メッセージ - A年 年間

神の国(あるいは天の国)は間違いなくイエス様の教えの中心的なテーマでした。この世において実現されますが、この世のものではないので、説明するためには喩えを用いざるを得ません。今日の福音では三つのイメージを使っています。それは「隠された宝」「高価な真珠」「魚釣りの網」なのです。

大事なメッセージの一つとして次のことが読み取れます。神の国は無償に神から与えられるもの、突然出会うもの、自分から求めるのではなく受け入れるものだということです。それと同時に、もし何かをしなければ見つからない、もしくは保ち続けることができない、という特徴も見られます。すなわち、ただただ神からいただくものとしての神の国、それからそのために努力し、何かを捧げるものとしての神の国、この二つの極端の緊張関係が大事だと思います。

さらに、今日価値観と優先順位についても考えさせられます。キリスト者にとって、神の国を生きることは他の価値と並ぶものではありません。超自然的な事柄に出会うと、日常的な諸価値を横に置かなければならない、つまり神の知識・神との友情・信仰を単なる地上的な暮らしに優先せずにいられなく、という効果も神の国にあります。ところが、何かを捧げることは確かに痛いことなので、多くの人はあえて天の国を今見つけたがらない、見つけるのを後回しにしようとしている、と言えるのではないでしょうか。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読 知恵12:13, 16-19

第二朗読 ロマ8:26-27

福音朗読 マタ13:24-43


第一朗読の知恵の書は、神が全てのものを裁く力と権能を持っておられることを強調しながら、それは「正義」と「慈愛」に満ちていることを思い出させます。真の力を持っている神はむやみにその権力を振るうことはありません。神は罪人が滅びるのを望んでおられません。このメッセージは誰にとっても大いなる励ましの言葉です。正に、良い知らせです。福音です。しかし、福音の喜びはそこで終わるのではありません。神の民は神ご自身の正義と慈愛から学ばなければなりません。神ご自身の御業は民の模範とならなければなりません。こうして、裁く方が人間の弱さに対して寛容さを示されるのは回心を呼びかけるためと同時に、弱い人間同士がお互いに寛容になることを教えています。神の裁きは罪にまみれた人間を滅ぼすためではありません。人間を生きる道へと正して導くためなのです。

毒麦をすぐに抜かずに麦と共に刈り入れの時まで待つというイエスのたとえの中の主人の態度はこうした慈悲深い神の御業にほかなりません。毒麦は実をつけるまでは麦と区別することが難しいということで、無理にとると麦も一緒に抜かれてしまうリスクがあります。しかし、主人が収穫までに麦と共に毒麦を生かしている理由はそれだけでしょうか。主人は麦の安全だけを考えているのでしょうか。そうかもしれませんが、それ以上に計り知れない神のご計画がここに現れていると思います。

毒麦のたとえの意味を説明するイエスはこの言葉で締めくくります。「耳のあるものは聞きなさい」。つまり、このたとえ話は回心を呼びかける話にほかなりません。確かに神によるすべての人への裁きは必ず来ます。しかし、裁きの時に罪人が滅ぼされることを神は臨んでおられません。そのために神は回心するための「時間」を与えてくださるのです。自然の世界では、毒麦が成長している過程で麦に変わっていくことはありません。しかし、人間は回心の呼びかけに答えることが出来るのです。神の言葉に耳を傾けるならば、誰でも豊かな実を結ぶことが出来るのです。聖霊の息吹に心を開けば、命の息を吸い込むことが出来るのです。そして、神は一人でも多くの人が回心の呼びかけに耳を傾けることを望んでおられるに違いありません。

 
メッセージ - A年 年間

イエスが使徒たちに問いかけているのは、「父や母、息子や娘を愛すること」と「自分の十字架を担ってイエスに従うこと」、「自分の命を得ようとすること」と「イエスのために命を失うこと」を天秤に掛けて、どちらを選ぶのか?ということです。自分と血がつながった家族を愛すること、大切に思うことは自然なことだし、良いことです。けれども、自分の家族だけを愛してイエスに従わないなら、私たちは血のつながりの外にある人に対して、愛を注ぐことを拒むことになります。イエスが背負われた十字架とは、関わる必要がなかった罪人、弱い人を愛し、彼らとつながりを持とうとしたことだからです。 自分の家族、自分の好きな人、自分の持ち物、自分自身にしがみついて手を離さないなら、他の何もつかむことはできません。私たちの手は、すべてに対して開かれているでしょうか。それとも、ある特定の人、物にだけ固執して、握ったまま閉じられていないでしょうか。 第二朗読でパウロが語る、キリストと共に死んで、キリストと共に生きるという生き方も、同様にこのような自分の内に閉じこもった愛に死んで、周りに開かれた愛に生きることだと思います。

 
メッセージ - A年 年間

第一朗読 エレ20:10-13

第二朗読 ロマ5:12-15

福音朗読 マタ10:26-33


第一朗読に、紀元前7世紀末から6世紀初めにエルサレムで活躍した預言者エレミヤの言葉が読まれます。北(バビロニア帝国)からの恐怖が迫ってくるのをユダの人々に預言したエレミヤは人々から迫害を受けます。その時に、彼は自分が耐えなければならない苦悩や不安を率直に神に訴えます。「恐怖が四方から迫る」。「私の見方だったものも皆、私がつまづくのを待ち構えている」と。

しかし、苦難の中にもエレミヤは希望を捨てることはありませんでした。「主は恐るべき勇士として、私と共にいます」。そして、エレミヤは敵に対する復讐を祈ります。しかし、それは自分で敵を滅ぼす力が与えられるように祈るのではありません。あるいは自分が望むような仕方で敵が滅ぼされるようには祈っていません。「わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを」。預言者エレミヤにとって、復讐は神ご自身が行われるみ業です。自分が出来ることはその苦悩と不安を神に打ち明けることです。後のことは神にお任せするだけです。

イエスは、エレミヤのようにみ言葉を人々に伝えることで迫害を受ける弟子たちを励まします。迫害を目の前にしておびえている弟子たちにイエスは「人々を恐れてはならない」。「恐れることをやめなさい」と命令しました。恐れをやめて、すべてを神に任せるように弟子たちを力づけます。すべては天の御父のみ旨によって行われるのからです。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」からです。恐れる必要のない弟子達が行うべきことは人々の前で福音を述べ伝え、イエスの名を証し続けることです。たとえそれが苦難と苦しみが伴っているとしても。

弟子たちへの励ましの言葉でイエスは現代に生きる私たちにも「恐れるな」と励まし続けています。イエスの弟子として私たちは今もその励ましの言葉が必要です。もしも自分は「恐れな」という主のことばを必要としないなら、それはキリスト者としての預言者的義務への意識が薄れている証拠なのかもしれません。

 
メッセージ - A年 祭祝日

6月にはカトリックの祝日が多い、しかも、キリストの人生の出来事を記念し、祝う祭りではなく、キリストの聖体や御心というものを中心に据える祝祭日まであります。本来なら前の木曜日に祝われる祝日ですが、皆が参加できるようにわざわざ日曜日に移動させるほどに大事な秘義を謳っていることが分かります。

聖体の秘跡(エウカリスティア)はただ頭で考える難しい神学的なテーマではありません。聖書的に考えると、まず神にしか与えられない「糧」として紹介されています。その予形は旧約聖書に既にあります。人間は様々なものに飢えていますが、決して物質的なものだけに満足するわけではありません。むしろ、食べれば食べるほど、また食べたくなる現実が見られます。第一朗読が言うには、場合によって糧の良さやそのありがたさを実感するために、神が人間に飢えることをも許したりします。人間を更に満たすために、一時的に窮屈な状態にさせます。旅路で道が険しくなると、普段足りる糧ではもうどうにもなりません。同じように、人生の一番大きな闘いには霊的な糧、天から下ったパンが不可欠です。

次に、聖パウロは聖体を一致のしるしと考えています。面白いことに、本人は最後の晩餐には出席しなかったのに、一番早い段階で聖体の秘跡の制定について「主から受けた言葉」として報告しています(1コリ11,23-26)。一つのパンを作るには、多くの麦の粒を砕いて、一つにまとめて、捏ねて形を整えなければなりません。それは、自分の誇り・自律を超えて、謙遜と連帯性を意味しています。また、一つの盃から飲むぶどう酒(キリストの御血)はブドウの房を絞って、力をもって汁を抽出しないといけないことから、受難を意味しています。なので、ミサで捧げられたパンとぶどう酒はただ他の宗教に多く見られる食事の形態を取る(契約を結ぶ)儀式ではなく、「キリストの体と血そのものにあずかる」パンとぶどう酒なのです。

最後に、福音書を見てみますと、ヨハネは最後の晩餐の場面の代わりに「足を洗うシーン」(13章)を描き、聖体を暗示させるためには「天から下った生きたパン」の話を書き留めています(6章)。後者で強調されているのは、「真の糧真の飲み物」であることです。これは旧約時代のシンボルを遥かに超える現実を指しています。つまり、食べてもまた飢えてしまう他のすべての食料とは違うものです。人間の生命を養い、発展させるためのものだけではなく、それ以上にキリストの命を食べる人に分け与えるための有効な手段なのです。信者に自分の命を分け与えるということは、イエスはまず自分の命を与えなければならない、つまり捧げなければならないことを含意します。ですから、聖体はさらに生贄(いけにえ)でもあります。