メッセージ - C年 年間

テーマ: 「イエスの足元にひれ伏して感謝した」

重い皮膚病を患っている10人がハンセン病にかかっていたと福音の中で描かれています。感染の恐れがあるために、律法にあるように、祭司たちの判断によって彼らを社会から除外しなければなりませんでした。そのために彼らは、社会から大変な差別を受け、神様に呪われた者などであると言われていました。福音が紹介するこの10人は、キリストに近づくことを許されずに、遠くから叫んでイエス様に憐れんでくださるように願っていました。イエス様も、癒すために近寄ることもなく、彼らの信仰を確かめるために、祭司たちに体をもう一度見てもらうように送りました。

この福音のメッセージを自分の心に留めるために、ハンセン病者の10人の内に1人は、私たち各自のことであるとイメージして考えてみたいと思います。もし、癒しを求めて叫んだ自分に、「祭司たちのところに行って体を見せなさい。」という言葉がイエス様の方から返ってきたら、私たちはどうするでしょうか。キリストに対する私たちの反応はきっと、様々であるが、その中で幾つかの可能性を考えてみたいと思います。

その一つ目は、祭司たちの所に出発しないという反応です。なぜなら、イエス様が祭司たちの所に行くようにと言われた時に、体はまだ癒されていなかったからです。病気の体を祭司たちに見せたら、叱られて追い出されるだろうと思って最初からあきらめる人もいることでしょう。そういう人たちは、神様の存在を信じても、神様の言葉の力とキリストの慈しみを信じない人たちのことです。

二つ目の可能性は、祭司たちの所に行った福音の9人が示した反応です。福音の9人にとって、癒してくださったイエス・キリスト(神様)よりも、社会に戻してくれる祭司たちの方が大切です。苦しい時に神頼みするが、必要な恵みを頂いたら、自分が成功したと勝手に思い、神ないがしろにして世俗的な生活を送る人たちのことです。

三つ目の可能性は、福音のサマリア人の行動によって表現されています。彼は癒された瞬間から神様の慈しみと愛を誉めたたえ、謙遜にキリストのもとにひれ伏し、キリスト(神様)に感謝をささげる義人です。福音の中で、キリストはその態度を誉め、このような信仰は初めて人を救う力があると言われました。

人間創造について語っている創世記の箇所にあるように、私たちは、自分の命、心、不滅の霊魂、永遠の命の約束を神様から頂き、また、生きるために神様によって創られた全世界とすべての霊的な恵みで満たされています。この恵みの中で生きている私たちが生涯、神様に絶えず賛美と感謝をささげるのは、当前のことであるはずです。しかし、自己中心の私たちに度々感謝は足りません。このような罪人の私たちを救うために神様は、様々な方法で働きかけてくださいます。

その一つは、人が生かされている恵みに気づかせるために、神様が私たちを試練に遭遇し、救いを求める心と救われている感謝の心を育ててくださいます。神様はキリストの十字架の死と復活によって私たちを救ってくださったことを実現してくださいました。この救いに与るためにキリストは、私たちに感謝の祭儀(御ミサ)を残してくださいました。

感謝しない人生は、神様の前に「ハンセン病」にかかったようなものです。しかし、自分の罪深さを謙遜に認め、神様の慈しみを讃え、救いを感謝する人にキリストは必ず、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われることでしょう。

 
メッセージ - C年 年間

今日の福音朗読では、使徒たちの語りかけによって「わたしたちの信仰」がテーマになっています。「わたしどもの信仰を増してください」という彼らに、イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞く」と言われました。からし種は非常に小さいもののたとえとして使われていますが、既にルカ14章で神の国がからし種にたとえられています。小さな種から空の鳥が巣をつくるほどの大きな木となるように、神の国は私たちの目には小さな始まりですけれども、それを神が成長させます。同じように、私たちの信仰は取るに足りない小さなものですけれども、それを神が大きく引き上げて下さいます。私たちのからし種ほどの信仰そのものが桑の木を動かすのでなく、私たちの信仰に応えて神の力によってそれも可能になる、ということです。

ですから後半の僕のたとえも、私たちに自分が「取るに足りない僕」であるという謙遜さを持つようにと説いています。私たちの信仰は神の目には取るに足りない、神からの報いにふさわしいような素晴らしいものではありえない、ただ「しなければならないことをしただけ」のものでしかありません。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝したりはしません。しかし神は、私たちのしたことや私たちの信仰が取るに足りないものであるとしても、あたたかい目を向け、それに大きく応えて下さいます。私たちが自分を誇るのではなく、取るに足りないものであることを自覚しながら、ただ自分にできることを果たすとき、その足りないところに神が働かれ、大きな実りの恵みをもたらして下さるのです。

 
メッセージ - C年 年間

(ルカ16,19-31)

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」2コリ8,9

お金そのものは、決して悪いものではありませんし、お金を全然持っていないよりは、持っていた方がいいに決まっています。けれども、お金を持っている時、特に必要以上に持っている時には、それに伴う危険性を意識して、害を受けないように気を付ける必要があると思います。

お金に関する危険性は沢山あるでしょうが、その内の一つについてだけ考えてみたいと思います。お金は、それを持つ人にいろいろな可能性を与えますが、その全ての可能性がこの人を生かすようなもので、この人を本当の幸せに近づかせるようなものであるわけではありません。そのために、いろいろな可能性の中から、正しい可能性を選ぶための確かな基準が必要です。

このような基準がなければ、お金を持っている人は、心の本当の飢え渇きを満たすために必要なものというよりも、単にお金で買えるようなものを求めるようになり、お金で買うもので満たすことのできない心の望みを無視し、自分の欲望を優先してしまう恐れがあるのです。

そうなると、お金で買えるようなもので欲望を満たし、一時的に満足を得て喜びを感じることができますし、暫くの間、飢え渇く心の叫びが聞こえなくなります。けれども、このような気持ちが過ぎたら、満たされたはずの欲望は前よりも大きくなりますし、心の飢え渇きも大きくなるのです。そのために、少しでも満足や喜びを楽しめるように、また、心の叫びを聞こえなくするように、ますます沢山のものが必要になりますので、このように生きている人は、贅沢しても沢山のものを集めても、本当の豊かさ、つまり、心を満たし人間に真の幸福を与える豊かさを、知らずに生きることになるわけです。そのような態度を変えない人は、集めたものを何時か必ず失いますが、心の飢え渇きは永遠に満たされないままに残るのです。

裕福な人も貧しい人も、イエスの模範や教えを基準にして生きることによって、心が満たされ、本当に豊かで幸せな人生を送ることができますように祈りましょう。

 
メッセージ - C年 年間

第一朗読:アモス8,4-7

アモス書の言葉は、社会的な不正を批判し、北王国の社会的な問題を指摘している。唯一の王国が分裂した後、アモスはユダ王国の人として、敵対する北王国で預言者の活動をするため、唯一の神に選ばれた方であった。紀元前八世紀に、北王国は国として力を得て、経済的に裕福になった。しかし、北王国の社会は貧富の差が激しく、力を持っている人々が弱い人々に対して自由に不正をした。アモスの言葉によれば、そのようなやり方は唯一の神の前に義ではない。社会の中における人間の関係は主と奴隷のようなものではなく、共同体としての関係がある筈だ。

 

第二朗読:テモテ2,1-8

共同体らしく生活するキリスト者たちにとって最も大切な義務は、良い人間関係を保つために互いに祈ることである。特に社会的立場が高く責任が重い人々にとって、祈りは必要なものとなる。彼らは平和で安全な社会と世界ができるように、彼ら自身のために祈りを捧げる必要がある。平安で安全な世界に生きている人々は、「お互いに共同体である」という考え方に集中することができる。

 

福音書:ルカ16,1-13

人間関係を大切しなければならないということは誰でも知っているが、それができるようになるためには、子供からお年寄りまで毎日学ばければならない。人間と人間の関係は一つのパターンではない。人によって関係は異なるので、毎回気をつけなければならない。特に、困難な状態に落ちたとき、隣人から助けてもらわなければ自分自身の力で自分を救うことはできないだろう。

今日の福音書の不正な管理人は、それを良く理解していたため、社会の中で救われたのだろう。社会の良い関係を守るためには、自分の力を自分よりも社会のために使わなければならない。

 
メッセージ - C年 年間

テーマ: 「御父の慈しみ」

本日の福音(ルカ15章1-32節)のイエス様はユダヤ教の指導者たち、当時の聖書学者とファリサイ派の人々から批判を受けます。イエス様は、罪人を迎えて一緒に食事をしたからです。彼らは、律法に書かれた掟を破った罪人が神様の罰のもとにあると思い、また罪人と交わる義人も罪人と同じく汚れた者になると決めつけたからです。この批判に対してイエス様は、掟を守ったように見えても、神様の御心に従わない人も神様から離れていると教え、また神様の愛は人間の思いを遥かに超えていることを三つの例えを用いてお話しになりました。

その一つ目は「見失った羊」の例え、二つ目は「無くした銀貨」の例えです。イエス様は神様の御心を良い羊飼いに比べておられます。迷える羊を命懸け捜している羊飼いのように神様は、無条件の愛をもって人生を迷った罪人を捜し、99人の義人よりも回心した一人の罪人の方を大いに喜ばれると言います。また、十枚の中で一つだけの銀貨を無くした女は、これを見付けると友達と一緒に喜ぶように、一人の罪人が悔い改めれば、神様の天使たちの間に大きな喜びがあると説明してくださいました。

三つ目の例えは、一般的に「放蕩息子の例え」と言われています。この例えを最後まで読むと、「父が失った二人の息子の例え」というタイトルをつけたいものです。「放蕩息子」と呼ばれる弟は、父が死後に貰える遺産を、生きている内に直ぐ貰いたいという頼みは、当時のイスラエルの文化の中で、父に直ぐ死んでも良いと言ってしまったことを意味します。また、父に対して親孝行の義務を拒んだことになります。そして、女たちと遊んで財産をつぶしたこと、飢饉の時に異邦人の家で汚れた動物と見なされた豚の世話をすることは、父にとって最大な恥でした。弟は当時のイスラエルの社会で破門されたはずです。

しかし、イエス様は、天の父が人間の思いと遥かに超える偉大な方であることを教えてくださいました。神様は、人間の自由意志と思いを尊重し、願った恵みを与え、人間からどんな侮辱を受けても、ただ回心を待ち続け、どんなに重い罪を犯したとしても、悔い改める罪人を迎えるに走り寄り、愛しい息子として受け入れ、憐れみと慈しみを尽してくださる方です。失った弟は、見つけた息子になりました。

ところで、この例え話の兄は、父と共にいて、畑の仕事を忠実に行うように見えますが、その心は父の心と全然違うものでした。彼は、憐れみと慈しみ深い父を見て、家に入ろうとしませんでした。なぜなら、彼が持っていた父のイメージが違っていたからです。父が自分のように厳しく、罪を罰して赦せないはず者であると思っていたからです。彼のところにも父が走り寄って家に入るようにとなだめたが、残念なことに彼は、本当の父を拒んで失った息子となりました。

このようにして、「父が失った二人の息子の例え」は、私たちに神様について自分のイメージの「偶像」を作らにように教えます。神様は、私たちの思う通りの者になるわけではなく、私たちの手の中に左右される道具でもありません。むしろ、私たちは、御父のように憐れみ深い者になるように呼ばれています。迷う私たちが回心して、誠の神様を求めて御父に戻ろうとするなら、御父は先に私たちの方に走り寄り、愛しい子どもとして慈しんで迎えることでしょう。