メッセージ - A年 復活節

今日の福音の箇所では、「羊」と「門」をキーワードにして、二つのたとえが語られています。別々のたとえですので、一緒くたにして、羊飼いのことなのか、門のことなのか、と混乱しないように。


最初のたとえでは羊飼いと羊との関係がテーマになっています。羊は長い間、家畜として飼われてきたために、もはや野生に返ったり人の世話無しに生きたりすることはできないそうです。ですから、両者の間には非常に強い結びつきがあります。羊が羊飼いを知っている、というのは、他でもない羊飼いこそが自分たちを生かし、助け、導いてくれる存在だということを知っていて全幅の信頼を寄せている、ということです。羊飼いが羊を知っている、というのは、一匹一匹の違いも特徴も知っていて、何より自分の羊たちを大切にしている、ということです。二つ目のたとえでは、「わたしは羊の門である」と言われていますが、その門は大切な羊だけを受け入れて中の草を食べさせ、盗人や強盗は入れさせない、羊を守る門です。


私たちは、外側にいて遠くから見ているだけではなくて、イエスの中に入っていって、親しい関係を築くかどうか、それが私たちにとって特別な関係になるかどうか、問われています。第一朗読で、ペトロの話を聞いた人々はイエスとの交わりの中に入っていきました。第二朗読のペトロの手紙では、保護者のない羊のようであった人たちが、キリストを牧者として見つけ、そこに「戻ってきた」と言われています。私たちも、ただ聖書の話を知っている、イエスの教えを知っている、というのではなくて、キリストのいのちの中に、その生き方の中に足を踏み込んでいくよう招かれています。

 

 
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

By Ziebura Eugeniusz

序.至聖なる三位一体の第二のペルソナ(位格)であるイエス・キリスト

第2講話の中で、神様が三位一体であり、第一ペルソナ(位格)は御父で、第二ペルソナは御子イエス・キリストで、第三ペルソナは聖霊であることを紹介しました。そして、イエス・キリストは、御父と同じく唯一主であり、唯一の神の子であり、実体も本質も同じで御父と一体であることを説明しました。

ニケア・コンスタンチノポール信条は、神様の第二ペルソナについて次のように提言します。

わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。

主は神のひとり子、すべてに先立って父より生れ、神よりの神、光よりの光、

まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。

すべては主によって造られました。

主は、わたし人類のために、わたしたちの救いのために天からくだり、

聖霊によっておとめマリアから体を受け人となられました。

ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、

苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり、三日目に復活し、

天に昇り、父の右の座に着いておられます。

主は生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。

その国は終わることがありません。

第4講話の中で、イエス・キリストの神性と人間性の意義について説明します。

 

1.人の子となった神の子

1)聖霊と乙女マリアの間に生まれたイエス

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイ1章18節―24節)

以上の聖書箇所によりますと、聖ヨセフの夢に現れた主の天使は、イエス様が乙女マリアから生まれることを証ししました。即ち、イエス様は、男との関係によって生まれたのではなく、聖霊によって生まれたというのです。したがって、聖ヨセフは、血筋によるイエス・キリストの父ではありません。ルカによる福音の中で、聖母マリアは、天使ガブリエルのお告げを受けた時に、「どうしてこのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(ルカ1章34節)と天使に答えて、聖ヨセフによって子どもを宿していないことをハッキリと証言します。そして、天使ガブリエルは、聖母マリアに神様の救いの計画を告げます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1章35節)と。

以上の聖書箇所で啓示されたように、教会は主イエス・キリストが、真の神様であり、真の人間であるということを信じます。神の子として、永遠の昔に父なる神様から御生れになったのでイエス・キリストの内に神性があり、歴史の中で一人の女、聖母マリアから御生れになったので、イエス・キリストの内に人間性があります。神性において御父と同一実体で、人間性においてわたしたちと同一実態です。キリストの内にあるこの二つの本性が、混合も、変化も、分離もしません。両方の本性は、キリストを「神・人」という唯一の自立存在とします。

2)神の子の人間性

親子(聖マリア、聖ヨセフ、幼子イエス)は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ2章39-40節)

イエス・キリストは、人間としての罪を除いてすべてにおいてわたしたちと同じでした。人間の体も人間の魂も持ち、聖家族の中で人間として御生れになって年齢に応じて成長していました。キリストは、人間の手足を持って働き、人間の理性を持って考え、人間の心を持って愛しておられました。したがって、イエス様は御自分のことを「人の子」と言われたりしました。イエス様は、御自分の人生を神性で満たし、神御自身を御自分の人生をとおして現してくださいました。それと同時に神の子が人間の本性を受けることによって、神様の第二ペルソナ(位格)の特徴として、イエス・キリストは御自分の人生を至聖なる三位一体の交わりの中に位置づけられました。

 

2.神様の第二ペルソナ(位格)の存在様式を現す「名」

1)「イエス」

御父は、聖母マリアと聖ヨセフに御使いを送って、生まれる子を「イエスと名付けなさい」と命じられました。「イエス」とは、ヘブライ語で「神は救う」という意味です。「この子は自分の民を罪から救う」という説明は、神の民がイエス様の民であると言います。神御自身の御名である「イエス」のみに、普遍の救いがあると言います。使徒パウロがイエスについて、「神はすべての名にまさる名をお与えになった。」(フィリピ2章9節)と証言します。「イエス」という御名は、キリスト教のすべての祈りの中心であり、また、すべての祈りは、「主イエス・キリストによって」奉げられます。キリスト者の皆は神の救いの恵みの内に生きていますから、「イエス」の名をどんな時にでも呼んで憐れみを願う者です。

2)「キリスト(メシア)」

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」(ルカ2章10-11節)

以上の御言葉は、イエス・キリストが御生れになった夜、神様は天使の口を通して、ベツレヘムの羊飼いたちに知らされたメッセージです。それは、ダビデの町ベツレヘムの馬小屋で御生れになった幼子は、旧約時代に度々預言された世の救い主、メシアであることを啓示します。「メシア」は、ヘブライ語の用語で、キリスト教は、ギリシア語での名称を用いて、イエス様のことを「キリスト」と言います。その名は、「油注がれた者」という意味です。

旧約時代に、神様によって選ばれた王、祭司、預言者は、神様の代理となるしるしとして、オリーブ油を注がれた者でした。この目に見える油の注ぎは、目に見えない聖霊の注ぎのしるしであると信じていました。「王」が民を守って生かす使命、「祭司」が民を聖化する使命、「預言者」が神の言葉を預かって教え導く使命は、油注がれた者の権能に果たすものであると考えていました。人間に過ぎない者は、その使命を果たそうとも、自らの力で全うすることができません。旧約時代の預言者たちは、人を死から救い、罪を赦して聖化し、神様の御元に導く方が、神様から生まれ(来られ)るメシア、世の救い主であると預言しました。

旧約聖書によりますと、最初の救い主の約束は、アダムとエヴァが罪を犯した太初時代に遡ります。神様は、人を罪に落した悪魔(蛇)に向って神様が、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意をおく。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章16節)と言われたので、神様がお与えに成る世の救い主は、人間から生まれることが分かります。神様が御計画なさった救いの歴史は、キリストの到来を待ち望む時でした。預言者たちは、救い主がダビデ王の子孫で、ベツレヘムで御生れになり、世の罪の赦しのために苦しみを受けるということなどを預言していました。そのすべての預言は、聖母マリアから御生れになったキリストの内に実現されました。

キリストは、ユダヤ教の式によって「油注がれた者」となったわけはありません。聖母マリアが聖霊の注ぎによって身ごもったから、イエス様は生まれる前から「キリスト(油注がれた者)」です。洗礼者ヨハネは、イエス様が聖霊の注ぎによる真の救い主であると、次の言葉をもって証ししました。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1章33-34節)と。

キリスト(救い主)は、神様に適う「王」として、御父の御旨を果たし地上で病人を癒し、悪魔を追い払い、死者を甦らせ、御名に限りない愛を示し、すべての人にの人に仕える者となられました。王としての勝利は、字架上で死に至るまで最大の愛の勝利であり、御復活を持って、死に対する永遠の命の勝利をおさめます。そして、キリストは「祭司」として、世の罪の赦しのために、「いけにえの小羊」となって十字架上で御自分の命を御献げになりました。また、キリストは、「預言者」として福音を宣べ伝え、すべての人が無償で、無条件で神様に愛され、救いに与るようにキリストに従って生きることを教え導きました。

3)「神のひとり子」

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。(マタイ16章15-20節)

キリスト者は、使徒たちから信仰を受け継いで、イエス様が「生ける神」であると使徒ペトロが告白しまたした信仰を宣言します。イエス・キリスト自身は、使徒ペトロの信仰が人間の考えによるものではなく、天の父が現したものです。イエス様が「神のひとり子」であることは、キリストの洗礼と御変容の時の御父の啓示によって分かります。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3章16-17節)

又、御受難を受ける時に、最高法院で、「お前は神の子か」という尋問の言葉に、キリストは、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」(ルカ22,70)とはっきりお答えになりました。

4)「主」

「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。(ヨハネ13章12-17節)

神様がモーセに明かされた御名YHWH(ヤーウエ)を、みだりに唱えてはならないようにと「神の十戒」の中で記されています。罪深い人間は、御名を口にすることは相応しくないと思われたから、ユダヤ人たちは、神様を「」と呼びました。ところで、新約聖書は、イエス様が神であることを認める上、「」と呼ぶようになりました。神様は、命の主、天地万物の主、歴史の主でもあります。以上に記されている最後の晩餐の席で語られたキリストの言葉によりますと、弟子たちが「」と呼ぶことは、正しいことです。イエス様は、御自身を知り、神であることを隠していませんでした。神である主の偉大さは、仕えられることではなく仕えることであるから、イエス様は奴隷の仕事をして弟子たちの足をお洗いになりました。ここには主なる神の限りない愛の支配に気付く必要があります。この主の支配が、互いに奉仕し合うことによって人の心の内に実現していきます。

特に、キリストが御復活の後に自分の姿を現すと、弟子たちは、「主だ」(ヨハネ21章7節)と言い、また、復活したキリストの傷痕を触った使徒トマスは、キリストに向けて「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)という信仰告白しました。使徒たちに続いて、教会典礼の中で、司祭は、「主は皆さんと共に」と挨拶して、復活した主は、約束通り、世の終わりまで私たちと共におられることを実感させ、祈りの内に主と交わるように招き、祈りの終りに、「私たちの主イエスキリストによって、アーメン。」の言葉で結びます。

イエス様は神様であるから、主としていつもわたしたちの近くにいてくださいます。私たちの一人ひとりが、イエス様を自分の主と認めなかったり、罪によって主から遠ざかったりします。このような祈る信者の心の状態は、MARANATHA(マラナタ)というギリシア語の言葉で表現されています。「マラン・アタ」は、「主は来られる!」という信頼と希望とにみなぎる叫びを意味する祈りです。しかし、キリストから遠ざかったりするわたしたちは、「マラナ・タ」、いわゆる「主よ、来てください。」(一コリント16章22節)と叫び、キリストの再臨を願って祈ります。それと同時に、キリストからもう離れることがないように終末的なキリストの再臨を待ち望みます。

 

結び

至聖なる三位一体の第二ペルソナ(位格)である神の子・主・イエス・キリストは、わたしたち(人類)の救いのために、わたしたちを神様と和解させるために、わたしたちが神様の限りない愛と慈しみを知るために、神様の似姿としてのわたしたちの聖性の模範となるために、キリストと一つになってわたしたちを「神の本性」に与らせるために、被造物であるわたしたちが恵み(本性ではなく)によって神の子どもとなさるために、受肉の神秘によって真の人間となられたのです。

使徒ヨハネの共同体は、キリストとの出会いを以下のように体験して証しし、すべての人をキリストの交わりを通して聖なるものになるようにと招きます。

 

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(一ヨハネ1章1-4節)

 
メッセージ - A年 四旬節
受難の主日——枝の主日—— (4月9日)

第一朗読:イザヤ50,4-7

第二朗読:フィリピ2,6-11

福音朗読:マタイ27,11-54


第一朗読の部分は「第三の主の僕(しもべ)の賛歌」と呼ばれるものである。この賛歌の中で主の僕は自分自身を預言者として、知恵のある人として示している。彼は活動(人を教えること)ができるために神によって助けられている。彼はそのような方である。マタイによる福音書では、この文はイエスがメシアとして受難を受けるはずだということについて議論するために使われたものである(マタ26,67; 27,30-31)。


パウロはフィリピの使徒への手紙を書いていた時、先に作られた賛歌を使っている。この賛歌の中にはイエスについて最も大切な神学的な教えがある。それは次のことである。

• イエスは神である(2,6

• イエスは人間になった(2,7

• イエスは僕(しもべ)として最後まで神の御旨に従った(2,8

• 神はイエスに栄光を与えた(2,9

• イエスは主である(2,10-11


福音朗読はイエスの受難について語っている。イエスは人間として、神の僕(しもべ)として、メシアとして最後まで、つまり十字架上で死ぬまで、人間を救うために神の御旨に従った。死んで三日目に、神は彼に栄光をお与えになった。

 
メッセージ - A年 四旬節

(ヨハ4、5-42)

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」ヨハ 4,13

人間が何かを求めているというのは、何らかの善が不足しているか、不足しているように感じているということなのです。そのような状態は、一種の苦しみですので、この苦しみをなくすために、この望みを満たそうとしています。私たちは自分の望みを満たすために、普段、持っていないものを手に入れなければならないと思っているのかもしれませんが、体の欲求の場合は、それが事実であっても、心の望みの場合は、そうではないのです。

サマリアの女性が水を飲んでも、また渇くようになったように、私たちは、心の望みを満たすために必要と思うことを手に入れることができたとしても、そして、それによって心の望みを満たしたような気持ちになったとしても、それは、一時的な状態にすぎませんし、私たちは必ず心の渇きを再び感じるようになります。結果的にこの望みは消えないだけではなく、前よりも大きくなっていくのです。

イエスがサマリアの女性に教えてくださったように、生ける水、つまり人間の心の渇きを完全に癒すことのできる水は、外から来るものではなく、人間の内から流れ出るものなのです。ですから、私たちは他の人からいろいろなものをもらったり、他人を利用したりすることによって、この生ける水を汲むことはできません。それは、逆説的なことですが、この水が私たちの心の渇きを癒すために私たちは、他の人々の正当な望み、また、神ご自身の望みを満たすように努める必要があるのです。

サマリアの女性は、イエスの教えを正しく理解し、それを信じたので、今まで頼りにしていた水がめをおいて、町に走り、イエスとの出会いの喜びを他の人と分かち合い、彼らに救い主への道を教えました。彼女は他の人や神を利用しようとする代わりに、奉仕するようになってはじめて、彼女の心の渇きが癒され、イエスの約束が成就されたのです。

 
メッセージ - A年 四旬節

人間は神によって創られた者であるだけではなく、神を探し、神を信じ、神に従うため神に呼ばれた者です。それが今日の朗読の主題です。人間の中で、神を最初に信じた人はアブラムでした。彼の生涯は人間と神との間に出来た最初の契約という実を結びました。神を探し、神を信頼し、神と関係を持てることが代表的な事例です。全ては、まだ知らない神の呼びかけに答えることから始まりました。慣れ親しんだ故郷を捨てる時、彼の旅が死ぬまで終わらないことになるとは知りませんでした。もしそれを知っていたら、果たして最初の一歩が踏み出せたでしょうか。旅をする間様々な経験をして、勝ちも負けも味わったアブラムは、神との真実の関係を学び、神の約束が真実であるということが理解できました。

神の呼びかけに肯定的に答えた者はアブラムだけではなく、旧約と新約聖書にはアブラムのように信仰の道を歩き、神を信頼する人々が多勢登場します。第二朗読にはパウロの弟子であるテモテが現れます。彼はアブラムと同じように自分の家族や故郷などを捨て、パウロと共に宣教活動をしました。年若くして司教になったテモテは様々な問題に陥り、その都度パウロによって助けられました。テモテは神が呼び出してくださった者であり、神の恵みのうちに神の力によって苦しい時にも福音を宣べ伝えなければなりません。イエスの福音は人間の命や人間の死に関する真実の教えだからです。この教えを宣べ伝えるために、テモテは神に呼ばれました。

神が呼び出してくださった者として、事実の神の言葉を宣べ伝えるイエスの弟子たちは少しずつイエス自身を理解することができるようになりました。立派なラビからはじまり、奇跡を起こせる預言者のような者が続き、モーセのような新しい律法を作る者まで、イエスの弟子たちはできる限り一歩ずつイエス自身を発見しました。高い山の上にある弟子たちは「これは私の愛する子、彼を聞け」という神の命令を聞きました。確かにイエス自身を理解するためには、イエスを聞かなければなりません。「聞く」とは耳で言葉を聞くことではなく、心で聞くことであり、それはイエスの言葉を完全に行うことです。信仰とは信念ではなく行いです。

皆さんはこの朗読の言葉を聞いて、様々な点で私たちの経験と関係していることがわかると思います。まず、私たちは神の呼び出しに答えました。そして、この呼び出しを信頼しながら福音を宣べ伝えるために自分の家族や故郷を捨てて、神の御旨に従います。そうすれば、少しずつイエス自身が理解できるようになると思います。