メッセージ - A年 年間

 

第一朗読:イザヤ5,1-7

「予言者イザヤは紀元前740年に活動を初めて以来紀元前701年まで、ユダ王国とエルサレムの救い主はエジプトではなく神だけであると説き、宗教的な活動をした。その時、ユダ王国にとって最も脅威となっていた王国はアッシリアであった。なぜなら、ユダ王国は安全のためにエジプトと契約してアッシリアに反発する政治をしていたからである。

第一朗読はユダ王国の弱さを示している。たとえ話のブドウ畑はユダ王国であり、櫓はエルサレムである(イザヤ5,1-4)。神に選ばれた国民、神に選ばれた地方は神に実を結ぶ筈だが、神は持ち望んでいる公正の代わりに流血を貰い、正義の代わりに民衆の嘆きや叫びを見る(イザヤ5,7)。だから、ブドウ畑(ユダ王国)は神のみ旨の通りに滅ぼされることになる(イザヤ5,4-6)。イザヤの予言は紀元前586年に実現された。

神に作られたすべて者は神が決めた目的のために生きている。

 

第二朗読:フィリピ4,6-9

第二朗読の言葉はキリスト者たちに大切なメセジーが含む。まず、心配する代わりに神を信頼して祈りなさい(フィリピ4、6)。そうする者は主イエスによって守られる(フィリピ4,7)。自分のことへの恐れを感じる代わりにフィリピのキリスト者たちはキリスト者らしい生活ができるように一所懸命努力しなければならない(フィリピ4、8)。そのために、パウロから学んだことの通りに自分の生活を作る必要がある(フィリピ4,9)。

キリスト者の命や生活などを守るのは、神のみ旨を行うことであろう。

 

福音書:マタイ21,33-43

今日の福音書のたとえ(マタイ21,33-43)と今日の第一朗読のたとえは似ている。どちらのたとえも、ユダヤ人を支配する人々に強く悲嘆している。しかし、イエスのたとえの中で強調されているのは、政治的な意味よりむしろ宗教的な意味である。イエスはこのたとえを司祭たちとファリサイ派の人々に対して言った(マタイ21,45)。その理由は、司祭たちが彼らの先祖たちのように神に送られた予言者を殺して(マタイ21,34-36)、今また彼らは神に送られたメシヤを殺したからである(マタイ21,37-39)。司祭たちの責任は間違いない(マタイ21,38)。なぜなら、彼らの代わりに他の司祭が出て行ったからである(マタイ21,40-41)。この予言は紀元後70年に実現された。

 
メッセージ - A年 年間

 

キリストは、天の国は王が王子のために婚宴を催したことに似ていることに例えています。すなわち、婚礼の御馳走の用意ができた次第、食事に招かれた人たちが皆、それぞれの事情を作ってお断りしました。王は怒って彼らを罰し、彼らの代りに誰でも招いて良いから、客をこの婚礼にいっぱい連れて来るようにお命じになりました。王は客を見て、礼服を着ないで入った男に着替えるようにお薦めしたが、本人が無視したから、彼を懲らしめて外に出すように命じられました。

例えの王は神様であり、キリストは王子です。婚礼とは、キリストと神の民の「結婚」、すなわち、救いを待ち望む人の皆がキリストと一つに結ばれて天国に入る救いの実現を表現します。神様が御用意なさった食事は、御聖体と言いましょう。それは、十字架上で死に至るまで私たちを愛してくださり、罪と死に打ち勝った救いを表現するキリスト自身の御体です。救いを成就するために整えた永遠の命の糧です。キリストの命に与り、永遠にキリストと一緒に君臨することは、神様がお考えになった人生の最終的な目的です。

しかし、私たちの人生の中で地上の生活が身近に感じる現実となっている現在、神様の計画よりも人は個人的な計画を重んじたりします。自分の用事を優先して忙しいから、御ミサ、お祈り、教会の奉仕などを「失礼させて頂きます」と、キリストに御断りの言葉を返したりします。

ある人たちは毎日、お祈りをし、主日に主の食卓を囲んでキリストの御体を拝領するにも関わらず、彼らの心とその生き方がキリストと異なり、滅びに導く道を歩み出します。彼らのことは、礼服なしに婚礼に入った人のことで例えられています。

神様から無償で無条件に頂く愛の賜物と永遠の命の故に、地上での自分の果たすべきことに励む私たちは、傲慢、嫉妬、偽り、怒りの「衣を脱ぎ捨て」、キリストの愛と赦しを頂いて聖性の恵みを「着用」すべきではないでしょうか。「今、あなたの一番大きな人生の目標は何ですか?」と問われたら、何と答えますか。天国の「婚礼」と答えるでしょうか。

 
主日の朗読聖書 - A年 年間

マタイ18・15-20

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 
メッセージ - A年 年間

 

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」ロマ 13:9

すべての人々が本能的に平和を求めているはずですし、昔から、大勢の人が個人的、また、いろいろな組織をとおして平和のための活動を行ってきました。それにもかかわらず、この世から戦争や争いがなかなか消えないのです。人々が求めている平和が不可能でしょうか。それとも平和の実現の方法が間違っているのではない でしょうか。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ 14:27)と言われたイエスは、普段人々が実現しようとしている平和とご自分自身が与えようとされる平和が異なるということを教えてくださるのです。

「平和の君」であるイエス・キリストが自分の行いによって私たちに与えたい平和への道を示してくださいました。イエス・キリストは、何の悪も行わなかっただけではなく、誰も無視せず、誰に対しても関心をもち、困った人に必要な助けを与えておられました。それから、自分に対して罪を犯した人や自分を傷つけた人を必ずゆるし、彼らにも必要な善を与えてくださったのです。要するに、キリストはただ自分の仲間や自分に役立つ人だけではなく、知らない人や恩返しのできない人や自分に害を与えようとした人さえ愛しておられたわけです。

イエス・キリストがすべての人々に与えたい平和というのは、ただ戦争や争いのない状態、つまり、多くの人が実現をしようとしているような表面的な安定だけはありません。それは、すべての人々が相互の愛によって結ばれて、自分のためだけではなく、他人のためにも善を求め、互いに支え合い、助け合う状態なのです。

キリストの愛と平和をいただいている私たちは、愛を実行して、助け合い、ゆるし合うことによって、キリストの平和を全世界に伝えることができるように祈りましょう。

 
メッセージ - A年 年間

 

イザヤ22、19-23

第一朗読の言葉は、異邦人に対して語られた預言者イザヤの予言の一部である(イザヤ13-23)。この予言はユダ王国の王ヒゼキヤの宮殿のマスターであるシェブナ(Shebna)に対して言われたものである。シェブナ(おそらくユダヤ人ではない)はユダ王国で王様に次ぐ第二の人物であり、持っている力を自分の目的のために使うばかりの人物である。彼を批判する人はイザヤをおいて誰もいなかった。イザヤの言葉によれば、神はシェブナの代わりにエリヤキムを宮殿のマスターとして選んだ。

イザヤ22、22にある表現の意味は「あの人は完全な力を持っている」ということである。この力の源は神である。同じ表現はマタイ16、19と黙示録 3、7に存在する。

ローマ11、33-36

第二朗読は「キリスト者の時代におけるユダヤ人の立場」と言うローマ使徒への手紙の中(ローマ9-11)の栄光の賛歌である。この賛歌によれば、神の知恵は完全 (ローマ11、33)であり、神の御旨は神秘(ローマ11、33)である。人間は神の行いを完全に理解することはできない(ローマ11、34-35)ので、神は全ての生き物の源泉であり、救いであるということを信じることが必要である。というのは、神に選ばれた民であるユダヤ人たちでさえ、イエスをメシヤとして全く信じていなかったからである。この理由は、神秘であるが異邦人が唯一神と契約できるような現代(イエスの時代)に、あるユダヤ人たちはイエスの福音を認められなかった。そのかわり、ある異邦人たちがこの福音を信じて、イエスによって神と契約することができた。異邦人の完全な人々が神と契約できた後に全てのユダヤ人もイエスの福音に信じるようになる。確かに神の御旨は神秘である。

 

マタイ16,13-20

イエスはどんな者であるか。あなたにとってイエスはどんな者であるか。もしあなたが、イエスが預言者であるから彼を信じているということであれば、あなたの信仰は無駄である(マタイ16、13-14)。もしあなたが、イエスがメシヤであるから彼を信じているというのであれば、あなたは命や信仰や恵みなどの泉を見つけたということである。あなたは幸せな方であり、ペトロのような意思である(マタイ16、15-17)。あなたは神の恵みのおかげで信じているのだから。

しかし、マタイ16、18-20の言葉はペトロだけに向けられている。この世を旅する教会の完全な力を持っている支配者は教皇と司教団である。