聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
序.
この講話は、「教会のカテキズム」の第一編「信仰宣言」の終りの部分をテーマにし、『体の復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。』の信仰宣言の一節を解釈します。いわゆる、信仰宣言は私たち人類の救いが体の復活と永遠の命であることを目的とします。
1.体の復活と永遠の命
「(イエスは言われた。)『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」(ヨハネによる福音6章37-40節)
以上の聖書箇所の中で、キリストは、御自分の使命を紹介致します。即ち、すべての人を終りの日に復活させ、永遠の命をお与えになるという御父の御心を行うことです。ただし、キリストが一人ひとりの自由意志に反することをせず、永遠の命をお与えになる条件は、キリストのところに来て、それを望むことになります。
神様は、世の初めから愛を込めてお造りになった人間の死を望んでおられません。創世記によりますと、神様の御計画の中では、「自然の命」を持つ人間の体が土から造られたが、永遠の命を頂くために神様の息吹(不滅の霊魂)を受けたというのです。永遠に生きるために、人間は神様の愛に応えて神様との交わりの中で聖霊に満たされることが必要とされています。
神様が御手の中で創造された人間の完全な体のことを、ギリシア語で、「PLASMA(プラズマ)」と言います。ところで、罪によって神様との交わりを断ち切った人間の本性は傷を受け、自然の命を持つ体が死すべきものとなりました。罪深い人間の腐敗する「肉体」のことを、ギリシア語で、「SARX(サルクス)と言い、ラテン語で、「CARO(カロ)」と言う用語を用いたりします。
神様は、キリストの内に世を救うために人となり、聖母マリアから御生れになりました。この神秘は、「受肉(INCARNATIO)」と言います。この用語は、神の子、イエス・キリストが人間の罪深い本性を受けられたということを意味します。イエス様が人類の罪を自分の身に負って、十字架上の死に至るまで神様への従順によって罪に打ち勝ったので、人間の死ぬ原因を無くしました。その結果として、キリストは最初の人間として御復活なさったのです。
キリストが御自分の体をもって真の人間として御復活し、自分の体に死因となる傷痕(手足と脇腹の傷痕)をアイデンティティとして残し、弟子たちにお見せになりました。即ち、地上に生きた時の体を持っておられることを証明なさったのです。しかし、復活の体は地上の次元を超える栄光に満ちた「霊の体」になり、同じ人生に戻られたわけではありません。したがって、私たちも地上の人生を終えて肉体が死に、いつか復活の恵みによって栄光の姿に変えられて永遠に生きることができることを信じます。
御父の御心は、神の子キリストの受肉と過越(死と復活)の神秘によって、私たちが自分たちの人生の中で復活したキリストのもとに来て永遠の命を頂くことです。それは私たちが御心を行うかどうかということによって実現されるのです。犯した罪のために人間の体が一度死んだとしても、神様に救いを求める人は、復活の命を救いの恵みとして神様から頂くことができます。使徒パウロは、コリント信徒にこのことを信じるために次の言葉を用いて教えています。
「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
(コリント信徒への第一手紙15 章16-20節)
2.私たちの復活
「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。(コリント信徒への第一手紙15章35-49節)
キリストの教えの中で、「神の国が種に似ている」と例えて何度も教えられたことをモチーブにして、使徒パウロは、以上のコリント信徒への手紙の中で、「体の復活」の信仰を説明しています。即ち、地上の命を種に、復活の命を、その種から生え出でる新しい命に比べます。そして、人間が罪に陥って死すべき者になったことのために、キリストの御復活によって神様の愛と命の偉大さ、罪と死に対する勝利は現れました。このようにして人間の死は、神様の栄光を表すきっかけとなりました。
私たちは、罪のために一度死ななければなりません。人間の死とは、不滅の霊魂が自然の体が離れることです。人間が復活の時に地上の生活において、「善を行った者は、復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(ヨハネによる福音5章29節)と使徒ヨハネは教えます。地上の生活の中で、私たちは、神様との親密の関係を作り上げて行くように招かれています。そうすると死ぬ時に、義人の霊魂は神様の御元に昇り、終りの日に、天に属する者として神の命に満たされた自分の体を頂くことになります。使徒パウロはこれを「霊の体」と言います。義人にとって死は滅びではなく、イエス・キリストによって永遠の命に通ずる門となりました。使徒パウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピの信徒への手紙1章21節)と告白します。
しかし、地上の生活においてキリストの救いの恵みと神御自身を否定した者は、復活して「霊の体」を受けることなく、永遠の罰を受けることになると、聖書の中で教えられています。
3.キリストは「復活であり、命である」(ヨハネ11章25節)こと
あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
(コロサイ信徒への手紙2章11-14節、3章1節)
地上において、信仰生活とは、復活の恵みを確かなものにするために救いの先取りを生きることです。洗礼を受けることによって、信者はキリストの死と復活に与ると言います。すなわち、回心することによって自我を捨ててキリストの死に与ります。そして洗礼の水の注ぎという典礼の表現を用いて、神様は御自分の霊を注いで永遠の命の賜物をお与えになり、信者に成った人に「神の子ども」の資格をお与えになります。
ところで、地上に生きる限り、人が欲望に負けて罪に堕いることもあるから、キリストは、洗礼に限ることなく、御自分の存在を七つの秘跡の内に秘められ、信者が生涯にわたって自分の内に永遠の命を育むように招いてくださいます。その中で、最後の晩餐の時にキリストは、御自分の死と復活の神秘をパンの秘跡(御聖体)の内に秘められました。こうして、信者は秘跡を受ける度にこの世の次元を超え、キリストの死と復活に与ります。また、キリスト自身がその人の内に復活することになります。この秘儀を受け入れるためには、キリストは、御自分の名誉と命をかけて、前もって次のように教えてくださいます。
「(イエスは言われた。)『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」(ヨハネによる福音 6 章51-58節)
4.私審判
「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」(ルカによる福音23章39-43節)
地上の人生とは、キリストが成し遂げられた救いを受け入れることも、拒否することもできる期間です。死ぬ時に、救いは、個人が御心に適って人生を完成したかどうかということによって決まります。自分を神様に委ねた人は、キリストのように愛を実行して生きるから、救いの恵みを受けることでしょう。ところで、天国は自分の力によって得るものではなく、神様の恵みであることを忘れてはいけません。死がいつ訪れるか、私たちは分からないので、生涯にわたってどんな時にもこの恵みに相応しい者になるように努めなければなりません。しかし、神様の恵みに応答するタイミングは、地上で働く悪魔の誘惑によって大きく変動し、ある人は一生かかることもあります。
以上に引用されている福音箇所の中で、生涯、御心に従わなかった二人の犯罪人が十字架につけられたキリストと共に死ぬ間際にいることは紹介されています。悔い改めて自分の人生をキリストに委ねる犯罪人の一人をキリストは裁いて、本人の望み通りの天国の救いという審判をくださいました。しかし、キリストを否定したもう一人の犯罪人についてイエス様は、沈黙します。キリストは、罪人の滅びを望んでおられるのではなく、救いに来られたからです。その犯罪人は、イエス・キリストの救いを否定するという私審判を自分に下したのです。その結果は、永遠の罰となります。(ただし、福音のケースについては、悔い改める犯罪人のたしなめによって反省があったかどうかについて書かれていないために、キリストを否定した犯罪人の滅びを、私たちは断言してはいけないのです。)
神様に忠実である人の死とは、キリスト自身を迎えることです。それは、同時に真の命を迎える天国の状態を決める時となります。死ぬ時に神様を拒否した悪人のために永遠の罰が決められています。それは地獄の状態です。地上において不完全でありながら神様とキリストの救いを求めた人が煉獄で清められて天国に入ることができます。
5.最後の審判
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネによる福音5 章24-30節)
世の終わりに、最後の審判があると啓示されています。最後の審判は、神様の義を揺るぎないものとして教え、神様の愛は死より強く、永遠の命を無償に与えられることを宣言する最後の時であると言います。それを信じることは、私たちが地上の生活において神様を畏れ敬い、悪を退き、無限の愛に生きる力を得るためです。
義人についてキリストは最後の審判の時に次のように言われます。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』(マタイによる福音25章34節)と。また、悪人について、キリストは最後の審判の時に言われます。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』(マタイによる福音25章41節)と。
5.新しい天と地
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」(ヨハネの黙示録 21 章1-6節)
神様は時間・空間を超える永遠の存在であるが、時間的に考えると、神様は、「始めであり、終りである」と以上の聖書箇所で表現されています。それで、使徒ヨハネは、特別の恵みによって世の終わりにある新しい天と新しい地の様子を前もって見ることができました。救いの完成は、神様と人間は完全な愛の内に一つに結ばれて共に生き、喜びと神様の栄光に永遠に与る状態であると言います。
6.信仰宣言の終りの「アーメン」
「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」
(コリントの信徒への手紙二、1章18‐20節)
信仰宣言は、「アーメン」という言葉で終わります。ヘブライ語の「アーメン」は、「信じる」と同じような意味を持ち、堅固さ、信頼性、忠実という意味合いも含まれています。信仰宣言は、一人称の「信じます」(Credo=私は信じます。)という言葉から始まります。それは、私たちの一人ひとりが啓示された信仰の内容を受け入れて、これに応えて信仰生活を送ると宣言する言葉です。「アーメン」は、神様、又キリストの業に中心を置きます。信仰そのものは、神様の恵みによるものだからです。イザヤの預言は、真実の神様を、「アーメンである方」(イザヤの預言65章16節)と言います。神様は啓示した信仰の内容は、真実であるということを表現します。信仰宣言を唱えている弱い私たちは、神様が真実な方だから信頼をおき、告白した信仰の内容が神様の愛と力によって自分の内に実現されると信じて祈ります。
結び
これを持ちまして、「カトリック教会のカテキズム」の第1編、「信仰宣言」の講座は完了となります。この第1編の中では、父と子と聖霊である至聖なる三位一体の神様について信仰の内容が紹介されました。
ところで、信仰は神様と交わりなのです。私たちは、人となられたキリストの内に神様と交わることができるために、「カトリック教会のカテキズム」の第2編は、「キリスト教の神秘を祝う」というテーマを紹介します。キリストは、秘跡の内に自分自身を残してくださったので、キリストの内に神体験を祝う典礼について次回より、この講座で紹介することになります。
メッセージ - C年 年間 |
今日の福音によれば、大勢の群衆がイエスについて来ましたが、本当の意味でイエスについてきている、イエスの弟子になろうとしている人は少なかったようです。そこでイエスは、自分についてきて本当の弟子になりたいなら、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹などの家族、さらには自分の命までも捨てること、そして自分の十字架を背負ってついてくることという、二つのことを彼らに求められました。
自分の家族を愛することは当たり前のことです。しかし、自分の家族「だけ」を愛することはイエスの弟子にはふさわしくありません。自分の命を惜しいと思わない人はいません。しかし、自分の命「だけ」が大切だと思う人はイエスの弟子にはふさわしくありません。自分の近くにいる人だけを抱え込むとき、自分のものだけを抱え込むとき、それ以外のものを「背負う」余裕はありません。自分に属するものだからという理由で愛するとき、他のものを愛することを捨てています。
家族であれ、命であれ、自分のものだけに執着して他人のことはどうでもかまわない、自分のものが大丈夫ならそれでいい、という生き方を否定すること、その自己中心的な価値観を捨てること、憎むことこそ、イエスが求められていることです。自分の家族に対する愛を、自分の命を大切にする気持ちを、ほんの少しだけ外側に広げてやることは私たちにもできることです。イエスご自身も、自分の周りに集まってきた人、自分の話を聞いて神のみ旨を行う人のことを「わたしの母、私の兄弟、姉妹」と呼んで愛されました。第二朗読でも同じことが語られています。オネシモはフィレモンの奴隷でしたが、しかしパウロはフィレモンに呼びかけて、彼を奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れるようにと呼びかけています。
教会は血のつながらないものが集まっている共同体ですが、私たちがまずその中で互いに助け合い、愛し合って生きるなら、それこそこのことばの証しになります。そしてその愛を更に世界へと広げる第一歩となります。それはたやすいことではなく、時にはまさに十字架を背負うようなつらいことかもしれません。それでも私たちがしがみついているものを捨てて、「腰をすえて」自分の弟子になりなさい、そうイエスは私たちに語りかけています。
メッセージ - C年 年間 |
(ルカ14,7-14)
「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」ルカ14,13-14
イエスは、宴会やパーティの催し方ではなく、神の国について教えています。イエスが神の国について教えてくだったのは、神の国に入るように招かれている私たちの心の中で、神の国に入りたいという望みを起こすため、また、神の国へと導く道を教えるためだったのです。
イエスは、ご自分が教えてくださることを必ず実践しておられる方です。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を」招くことについての教えも、例外ではありません。イエス・キリストご自身が催してくださった宴会というのは、最後の晩餐と同時に、過ぎ越しの神秘、つまり、キリストの十字架上の死と復活の再現にもなっているミサ聖祭、感謝の祭儀なのです。ミサ聖祭に招かれている人たちは、自分の力だけによって、絶対に幸せになることのできない人、神の恵みを受けても、何のお返しもできない人々ばかりなのです。
ミサの中でイエスは、私たちのために二つの食卓を準備しておられます。一つは、御言葉の食卓です。もう一つは、イエスご自身の体の食卓です。したがって、ミサの中で私たちは、神の言葉とイエスご自身の体、つまり、どんな美味しい食べ物や飲み物に、勝る「食物」によって養われていますし、目に見える兄弟姉妹だけではなく、イエスご自身との、イエスによって三位一体の神との、つまり、どんなに楽しい仲間にも勝る方々との、交わりの恵みを与えられているのです。このようなミサは、神の小羊の婚宴に譬えられている、神の国の先取りなのです。なぜなら、神の国とは、最高の喜びと平和、つまり至福に満たされて、三位一体の神と救われたすべての人との、愛の交わりに生きることだからなのです。したがって、開かれた心を持ってミサに参加することによって、私たちはある程度まで、神の国の現状を体験することも、神の国の生き方を身に着けることもできるのです。
私たちは、意識的にミサに参加し、神の愛について学び、それを実際に体験し、実感することによって、仲間のキリスト者やイエス・キリストとの愛の交わりを深めることができますように、そして、日常生活において、イエス・キリストと共に、また、キリストのように生きること、つまり、自分の楽しみや他の利益ではなく、無償の愛を基準にして生きることによって、神の国へ向かって歩みながら、多くの人々を神の国へと導くことができますように祈りましょう。
*
全能永遠の神よ、
あなたを愛する心をお与えください。
復活の信仰に生きるわたしたちが、
人々の中で、
絶えずそのあかしを立てることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
メッセージ - C年 年間 |
テーマ: 「わたしには受けねばならない洗礼がある。」(ルカ12章50節)
この主日ミサの福音(ルカ12章49~53節)の中では、私たちを驚かせるキリストの言葉があります。それは、「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。」とか、「地上に平和をもたらため(...)ではなく、むしろ分裂だ。」とか、家族の人が互いに対立して分かれることについてなどのキリストの言葉です。聖書全体から、私たちは、キリストが愛し合うことを教えて平和の君であること、罪、死やあらゆる分裂から私たちを救う方、御自分の内にすべてを一つに集めるために来られた方であることが分かります。では、何故、キリストは、弟子たちにこれと矛盾する言葉を語られたのだろうか、と私たちに強く考えさせるものがあります。
福音が伝えるキリストの語られる「火」と「分裂」の言葉は、私たちがキリストの宣べ伝えられた福音とそのなさった救いの業に応えて、自分たちの人生を変えたのだろうか、という力強く問い掛けるものがあると思います。「この世の平和」は、人間の自我、自己中心、欲望のために度々、立て前に過ぎず、ガマン、妬み、劣等感、憎しみなどに満ちていることに気付く必要があります。イエス様は、このような平和を否定して、最後の晩餐の時に弟子たち(現在に至るまで御ミサに与る私たちに)、世が与える平和ではなく、世が与えることができない真の「神の平和」を私たちに与えると約束してくださいました。
「火」は、金を精錬するものですから、昔から「神の裁き」を表現します。日常の生活の中で、神様からの善を、つまらないもの(罪深さ)から“精錬される”という神様の救いの働きは、火で例えられています。ここでキリストは、この世が地上の価値のために神様の愛とキリストの救いを拒んだりすることを指摘します。キリストは家庭に平和を望み、家族の分裂をけして望んでおられません。ところで、この福音の中で、自分の家族がキリストとの一致を妨げるようなことであるならば、分裂はやむを得ないと言われています。なぜなら、家族のメンバーではなく、キリストのみは、私たちの救い主、私たちの神だからです。
福音の中でキリストが用いる「火」の象徴は、もう一つの大きな意味があります。それは、「神様の愛の火」です。イエス・キリストは、救いの完成を切にお望みになり、御自分の死と復活によって世の救いを成し遂げ、天にお昇りになって御父の元からこの世に愛と永遠の命の賜物である聖霊を遣し、人の心を燃え立たせることを望んでおられます。それは、聖霊降臨の時に実現し、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、(弟子の)一人ひとりの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされた。」(使徒言行録2章3-4節)ということを弟子たちが体験したことです。そして、地上の教会(神の国)が誕生し、多くの人々は聖霊の満たしを受けました。
イエス・キリストは、今日の福音の中で、私たちに聖霊を遣わすため、先に「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言っておられます。以前、ヨルダン川でキリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、キリストについて、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3章16b節)と証ししました。いわゆる、キリストが語られるもう一つの洗礼は、御自分の死と復活です。洗礼の意味どおりに、水に人間の古い自分が沈み、水から立ちあがった回心する人間が新しい人生を送ると同じように、キリストは死に葬られ、死者の内から復活して、新しい命をお定めになったので、洗礼の恵みを完成してくださいました。キリストの御受難を目撃した人は、キリストの予告通りに分裂し、ある者は、「十字架につけろう」と叫び、他の者は十字架の死に至るまで従がってご復活に望みをかけました。十字架の死に至るまでのキリストの愛が地上に燃えることを、この福音の中で強く望まれています。それは、キリストのような無償、無条件、無限の神様の愛の炎です。
キリスト者であるならば、私たちは教会で洗礼を受けたことでしょう。ところで、その式が意味するキリスト者らしい人生を、私たちは送っているでしょうか。全生涯は、聖霊に満たされて愛の火に燃えるように、これからも私たちにも、イエス様のような「受けねばならない洗礼がある」と思います。
メッセージ - C年 年間 |
「グレゴリオ」の名で呼ばれる教会の聖人は何人もいますが、この名前の由来となっている言葉は、ギリシャ語の「グレーゴレオー」です。この動詞が今日の福音の中で使われていて、「目を覚ましている」と訳されています。この言葉の意味は「目を覚ましている」と言っても、単に「眠っていない」「目を開けている」ということではなくて、「用心深くいること」「油断せずにいること」「警戒を怠らないこと」です。
いつ来るか分からない主人を待ち構えて、目を覚ましてぬかりなく備えているしもべのようになるように、また、泥棒がいつやってきてもそれを防ぐことができる家の主人のようになるように、私たちは招かれています。たとえ真夜中であっても、予想しない日であっても関係ありません。仕事にはフルタイムもパートタイムもありますし、フルタイムでも休みの時間、休みの日はあります。けれども、私たちがキリスト者であること、キリスト者として生きることに休みはありません。キリスト者であるということは、日曜日にミサのために教会に行くときだけではなく、24時間、365日、キリスト者として「目を覚まして」「怠ることなく」キリストに従うことです。
毎日の生活の中で、私たちは予想しないとき、思いがけないときに主イエス・キリストと出会います。いつも目を覚ましている、忠実なしもべとしてその時を迎えられますように。