メッセージ - A年 四旬節

四旬節に私たちは、イエス・キリストの十字架の意味を思い起こし、その復活に向けての道のりを一緒に歩みます。今日の福音では、イエスが荒れ野で40日間断食をして過して誘惑を受けられます。40という数字と荒れ野という場所は、旧約の時代にモーセがイスラエルの人々をエジプトでの奴隷状態から導き出して、四十年間荒れ野を旅しながら約束の地に向かうという話を思い出させますけれども、まさにこのイスラエルの試練を、イエスご自身も追体験して歩まれました。

モーセに導かれて荒れ野を旅していたイスラエルは、エジプト人の軍隊に追われ、食べるものもなく、苦しい中で、エジプトに奴隷として戻ってもいいと考えたり、自分たちに対する神の助けを疑って他のものに頼ろうとしたりしました。そしてイエスご自身も、40日間の荒れ野での断食と誘惑という試練を通して、食べ物や身の安全は確かに必要だけれども、それでも根本的に、本当に頼るべき所はどこなのか、ということを明らかにされました。「人はパンを食べて生きるけれども、それだけでは本当に人間として生きていることにはならない」「人は神の口から出る言葉によって生きている」ということはそういうことです。

復活祭の前の四旬節にあって、主の苦しみと十字架を思い起こす私たちも、私たち自身の生活の中で、この荒れ野での試練を体験します。苦しいときに、自分にとって本当に大切なものが何かを考えさせられるときがあります。その時、私たちは主イエスの歩みに倣って、良い選択をすることができるでしょうか。

 
メッセージ - A年 年間

(マタ5,38-48)

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」

マタ5,45

誰かが言ったことですが、人間は自分が信じている神のような人になっています。言い換えれば、この人がどんな神を信じているかということが分かるためには、この人が神について何を語っているかということではなく、実際にどんな人になっているか、特に他人に対してどんな態度をとっているかということを、見なければならないということなのです。

イエス・キリストの生き方を見れば、イエスは本当にご自分が語ったように、すべての人々を無条件に愛しておられる神、例外なくすべての人を支え、すべての人のために善だけを行われる神を、始終一貫して信じていたということが分かります。

あなたは自分自身の生き方によって、どんな信仰を表していますか。自分が他の人に対してとる態度と同じ態度を、あなたに対して神がとってくださればいいと思いますか。それとも、神がそのような態度をとれば、自分が困ると思いますか。

 

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読

シラ書は紀元前3~2世紀に書かれた書物である。その頃、パレスチナはセレウコス王国の属国になった。そしてユダヤ人は宗教と先祖の伝承を捨てることを強制されることとなった。シラ書の著者の目的は、先祖の知恵を守ることだ。シラ15,15-20の意味は、罪を犯すことは人間の心が選んだものだということである。つまり、世界には良い道と悪い道があり、一人一人が自由にこの二つの道から一つの道を選ばなければならない。同時にこの二つの道を歩くことはできない。悪を行う人は悪い道を歩いている。善を行う人は良い道を歩いている。人間は選択しなければならない。自分で選択し、自分で責任も取るのである。

第二朗読

紀元2世紀、この頃コリント市は大事な港であった。そのため、ここでは様々な宗教や文化や哲学派の考え方が交錯した。この場所でパウロは知恵を教えた。それは人間の知恵ではなく、自分の知恵でもなく、彼に霊によって明らかに示された神秘としての神の知恵である。その知恵はイエス・キリストの神秘である。キリストの神秘とは、イエスの死とイエスの復活の結果である。この結果、人間が、今は理解できなくても、将来天国に神と共に存在することとなる。

福音書

マタイ5,17-37は山上の説教の部分である。ここでイエスは律法と預言者、つまりトーラ(モーセ五書)について教える。イエスの教えの目的は、ユダヤ教の律法を廃止することではなかった。イエスの活動は、ユダヤ教の律法を守って、その律法を完成するということであった。律法を完成するということは、律法の正しい意味と目的が分かるようになることであり、それは、人間が天の父のように完全な者になるということである。

イエスはユダヤ教の律法に新しく深い意味を与えた。紀元一世紀のユダヤ教信者たちにとって律法以上に大切な事はなかった。律法を守る人が正しい人であり、正しいユダヤ人であると思っていた。しかしイエスにとって、律法を守ることは必要ではあるが、それだけでは足りない。他の人間を認めることが大切なのである。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音に見られる「地の塩、世の光」というフレーズは、聖書の中でもおそらく最も有名な言葉の一つではないかと思います。これは、やはり有名な山上の説教の中で、集まってきた民衆たち、社会的地位が高いわけでもなく、特別な教育を受けたわけでもない、ガリラヤに住む田舎の貧しい人たちに向けてイエスが語られたものです。

イエスは、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われています。「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」と言われているわけではありません。もう既に「地の塩」であり、「世の光」である、既に神の子として恵みを受けた存在である、そう言われています。

けれどもその一方で、単に地の塩であり、世の光であるのだからそれでいい、と言われているわけではありません。塩であれば、その塩味を効かせなさい、光であれば、その光を隠さないで周りを照らしなさい、あなたがいただいている恵みを使って、分かち合って、周りの人に天の父を示しなさい、と呼びかけられています。

私たちは愛され、恵みを受けているけれども、それでひとり満足していればよいのではありません。愛は分かち合うものであることを、イエスはその誕生から死に至るまで身をもって示して下さいました。私たちも「地の塩、世の光」とされていることに感謝しながら、その働きを喜んですることができますように。

 
メッセージ - A年 年間

(ヨハ1,29-34)

 

「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」ヨハ1,33

洗礼者ヨハネは自分の使命を果たしてイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介しました。この言葉は、救い主であるイエス自身の使命を表します。イエス・キリストが神によってこの世に遣わされたのは、すべての人々の罪を贖い、それを取り除くためなのです。これこそ福音、「喜ばしい知らせ」ですが、それを聞いても、全然喜ばない人が、特に現代は非常に大勢いるようです。おそらく、この人たちは、別にそんな悪いことをしていないし、他の多くの人よりも良い人間ですので、罪を取り除く救い主を全く必要としていないと考えているのではないかと思います。

けれども、罪を取り除く救い主を必要としているのは、強盗や殺人などのような犯罪を犯したりする人だけなのでしょうか。このことが分かるためには、イエスの使命を描く洗礼者ヨハネが神から言われた言葉の意味、つまり、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉の意味を理解する必要があります。

誰かに聖霊によって洗礼を授けるというのは、この人を神の愛と神の命にあずからせることですので、イエスが取り除く罪とは、犯罪のことではなく、愛と命の源である神から離れて生きている状態のことなのです。したがって、罪を取り除くということは、神から離れて生きている人を神のもとに導くこと、神と和解させ、神との正しい関係をつくることなのです。

人間は、愛と命の源である神との正しい関係に入らない限り、いろいろな恐れや心配、また、執着や心の傷などによって左右されるし、愛に生きることができませんので、何の犯罪も犯したことがなくても、自分の心の最も深い望みに従って真の愛に生きることのできない人こそ、罪を取り除く救い主、すなわち、イエス・キリストを必要としているわけです。