似姿に造られていることを忘れて、神様から離れて神様のようになることに挑戦しました。神様に関係なく栄光を望むことは、人類の悪であり、罪深さであり、永遠の命の源である神様から離れて行くので、人間に死が訪れました。私たちを含めて、いつの時代の人も、神様無しにして自分たちの人生を計画するなら、悪魔の誘惑に負けて罪を犯したりします。そして、神様の怒りを恐れて、親密な愛の関係をますます作り難くなります。

キリストは、人間として私たちに悪魔の誘惑に打ち勝つ模範を示してくださいました。本日の福音のキリストは、洗礼の時に受けた聖霊に満たされたから悪魔の誘惑を退ける力が充分ありました。砂漠の中にいても、「神の霊」が充分だったから、悪魔からのパンもこの世の富も、どんな栄光や支配も必要としませんでした。私たちも、心の中で悪のために隙間もないように、祈りと秘跡を通して自分たちの心も人生のすべての次元も聖霊によって満たされるように呼ばれています。そして、キリストが死に至るまで神様の御旨を探し求めて御父に従順であったように、私たちも神様の御旨を行うことが自分たちの人生の目標と最大の喜びにする必要があります。誘惑を退けるためにキリストが悪魔に返事した御言葉は、私たちにも誘惑に打ち勝つ確実な武器であると思います。

「あなたは神である主を拝み、ただ主に仕えよ」