メッセージ - B年 復活節

 

福音:ヨハネ15、9-17

 

テーマ:「わたしの喜びがあなたがたの内にあるように」

 

最期の晩餐と時に、キリストは弟子たちが喜びに満たされるように祈ります。どうして人間が悲しみに襲われたりするのでしょうか。

人間はお別れの時に悲しみます。新しく生まれた赤ん坊が泣きだします。それは自分の母の胎内から別れたからです。子どもは入園して親から離れる時に泣きます。学校卒業する時に友達とお別れをする時にも悲しみます。働きに出た時、自分の世帯を設けた時にも、故郷を離れる涙を零します。最終的に死に別れて悲しみます。

ところで、人間は物理的な別れだけはなく、心の次元による別れの悲しみを味わう時があります。それは、傲慢や自己中心による悪い人間関係、お互いに傷つけたり、相手を赦せなかったりする寂しさ、また憎しみを心に抱く場合です。これに不信仰と愛の欠如による神様に対して犯す罪が伴い、神様との隔たりを作る悲しい状態です。今日の福音が紹介する最後の晩餐の出来ごとです。その時に、キリストの弟子たちも大きな悲しみに襲われました。なぜなら、キリストが彼らにお別れを告げ、裏切りを予告して、死を迎えようとするからです。

神様は人間の悲しみを望んでいません。したがって、キリストが望んでいるのは、「わたし(キリスト)の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」ということです。喜びは一致の内に見出すものです。キリストの救いの働きとは彼らを自分の内に一つにすることであり、すべて人を御自分の内に和睦することです。キリストは、御自身をぶどうの木に比べて、枝となる弟子たちを御自分に繋ぐように呼びかけています。キリストは十字架上で罪の赦しを成し遂げ、御復活によって弟子たちと再会する喜びをお与えになりました。

キリストは、人間を悲しむ罪と死による分裂を、十字架上で示された限りない愛と御復活によって無くしてくださいました。キリストは、私たちを友と呼んでいます。キリストとの友情に応える人は、神様の最大の掟を生きる人です。それは互いに愛し合うことです。キリストは、この望みを不可欠なものとして考えています。人間が誘惑に流されないように、キリストは私たちに積極的な態度、強い意志と決心を求めて、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と仰いました。

 
メッセージ - B年 復活節

 

(ヨハ10,11-18)

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」1ヨハ3:1

普段人間が羊を飼うのは、その毛や肉や乳などのため、要するに自分の利益のためです。羊飼いたちは、羊のために時間をかけて、力を尽くして一生懸命に働くことがあっても、それは最終的に、この利益をより大きくするためなのです。良い羊飼いであると宣言されたイエスは、ご自分のために何の利益をも求めないだけではなく、この羊、つまり私たちのためにご自分の命をささげてくださるのです。

何の利益も求めず、自分より弱いもののために命を懸ける人がいるかもしれないが、イエスは、私たちのために、誰にもできないようなことをされました。それは受肉です。つまりイエス・キリストにおいて神ご自身が人間となられたということなのです。確かにそれは、羊飼いが自ら羊になったような、非常に信じがたいことですが、私たちにとって何よりも大切なことなのです。なぜなら、みことばである神の子が人間になったゆえに、今私たちが神の子になり、神の命にあずかるようになって神の家族の一員になれるからです。それこそ、私たちの救いですし、イエス・キリストがご自分の命をささげていいと思われたほど価値のあるものなのです。

この救いは無償の賜物ですが、それを受け入れるために、羊が羊飼いに従うように、イエスに従わなければなりません。イエスに従うために、私たちが命を犠牲にする必要性がなくても、今まで大事であると思って、力を尽くして手に入れようとしたもの、手に入れてから奪われないように注意を払ってきて、結果的に愛着しているものを手放す必要があるでしょう。ですから、イエスを愛している時だけ、つまりイエスとの繋がりがこの世において最も大切な宝であると確信している時だけ、救いにあずかることができるわけです。

 
メッセージ - B年 復活節

 

第一朗読:           使徒言行禄3,13-15.17-19

第二朗読:   1ヨハネ2,1-5

福音朗読:           ルカ24,35-48

 

足の不自由な男を癒した後で、ペトロはエルサレム神殿に集まったユダヤ人に向かって演説をした。遠慮せず、恐れを感じずに、直接ユダヤ人に事実を話した。イエスを拒んだ責任者は彼らであり、ユダヤ人の指導者であるという話であった。この話をした目的は、彼らを裁くことではなく、皆が自分の間違いを認められるようにすることであった。ユダヤ人のやり方は間違いであったということを証しする方は唯一神である。なぜなら、唯一の神がイエスを復活させたからである。ユダヤ人が間違ったということは間違いない。だからユダヤ人には、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰る態度が必要である。「悔い改める」とは、自分の間違いを認めることである。「立ち帰る」とは、イエスがメシアであるということを認めることである。悔い改めた人々に対しては、神は全ての罪を許す。福音者ヨハネの言葉によれば、イエスを信じる人々の罪だけではなく、全世界の罪が神によって許される。ユダヤ教の教えによると、罪が許されるためには捧げ物をしなければならない。イエス・キリストは全世界の罪を償う生贄である。この生贄によって、唯一の神は人間の罪を許した。しかし、人間が許されるためには良い行いをして、唯一の神を知らなければならない。「唯一の神を知る」ということは、神が存在するということに賛成することではなく、唯一の神の御旨を行うことである。ヨハネにとって唯一神を知るということは、この神の掟を守るということである。唯一の神の掟を守っている人は徐々に掟の意味と目的の理解ができ、神の御旨が分かるようになり,意識的な弟子として唯一の神の内にいることができるようになる。しかし、それにはまず掟と聖書の言葉の意味を理解することが必要である。イエスの弟子は恐れを感じているので、イエスが現れた時にイエスであるということが分からなかった。恐れを感じている人は、決して正しい理解ができない。イエスの弟子たちはメシアの受難と復活について、聖書の言葉を無視してそれぞれの考え方に固執し、聖書の言葉がわからなかったために、イエスの受難の意味が理解できなかった。全世界の罪を許すためにメシアはその道を歩かなければならなかった。イエスの弟子たちはこのメシアについて述べ伝えなければならない。現代の困難から救ってくださるメシアというだけではなく、罪と永遠の死から人間を救われるメシアについて述べ伝えることが弟子たちに課せられた使命である。「イエスは救い主である」という言葉の意味が理解できた人の心の中で、イエスの挨拶、「あなた方に平和があるように」が実現される。

 
メッセージ - B年 復活節

「復活徹夜祭はすべての徹夜祭の母である」と言われます。イエスの十字架と復活を、そして私達の死と復活の先駆けとなるこの喜びの神秘を、毎週の主日ごとに祝いますが、今夜、私たちは、一年に一度の機会に、荘厳に祝うためにここに集まっています。

聖書の記事は、特にイエスの受難と復活のメッセージは、何か客観的な情報を伝えようとするものではありません。四つの福音書は、それぞれの仕方で、イエスの受難の出来事を記しています。受難の記事は、初代教会の信仰生活に中で練られ形成されてきたメッセージです。それは過去の話だけでなく、どの時代にあってもキリスト者の苦しみと希望の中で力となってきたメッセージです。もっとも、十字架と表裏一体である復活という出来事は、十字架死とは異なって、私たちの日常の経験を超えた出来事であるので、厳密な意味で言葉にすることはできません。しかし、逆に、いろいろな表現の仕方が可能であるし、また多様な表現が必要と言うことになります。「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今なお罪の中にいることになる・・」(1コリ15,17-19)。キリストの復活の出来事は、私達の喜びの信仰の中心です。人生、生と死に意味を与えるものがキリストの復活である、と言うことが出来ます。無意味に私たちは耐えることが出来ません。生きる方向性なしに私たちは生きることが出来ません。

 

イエスがこの地上に姿を一瞬顕し、そして、人間の視界から去って、2000年が過ぎました。時代は変わりました。しかし、人間は共に生きていこうとするときに生じる様々な問題は、基本的に同じような様相を呈していると言えそうです。出会いや別れや、信頼や裏切りや愛や憎しみや、真実と虚偽の交錯する世界。衣食住が満たされず人間としての尊厳が奪われている世界がある一方で、ものが満ち足りているがために、かえって別の深刻な問題を抱えている世界に私達は生きています。イエスもそのような現実の中を生きました。

イエスは、通常のラビとは異なっていました。通常の仕方で聖書を解釈するようなことはありませんでした。自分の言葉で語り、特に困難にある人たちに語りかけていきました。「あなたの罪は許されています。安心していきなさい」「あなたは自分の足で歩けます。勇気をもって立ち上がりなさい」誰彼の区別なく、関わる人々にご自分を差し出していかれた。権威を持った自由な行動発言にその社会の指導者たちはつまずきました。「安息日」の掟に象徴される律法をも超えていきました。彼はとらえられ、十字架刑に処されました。

「木にあげられたものは神に呪われたもの」と言う聖書の言葉に従って、イエスが語ったこと行ったことがすべて無効であると宣言するために、彼らはイエスを十字架につけました。 これですべてが終わったかに見えました。

 

誰をも裁かず、誰に対しても恨みを抱かず、真実を語り続けた方を人間が十字架につけました。これはたんなるひとつの「犯罪」と言うようなことではなく、人間が本当に人間らしく生きていこうとするときに、ほかならぬ他の人間がこれを抹殺してしまう。また、それを傍観する、と言う構造。これが罪ということの本当の正体かもしれません。この根源的な罪が清算されない限り、この世界に救いと平和はありません。神はイエスによってこの解放を宣言されました。十字架は問いです、神のみが答え得ると問です。そして、神はイエスの復活によって、これに応えられました。

 

イエスの十字架死に衝撃を受けた、まさに、打ち砕かれた弟子たちに根本的な変化が起こりました。イエスは高く挙げられた、神はイエスを死者の中から立ち上がらせた、イエスは生きている…そして、私たちのために死なれたイエスは今生きている、という言語化がなされます。「私たちのため」と言い方には、二つの側面があります、一つは「私たちのせいで、私たちの責任で」死なせてしまった、もう一つは「私達が生きることが出来るように、本当に生きることができるように」という側面です。そしてその体験が自分たちだけのものではなくて、すべてのひとに関わりあるできごと、喜びの出来事として理解されていきます。これが宣教の始まりとなります。

 

キリスト者の生き方は「イエス・キリストの死と復活の参与する生き方」であると言われます。パウロのローマの教会への手紙で朗読された洗礼の出来事。闇から光への以降、死から命への過ぎ越し。これを私たちは先ほど光の祭儀で祝いました、復活賛歌では、イエスが根源的な罪に打ち勝ったという宣言が、旧約聖書の用語言い回しで歌われました。

四の聖書朗読では、イエス・キリストの至るまでの救いの歴史の思い起こしがなされました。その歴史は、今もこうして私たちに引き継がれていきます。

私たちは例外なく、神から神の下へ戻るのだ、ということを信じています。どのようにして、どのような実りを携えて戻るのかは私達の課題となっています。

 

モーリャックの墓碑銘にこう刻まれているそうです。それは素朴な信仰を表しています

 

「私は幼こころに信じたことを今もそのまま信じている。人生には意味がある、行先がある、価値がある。一つ分お涙も、一滴の血も決してわすれられることはない、神は愛なのだから」

 

この後、洗礼の更新が行われます。洗礼が決して安価な恵みではないこと、そしてその恵みが私たちに、イエスの命を世にもたらしていく喜ばしい使命を与えるものであることを、言葉と記し持って宣言いたしましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

 

 

「わたしの主、わたしの神よ」

 

ヨハネによる福音に基づくと、弟子たちに現れた復活したキリストの出来事が五つの特徴があります。

①          復活したキリストは、戸が閉じられた広間にいた弟子たちの真ん中に立つこと。

②          復活したキリストの最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」であり、それを繰り返し言われたこと。

③          復活したキリストは、弟子に御顔よりも、手と脇腹にあった傷痕をお見せになったこと。(使徒トマスに触れさせたこと。)

④          復活したキリストは、弟子たちに息を吹きかけて聖霊を受けさせたこと。

⑤          復活したキリストは、十字架上で成し遂げた罪の赦しを執行するために弟子たちを派遣したこと。

 

復活したキリストの現存を表現するこの五つは、どんな時代にもどんな所でも、典礼の中で秘跡の内に(特に御ミサの内に)実現し続けるのです。

1)キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」(マタ18,20)と約束されました。私たちは、共に祈る時、御ミサに参加する時にキリストも共にいます。

2)復活したキリストが弟子たちの裏切りと罪などについて触れることなく、彼らを平和と喜びで満たすために来られました。同じように今も、悪いものを恐れ、病気、死や失敗などを恐れ、また弱さや罪深さのために神様を恐れる私たちにキリストが平和を与えるために来られます。

3)キリストの現存の識別は、御顔ではなく、十字架につけられた傷痕です。イエス様は、すべての人間のために、そしてすべての罪の赦しのために十字架につけられた救い主であることを示します。無償であり無条件である死に至るまで成し遂げられた最大な愛を実現したキリストは罪と死を滅ぼし、御復活の内に愛と命の勝利を成し遂げ、これに与るように私たちを招いてくださいます。特に御ミサの中でキリストは、同じく「これは、わたしの体」であることを示します。私たちは、キリストに触れて聖体拝領の中でキリストと一つになる恵みを受けます。

4)神様は土でアダムの創造の時に、人間が生きるために、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2,7)ように、御復活なさったキリストは、弟子たちに命の与え主である聖霊を受けさせました。これに続き私たちも、洗礼の秘跡を初め、多くの秘跡と典礼を通して死すべき罪人の私たちにも、キリストは御父から聖霊を豊かにお与えになります。

5)この恵みを生きるために、私たちはキリストによって十字架上で成し遂げられた罪の赦しと、御復活による命の勝利を、人を赦すことによって、キリストの救いを広めるために弟子たちを派遣しました。入信の秘跡を受ける私たちも遣わされています。

 

私たちは、キリストが成し遂げられた御復活の五つ局面を生きているでしょうか。キリストの死と復活の証し人となるために、12使徒に倣って恐れと不安を捨て、キリストの愛に触れて聖霊を受け、使徒トマスに従ってキリストに、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰を告白しましょう。