メッセージ - A年 年間

我々はキリスト者として三位一体を信じています。それは最も正しいやり方だと思います。人間と唯一神の間の関係は、信仰から始まり信仰で終わるからです。アウグスティヌスの時代から、人間が唯一神について完全には理解できないと分かっていましたが、唯一神への信仰を守るために重要なことを聖書から学ぶことは、信仰によってしか出来ないと思います。聖書は人間の手で書かれた神の言葉ですから、神の言葉を読めば神について最大限のことを学ぶことが出来るでしょう。

今日の第一朗読の言葉は、唯一神について何を表しているでしょうか。

モーセは唯一神についてこう言いました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」。この言葉によれば、唯一神は憐れみ深い父であり、恵みに富む父であり、忍耐強い父であり、慈しみとまことの父です。つまり、唯一神は人間に対して優しい神です。

第二朗読の言葉は唯一神について何を表しているでしょうか。

パウロの言う、唯一神は三位一体であるとは、父と神の子と聖霊の交わりのことです。彼はこう言いました。「 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが」。そのおかげで我らは神が愛であり、イエスが恵みであり、聖霊が交わりであることを知りました。神の愛とは、人間に対する神の基本的な態度は人間を愛することだということです。イエスは恵みであるとは、イエスの死と復活のおかげで人間が希望のうちに救われた者となったということです。聖霊の交わりとは、神の霊によってのみ人々の間に真実の愛と真実の平和がおとずれる可能性があるということです。

今日の福音書の言葉は唯一神について何を表しているでしょうか。

ここでは福音者ヨハネにとっての神の愛とイエスの恵みについて具体的なことを学ぶことが出来ます。ヨハネはこう言いました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉に説明は必要ないと思います。必要なのは、この言葉を強く信じることです。

2017年6月11日

 
メッセージ - A年 復活節

聖書の中に見られる聖霊に関する記述は、神学的・教義的な聖霊についての教えというより、聖霊が私たちの間でどのような働きをしているかを生き生きと示している方が多いように感じられます。

第一朗読の使徒言行録では、言葉も、出身も、文化的背景も違う人々が神の言葉を聞く聖霊降臨の場面が描かれています。ここに見られる聖霊は、神の言葉を弟子たちに語らせ、また人々の耳と心を開き聞かせます。

第二朗読の第一コリント書によれば、聖霊はキリストにおいて私たちを一つに結びながら、一人一人に様々な賜物と務め・働きを与えて下さる神の霊です。聖霊に生かされて、私たちはそれぞれの場で、それぞれの生を生きながら、キリストにつながる一つの体として働きます。

そして福音朗読のヨハネ福音書では、イエスが、弟子たちを遣わすにあたって聖霊を与える、と語られています。ここで聖霊を受けるということが、イエスの息を受けることとして描かれています。家の戸に鍵をかけて閉じこもり、どんよりとした閉塞感の中で息を潜め心も閉じていた弟子たちの真ん中にイエスは現れ、ご自分の息を吹き込み、新しい風を吹かせ、暗く閉じていた彼らを開かれました。イエスの息が、命が、私たちの中で生き生きと息づいているとき、そこに聖霊が働いていると言うことができます。弟子たちに聖霊を与え遣わすときに「平和」が強調され、「罪のゆるし」が使命として与えられているように、聖霊を受けて、イエスの息を吸って生かされている私たちも、平和とゆるしのためにキリストの使者として送り出されています。

聖霊降臨の日の聖書朗読が私たちに問うているのは、聖霊についてどれだけ正しく知っているか、ではなく、聖霊を受けてどれだけイエスに従う者らしく生きるか、です。聖霊に吹かれ、主の命を受け、それぞれの場で生き生きと神の言葉をあかしすることができますように。

 
メッセージ - A年 復活節

朗読箇所:使11:1-11;エフェ1:17-23;マタ28:16-20

キリスト教を大学生に紹介する時に、イエスの誕生や公の宣教活動(教え)と十字架上の死についてはある程度理解してもらえます。しかし、イエスが行った奇跡やイエスの復活や昇天に対して『本当に起こったのか?』『化学的に、どのように説明できるのか?』といった疑問がいつも出てきます。現代人らしいこれらの率直な質問に答えに戸惑うことがたびたびあります。その時に気づかされることがあります。それは、これらの問いに何が正しい答えなのかということを考える以前に、先ず自分が信じるものは如何なるものか、自分の信仰があるかないかという根本的な問いに迫られるということに気づかされます。

イエスの昇天の場面に立ちあった弟子たちの中に「疑うものもいた」とマタイは記しています(マタ28:17)。福音書の中の弟子たちは、決して常に模範的な信仰を持っている訳ではありません。イエスと一緒にいながら、イエスの奇跡を目の前に起こっていても、それを理解できないので、イエスはたびたび弟子達の不信仰に落胆しました(マタ14:31; 15:16; cf. マル4:13; 6:51-52, 7:18)。その弟子たちにイエスは近寄ってきて、弟子たちを全世界への宣教のために派遣しました。つまり、イエスは信仰が足りない弟子たちをも含めて彼らを全世界に福音を告げる使命を与えたということです。

二千年たって、キリスト教が全世界に広がっていきます。それは、今日の福音箇所の最後、そしてマタイ福音書全体を締めくくるイエスの言葉にあるように、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」からです(マタ28:20)。マタイ福音書の初めに、戸惑っているヨセフに天使は、マリアから生まれた子はインマヌエル、「神は我々と共にいる」と呼ばれる、ということを告げました(マタ1:20-23)。イエスの昇天の前に、神はインマヌエル、共にいてくださる神であることを度惑っている弟子たちに再確認しました。全世界への宣教の保証は弟子たちの力ではなく、彼らと共にいて、彼らを通して働く神ご自身の力です。

ご昇天は、イエスが天の昇られたのでこの世からいなくなったということを意味するのではありません。教皇ベネディクト16世が指摘したように、主のご昇天によって「私たちも天に昇られることが出来るということです。私たちがイエスの所に行って、イエスの内に入ることが出来る」ということです。「私たちが《天国》と呼ぶものは、イエスご自身だからです。この信仰の神秘を他の人々に告げる内に、それを伝える自分の信仰が強められていくことができますように。


 
メッセージ - A年 復活節

今日の朗読を鍋に入れて、よく掻き混ぜて、その中から出てくるのは何でしょうか、何味でしょうか。その全体から読み取ることができるのは何でしょうか。復活節が続いているもので、その意味の理解を私たちは深めていきます。様々な聖書箇所は違う側面からそれに触れています。祝い続けている御復活の余韻と共に、少しずつ聖霊降臨の準備も始まっています。これらの朗読にも聖霊のことが一つのテーマになっています。

今日改めて思い知らされることの一つは、復活したイエスのことを世が知ることができないということです。一般世間では手を触れることしか経験できないと広く考えられています。そう考える人の知識は残念ながら限られてきます。ただ、それだけではなく、信者でも洗礼を受けているだけで自動的に主を十分に知っているということにはなりません。第一朗読が述べているように、教会の奉仕者の務めによって聖霊を受けることが必要です。

第二朗読は、希望の根拠である復活したイエスを知らない人々に対する態度に焦点を当てています。証明や説得するのではなく、静かに、かつ謙遜に送る生活によって私たちが持っている希望を解き明かすことができます。神を礼拝する重要なところの一つは、自分自身の心であるという記述も興味深いです。典礼の時など秘跡においても、もちろん、主に出会うことが出来ますが、そのような一時的な行事にとどまらず、日頃から自分の内面で神との交わりを持たないと意味がないのです。

最後に、福音に従って言えるのは、信者になって洗礼も受けて、さらに教会の仲介によって聖霊の賜物を受けて人々は、復活したイエスを知るためにはもう一つのことが問われる、ということです。すなわち、イエスと一致しなければイエスを知ることはできませんが、その一致する前提としてイエスの掟を持ち、イエスの要求していることを行うことが挙げられ、そのような人だけには、復活された主はご自分を現すことになるのです。


 
メッセージ - A年 復活節

第一朗読:使徒言行録6, 1-7


第一朗読の社会的、歴史的な背景には、紀元後一世紀のエルサレムに暮らす、イエスがメシヤであると信じている人々(初期キリスト教)の間の関係があった。信者の人数が増えてからというもの、イエスの弟子たちは自分自身で社会的な立場が弱いすべての信者達を世話することが出来なくなったので、初期キリスト教の組織の変革が行われた。弟子たちはすべての責任を負うのではなく、祈りや福音を述べ伝えること以外責任を持たないことになった。その変わり、この二つの義務以外の仕事を七人の執事に任せた。

この朗読の最も大切なメッセージは、弟子や司教や司祭などの第一の義務は祈りと福音を述べ伝えることであり、これ以上に大事な義務はないということである。

第二朗読:一ペトロ2, 4-9


この言葉はペトロがローマに暮らしている初期キリスト者たちに書いて送ったものである。異邦人の社会に存在するキリスト者たちが自信や勇気を持てるように、キリスト者自身について(1ペトロ1, 3-2.10)と彼らと異邦人の関係について教えた。選ばれた民、王の系統をひく祭司、聖なる国民、神のもの(つまり新イスラエル)として信者達はイエスの救いの業を広く伝えなければならない。イエスが救い主であるという福音を述べ伝えている信者達は、この世にキリスト教を設立しただけではなく、キリスト教の生きた石になる。

この朗読の重要なメッセージは、教会が建物や相識だけではなく生きている石(つまり信仰を持っている信者達)の集まりであるということである。第一朗読によれば、福音を述べ伝えることが使徒や司教や司祭の最も大切な義務であり、第二朗読によれば、信者達にとっても福音を述べ伝えることが最も大切な義務である。


福音書:ヨハネ14, 1-12


福音を述べ伝えるということの目的は、イエスを信じるようになるということだ。しかし、イエスを信じているということはどういうことか。ヨハネ141によれば、イエスはこういった。「神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」「神を信じなさい」とは、神が存在することを信じるというだけではなく、神を信頼することを意味する。同じように、「わたしをも信じなさい」という表現はイエスを信頼するということを意味する。イエスを信頼するということは、イエスを神の子と受け入れて、父である神を知っているということだけではなく、イエスを信じるすべての人々が天国に入れるようにイエスから必要な恵みを貰うと信じることである。だから、イエスは自分自身を「私は道であり、心理であり、命である」と呼ぶ。それはイエスが救い主であることを意味する。このことが理解出来た信者達は、救われるために必要な、神そのものの部分が理解出来たことになる。イエスを信じる人間と神の間をつなげる者がいる。それがイエス・キリストである。