メッセージ - A年 四旬節

テーマ:  イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 (ヨハネ 1,10)

サマリアの女はユダヤ人の男性(イエス様)が井戸から水を汲んで飲ませて貰いたいことにびっくりします。ユダヤ人とサマリア人が敵対を持ち、互いに交わらないからです。その背景には、バビロン捕囚時代にユダヤ人を苦しめたメソポタミアの血が原住民人の血と混ざり、サマリア人の内に流れ、彼らはユダヤ人と、民族的、政治的、宗教的な対立を持ち続けました。

私たちの人生の中で、人と人、男と女、各グループや宗教の間、また民族の間には隔たり、反感、敵対がたくさんあります。私たちは、自分の違うことを強調し、他人を、また他の地方の人々を疎外し、傷を与えたり受けたり、愛に背く行動を度々起こしたりします。互いに摩擦を避けるために距離を置いて交際しないこともありますが、その状態は平和とは言えません。それは、多くの偏見や誤解を招き、次の時代にも伝わって憤りや憎しみを心に抱くようになります。この心は、相手の不幸を自分の勝利として喜ぼうとしますが、逆に荒れ地のような心の空洞になります。何故そうなるかは、キリストがサマリア人の女に話した言葉な中に答を見付けます。すなわち、私たちは度々、「神からの賜物」を知らないからです。

その賜物はキリスト自身です。キリストは、人間としても、神としても、罪深いサマリア人の女に近づき、宗教と男女差別、政治的な敵対、民族と文化の違い、彼女の罪などの「壁」を乗り越えて、「井戸の水を飲ませてください。」という言葉をもって彼女の心を開くように叩きます。キリストとの対話の中で、サマリア人の女は自分の心の「井戸」を開いて、もう渇くことがないように、永遠の命の泉であるキリストからの賜物を頂きたいと思うようになりました。キリストは生ける水として彼女の内にお入りになり、罪を清め、救いの喜びで満たしてくださいました。その喜びを町中に広め、多くのサマリア人は、神の賜物であるキリストを知り、信じるようになりました。

罪と欲望にさらされ、自己中心のために荒れ地のようになった私たちの心は、度々無意識にも「神の賜物」を渇き求めます。キリストは十字架の死に至るまで私たちを愛しぬかれ、罪を取り除き、御復活を持って私たちに永遠の命を与えてくださいました。この賜物は、洗礼の水の印の内に私たちに注ぎ、御聖体などの秘跡の内に神御自身を頂きます。自己中心、偏見や傲慢によってバラバラになったりする私たちは、キリストの内に一つに結ばれることができるように最善を尽くしましょう。

 
主日の朗読聖書 - A年 四旬節

マタイ17・1-9

1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 
メッセージ - A年 四旬節

 

「ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」マタ 17:4

ペトロにとってキリストの栄光の姿を見ることは、最高の幸福の体験だったでしょう。おそらく、彼が三つの仮小屋を建てる提案をしたのは、この幸せの時を少しでも長くするためだったのではないかと思います。けれども、許可をもらう代わりに、この場所を離れて、イエスに聞き従うように命令されたのです。

喜ばしい時を伸ばしたいという望みは、悪いものではないし、どちらかというと自然なことでしょう。それならどうして、ペトロは、この望みに従うことを許されなかったのでしょうか。このことが分かるために、先ず、人がなぜ喜ばしい時を伸ばしたいのか、なぜ幸せと感じている時を手放したくないのかということについて考える必要があると思います。

一つ可能な理由とは、今の喜び、今の幸せが最高のもので、これだけで充分、これさえ保つことができれば他に何も要らないという考え方です。けれども、そのような考え方の裏には、大きな心配が隠れている可能性があります。つまり、これ以上に喜ばしいことがあり得ないとか、これ以上に素晴らしいことが手に入れられないというような絶望感なのです。

味わっている喜びや幸福は、自分の働きの結果であるとか、幸運のせいとか、偶然に手に入ったものであると考えている人の場合、以上のような心配は不思議ではないでしょうが、それは、神がくださった賜物であると信じている人の場合、非常に大きな問題なのです。なぜなら、このような心配は、この人が神の力や愛を信頼していないということを表しているからです。

神には無限の力がありますので、いくら素晴らしい賜物を与えてくださっても、これ以上に素晴らしい賜物を与えることができます。神の愛も無限のものですので、与えた賜物以上に素晴らしいものを与えたいと望んでおられます。けれども、人間は神の力や愛を疑って、心配したり、いただいた賜物に執着したりすることによって、自分の心を閉じますので、この賜物を受け入れることができなくなるのです。

 
メッセージ - A年 年間


テーマ:「何よりも神の国と神の義を求めなさい。」

 

私たちの一人ひとりは、自分の人生の中で何を求めているでしょうか。自己実現を求めているが、自分自身に命も与えることなく、心も理性も与えることはできません。神様の御旨がなければ、私たちの存在はまったくありません。それでも、私たちの人生の中で神様とその義は何番目になっているでしょうか。教会の現実を眺めていると、神の国と神の義を最優先にすることは、何と珍しいことでしょう。先には、仕事、次に勉強、その後にクラブ、趣味、楽しみがあり、主日に教会に来ても、遅れる人も多く、ある信者は、御ミサ最中に携帯電話やE-mailを応対したり、ビジネスをやったりすることもあります。御ミサの後に教会でイベント、行事や会議などが行われる場合、至聖なる秘跡の内におられるキリストが無視され、人間の考えた催しの方が大切になります。

主の祈りの中で、「御国が来ますように」と毎日に口にして祈る信者の多くは、心の中で神様が来ることを怖がっています。なぜなら、神無しに地上で幸せを掴もうとして自分の富と名誉を求めるからです。しかし、満たされることなく欲をやしなうのに、思い悩んで忙しくしています。このようして人間は、食べ物、衣服や住まいを得るために自分の体と命を犠牲にする自己矛盾に堕います。ここで、イエス様は、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と私たちに問い正しています。自分の寿命を僅かでも延ばすことができない私たちは、空の鳥にも野の百合にも無償に小さな命をおしみなく与えてくださる全能の神様を、どうして求めていないのでしょうか。私たちは、「自分の国」を作りたいという誘惑を持っているからです。

キリストは、掛け替えの者として私たちを十字架の死に至るまで愛してくださいます。私たちもキリストの愛に応えて自分の命よりもキリストを愛するならば、神様が私たちの無限の富として御自身を与えてくださり、私たちは神の愛と永遠の命に満たされることでしょう。

 
主日の朗読聖書 - A年 年間

マタイ5・38-48

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」