メッセージ - C年 祭祝日

(ヨハ16,12-15)

「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、

私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、

神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」ロマ5,1-2

 

イエス・キリストが私たちのために、ご自分の命を与えてくださったことによって、完全な愛というのは、愛する人のために自分自身の全てを奉献することであるということを、示してくださいました。

 

父と子と聖霊は、このような完全な愛を以て互いに愛し合っておられるがゆえに、つまり、互いに完全に与え合い受け入れ合うがゆえに、一致しておられます。したがって、父と子と聖霊は異なるペルソナ(位格)であっても、一体であり、唯一の神なのです。

 

すべての人が、三位一体の神の愛の交わりに参与するように招かれています。実は私たちは、愛によって神と結ばれて、神と一つになるために創造されていますので、この目的に達していない限り、私たちの心の望みは満たされないし、永遠に続く幸せを味わうこともできないのです。

 

神の御独り子が人間になって、あがないのわざを成し遂げることによって、罪のために神から離れていた人間は、再び神のもとに帰ること、神と和解すること、神と一つになることが可能となりました。その結果として、聖霊降臨の時、神はご自身を全人類に与えてくださったのです。

 

洗礼を受けることによって私たちは、聖霊とともに父と御子を受け入れましたが、三位一体の神の愛の交わりに完全に参与し、神と一体になるためには、私たちが自分自身を神に奉献する必要があります。キリストに従い、キリストのように隣人を愛するように努力することによって、すなわち自分のためではなく、他者のために生きるように努力することによって、私たちは少しずつ自分自身を三位一体の神にささげ、神の愛の交わりを深めていくのです。

 
聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

「教会を信じる」とは、唯一の神である聖霊を信じる信仰箇条、「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」の中の一節、「聖なる普遍の教会」を信じるという信仰告白です。換言すれば、教会が聖霊の被造物であり、聖霊の現存と働きの場であるから教会を信じることは、神様である聖霊を信じることになります。

 

1.教会の名称

初代教会は、御自身のことを、「エクレジア(召集、呼び出されたもの)「キュリアケー(主に属するもの)」という二つの用語をもって名付けました。

「エクレシア」は、教会が人間によるものではなく、神御自身が呼んでくださった集いであるというアイデンティティを現し、「キューリアケ」は、教会が人間の力によって存在し運営されている社会組織ではなく、キリストを御自身の主(キュロス)とし、御心に適う組織を持ちながら神様の所有であり、地上の次元を超える永遠の存在、キリストによって救われて聖とされた集いでです。旧約時代の預言者たちが、イスラエルの民の神様との関係を、神様が「夫」とイスラエルが「妻」と名付け、両者を「夫婦」で表現されています。この比喩的な表現を意識して、初代教会は、自分のことを、「花婿」キリストに属する「花嫁」として言い表しました。

 

.「教会」の旧約時代の起源

1)神様に呼ばれた最初の人間

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちにあたえよう。」

(創世記1章27~29節)

初代教会の信者は、「世界は教会のために造られた。」と言いました。以上の創世記の第一創造物語(創世記1章)によりますと、神様は六日間で全世界を作り、最後にご自分に似せて象りとしてお造りになった人間にすべてをお与えになりました。人間は神様の造られたものであり、「神の似姿」として神様の愛の交わりに呼ばれ、多くの子孫に恵まれて自然界で神様の創造に参与するように呼ばれています。第二創造の物語(創世記2章)によりますと、神様が人間を造り、人間は楽園で神様との交わりの中で幸せに生き、天国の先取りを味わったのです。この太初物語の楽園の生活は、神様が永遠の昔からお考えになった神と人の交わりの教会の原点と理想の象徴でもあると言えます。

人間が神様のようになりたい程の傲慢によって犯した罪は、両者の関係を壊しました。これを象徴する人祖アダムとエヴァが犯した罪です。神様は、二人を交わりに呼んでくださいました。即ち、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3章9節)と。アダムは罪のために相応しくないと自覚し、「『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3章10節)と答えて交わりをお断りしました。お詫びもなく、罪の責任を認めようともしない人間は、自分で地上の楽園を終りにしました。ところで、「どこにいるのか」と人間を呼び出すという神様の行為は、「エクレジア(教会)」という未来の教会を呼び起こす声であるとも言えます。アダムとエヴァを罪に誘惑した悪魔に向って神様は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節)と言われて、救い主の誕生を予告し、神と人との親密な関係が戻る計画を啓示されました。その結果として、救いの歴史が始まり、その救いはキリストの御死去と御復活によって成就されました。そして、教会の時代が始まりました。

 

2)アブラハムの召命

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12章1~3節)

神様は、アブラハムを属していた故郷と家族から呼び出され、御自身に属すものとするためでした。その子孫も神様のものとするために、神様はアブラハムと契約を結ばれました。「主に属するもの」となるアブラハムの家は、「教会(キュリアケー)」の前兆となりました。神様が御計画なさった教会は、アブラハムの子孫に留まらず、彼の信仰によって、地上のすべての氏族に及ぶものであなければならないと約束してくださいました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6節)という御言葉は、アブラハムが生きた信仰によって、信じるすべての人の父となったことを示しました。教会は代々にわたって、アブラハムのような信仰を求めています。

 

3)モーセ時代の神の民

(主は彼らに語りかけて言われた。)今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19章5~6節)

エジプトの奴隷から解放され、約束の地を目指して砂漠を渡っていたイスラエルの民は、神様によってシナイ山のふもとに呼ばれ、モーセの仲介によって「神の十戒」を受け入れて「契約」を結び、「神の民」となりました。イスラエルは、神の声を聞き従うことと契約を守ることの条件で神の民となり、教会の前兆(前印)となりました。しかし、イスラエルは、罪を犯して、神様との契約を破りましたから、何世紀にわたって多くの預言者たちは救い主の誕生によって、新しい契約が完成されると預言しました。

例えば、預言者エレミヤを通して、神様がキリストによって救われた神の民は次の通りとなることを教えてくださいました。「(主はこう言われる。)『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、』と主は言われる。『わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。』」(エレミヤの預言31章33-34節)と。それは、未来の教会の使命について述べられた御言葉であると言えます。

 

4)ダビデに約束された永遠の王国

「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。(...)彼が過ちを犯すときは、わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。(...)あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

(サムエル記下7章12~16節)

神様の幕屋をエルサレムの中心に置き、深い信仰と熱い愛をもって神様に忠実なものとなり、多くの詩編をもって神様の御業を賛美し、神殿も建てようとした王ダビデに神様が以上に記されている約束を与えました。ダビデの子孫に与えられる王座が永遠に続くことは、預言されたダビデの子イエス・キリストが御復活によって実現されました。こうして、未来の教会は、神の国(王国)と言われ、人間ではなく、神様の義と愛によって統治されることを促しています。

 

3.「神の国」の到来として創立される教会

「イエスは(洗礼を受けた後)、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

(マルコによる福音1章14~15節)

 

キリストが宣べた伝えた福音とは、人間が罪のために神様から離れてしまいましたが、神様の愛は変わることなくいつも共にいることです。人となられた神の子キリストは、その目に見える表現です。人間の方から必要なのは、「悔い改め」であり、神様が人の心と人生を支配するために、罪を捨てて神様に立ち戻ることです。罪人が神ないがしろにして生きる世界に神様が君臨するようになることは、神の国の到来です。即ち、地上教会は、天国の先取りであり、人間が地上の生活を終わった後に天国に入ってから、天上で完成されます。

人間が神様を受け入れて救われるために、キリストは多くの例えを持って、神の国について語りました。度々、神の国は「種」に似ていると言います。神様はキリストを通して私たちに永遠の命を与えてくださいます。神側では我々の救いが実現されました。「種」の例えは、神様を信じることによって、私たちの内に神の命が成長し、人間は神の子どもになることを教えます。こうして、「教会」は、永遠の命の種を成長させる「神の畑」「ぶどうの木」「オリーブの木」などで表現されています。

そして、遊牧人のイスラエルに、イエス様は神の国を「羊の囲い()に例え、羊の命を守るために善き牧者となられました。そして、羊飼いが羊を牧場に導くように、キリストは先頭にたって、人を天国に導きます。したがって、教会は、「神の家」「神の家族」、「私たちの母」と呼ばれ、聖霊の交わりの中で、信者たちは、神様を自分自身の父、キリストを自分の兄弟、聖母マリアを自分の母と致しました。

 

4.教会の創立者であるキリスト

イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。 (マルコによる福音3章13~19節)

十二使徒に聖霊が注がれた時から教会の時代が始まります。したがって、教会は聖霊の被造物であると言います。聖霊に満たされた十二使徒が、神の子、キリストによって選ばれ、キリストから神の権能を受けて全世界に派遣されたので、教会の創立者は、キリストであると言います。使徒たちはキリストに属する者として、教会のモデルになります。イエス・キリストは、教会の頭です。キリストと一致して、教会は地上で悪霊を追い出し、キリストの権能を持って御言葉と秘跡に神の国を建設します。

キリストの権能を受けるとは、使徒ペトロのような信仰に基づくものであります。シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白した後に、イエスは言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイによる福音16章16-19節)と。キリストは使徒ペトロだけではなく、十二使徒がキリストと結ばれて救いの業を行うことができると約束し、権能を与えられました。

福音に基づくと、キリストは十二使徒に、洗礼によって教会のメンバーを増やし、罪の赦しと霊的な糧である御聖体という秘跡をキリストの名によって行う権能をお与えになりましたので、以下の福音箇所は、キリストが教会の創立者であることを証明します。

洗礼を授ける権能

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音28章19-20節)

罪を赦す権能

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音20章23節)

 

御ミサを献げ、エウカリスチア(聖体の秘跡)を授ける権能

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカによる福音22章19節)

 

結び:

聖霊の被造物である教会にキリスト自身が御父と共に生きておられます。次の講話の中では、ニケア・コンスタンチノポール信条が信じるために紹介する唯一普遍使徒的という教会の四つの特徴を中心にして紹介することになります。

 
メッセージ - C年 復活節

 

第一朗読:使徒言行録2,1-11

イエスは自分の死及び復活の後、四十日にわたって自分の弟子たちに現れ、彼らが人間の救いについてイエスの福音を述べ伝えられるように必要な準備をされました。この期間を終えた後、イエスは昇天し、イエスの弟子たちは、この世界で宣教活動を始める前に、天から降った聖霊を受け取りました。このおかげで彼らはイエスの命令どおり(使徒1,8)世界中に福音を述べ伝え、主イエスの証人になりました。しかし、聖霊降臨の主日にはそれ以上に重要な意味があります。まず、聖霊降臨とは終末的な時代が始まったということを証しする出来事です。預言者ヨエルによれば(ヨエル3,1-5)、この世界が終末を迎えるとき、唯一の神を信じているすべての人々が聖霊の力を受け,この力のうちに唯一の神の証人となり、救われた人々となります。終末の時代は聖霊降臨から始まり、今も続いています。この時代にキリスト者たちは証人としてこの世に暮らしています。また、聖霊降臨はキリスト教が神による正しい宗教であると確認できる出来事でもあります。もう一つの聖霊降臨の意味は、キリスト教が人間の力によって始まり,続けられ、最後まで真実の信仰を守るというものではなく、最初から最後まで聖霊の力で存在するということです。つまり、一人一人の信者も聖霊の力のうちに信仰の道を歩いているのです。

 

第二朗読:ローマ8,8-17

イエスの弟子達だけが聖霊を受け取ったのではなく、イエスを信じたすべての人々が聖霊を受け取りました。それは堅振式の時に行われたことです。その時からずっと信者一人一人が聖霊のうちに生きています。聖霊のうちに生きるということは、信仰や人生に関するすべてのことを、自分の力ではなく聖霊の力を使ってできるということです。それは人間の弱さと戦うこと(ローマ8、12-13)や救いに関すること(ローマ8、9-11)、キリスト者の尊厳(ローマ8,14-17)などを意味します。キリスト者として正しい生活ができるように、そして人間として幸せな生活が送れるように、聖霊の力が必要になります。

 

ヨハネ14,15-16.23-26

キリスト教の信者たちは、イエスが昇天してからは、一人で信仰の道を歩いているのではなく、イエスの約束通り聖霊を受け取って聖霊と共に最後までキリスト者の生活をしていきます。聖霊と共に生活をするということは、毎日の生活に聖霊の七つの賜物を使っているということです。堅振式の時に受け取った聖霊の賜物を使えば、信仰やキリスト者の生活を間違えることはありません。霊霊の七つの賜物とは次のものです:「知恵」(wisdom)、「悟り」(understanding)、「助言」(counsel)、「勇気」(fortitud/courage)、「知識」(knowledge)、「愛」(piety)、「畏敬」(fear of the Lord)。これらの賜物のおかげで、何よりも「唯一の神を愛し」、そして「自分のように隣人を愛し」という二つの掟が最も大事なことであると理解できます。

 
メッセージ - C年 復活節

テーマ: 「イエスは、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルカ2451節)

 

イエス・キリストは、三日目に死者の中から復活して弟子たちに何度も現れ、四十日目に身体と共に御昇天なさったと福音の中で書かれています。 今日、教会が御昇天を記念してお祝いをするに当たり、私たちはこの救いの神秘に与るように、御言葉にもとづいてこの出来事の意味を心に留めましょう。

人となった神の子、キリストは、歴史上の一人の人間として決まった場所で生れ、生活し、活動なさいました。御自分の死と復活によって成し遂げられた救いの業も歴史的な事実であり、それは、ローマ総督ピラト時代にユダヤ人の過越の祭の準備の日に、エルサレムで実現されました。キリストの業を目撃して体験できた人は、時間的にも、範囲的にも非常に限られていました。復活したキリストに出会った人が数百人に留まっていると書いています。ところで、御昇天の出来事は、キリストの救いの業を超越させました。キリストとの地上の出会いとその救いに与ることは、時間的にも空間的にも限られていたが、御昇天によって普遍的なものとなりました。キリストは、ご自身の存在をみ言葉と秘跡の内に秘められ、成し遂げられた救いの神秘を弟子たちに委託し、彼らを全世界に派遣されました。こうして、いつの時代の人も、どこでもキリストに出会うことができ、代々とこしえに誰もがキリストの救いに与ることができるようになりました。

キリストの御昇天をもって、地上の人生は一時的なものであることを実感させられます。キリスト者とは、地上の人生の目的を知る人であり、キリストのように生きるため、神様の愛とキリストの死と復活について証しするために生きる者です。神様のお望みは、地上の生活を終わった後にすべての人が天国に入ることです。人間が送る地上の生活は必ず終ります。ところで、キリストは御昇天をもって、人生が天国への旅であることを示し、天国を目指していく模範を示してくださいました。キリストは、御昇天の際に、十二使徒を、御自身の復活の証人として全世界に遣わされました。

ところで、キリストは弟子たちに自分の思いや気持ちに従がって証しすることをお許しなりませんでした。本日の福音の中でキリストは御昇天の直前に十二使徒に、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい。」(ルカ24章49節)と言い残してくださいました。また、第一朗読の中で聖ルカは、イエス様が御昇天の直前に次の言葉を弟子たちに語ってくださったと言います。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまでわたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)と。即ち、キリストは、聖霊降臨を待つようにお命じになりました。そして、聖霊に満たされた者は、初めてキリストによる救いの出来事について証しすることができます。換言すれば、聖霊ご自身が私たちを道具にして、キリストの死と復活について証しするのです。

現代教会の福音宣教も、聖霊の望まれるままに行われる所では、多くの実を結びますが、人間の計画を優先する世俗化の環境では衰える現実に遭遇します。今日、典礼上で再現されるキリストの御昇天は、十二使徒に倣って聖母マリアと共に祈りの内に留まります。洗礼と堅信の秘跡の中で頂いた聖霊が自分たちの内に働くように致しましょう。キリストの死と復活によって成し遂げられた救いの業を自分たちの生活を通して実現して行くことができますように祈り、支え合って行きましょう。天に昇られたキリストは、弟子たちを祝福していたように、私たちの信仰生活を祝福し、御自身の霊を持って、世の終わりまで私たちと共に生きておられます。

 
メッセージ - C年 復活節

 

(ヨハ14,23-29)

 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」ヨハ14,27

 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」というイエスの言葉は、ミサが行われる度に唱えられるほど重要なものです。この言葉を語られた後にイエスは、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14,27)という言葉を付け加えて、自分が与える平和と一般的に考えられている平和とは、違うものであると強調されました。

 

ある国語事典によれば、平和とは、「心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活ができる状態」です。考えてみれば、そのような平和を実現するためには、悪い行い、他人を悲しませ、傷付けるような行いを避けるだけで十分です。それは簡単に見えるかもしれませんが、人類はそのような平和さえもなかなか実現できないのです。歴史を見れば誰でも分かることですが、自分の幸福だけを求めている人は、自分が弱い時、相手と争うことが自分の損失になるだろうと思う時、悪いことを諦めて、以上の意味での平和を保つように努力しますが、相手より強くなって、相手を攻めることが自分の利益になると思う時には、平和を簡単に破ります。

 

イエスが与えてくださる平和とは、シャローム、すなわち人間の完全な幸福の状態です。この平和を実現するためにイエスは、私たちを利己心から解放し、神と他の人々との正しい関係に導いてくださいます。正しい関係というのは、相手に悪いことをしないだけではなく、相手を尊敬すること、相手の善を求めて、そのために積極的に力を尽くすこと、すなわち相手を愛することなのです。

 

人々は神と他の人々との愛によって結ばれる時だけ、すべての人々が心の中で求めている平和、しかも永遠に続く平和が実現されるのです。この恵みを常に願い求めましょう。