メッセージ - B年 四旬節 |
四旬節を始めるにあたって、二つのイメージを提供する朗読があります。一つは洪水、そのもたらす荒廃と新しい創造です。もう一つは砂漠、沈黙と孤独さ、自分との戦いです。実は、敵対する他人と戦うより、自分自身の弱さと戦う方がずっと難しかったりするし、そのためにある種の砂漠の経験と訓練が必要です。重要なメッセージとして、神は滅びではなく、命を望んでいるということがそこには響いています。謙って、自分の惨めさを認め、悔い改める人を神は滅ぼしたりはしません。神は私たちの味方なのです。
洪水も砂漠も古い世界の堕落と混沌とを意味しています。改正できないものを場合によって滅ぼすしかありません。神が計画してくださった「新しい天と新しい地」とは、前からあったものを完成させ、実現させるようなものだけではありません。むしろ新たな出発です。昔回心する機会を拒んだ人には第2のチャンスが与えられます、イエス・キリストの到来において。人類が再び洪水によって滅びることはないのですが、罪に溺れることは洪水の後も絶えることがありませんでした。それで、不正な人の代わりに義人のキリストが自分を無にする必要でした。
そういう意味で、洪水は洗礼の予型でした。地を堕落した人々から清めるのではなく、人々を罪から、古い考えから清めるために制定されたのです。それに本当に効力があるためには、イエス・キリストの出来事が不可欠です。キリストが身代わりになって、悪の波に飲み込まれ、新しい命へと復活したのでなければ、洗礼には象徴的な意味しかありません。しかし、キリストが混沌の力に打ち勝ち復活したならば、洗礼は新しい創造を意味するはずです。だからこそ、初期キリスト教の墓場には頻繁に鳥の姿が描かれ、しかもそれは聖霊の象徴である鳩ではなく、ノエが箱舟から飛ばせ、洪水が去ってしまい新しい命が芽生え始めたことを告げた鳥なのだ、と思われます。そして、もし洗礼が霊的な洪水から人を救うのなら、新しい箱舟というのは教会のことに他なりません。すなわち、荒波の立つ現代世界を無事に航海できるようにするのが教会の使命なのです。
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四旬節は、その字面の通り「四十日の期間」を表します。私たちキリスト者にとって一年で最も大切な時である、主のご復活までの40日間の準備期間です。実際には、主の復活を祝う主日である日曜日の6日間+40日で46日となります。
今回は、この「40」という数字がシンボルとして示す様々な意味について、聖書の記述から考えたいと思います。
1.一世代としての40年
何人もの士師や王の治世、あるいは祭司の任期などが40年であった(ギデオン-士師記8:28、エリ-サムエル記上4:18、ダビデ-サムエル記下5:4・列王記上2:11、ソロモン-列王記上11:42、ヨアシュ-歴代誌下24:1)。
出エジプトの後、荒れ野の旅において40年が経って世代が代わった(ヨシュ5:6)。
2.区切り、節目、一つのまとまりの単位としての「40」
きりが良い数字としての「40」です。
イサクが結婚した時(創世記25:20)、エサウが結婚した時(創世記26:34)、40才であった。
40万の歩兵が集まる(士師記20:2)。
らくだ40頭にのせた贈り物がエリシャのもとへ送られる(列王記下8:9)。
3.試練の時としての「40」
この意味での「40」が特に四旬節に深い関わりがあるでしょう。
雨が四十日四十夜続き、洪水が起こった(創世記7章)。地上の肉なるものすべてに死がもたらされた。
四十日四十夜、モーセがシナイ山に留まる(出エジプト記24:18、34:28)。パンも水も摂らず、その後十戒が与えられる。
四十日の偵察(民数13:25、14:34)。エジプトを脱出し、約束の土地へ入ろうとする際の出来事。
イスラエルは神への不信のために、四十年に渡って荒れ野を放浪しなければならなくなる(民数記14:33、32:13)。
預言者エリヤが四十日四十夜の旅をする(列王記上19:8)。命をねらうアハブ王から逃走し、神の山ホレブに着くと、そこで新しい使命を与えられる。
預言者ヨナがニネベの人々に、四十日後の滅びを預言するが、人々は悔い改めて災いが撤回される(ヨナ3:4)。
エジプトに対し、四十年間の荒廃が預言される(エゼキエル29:11-13)。
有罪の者へのむち打ちの数は罪状に応じるが、四十回を限度とする(申命記25:3、第二コリント11:24)。
旧約の「40」、特に四十年の荒れ野での放浪の旅が、新約の「40」に影響を与えています。
イエスが四十日間、荒れ野で断食し、試みを受ける(マタイ4:1-11;マルコ1:12-13;ルカ4:1-13)。
以上のように、私たちが過ごす四旬節の40日間というのは、私たちの信仰が試される試練の時でもあります。このまとまった時を通して、私たちは自分のあり方についてよく考え、自らの生き方を振り返り、神に立ち返るのです。
メッセージ - B年 年間 |
第1朗読 創世記3、16−19
第2朗読 1コリ10、31−11、1
福音書 マルコ1、40−45
唯一の神に完全な者として造られた人間は、自分自身が行った罪によって、弱さや苦しみや死などを味わう者となりました。現在の人間は、働くことと休むこと、健康と病気、悲しみと喜び、生きることと死ぬことなどを知る者です。しかしそれよりも、一人では十分でないという状態が一番厳しいことだと思います。そして、人間関係も大変難しいことです。人間が犯した罪の影響で、この状態は世界が終わるまで変わりません。
だから、この世でうまく生活できるように、互いに協力しなければなりません。「お互いに大事に」という表現は「愛のうちに人間の関係を作ろう」という意味に受け取れます。それは、強い人間が弱い人間の状態を見て助けてくれるということです。弱い人間とは、様々な状況がありますが、その中の一つは病気です。誰でもいつか、その弱さを味わうことになります。人間の力で癒せる病気もありますが、癒すことができない病気もあります。現代では、我々の国では少なくとも皮膚病を癒すことは簡単にできますが、まだそれが大きな問題となる国もあります。イエスの時代には、皮膚病は治らない病気だったので、皮膚病を患っている人は、しばしば村や町から離れたところに一人で皮膚病患者の集団に入れられました。その時代、皮膚病を治すためには奇跡を起こすしかありませんでした。今日の福音書の言葉によれば、主イエスはその奇跡を行いました。それは人間を助けるため、そして唯一の神の栄光を現わすために行った奇跡でした。
現代の世界でも治らない病気、つまり人間が病気に負けることはいくらでもありますし、奇跡が起こるようにという希望を持つより他に何もできないこともあります。そのような時、人間は唯一の神から助けていただくために、信仰を持って希望のうちに祈りの中で願います。その時、人間はできる限り病人に対して尽くし、時間も、力も、お金も捧げます。そのように行動する時、助けてあげる人は一つのことを理解する必要があります。それは「人間に対して行っている全ての良いことは、唯一の神の栄光をあらわすことだ」ということです。
本の紹介 - 本の紹介 |
E・M・バウンズ著「1分間の黙想 祈りの力」(日本聖書協会 2016年)
忙しいとき、私たちはその忙しさに追われて祈る暇もないと感じるか、祈ること自体さえ忘れてしまいます。けれどもそんなときこそ、本当は祈りが必要なのかもしれません。
本書は、そんな人のために、一年366日分(うるう年も安心!)の短い黙想と祈りの材料を与えてくれる本です。文庫本ほどのサイズの1ページが日付ごとに1日分として当てられており、さっと読むだけならまさしく「1分間」ですむほどの分量しかありません。
それぞれのページには、まずテーマとなる「見出し」があり、それから旧新約聖書から取られた「聖書の短い一節」が引用され、その聖書の言葉についての短い「解き明かし」があり、最後にやはり短い「祈りの言葉」があります。読むだけなら確かに1分間ですが、それをたった5分間にするだけでも、豊かな黙想と祈りの時間になるでしょう。聖書の言葉をゆっくり二、三回繰り返して読んだり、本にある解説だけでなく、もう少しだけ自分が感じる御言葉のメッセージに思いをはせてみたり、自分自身の言葉で祈りを加えてみたり、ほんの数分間心を据えるだけで、すばらしい恵みの時になると思います。
朝起きた時、通勤の途中に、休憩時間に、あるいは寝る直前に、短い時間でも黙想し、祈ることができる機会と習慣を与えてくれる本です。
メッセージ - B年 年間 |
ヨブ記はヨブの苦悩の叫びを取り上げた旧約聖書の書ですが、今日の第一朗読の箇所も、彼の苦しみが赤裸々にのべられています。「横たわれば・・・いらだって夜明けを待つ」「わたしの一生は機(はた)の梭(ひ)よりも速く/望みもないままに過ぎ去る」などの嘆きの言葉は、財産も子供たちも失い、全身を皮膚病に冒されて苦しんでいるヨブの心をよく表しています。
第二朗読のコリント書では、福音を告げ知らせるという自分の務めについて、パウロの熱意が語られています。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というパウロの思いは、私たちの心を動かす力を持つものだと思います。
福音朗読のマルコでは、先の二つの朗読箇所が持つメッセージが一つになっています。病人や悪霊に取りつかれた人たちが大勢イエスの元へ集まってきますが、ヨブのように彼らが上げる苦しみの嘆きの声にイエスは応えます。その後、イエスは人里離れたところで一人で祈られますが、人々がご自分を求めていると弟子たちに言われると、「他の町や村へも行き、そこでも宣教する。そのために私は出てきたのである」という、パウロも語った福音宣教の使命への思いを示されます。
私たちには苦しみがありますが、その叫びに応えて下さる主がおられるということに力づけられて、私たちも周りの人々の苦しみに目を向け耳を傾け、応えていくことができますように。