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序.「カトリック教会のカテキズム」の第一編、「信仰宣言」
「カトリック教会のカテキズム」の四つの中で第1編は「信仰宣言」です。十二使徒の信仰を表現する初代教会が洗礼の時に用いられた信仰宣言は、「使徒信条」と言います。その信条の内容について誤解がないために、最初の二つ教会公会議、ニケア公会議(325年)とコンスタンティンポール公会議(381年)において「ニケア・コンスタンチノポール信条」を決定し、その内容を永久に変わらぬものとしました。使徒信条は洗礼約束の更新、また、文面を問答式にして洗礼の儀に用いられています。ニケア・コンスタンティンポール信条は基本的に主日と祭日の御ミサの時に用いられています。
使徒信条
天地の創造主、全能の父である神を信じます
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生れ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に葬られ、陰府に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。
ニケア・コンスタンティンポール信条
わたしは信じます。
唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。
唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、すべてに先立って父より生れ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。
主は、わたし人類のために、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によっておとめマリアから体を受け人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり、三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
わたしは信じます。
主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。私は、聖なる、普遍の、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来生のいのちを待ち望みます。
アーメン。
これからは、信仰宣言の一つ一つの節を、聖書の言葉に基づいて解説致します。この第二講話は、ニケア・コンスタンチノポール信条の「わたしは信じます。唯一の神(を)」という節の解説になります。
1.「初めに、神」
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった…(創世記1章1-3節)
1)唯一の「神」
聖書の最初の言葉、「初め」は、原文のヘブライ語で「ベレシート(bereshit)」というが、それは時間的なスタートを示す用語ではなく、時間、空間、あらゆる世界の存在以前の永遠性を表現します。現在のありとあらゆる存在の初めは、永遠性に遡る唯一の「存在」に由来するものです。この「存在」のみは、「神」と呼ばれる資格があります。神様は万物を無からお創りになり、「天(シャマイーム)」の霊的な世界も、「地(エレツ)」の宇宙万物も、時間と空間も存在するようになさった創造主です。こうして,すべては唯一の神様によって、唯一の神様のうちにあり、他の神々の存在は有り得ないことを示します。
創世記の「神」は、原文のヘブライ語で、「エロヒーム(Elohim)」と言います。驚くことに、「エロヒーム」は、複数形です。神様が創造の御業を、御自身の「言」と「霊」によって実現されたと書いてありますので、神様の内に交わりの関係があることを示します。旧約聖書は、神様が三位一体であることをまだ明記していませんが、この太初の物語は、キリストによってはっきりと啓示された至聖なる三位一体の信仰を裏付けます。
2)唯一の「神の子」
福音記者の使徒ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(…)言は肉となってわたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネによる福音1章1-4,14節)と信じるために書いています。使徒ヨハネは、唯一の「神の言」が受肉して人間としてこの世に誕生し、それは唯一の神の子、イエス・キリストのことであると言います。
人となられた神の言葉、イエス・キリストは、神様を「父」と呼びます。こうして、御父は唯一の神様の第一ペルソナ(位格)で、キリストは、同じ神様の第二ペルソナであることが分かります。キリストは、もうひとりの神様ではおられません。使徒フィリポが、御父を示してくださるように願うと、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネによる福音14章9-10節)とお答えになりました。いわゆる、御父と御子イエスは、実体も本性も同じで、「一体」であることを啓示してくださいました。
3)唯一の「神の霊」
創世記は、世の「初め」に、「神の霊が水の面を動いていた。」と言います。いわゆる、神様による創造の御業とすべての働きは、聖霊と言われる神の霊によって実現されていると言います。聖霊は、原文のヘブライ語でルアー(Ruah)と言い、神の息吹であり、また命の与え主です。最初の人間(アダム)を創造する時に神様は、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と書いてあります。人を生きるようにした神の息は、ヘブライ語でネシャマー (neshama) と言います。したがって、それは人間が神様によって生かされており、聖霊によって永遠に生きることができるように不滅の霊魂が備えられたことを伝えています。しかし人間が、聖霊(ルアー)御自身を受け入れるか、それとも拒むかは、その自由意志によるものです。もし、聖霊(神)を拒むなら、罪を犯して命の源から遠ざけることになります。もし御心を行うなら、聖霊に満たされて神の命に与り、永遠に生きる者となります。
アダムは、罪を犯したから、人間に死が訪れたと創世記(3章)が教えています。その後、神様は、旧約の多くの預言者たちに聖霊を送り、すべての人を神様に立ち帰るように呼びかけ、神と人とが一つに結ばれて生きるために選ばれた人(アブラハム、モーセ、ダビデなど)、によって御自分の民にしようとイスラエルと契約を結ばれました。また、新約時代に、聖霊によって聖母マリアは神の子を身ごもり(ルカ1章35節)、救い主をこの世に生んでくださいました。キリストは洗礼の時に聖霊を受けて(ルカ3章22節)神の国の実現のために福音宣教をなさいました。また、キリストは、世の終わりまで救いを実現していくために天に昇って御父のもとから弟子たちに聖霊を注いでくださいました。(使徒言行録2章1-4節)
聖霊は唯一の神様の第三ペルソナ(位格)としておられる御方であり、他の神ではおられません。キリストは弟子たちに聖霊を約束してくださった時に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネによる福音16章13-15節)という言葉をもって、父と子と聖霊は、実体も本性も同じだから、唯一の神であることを啓示しました。そして、御昇天なさる前に、すべての人を真の神と一つに結ばれるために、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けるように、弟子たちを全世界に派遣しました。すべての人は「父と子と聖霊」の交わりの中で生きるためです。
2.唯一の主
イスラエルの民がエジプト奴隷になった時に、神様はシナイ山のふもとでモーセに自分自身を啓示しました。出エジプト記の「燃える柴」の箇所でモーセは次のように書いています。
神は(燃える)柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。(...)神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3章4-8,14節)
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神様は「聖」なる御方です。
神様の臨在によってモーセがいたシナイ山のふもとは、聖なるものとなりました。「聖」は、「清い」という意味だけではありません。「ここに近づいてはいけない」という神様の言葉が冷たく聞こえますが、それは神様がすべてを越える方であるという現実をハッキリと現します。神様は、永遠の昔から永遠の未来へと時間も空間も越えて、完全な存在、創造主です。すなわち、神様と人間の間には、創造主とその被造物の究極的な差があり、人間はこの御方に並ぶことができないことを示します。神様はすべてを超越する御方です。その聖性によって限りなく偉大、天国において天使たちも御前では自分の顔を翼で覆うほどに栄光に満ちる御方であると預言者(イザヤの預言6章2節)は言います。したがって、人間は、自ら神様に近づくこともできないし、罪に染められたまま交わることもできません。神様の呼びかけに応えた人のみが清くされ、神様と交わることができます
2.神は「愛」なる御方です。
神様は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると自己紹介し、イスラエルの先祖たちを選び、その子孫までに祝福し、イスラエルをご自分の民とする永遠の契約を結んだことについて間接的に触れています。そして、神様は御自分民の苦しみを御心に留めて、「彼らの所に降って行き...」、憐れみと慈しみを示し、すべての悪から救い、約束の地で祝福を溢れるほどに与えてくださると約束してくださいます。
人間が神様と交わりを可能にするために、神様はモーセに掟を与え、民がそれを守るようにお命じになりました。そしてキリストは、すべての律法と預言者の教えを一つにまとめるのは、「愛の掟」であると言われました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4-5節)限りなく偉大な神様は、小さな被造物であるわたしたちを愛しておられます。その愛に応えてわたしたちは、神様を唯一の主と認め、自分たちの生活のすべての次元でただ唯一の主を愛し、他のものに与える愛も神様さまへの愛の中に置くものとならなければなりません。このようにして、わたしたちは、自己中心から解放されて、純粋な神の愛を、初めて隣人に対して実行することができます。したがって、キリストの愛された弟子、ヨハネは手紙の中で、こう書いています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの第一手紙4章7-8節)
3) 神は「ヤ―ウェ(YHWH)」です。
モーセは、イスラエルの民にどんな神によって遣わされたかという質問に応えるためにその御名を尋ねました。神様は、「私は私です。」(原文の直訳)とお答えになりました。その御答えには、他の神々が存在しないのに、何故、唯一の神に向って、「どこの神か」と尋ねるのかと、いうようなニュアンスが入っています。ここで神様は、自己啓示として、自分の存在を表現する御名を現しました。それは、ヘブライ語の神秘的な四つの文字、YHWH、『わたしはある』という意味の御名です。おそらく、「ヤーウエ」という発音を持った御名は、神様が自らの存在で、すべての存在の源、すべての存在がその内にある御方、いつも共におられる御方であることを教えます。
3.「信じます」
1)信条(クレド)
序の中で紹介しました信条は、ラテン語で信仰宣言は“CREDO(信じます) IN UNUM(唯一の) DEI(神を)”という言葉から始まります。最初の単語はラテン語でCREDOですから、日本語でも信条を「クレド」とも言います。クレド(Credo)は、単数一人称の動詞ですから、「わたしは信じます」という意味になります。皆と合せて形式に唱える文だけではなく、信条は一人ひとりの信仰告白です。
唯一の神様は、人間の理解を超える「三位一体」いう神秘です。キリストは、至聖なる三位一体について次のように説明しています。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネによる福音16章13-15節)と。以上の箇所は、神様が唯一であるが、孤独ではなく、「父と子と聖霊」がこの三者の存在様式をもつことを示します。三者の区別は、その起源の関係に由来し、御父が御子を生み、御子は生まれ、聖霊は発出します。御父全体は御子の内に、又聖霊の内にあり、御子全体は御父の内に、又聖霊の内にあり、聖霊全体は御父の内に、又御子の内にあります。三位は実体と本性の相違も上下関係もありません。神様は、三位の相互の交わりにおいてすべてを与え合い、ご自身の三位を一体にする完全な愛です。
2)「神との契約」
聖書はわたしたちが神様を信じるための、神の啓示です。聖書によると、「信じる」とは、神の存在を認めることだけではなく、神様との関係です。神様と人との関係は、聖書の中で「契約」によって表されています。こうして旧約聖書に神様は人間と繰り返して契約をお結びになりました。ノアの契約、アブラハム契約、モーセによって結ばれたシナイ山の契約とダビデの契約です。旧約時代のすべての契約は人間側で破られました。
イエス・キリストは、最後の晩餐の時に御自分の死と復活を持って神と新しい契約を結び、すべての人々を洗礼の秘跡によってその契約に与るように招き、最後の晩餐を再現する御ミサの中で、御聖体の秘跡によって、その契約は教会の中で実現していきます。それは次の福音の言葉によって表現されています。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカによる福音22章19-20節)
日本語の「契約を結ぶ」とは、両者のメリットのために、相互関係を法律的に取り交わすものを意味します。ところで、ギリシア語で書かれた福音書は、ディアテケ(diatheke)という用語を用いています。ディアテケ(契約)は、一方が他方に無条件に恩恵を与える法律上に結ばれた両者の関係を現します。この法律は、遺言に用いるケースが多かったのです。ヘブライ語を話されたキリストは、「契約」のことをベリス(berith)と言われていたに違いません。「ベリス」は、双方の望みで結ばれた契約を意味するわけではなく、一方が自ら他方に恩恵を約束し、他方はこれに同意してそれを受け入れるならば、その恩恵によって双方は一つに結ばれることを意味します。
信条はラテン語で“SYMBOLUM FIDEI”と言います。日本語で用いられている外来語、「シンボル」は、「象徴」と同じような意味で用いますが、ギリシア語のシュンボロン(symbolon)は、元来、二つに割った物の半分を意味しました。認識票として提出するために割り符は合わされて、携帯者を識別するしるしとされました。同じように、わたしたちが持っている信仰は、「シュンボロン(symbolon)」でなければなりません。本当の信仰の持ち主は、自分の信じる心を神様の御心に合せると一体になると、いうシュンボロンを持つ者です。換言すれば、信仰生活は、「契約(ベリス)」の中で神様と一つに結ばれて生きることです。
結. 宇宙万物のすべての被造物も、わたしたちも存在するのは、唯一の神様が「愛」だからです。永遠で別け隔てのない真の愛の内にすべてが在るから、わたしたちはその愛に応えて、神様の栄光を讃えること、自分を神様のものとして委ねることを最大な喜びとし、人類の皆を兄弟と見做して大切にし、被造物のすべてを感謝の内に正しく用いる惠みと力を頂けます。
メッセージ - B年 年間 |
第一朗読:エレミヤ 23,1-6
エレミヤは、予言者として紀元前626年から紀元前585年まで活動しました。この時期は独立国としてのユダ王国の最後の時代でした。紀元前585年からバビロニア隷属の時代が始まりました。そのような時にエレミヤは王様や長老たちや祭司たちを強く批判したので、死ぬまで、国民の敵だとか裏切り者だという評判でありました。彼の言葉が真実であったということを国民が理解できたのは、バビロニア隷属に陥った後のことでした。エレミヤが王国と国民を守るために述べた様々な予言の中に、メシアについての予言があります(エレ23、5-6)。このメシアの名前は「神は我らの正義」というものです(エレ23,6)。彼はダビデの子孫であり、彼が現れる時、ユダ(ユダ王国)とイスラエル(イスラエル王国)は救われます。この予言は国民が希望を持ち続けられるように述べられた、神の言葉でした。
第二朗読:エフェス 2,13-18
エフェス使徒への手紙の著者によれば、イエスはメシアとして世界を救いました。ここでの救いという表現には二つの意味があります。まず、世界には二つの別々に存在する人間のグループ(神を知るユダヤ人と神を知らない異邦人)があり、それらを一致した一つのグループにされました。モーセの律法を持っているユダヤ人は罪を犯せば、モーゼの律法に基づいて救われません。モーセの律法を知らず、自然の律法も守らない異邦人たちは、唯一の神に救われません。両方のグループの人々は、別々に生活して同じ目的に向かい続けました。しかし、イエスはどちらのグループの人々も罪が許されるように、ご自分の命を捧げました。そのおかげで、両方のグループと唯一の神の間は平和になりました。イエスを信じているユダヤ人も異邦人も、一つの唯一の神の民です。
福音書:マルコ6,30-34
他のユダヤ教の指導者と比べると、イエスはすべての人々に出迎えられました。会堂で人々を待っているラビのような先生ではありませんでした。確かにイエスは会堂でも説教をしましたが、時には大自然の中でもそうしました。モーゼの律法に基づいて倫理的な生活をする人々に対してだけではなく、異邦人のような生活をするユダヤ人に対しても、教えと不思議なことをしました。イエスは正しい羊飼いのように、すべての羊(よい羊と迷った羊)を集めった。
メッセージ - B年 祭祝日 |
使徒12:1-11
テモ4:6-8,17-18
マタ1613-19
イエスとペトロとの出会いはガリラヤ湖のほとりで起こりました。父と兄弟アンドレと共に網を直している時でした。仕事に夢中になっているペトロに「私に従いなさい。人間をとる漁師にする」と。イエスの呼びかけに答えて、ペトロは本職をも投げ捨てて、イエスについて回ってきました。真面目でひたむきなペトロの姿にイエスは目をつけていたことでしょう。弟子たちの間にペトロが中心的な役割を果たしていたのも驚くことではないのです。「あなた方は私を何者だというのか」という弟子たちへの大変重要な問いかけに、ペトロは真っ先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。その見事な答えに、イエスはペトロに教会を築いていく使命を与えました。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を立てる」。真面目でひたむきなペトロ、しかし、あれから間もなく、ペトロはイエスを三度も知らないと否定しました。自分の弱さを抱えながらも、最後に、「あなたは私を愛しているのか」と三度繰り返し聞かれる時に、ペトロはその度に「主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えました。そして、ペトロは命をかけてその言葉を守り抜きました。
パウロは復活したイエスと出会いました。ダマスコに向かっていく途中でした。ひたむきに律法を守ろうとするパウロに「なぜ私を迫害するのか」とイエスは問いかけました。今までの熱心さは間違っていた方向だったことにパウロは気づきました。あれからパウロは信じる人々を迫害するものから信仰を誰よりも熱心に伝える使徒となりました。しかも、今まで守ってきた律法を越えて、異邦人のための宣教の開拓者となりました。最後にパウロはイエスのために自分の命をかけて、信仰を守り抜きました。
ペトロとパウロ、二人は異なった道を歩みました。二人は異なった使命が任せられました。しかし、二人が共通するのはイエスへのひたむきな思いでした。二人はけっして完璧な人間ではないです。そうではなくて、つまづくたびに起き上がることを諦めない二人です。自分を変えることを惜しまない二人です。弱さを抱えながらも最後までイエスに従う二人です。イエスの弟子となるのにもっとも大事なことを聖ペトロと聖パウロから学ぶことができるのです。
メッセージ - B年 年間 |
マコ5,21-43
「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある。」知1:13-14
神が人間を創造されたのは、ご自分の命を人間と分かち合うためなのです。言い換えれば、神の命にあずかることが人生の目的であって、人間にとって最高の幸福の状態なのです。
残念ながら、昔も今も多くの人は神のことを自分と何の関係もない存在や、自分の幸福を妨げるもの、また、自分の不幸の原因として考えて、神を全く無視するか、神を恐れたり憎んだりして、なるべく神と関わらないようにしています。
幸いに、多くの人は神について以上のように考えても、神に対してそのような態度をとっても、神はご自分の最初の望み、人間の創造の理由であったこの望みを捨てることなく、一人ひとりをご自分のもとに導くように、そしてご自分の命にあずからせるように絶えず働いておられます。神の子であるイエス・キリストの言葉と行いがこのような神の働きの最も重要で、決定的な部分なのです。
人間になった神の子は、人間に分かりやすい方法で、神が人間の一番力強い味方であるということ、神こそ、人間のために豊かで、充実した生活を求めておられること、また、神だけが人間をありとあらゆる苦しみや危険から救い、永遠に続く幸福を与えることのできる方であることを示してくださったのです。
イエスの証を信じて、神のもとに集まって、神の命にあずかるようになった私たちは、イエスの働きを続ける使命を与えられています。私たちは、命の源である神の愛を感謝しながら、この愛に忠実に生き、死ではなく、命をもたらすことによって与えられた使命を果たすことができますように祈りましょう。
メッセージ - B年 年間 |
第一朗読 ‐ヨブ38, 1. 8-11
唯一神は全世界を造りました。世界は最初から最後まで唯一神の御旨通りに造られたのです。だから唯一神は全世界を支配します。創造の時、唯一神はすべてのことに限りを定めました。第一朗読の言葉は海に関する話です。大地や海や空は唯一神によって造られた生き物のための場所です。生き物は種類によってそれぞれ別の場所で暮らしています。人間の場合は海や空に行くことはできますが、そこでは住めません。人間は大地に住んでいます。人間が安全に生活できるように、海の力は唯一の神によって限定されました。海が人間の命を奪うことは、唯一神の御旨ではありません。
福音書 ‐マコ4、35-42
ガリラヤ湖はあまり大きい湖ではないですが、強い風が吹くと、時々海のような波が立ちます。そういう時のガリラヤ湖はとても怖いです。福音書の朗読によれば、イエスと彼の弟子たちはそのような経験をしました。弟子の中には漁師もいましたが、突風と戦うには力が足りませんでした。船が波をかぶっている状態にあって、自分の命を失う可能性があるという理解しかできませんでした。この理解に基づいてイエスに助けを求めました。神の子であるイエスは神である父と同じく、自然を支配できる方として空風を静めました。人間にはそのようなことはできません。人間はたいてい自然に負けます。そこで、弟子たちはイエス自身について考え始めました。
第二朗読 ‐二コリ5,14-17
第二朗読の言葉は、第一朗読の言葉や福音書の言葉とは関係がなさそうに見えますが、実はそうではありません。一般的に言えば、人間は大自然を見れば神が存在するということが理解できます。自然の力を見たら人間の力では到底及ばない強さがあるということを学びます。しかし、それよりもっと唯一神のことを深く知るためには、別の方法があります。それは信仰の道です。コリント教会の信者たちはイエスについての福音を聞いて(例えば今日の福音書)、イエスが普通の人間ではなく、神の子であるということを信じ始めました。この信仰のおかげでイエスと深く関係することができるようになりました。