メッセージ - A年 降誕節 |
イエスの誕生の次第を羊飼いたちから聞いた者は皆、「不思議に思った」とされていますが、それに対して「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と言われています。このマリアの態度は、お告げの場面で天使ガブリエルの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、というその時の態度にもつながるものです。神の働きに対して、「自分には関係ない」「どうでもいい」という無関心、でもなく、神の計画よりも自分の意思、個人的な望み、独善的な正しさを優先させるのではなく、不安や恐れや疑問があるとしても神の御旨を受け入れる態度です。神の望まれることが何かを完全に理解していないとしても(そして事実できないけれども)、それでも何が神の御旨なのかをいつも求め続ける、問い続ける、そういう信仰の生き方です。
降誕物語の中にも、同じメッセージを見出すことができます。イエスご自身がお生まれになったとき、自分の家でもなく、綺麗な寝心地の良いところでもなく、宿屋からも追い出されたところで生まれ、ふかふかのベッドではなくて、飼い葉桶に寝かされました。自分が快適さや安全の中にいるためではなく、人々に神の愛を示すために、あえて貧しさの中にお生まれになりました。そして、その誕生を祝ったのは、同じように社会の中からはみ出した存在である、羊飼いたちでした。自分の幸せのためではなく、神の御旨を行うため、すべての人を救うため、神の愛を人々に、特に弱く貧しい人々に与えるために死に至るまでささげられたイエスの生き方が、ここに反映されています。
毎年1月1日には神の母聖マリアの祭日が祝われますが、マリアが「神の母」と呼ばれるのは、彼女からお生まれになったイエスが神の子であり、人の意思ではなく神の力によってキリストが誕生したからです。マリアがいつも神の御旨を求めて、神の働きの「手」になろうとしたように、イエスご自身が神の救いを実現するために生涯を捧げられたように、私たちも、この一年間をキリスト者としてふさわしく生きることができますように。
メッセージ - A年 待降節 |
(マタ1,18-24)
「夫ヨセフは正しい人であった。」マタ1,19
順境の時に、他の人に対して丁寧な態度をとり、正しいと思うような行動をとるのは割合に簡単なことですが、大きな問題や困難に直面している時には、それは随分難しくなります。けれども、私たちは、順境においてよりも逆境において、より正確に自分が本当に正しい人であるかどうかが分かります。なぜなら、その時には私たちの心の真の思いや望みによって動かされていることがよくあるからです。
聖ヨセフは本当に正しい人でした。彼は順境においても、逆境においても、正しいことを求めてそれを行いました。自分の花嫁が妊娠しているという事実を知ったヨセフがマリアに裏切られたと思っても当然のことでしょう。当時の法律によって、傷つけられた自分の名誉を回復するために、ヨセフにはマリアを石で打ち殺す権利がありました。けれども、ヨセフは自分の名誉ではなく、マリアの善を優先して考えましたので、自分の評判が悪くなっても、マリアに自由を返すために離縁することにしたのです。
ヨセフがどんな状況においても正しいことができたのは、神を固く信頼していたからです。いつも一緒にいてくださる神こそ、自分を守り助けてくださると確信していたので、自分で自分を守る必要がない、ただ正しいこと、つまり神が示してくださることを行えば十分だと信じていたわけです。
このように神を信頼していたヨセフは、逆に神に信頼されました。神は彼にご自分の子であるイエスとイエスの母マリアのことを任せて彼らを守り世話する使命を与えてくださいました。それによってヨセフは、救い主の協力者になったと同時に、イエスと共に生きることによって救いにあずかるようになったのです。
さて、私たちはヨセフに倣って、どんな状況においても神を信頼して、私たちのもとに来られるイエスを受け入れることによって、神の国の平和と喜びにあずかることができますように祈りましょう。
メッセージ - A年 待降節 |
(マタ11,2-11)
「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」マタ11,4-6
誰にも喜ぶことがあると思いますが、その喜びについて考えたことがありますか。たとえば、自分が何のときに喜ぶのか、何のことで喜ぶのか、つまり、自分の喜びの原因は何であるか、自分を喜ばせるものは何であるかということについて考えたことがありますか。
恐らく、原因に基づいて喜びを二つのグループに分けることができると思います。一つは、自分の期待や望みが適えられることから沸き起こる喜びです。もう一つは、何か思いもかけない、美しいものとの出会いや、自分が想像も期待もしなかった素晴らしい贈り物をいただくことがもたらす喜びです。
第一のグループの喜びを味わうためには、自分の期待や望みを満たせばいいわけですので、この喜びを得るために自分から進んで何らかの働きをすることができます。けれども、第二のグループの喜びを味わうためにできることは、自分の想像力や望みによって視野が狭くならないように注意しながら、意外な贈り物を見失わないために絶えず目覚めていて、忍耐強く待つことだけなのです。
第一のグループの喜びはある程度まで人間が管理できるものですので、人気のあるものですが、第二のグループの喜びは全く管理のできないものですので、それを求める人は少ないでしょう。けれども、第一のグループの喜びが私たちの想像力や能力に制限されているものですし、それを探求している人たちは、他の人を操ったり利用したりして、他人を傷つけることがあり、最終的に自分を傷つけることが沢山あります。しかし、第二のグループの喜びは、私たちの想像力を超えるものであり、全能の神が与えてくださる無限のものなので、誰にも害を与えることがなく、人間の心を広くし、人間を高めるものなのです。
さて、私たちの救い主イエス・キリストに信頼して、イエスが私たちに与えたい贈り物を受け入れることができるように、自分たちが求めているものにこだわることなく、心を開いて、目を覚まして、忍耐強く待つことができますように祈りましょう。
メッセージ - A年 待降節 |
今日の福音には、旧約聖書のモチーフがたくさん現れています。まず洗礼者ヨハネについて、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われていて、預言者イザヤ(イザヤ40:3)の言葉によって彼の役割が述べられています。そして、らくだの毛衣を着て腰に皮の帯を締めているというヨハネの格好が伝えられていますが、これは預言者エリアを彷彿とさせる服装です(列王記下1:8)。更にヨハネは、自分たちが「アブラハムの子孫」だと誇るファリサイ派やサドカイ派の人々を「蝮の子ら」と呼び、彼らに悔い改めるように厳しく求めます。
こうした旧約のモチーフは、イエスが公に活動を始める以前の、古い時代を示しながら、やがて来られるイエスが開く新しい時代を予期させます。洗礼者ヨハネ自身が、自分は人々を悔い改めに導くために「水」で洗礼を授けているが、自分の後に来られる優れた方は、「聖霊と火」で洗礼を授ける、と言っています。旧約とは違う、イエスがもたらされた新しさとは一体、何でしょうか。私たちはイエスの新しさの内に生きているでしょうか。
福音箇所の冒頭にあるように、ヨハネは自分の時代、旧約の時代の終わりにあたって、「天の国は近づいた」と言いました。そして彼の後にやってきたイエスは、その天の国をのべ伝えました。イエスの訪れと共に伝えられた「天の国」は、このマタイ福音書では例えば次のように語られています。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:3)
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:10)
「子供たちを来させなさい・・・天の国はこのような者たちのものである。」(19:14)
心の貧しい人、迫害されても義を行う人、子供のような人を天の国に招くために来られたイエスの訪れを待ちながら待降節を過ごす私たちは、イエスに倣って、このような小さな人と共に生きるよう招かれています。
メッセージ - A年 待降節 |
毎回、新しい典礼年度が始まると、聖なる教会はいつも同じ教えを我らに思い出させてくれます。この世を旅する間、我らはイエスの再臨を待っています。この希望を毎日、ミサの中で大きな声で唱えます。心の中に持っているすべての希望のうち、この希望は最も重要なものであり、この希望が我らに完成されるように、聖書と聖なる教会の教えに従います。この希望はキリスト教から始まったことではなく、ユダヤ教の聖書にも、すでに一般的な形を持つ同じ教えがあります。予言者イザヤの時代、神の国民の立場は、彼らが望んでいる立場とは完全に異なっていました。その時、予言者はユダとイスラエルの不正なやり方に対して批判的な言葉を投げかけるだけではなく、国民の希望を守るため、将来行われるイスラエルの栄光について慰めの言葉もかけました。しかし、この慰めの始まりは次の言葉でした。「さあ、ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。イザヤが発したこの言葉の意味は、もっと良い将来を望み、もっと良い時代を待っている間、常に主に従い、主の言葉を聞き、その言葉の通りに行うということでした。ユダヤ人はこの将来を長い間待っていましたが、主が彼らを訪ねたとき、彼らのほとんどが主を認められませんでした。今でも彼らは主であるメシアを待っています。しかしあるユダヤ人達は、現れた主を認めることができ、主を信じ、主を信頼したので、ユダヤ教の中にメシア的運動が始まり、原始キリスト教ができるまで、主の光の中を歩みました。「主の光の中を歩む」とは、パウロの言葉によれば、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てる」ということです。悪を捨て、善を行いながらイエスの光の中をイエスが再び来られる時まで歩みます。信仰によって義とされたキリスト者は、相応しい準備ができたまま、イエスの再臨を待っています。待っているとは、受け身的な意味ではなく、イエスの言葉に従って善を行い、信仰を伝えながら信仰を守っているということです。イエスが人物としていつ現れてもいいように、キリスト者はイエスのたとえ話の僕たちのようにイエスを待たなければなりません。この基本的な義務を忘れないように、聖なる教会は毎年新典礼年度が始まる時にキリスト者たちにこのことを思い出させます。だから、待降節とは、イエスの誕生日を祝うために待っている期間ではありません。次の一年間、イエスの再臨を待ちながら、信者として信仰の証しをしましょう。