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日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月19日~26日で、そのテーマは「創造主への賛美」です。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF/Word形式のデータも同ページからダウンロードできます。

この聖書週間に、例えば以下のような聖書箇所を毎日一つずつでも読んで味わい、「創造主への賛美」のテーマを心にとめながら黙想し、祈りに反映させてみてはいかがでしょうか。


創世記 1:1-2:3

神はお造りになったすべてのものをご覧になって、良いものとされ、祝福されました。その中でも、人は特別に神ご自身にかたどられ、神ご自身に似せて造られた尊い存在です。

創世記 2:4-25

人の内には、神の息が息づいています。また、人は対等な者として、お互いに助け合うように造られました。神は人をただ造っただけではなく、生きるに必要なものをも造り、使命と掟も与え、「人間らしく生きる」ようにと配慮されています。

ヨブ 10:1-22

私たちは喜びや賛美だけで毎日を過ごすことはできないでしょう。ヨブは苦難のあまり、自分が神に造られたこと、命を与えられたことまで呪います。しかし、それでもヨブは神への信仰を持ち続け、神に呼びかけることを止めません。

詩編 104

自然界に目を向けるとき、私たちはそこに神の創造の業を見出すことができます。被造物のすばらしさは、神のすばらしさを表しています。

イザヤ 40:27-31 41:17-20

造り主である神は、ただ私たちを造られただけでなく、絶え間なく支え、必要な恵みと力を与え続けて下さる方です。

マルコ 10:1-12

人を造られた神は、人が個々別々に孤立するのでなく、夫婦・家族・友人や様々な共同体の中で生きるようにされ、その関係そのものを祝福して下さっています。私たちはそれを神からのものとして大切にしているでしょうか。

ヨハネ 1:1-18

キリスト者としての私たちの信仰は、すべてを「ことば」によって造られた方が、その「ことば」すなわち御子イエス・キリストを私たちのもとに遣わされた、ということを宣言します。それは私たちにとって「恵みの上に、更に恵みを受けた」出来事です。

使徒言行録 14:8-18

自分自身も、他の誰も、たとえどんなに素晴らしい人物であっても、すべてを造られた神と並ぶ者ではあり得ません。神のすばらしさ、偉大さをたたえるとき、私たちは同時に自分の弱さを受け入れ、謙虚さを持ち、感謝します。

ローマ 1:18-23

もし本当に私たちが被造物を通して神の働きに気づき、神を知るなら、それにふさわしい感謝と生き方につながるはずです。

2コリント 5:11-21

私たちは神によって造られたものですが、キリストと結ばれて、新たな創造にあずかるものとなります。キリストと共に死に、キリストと共に生きるとき、私たちはまったく新しい命を生きることになります。

コロサイ 1:13-20

この世界も私たちも、造られたものとして不完全さがあり、罪があり、弱さがあり、造り主である神にふさわしいものではありません。しかし、神は万物を御子において造り、万物を御子によってご自分と和解させられました。

1テモテ 4:1-5

私たちが避けたり、嫌ったり、退けたりしている物事や人は、本当に悪いものではないかもしれません。神がお造りになった良いものであるのに、自分の勝手な考えで否定しているものがないでしょうか。

 
メッセージ - A年 年間

イエスは律法学者やファリサイ派の人々について「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」と語っています。そこには「言うだけで実行しない」という、彼らの言葉と行いに乖離があることへの批判がありますが、それは第二朗読でパウロがテサロニケの教会に向けて語ったことに通じます。テサロニケの人々は、パウロたちが語る言葉を聞いて「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と言われています。神の言葉を神の言葉として語るとき、それを語る者も聞く者も、神の前に謙虚になります。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、神の言葉を語りながら、それを自分の権威の裏付けのように用いました。まさに神の言葉を人の言葉のように、あるいは自分の言葉のように語り、先生と呼ばれ、仕えるよりも偉くなることを望み、へりくだらずに高ぶりました。第一朗読のマラキの預言でも、神とイスラエルの共同体の仲介者である祭司たちに、主の名に栄光を帰することが祝福につながる道であると言われています。

私たちが神の言葉を語るとき、そこにいるのは神でしょうか、それとも私たち自身でしょうか。私たちは神の言葉に仕えているでしょうか。人に仕えさせてはいないでしょうか。イエスに倣って、キリスト者は現代社会のチャレンジを「心理に基づいて神の道を教える」チャンスにしなければなりません。

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メッセージ - A年 年間

神を愛し、そして隣人を自分のように愛するということは最も重要な掟です。しかも、両 者は切り離せないものです。ユダヤ人たちも、キリスト者たちもこの掟を知っているはず です。キリスト者としてはどうこの最大な掟を生活に持ち込むのか、また愛という掟の実 行の難しさという痛感や反省などについては別の機械にしてその代りにこの掟に対する偏 った二つの認識について考えてみたいのです。

一方ではかつて神の名に乗って掟、中で安息日を守るために、最も身近で困っている人を 拒否するファリサイ派や律法専門家の姿がしばしばでした。イエス・キリストは当時の指 導者たちの偽善な生き方に強く注意していました。ルカ福音書の中でいやしを必要とする 右手が萎えていた人の前でイエスは律法学者たちにはっきりその真実を打ち明けました 。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行 うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(ルカ6,9)と。他のところでファリサイ派た ちは『父と母を敬え』という掟に対して次のように論理しました。「もし、だれかが父ま たは母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え 物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と(マル コ7,11-12)。つまり、彼らの言い訳では、神を愛することで親孝行をもう既に済ませると いうわけでした。イエスは彼らの心を常に見抜かれました。神を愛するという理由で隣人 を無視するという傾向が他の聖書箇所でもたくさん見られます。よく知られる良きサマリ ア人の譬えもその一つです。何らかの重要な任務があったとして半殺しの者を後にして去 って行った祭司やレビ人のことは決して理解し難いです。イエスはそういった偏った心に 対して命をかけても譲りませんでした。この話は過去のものだけではなく、今日のキリス ト者のわたしたちも同じ傾きを抱いているかもしれません。神の愛を強調することでミサ や祈りなどを忠実に守っていながらも、日常生活ではどこかで言葉や行いにおいて最も身 近な兄弟姉妹のことを忘れてしまう可能性があります。

他方では、もしかつて神の名で人間のことを大切にしなかったのに対する正反対で、今日 の世界は人間の名を借りて神のことを無視している傾向が強くなる一方です。というのは 今日では、時には「自由」もしくは「人権」、「人間の尊厳」という名を借りて悪を行う 恐れがあります。当然的に「自由」や「人権」などは神の似姿で造られた人間の固有なも のです。決してカトリック教会はそれに反対する理由もないし、むしろそれらを鼓舞する わけです。しかし、今日では「人権」という理由で様々な犯罪のような決まりや規則が徐 々に現れてくるようです。恐れることに、神のことを否定するその表れは大変微妙でよく 注意しない限り分からないほどです。隣人を大切にすれば、宗教や教会などに参加しなく てもよいとか、教会に参加する時間を利用して家族や人々に施したほうがましです。さら に堕胎、性別選択、安楽死などなども基本の人権だともうたわれます。そういった選択は 本当に人間を大切しているでしょうか。それらの考えに賛同できない教会はたびたび非難 を受けています。神が存在する限り、人間は決して自由になれないという理論も少なくは ないでしょう。

もし定められた教会の規則を忠実に守るということで兄弟姉妹のことに関心をもっていな ければ、神を愛しているとは言い切れません。同様で人間のことに心をかけようとしても 、神のことを余計にしてしまえば、本当に隣人を愛するとも言えないでしょう。

真理の源である聖霊よ、識別の恵みを教会、そして世界に注いでください。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読 イザ45:1, 4-6

第二朗読 1テサ1:1-5b

福音朗読 マタ22:15-21

 

「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい」。イエスは、その一言で自分に罠を仕掛ける人々のチャレンジを真理の道を示すチャンスに変えました。ファリサイ派の人々がイエスに向けた問いは実に巧妙に仕込まれた罠です。イエスがもし税金を皇帝に収めるべきだと答えれば、それはローマの支配を認め、神以外のものを神とすることを宣言することと同じです。ユダヤ人にとっては大問題です。逆に、イエスが否定すれば、それはローマへの反逆行為となります。イエスを訴える口実になるのです。いずれの答えを口にしても、イエスを陥れることが出来ます。

しかし、ファリサイ派の人々の悪意に気づいているイエスは彼らに面と向かって、「偽善者たちよ」と呼びます。日常生活ではローマの硬貨を平気で使っているのに、納税問題になると一変して敬虔そうなふりをする彼らの偽善的な態度に、イエスは我慢できなかったことでしょう。実際彼らは何の抵抗もなく、神の子とされる皇帝の銘が刻まれている硬貨を平気に持ち歩きます。「硬貨を見せなさい」とイエスが言うと、彼らがそれをイエスに渡しました。「この肖像と銘は誰のものか」とイエスは尋ねました。「皇帝のもの」と彼らは答えると、イエスは「皇帝のものは皇帝に」と教えるのです。一応、納税の問題への回答はこれで充分です。

しかし、イエスは更に付け加えました、「神のものは神に返しなさい」。ファリサイ派の人々は、硬貨に刻まれたローマ皇帝の肖像(姿)を見ています。しかし、自分自身こそが「神の似姿」であることを忘れています。少なくともイエスを罠にかけようとした彼らの態度は神の似姿である人間のあるべき姿ではありません。イエスは「神のものは神に」と付け足すことによって、自分を陥れようとするファリサイ派の人々のチャレンジを、「心理に基づいて神の

道を教える」チャンスに変えたのです。人間には神の似姿が刻まれ、神の言葉がその心に刻まれているのです。税金を支払うことなど、日常的なことも果たさなければなりませんが、神の似姿としての人間の義務をも果たさなければなりません。

今日は「世界宣教の日」です。宣教、それは人々に「自分は神の似姿である」という福音(良い知らせ)を伝え、その真理を人々に証することです。イエスの所に来たあのファリサイ派の人々以上に、現代人はこの真理に気づかせる必要があるかもしれません。今、私たちが生きている世界は、戦争や対立で神の似姿である人間がお互いに憎み合い殺し合う世界です。人の命が簡単に消される世界です。人の価値が経済的利益で判断される世の中です。貧しさで植えている人が苦しんでいる世界です。

このような世界にあって、誰でも自分に「神の似姿」が刻まれていることを知り、自分が「神のもの」であることに気づくことが必要です。一人ひとりが「神に愛されたもの」であることに気づいた時に、第二朗読のパウロの言葉にあるように、「信仰によって働き」、「愛のために労苦し」、「希望を持って忍耐して」生きることが出来るのです。宣教の本質は正にここにあるのではないでしょうか。

イエスに倣って、キリスト者は現代社会のチャレンジを「心理に基づいて神の道を教える」チャンスにしなければなりません。

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メッセージ - A年 年間

今日の朗読は、結婚の宴会に喩えながら、来るべき神の国を描いています。それは、神様が限りない憐れみのうちに用意してくださるものです。しかも、よく気づいてみますと、元々の楽園での状態よりも遥かに優れたことを指していることが分かります。なぜなら、万物が創造された時と違って、実現された神の国ではイエス様が花婿として婚礼の主役を務めるからです。

もう一つ心を打たれることは、あらゆる人を誘おうとしている神様の心の寛大さです。神様がせっかく用意してくださったものは、無駄になることはありません。聖書では、もともと入ることにはなっていなかった人を「無理やりに入らせる」という言葉で表しています。そこで、やはり二つのことが重要です。一つは、誰でも神の国に招かれているということです。自分の素晴らしさや能力で得ることのできない恵みに他なりません。それと同時に、もう一つは、その招きに相応しくなるように何らかの努力をしなければならない、ということです。生き方を変えなくても神様が優しいからすべて与えてくれると思うなら、それは大間違いです。

時として誰が救われるだろうとか、キリストを知らない人はどうなるだろう、と考えたり聞かれたりします。今日の福音には答えが見出せるのではないでしょうか。イエス様の招きをはっきりと意識的に断った人でなければ、誰でも子羊の宴で席を用意されています。しかも、そこで食事にあずかるだけでなく、聖アウグスティヌスが解釈しているように、神の子・主イエスに給仕してもらえます。これ以上驚くべき神秘はありません。