メッセージ - B年 降誕節

民数6:22-27

ガラ4:4-7

ルカ2:16-21

 

第一朗読に、神はモーセに、イスラエルの民への祝福の言葉をアロンとその子らに伝えるようにと命じました。司祭の家系であるアロンとその子孫は主ご自身の言葉でイスラエルを祝福するのです。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように・・・主があなたに平安を賜るように」と。長く厳しい荒野での旅の中での様々な困難に直面する時に、イスラエルはこの言葉を思い出し、励まされたことでしょう。一人ぽちで、不安な時に、誰もが聞きたい励ましと希望に満ちた言葉です。

長い歴史を経て、イスラエルの民にとってその希望の光が消えそうになった時に、ガリラヤのナザレで天使ガブリエルはその言葉をマリアに告げました。「恵まれた方、主はあなたと共におられます。恐れることはない。あなたは神から恵みを頂いた」と。置かれている状況からすれば、たとえ主の言葉であってもマリアはそれを素直に受け入れることは出来ません。しかし、戸惑いながらも、マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と答えました。その答えによって、イスラエルに新たな希望の光が灯されました。

恵みを受けるためには、全てのことを自分が納得する必要はないです。馬小屋で産まれた我が子を飼い葉桶に寝かせた時のマリア様の胸の中には、いろいろな疑問が重なっていることでしょう。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。神は何を望んでいるのでしょう。しかし、十字架の傍らでそれらの疑問が解けるときまで、マリアはその全てを静かに心の中に思い巡らします。

恵みは理解するものではなく、時間の中で生きるものです。恵みに気づくために一つ一つの出来事を静かに思い巡らすことが必要です。

 
メッセージ - B年 祭祝日

 

(ルカ2,22-40)

「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」 ルカ 2,40

神が一緒にいてくだされば、それとも祝福をしてくだされば、人はいろいろな問題や困難を避けることができると思う人が大勢いるようです。それが事実でしたら、どうしてマリア、ヨセフとイエス、つまり聖家族にはイエスが生まれる前にも、生まれた後にもそんなに沢山の難しい問題や困難があったのでしょうか。神は彼らと共にいなかったのでしょうか。彼らを祝福していなかったのでしょうか。

聖家族が体験していた問題や困難は、確かに彼らの苦しみになっていましたが、この家族を壊すことができなかったし、イエスの成長を妨げることもできませんでした。いろいろな困難に直面していた家族の中で育てられたイエスは、他の人、特に困っていた人や苦しんでいた人に対して思いやりのある心を持つ完全な人になることができたのです。

私たちと共にいてくださる神が私たちを祝福してくださるというのは、私たちが歩む道に現れるすべての障害物を片付けてくださるということではなく、それを乗り越えるために必要な力を与えてくださるということであり、また、出逢う悪からも善を引き出してくださるということなのです。もし、私たちは、聖家族のようにいつも神を信頼して、その導きに従うならば、どんな問題や困難に直面しても、それが私たちに害を与えないだけではなく、私たちの益のために働くという確信を持つことができますので、それを恐れる必要はないのです。

 

 
メッセージ - B年 降誕節

朗読: イザ52:7-10

ヘブ1:1-6

ヨハ1:1-18(1:1-5, 9-14)

第一朗読に、預言者イザヤは「いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。・・・その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。・・・歓声を上げ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれた」と告げました。神に逆らうため、イスラエルの民はバビロンへ捕囚人として連れて行かれました。しかし、神はご自分の民を異国の地で囚われの身のままには見ていられません。ペルシアの王キューロスを通して、神はイスラエルの民を捕囚の地から返されました。バビロンからエルサレムへ。捕らわれの地から自由の地へ。これがシオンの町に、エルサレムに告げられた良い知らせです。神の民イスラエルにとっての最大の慰め、最高の喜びです。

神がイスラエルに行われたことはもっと偉大な救いの業、イエス・キリストを通して行われる救いの業を準備するものです。「言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光をみた」とヨハネは宣言しました。「受肉」は神がとった大胆な行動です。神が人間となる、無限の存在が限られている時間と空間の中に入ります。天地万物を造られた全能の神が無力な一人の人間として生まれる。人間を救うために。罪の暗闇の中に閉じ込められている私たちを救うためです。自分ではもうどうしようもできない私たちを救うために、神は愛を持って自分がこの世に来たのです。これこぞが新しいイスラエルにとっての良い知らせです。全人類にとっての最大の慰め、最高の喜びです。

神の受肉を祝うクリスマスはけっしてロマンチックなものではありません。そもそも神が人間になったということは、神が生身の人間となられたということです。冬になると寒く感じ、風を引けば発熱し、頭痛し苦しみます。悪口を言われれば、気げんが悪くなり腹が立ちます。ほめられると喜び、誕生日を祝ってくれるとうれしく楽しく感じます。そんな人間になったということです。四苦八苦の人生の中で、傷つき悩む人間になったということです。神が私たちと同じように生まれ老い、痛み死にゆく人間になったということです。私たちを救うために。これこそが人類にとって、全ての被造物にとって、私達一人一人にとっての良い知らせです。山々を巡っても、声を張り上げて世界に伝えなければならない良い知らせです。

 
メッセージ - B年 待降節

 

第一朗読:        サムエル記下7,1-5.8b-12.14a.16

すべてのことには絶対的な順序がある。子供は大人から生まれる。逆ではない。唯一の神は全世界を順序通りに作り、自然の規則に従って守っている。第一朗読によれば、ダビデ王は唯一の神の力のおかげで王国を作り、エルサレムを獲得した。その唯一の神に対して感謝し、唯一の神のために家(神殿)を建てるつもりであったが、それは唯一の神に許可されなかった。人間は唯一の神のために家を建てることができない。唯一の神は人間の手で作られた建物に住んでいないからである。逆に、唯一の神はダビデの家(王朝)を建てる。つまり、ダビデの王朝は唯一の神に守られた王朝だということである。ダビデの息子(ソロモン)はダビデ王の後継者になる。しかし、それは単にダビデの息子が後を継ぐということだけではなく、いつかダビデの子孫(イエス)が神の子として現れるということを示唆している。

 

第二朗読:        ローマ16、25-27

第二朗読はローマ信徒への手紙の最後の言葉である。それは神に感謝する祈り的な言葉である。ある専門家によれば、この文章はローマ信徒への手紙の要約である。この要約は最も大切な神学的教えを含む。それは次の5つである。

1.パウロが述べ伝えた福音とイエスの教えは異ならない

2.パウロの福音を述べ伝えることの目的はすべての人々が信者として共に同じ道を歩けるようにすることである

3.パウロの福音は秘められた計画を啓示している

4.「秘められた計画」とは救い主イエスのことである

5.イエスによって全世界が救われることは神の技である

 

 

福音朗読:        ルカ1,26-38

時が満ちると、ダビデに与えられた約束が実現された。しかし、それが実現されるためには、一人の少女の信仰と信頼が必要であった。唯一の神を信じるマリアには自分の夢があり、愛するヨセフと婚約して、明るい将来の道を歩き始めたところだった。けれど、ダビデに与えられた約束が実現されるために少女は自分の夢をあきらめなければならなかった。

マリアは天使の挨拶を聞いて「この挨拶は何のことか」と考え込んだ。

マリアは天使の知らせを聞いて子供の授かり方について質問をした。

マリアは質問の答えを聞いて同意した。

このときからマリアの人生は全て変わった。これは神の契約が実現し始めたことのしるしである。

 
メッセージ - B年 待降節

テーマ: 「あなたはどなたですか」(ヨハネ1,19

 

「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

『わたしは、荒れ野で叫ぶ声である。

主の道をまっすぐにせよ』と。」(ヨハネ1,23)

 

人は洗礼者ヨハネに、「あなたはどなたですか。」と聞かれた時、彼はメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないと答えました。しかし、教会の教えに従って、洗礼者ヨハネはキリスト(メシア)の先駆者、旧約時代の最大な預言者です。キリストを信じてきた弟子たちは、どうして律法学者が救い主が来る前に、エリヤが来るはずであると言っていることについて尋ねた時に、イエス様は答えました。エリヤは既に来たが人々は彼を認めず好きなようにあしらったと。そこで弟子たちは、イエス様が洗礼者ヨハネのことを言われていると悟りました。

神学や聖書解釈などによって、洗礼者ヨハネは色々な評価を、様々な名称を受けます。大事なのは、本人が神様の前に自分自身の立場が分かっているかどうかということです。洗礼者ヨハネの場合、彼は自分の召命を知り、自分の使命について公に証ししました。すなわち、自分がメシアでないことばかりでなく、キリストの履物のひもを解く奴隷になる資格もない者、神様の救いの計画の中で預言者イザヤが言った「荒れ野での叫ぶ声」であり、「主の道をまっすぐにせよ」という使命を受けた者、また人に回心のしるしとして水で洗礼を授ける者です。

御降誕祭とは教会典礼の中で、キリストが人となって私たちを救うために来られる出来事を再現するものです。教会である私たちは、今の世の中で、ある意味で洗礼者ヨハネのような使命を果たさなければなりません。神をないがしろにして生きる現代の人々に、神様への真っ直ぐな道を教える「荒れ野での叫ぶ声」となる必要もあります。世間は、「あなたはどなたですか。」といつも尋ねます。社会の役目によって、あなたは社長、先生、サラリーマン、父親、生徒、芸術家、調理師、大工などであると答えたりして、教会では信徒、司祭、教会評議員、聖書朗読者、侍者、先唱者などであると答えたりすることでしょう。

肝心なのは、洗礼者ヨハネのように、神様の前とその救いの計画の中で、自分自身が誰であるかを知り、一人ひとりが自分の賜物に応ずる使命を果たしているかどうかということです。そして、私たちは自ら何者でもなく、キリストの「履物のひもを解く資格もない」者であることを認め、ただ神様の恵みによって、神様に愛されたかけがえのない存在で、キリストの救いの業によって神様の子どもとなった者です。