メッセージ - A年 復活節 |
聖書の中に見られる聖霊に関する記述は、神学的・教義的な聖霊についての教えというより、聖霊が私たちの間でどのような働きをしているかを生き生きと示している方が多いように感じられます。
第一朗読の使徒言行録では、言葉も、出身も、文化的背景も違う人々が神の言葉を聞く聖霊降臨の場面が描かれています。ここに見られる聖霊は、神の言葉を弟子たちに語らせ、また人々の耳と心を開き聞かせます。
第二朗読の第一コリント書によれば、聖霊はキリストにおいて私たちを一つに結びながら、一人一人に様々な賜物と務め・働きを与えて下さる神の霊です。聖霊に生かされて、私たちはそれぞれの場で、それぞれの生を生きながら、キリストにつながる一つの体として働きます。
そして福音朗読のヨハネ福音書では、イエスが、弟子たちを遣わすにあたって聖霊を与える、と語られています。ここで聖霊を受けるということが、イエスの息を受けることとして描かれています。家の戸に鍵をかけて閉じこもり、どんよりとした閉塞感の中で息を潜め心も閉じていた弟子たちの真ん中にイエスは現れ、ご自分の息を吹き込み、新しい風を吹かせ、暗く閉じていた彼らを開かれました。イエスの息が、命が、私たちの中で生き生きと息づいているとき、そこに聖霊が働いていると言うことができます。弟子たちに聖霊を与え遣わすときに「平和」が強調され、「罪のゆるし」が使命として与えられているように、聖霊を受けて、イエスの息を吸って生かされている私たちも、平和とゆるしのためにキリストの使者として送り出されています。
聖霊降臨の日の聖書朗読が私たちに問うているのは、聖霊についてどれだけ正しく知っているか、ではなく、聖霊を受けてどれだけイエスに従う者らしく生きるか、です。聖霊に吹かれ、主の命を受け、それぞれの場で生き生きと神の言葉をあかしすることができますように。
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朗読箇所:使11:1-11;エフェ1:17-23;マタ28:16-20
キリスト教を大学生に紹介する時に、イエスの誕生や公の宣教活動(教え)と十字架上の死についてはある程度理解してもらえます。しかし、イエスが行った奇跡やイエスの復活や昇天に対して『本当に起こったのか?』『化学的に、どのように説明できるのか?』といった疑問がいつも出てきます。現代人らしいこれらの率直な質問に答えに戸惑うことがたびたびあります。その時に気づかされることがあります。それは、これらの問いに何が正しい答えなのかということを考える以前に、先ず自分が信じるものは如何なるものか、自分の信仰があるかないかという根本的な問いに迫られるということに気づかされます。
イエスの昇天の場面に立ちあった弟子たちの中に「疑うものもいた」とマタイは記しています(マタ28:17)。福音書の中の弟子たちは、決して常に模範的な信仰を持っている訳ではありません。イエスと一緒にいながら、イエスの奇跡を目の前に起こっていても、それを理解できないので、イエスはたびたび弟子達の不信仰に落胆しました(マタ14:31; 15:16; cf. マル4:13; 6:51-52, 7:18)。その弟子たちにイエスは近寄ってきて、弟子たちを全世界への宣教のために派遣しました。つまり、イエスは信仰が足りない弟子たちをも含めて彼らを全世界に福音を告げる使命を与えたということです。
二千年たって、キリスト教が全世界に広がっていきます。それは、今日の福音箇所の最後、そしてマタイ福音書全体を締めくくるイエスの言葉にあるように、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」からです(マタ28:20)。マタイ福音書の初めに、戸惑っているヨセフに天使は、マリアから生まれた子はインマヌエル、「神は我々と共にいる」と呼ばれる、ということを告げました(マタ1:20-23)。イエスの昇天の前に、神はインマヌエル、共にいてくださる神であることを度惑っている弟子たちに再確認しました。全世界への宣教の保証は弟子たちの力ではなく、彼らと共にいて、彼らを通して働く神ご自身の力です。
ご昇天は、イエスが天の昇られたのでこの世からいなくなったということを意味するのではありません。教皇ベネディクト16世が指摘したように、主のご昇天によって「私たちも天に昇られることが出来るということです。私たちがイエスの所に行って、イエスの内に入ることが出来る」ということです。「私たちが《天国》と呼ぶものは、イエスご自身だからです。この信仰の神秘を他の人々に告げる内に、それを伝える自分の信仰が強められていくことができますように。
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今日の朗読を鍋に入れて、よく掻き混ぜて、その中から出てくるのは何でしょうか、何味でしょうか。その全体から読み取ることができるのは何でしょうか。復活節が続いているもので、その意味の理解を私たちは深めていきます。様々な聖書箇所は違う側面からそれに触れています。祝い続けている御復活の余韻と共に、少しずつ聖霊降臨の準備も始まっています。これらの朗読にも聖霊のことが一つのテーマになっています。
今日改めて思い知らされることの一つは、復活したイエスのことを世が知ることができないということです。一般世間では手を触れることしか経験できないと広く考えられています。そう考える人の知識は残念ながら限られてきます。ただ、それだけではなく、信者でも洗礼を受けているだけで自動的に主を十分に知っているということにはなりません。第一朗読が述べているように、教会の奉仕者の務めによって聖霊を受けることが必要です。
第二朗読は、希望の根拠である復活したイエスを知らない人々に対する態度に焦点を当てています。証明や説得するのではなく、静かに、かつ謙遜に送る生活によって私たちが持っている希望を解き明かすことができます。神を礼拝する重要なところの一つは、自分自身の心であるという記述も興味深いです。典礼の時など秘跡においても、もちろん、主に出会うことが出来ますが、そのような一時的な行事にとどまらず、日頃から自分の内面で神との交わりを持たないと意味がないのです。
最後に、福音に従って言えるのは、信者になって洗礼も受けて、さらに教会の仲介によって聖霊の賜物を受けて人々は、復活したイエスを知るためにはもう一つのことが問われる、ということです。すなわち、イエスと一致しなければイエスを知ることはできませんが、その一致する前提としてイエスの掟を持ち、イエスの要求していることを行うことが挙げられ、そのような人だけには、復活された主はご自分を現すことになるのです。
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第一朗読:使徒言行録6, 1-7
第一朗読の社会的、歴史的な背景には、紀元後一世紀のエルサレムに暮らす、イエスがメシヤであると信じている人々(初期キリスト教)の間の関係があった。信者の人数が増えてからというもの、イエスの弟子たちは自分自身で社会的な立場が弱いすべての信者達を世話することが出来なくなったので、初期キリスト教の組織の変革が行われた。弟子たちはすべての責任を負うのではなく、祈りや福音を述べ伝えること以外責任を持たないことになった。その変わり、この二つの義務以外の仕事を七人の執事に任せた。
この朗読の最も大切なメッセージは、弟子や司教や司祭などの第一の義務は祈りと福音を述べ伝えることであり、これ以上に大事な義務はないということである。
第二朗読:一ペトロ2, 4-9
この言葉はペトロがローマに暮らしている初期キリスト者たちに書いて送ったものである。異邦人の社会に存在するキリスト者たちが自信や勇気を持てるように、キリスト者自身について(1ペトロ1, 3-2.10)と彼らと異邦人の関係について教えた。選ばれた民、王の系統をひく祭司、聖なる国民、神のもの(つまり新イスラエル)として信者達はイエスの救いの業を広く伝えなければならない。イエスが救い主であるという福音を述べ伝えている信者達は、この世にキリスト教を設立しただけではなく、キリスト教の生きた石になる。
この朗読の重要なメッセージは、教会が建物や相識だけではなく生きている石(つまり信仰を持っている信者達)の集まりであるということである。第一朗読によれば、福音を述べ伝えることが使徒や司教や司祭の最も大切な義務であり、第二朗読によれば、信者達にとっても福音を述べ伝えることが最も大切な義務である。
福音書:ヨハネ14, 1-12
福音を述べ伝えるということの目的は、イエスを信じるようになるということだ。しかし、イエスを信じているということはどういうことか。ヨハネ14、1によれば、イエスはこういった。「神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」「神を信じなさい」とは、神が存在することを信じるというだけではなく、神を信頼することを意味する。同じように、「わたしをも信じなさい」という表現はイエスを信頼するということを意味する。イエスを信頼するということは、イエスを神の子と受け入れて、父である神を知っているということだけではなく、イエスを信じるすべての人々が天国に入れるようにイエスから必要な恵みを貰うと信じることである。だから、イエスは自分自身を「私は道であり、心理であり、命である」と呼ぶ。それはイエスが救い主であることを意味する。このことが理解出来た信者達は、救われるために必要な、神そのものの部分が理解出来たことになる。イエスを信じる人間と神の間をつなげる者がいる。それがイエス・キリストである。
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今日の福音の箇所では、「羊」と「門」をキーワードにして、二つのたとえが語られています。別々のたとえですので、一緒くたにして、羊飼いのことなのか、門のことなのか、と混乱しないように。
最初のたとえでは羊飼いと羊との関係がテーマになっています。羊は長い間、家畜として飼われてきたために、もはや野生に返ったり人の世話無しに生きたりすることはできないそうです。ですから、両者の間には非常に強い結びつきがあります。羊が羊飼いを知っている、というのは、他でもない羊飼いこそが自分たちを生かし、助け、導いてくれる存在だということを知っていて全幅の信頼を寄せている、ということです。羊飼いが羊を知っている、というのは、一匹一匹の違いも特徴も知っていて、何より自分の羊たちを大切にしている、ということです。二つ目のたとえでは、「わたしは羊の門である」と言われていますが、その門は大切な羊だけを受け入れて中の草を食べさせ、盗人や強盗は入れさせない、羊を守る門です。
私たちは、外側にいて遠くから見ているだけではなくて、イエスの中に入っていって、親しい関係を築くかどうか、それが私たちにとって特別な関係になるかどうか、問われています。第一朗読で、ペトロの話を聞いた人々はイエスとの交わりの中に入っていきました。第二朗読のペトロの手紙では、保護者のない羊のようであった人たちが、キリストを牧者として見つけ、そこに「戻ってきた」と言われています。私たちも、ただ聖書の話を知っている、イエスの教えを知っている、というのではなくて、キリストのいのちの中に、その生き方の中に足を踏み込んでいくよう招かれています。