メッセージ - A年 年間

今日の朗読は、結婚の宴会に喩えながら、来るべき神の国を描いています。それは、神様が限りない憐れみのうちに用意してくださるものです。しかも、よく気づいてみますと、元々の楽園での状態よりも遥かに優れたことを指していることが分かります。なぜなら、万物が創造された時と違って、実現された神の国ではイエス様が花婿として婚礼の主役を務めるからです。

もう一つ心を打たれることは、あらゆる人を誘おうとしている神様の心の寛大さです。神様がせっかく用意してくださったものは、無駄になることはありません。聖書では、もともと入ることにはなっていなかった人を「無理やりに入らせる」という言葉で表しています。そこで、やはり二つのことが重要です。一つは、誰でも神の国に招かれているということです。自分の素晴らしさや能力で得ることのできない恵みに他なりません。それと同時に、もう一つは、その招きに相応しくなるように何らかの努力をしなければならない、ということです。生き方を変えなくても神様が優しいからすべて与えてくれると思うなら、それは大間違いです。

時として誰が救われるだろうとか、キリストを知らない人はどうなるだろう、と考えたり聞かれたりします。今日の福音には答えが見出せるのではないでしょうか。イエス様の招きをはっきりと意識的に断った人でなければ、誰でも子羊の宴で席を用意されています。しかも、そこで食事にあずかるだけでなく、聖アウグスティヌスが解釈しているように、神の子・主イエスに給仕してもらえます。これ以上驚くべき神秘はありません。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読 イザヤ5,1-7

第二朗読:フィリピ4,6-9

福音朗読:マタイ21,33-43


第一朗読の言葉は、北王国(イスラエル王国)に対する第四の預言です(イザ1,2-8; 2,6-8; 3,13-14)。この予言は結婚式の賛歌の形になっていますが、実際の意味は北王国が滅び ることについての話です。イザヤによれば、北王国が滅びる原因となるのは、神がこの国を守 り続けなくなることです。イスラエル王国は世界の王国の中で唯一、神の御旨が行われる場所 であるはずでしたが、イスラエルの民はそうする代わりに他の王国と同じように自分達の目的 のために行動していたからです。主の御旨を行わない僕は必要がないので、イスラエル王国の 存在も必要ではありません。

第二朗読はフィリピの使徒への手紙の終結部分(パウロのような生活を出来るようにさまざま な教え)の一部です。6節の意味は、恐れることよりも神にいつも感謝することが大切だとい うことです。7節の意味は、神が信者の心と頭の中で実際に守るということです。8節の意味は 、信者たちは正しく良いことだけを考えるべきだということです。9節は、心の中がいつも平 和であるためには、パウロのような生活を心がけなければならないという意味です。

このたとえ話は、イエスがユダヤ人と神との関係について驚くべき発表をする(21,43)ため に作りました。ユダヤ人は特別に神から恵を受けた国民です。しかし、神からもらったすべて の恵みは、個人とその国民のためだけではなくこの世界で神の御旨が行われるために与えられ た恵みです。しかし、イエスのたとえによれば、ユダヤ人の長老たちは唯一の神の御旨が行わ れるためではなく、自分の目的を達成するためにもらった権威を使っていました。イエスの言 葉の通り、ユダヤ人は神が望んだ実を結びませんでした。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音の箇所(マタイ21:28-32)は、イエスがエルサレムに入って人々に迎え入れられ(21:10)、一方商人(21:12-13)や祭司長・律法学者たち(21:14-16)、民の長老たち(21:23-27)とは対立を深めていった、その文脈の中で語られたたとえ話です。ですから、たとえ話の中の「承知しました」と言いながらぶどう園に行かなかった弟が、ヨハネが伝える義の道に従わなかった彼らにたとえられているのがよく分かります。

たとえ話の中で、兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して出かけました。父親の「ぶどう園へ行って働きなさい」という言葉に「いやです」と言うのは、単なる否定の表明ではなく、明らかな父親への反抗です。それでも考え直して出かけていった兄の方が、「父親の望みどおりにした」と認められています。このように、私たちは、いつでも「考え直す」ことがゆるされています。

私たちが生きている現実の生活の中で、最初から、常に、父である神の呼びかけの言葉を聞き取って、理解して、それに「承知しました」と答えることは容易いことではありません。後から気づいて、「こうすれば良かった」、「ああするべきだった」、「あれは悪いことをした」、そう後悔することが多々あると思います。一回きりの出来事だけではなく、悪いと分かっていても、半ば習慣的になってしまって放ったらかしにしてしまっている怠りや過ちもあるかもしれません。今更変えられない、そう思ったり、あるいは第一朗読の言葉のように「主の道は正しくない」と自分に無理に言い聞かせていることもあるかもしれません。それでも「考え直す」チャンスは与えられています。

考え直して、全く反対方向に舵を切ること、逆転させることは難しいことです。けれども第二朗読でパウロが語っているように、「キリストは神の身分でありながら、自分を無にして、しもべの身分になられ」て、その生と死を持ってまったくの逆転の模範を示して下さいました。私たちも「逆転」を恐れず、いつも考え直して神に向かっていくことができますように。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読 イザ55:6-9

第二朗読 フィリ1:20c-24, 27a

福音朗読 マタ20:1-16

 

第一朗読に、預言者イザヤはバビロン捕囚からの救いの希望をイスラエルの民に伝えたが 、民は耳を傾けようとしませんでした。しかし、イザヤはくじけることなく、繰り返し民に改 心を呼びかけました。「主を尋ね求めよう、見出しうるときに」、「呼び求めよう、近くにい ますうちに」。更に、預言者は神に逆らう民にその道を離れ、悪を行うものにそのたくらみを 捨てるように回心を呼びかけました。そうすれば、神は民を憐れんで、彼らを赦してください ます。しかし、なぜ神の前に人間は自分が選んだ道、自分の思いを捨てなければならないので しょうか。それは、第一朗読の後半の部分にあるように、「私(神)の思いはあなたたちの思 いと異なり、私(神)の道はあなたたちの道と異なる」からです。「天が地を高く超えている ように、私(神)の思いはあなたたちの思いを高く超えている」からです。これは決して神は ご自分の意志を人間に押し付けているという意味ではありません。そうではなく、我が子を愛 と憐れみを持って正しい道に導こうとする神の思いの現われに他なりません。

イエスの「ブドウ園の労働者」のたとえ話は神の思いの高さと憐れみの深さをみごとに現 しています。同時に、人間の考えの儚さを示しています。一日働けば1デナリオンがもらえる という約束のであれば、一時間しか働かない人には1デナリオンから差し引いた賃金をもらう ことが当然だと思うのが人間の考えです。また、たとえ一日1デナリオンという約束の場合で も、一時間しか働かない人が1デナリオンをもらったのであれば、一日中働く人がそれ以上の 賃金を期待するのが当然だと思うのが我々人間です。一時間しか働かない人と一日中働く人が 同じ賃金をもらうことは不公平だと訴えるのは我々人間が考える正義を基準にしているからで す。しかし、たとえ話の中の主人、神、の判断基準は違います。一日中働く人には約束通りの 賃金を払います。そして、途中から、または一時間しか働かない人にはご自分の憐れみを持っ てその人に「ふさわしい」賃金を与えます。正に、神の思いは人間の思いと異なります。人間 は目に見えること、働く時間数で判断します。神は約束したことを守っていながら、その上に 一人一人がもっとも必要なものを憐れみを持って与えてくださるのです。

使徒パウロは、自分にとって「望ましい」ことと、多くの人にとって「最も必要なこと」 の間に板挟みになった時に、彼は自分の望みではなく、人々の必要性の中に現れる神の思い、 神の道を選びました。神の思いが人の思いをはるかに超えていることをパウロ自身は身を持っ て体験しているからです。神の思いによって、パウロは「月足らずに生まれた」(1コリ 15:8)ものにも関わらず神は計り知れない恵みを与えてくださるのです。そして、それはパウ ロだけではなく、我々一人一人は同じ恵みを日々いただいており、その憐れみによって生かさ れているのです。

 
メッセージ - A年 年間

愛には様々な形があります。先週はその厳しい面、つまり指摘を学ぶように招かれていました。人のためを思って、場合によってその人が聞きたくないことも言わなければなりません。愛に促されて。今日は、愛の違う側面、つまり赦しについて考えさせられています。キリスト者にとって本当に愛することは、うまくいっている時、お互い良いことをし合っている時だけの特権ではなく、いつどこでもの命法なのです。今日の福音のテーマです。

ちなみに、ゆるしを漢字で書くなら、「許し」ではなく「赦し」ですが、よく間違われています。他人の過ちを赦すことは、忘れて見過ごすこととか、無かったことにするとか、これからも同じようにさせてあげる(=許す)ことではなく、もっと深い行為です。言い換えれば他人を憐れむことです。その根拠はどこにあるでしょうか。何も必然的なことでもなければ、利益があるわけでもありません。(といっても、実は、赦すことは精神的に相手の教育・改心のためよりも、自分自身の癒しのために欠かせないのですが・・・)

赦さなければならないという理由はただ一つあります。神様もそうなさっているからです。正義の主であるにもかかわらず、寛容に富んでいます。福音では下役はただ返済の延期を願っていたのですが、主人は直ちに借金を全部帳消しにしました。これは下役にとって何ら期待できる権利ではなく、純粋は恵みでした。現在、誰が何の権利を持っているかと大声で呼ばわれていますが、それより大事なのは権利にもかかわらず人に親切をすることです。そうする時こそ、神様に似たものになることができます。しかし、「赦す」と「赦される」の間に循環がなければ、どちらも不可能です。