メッセージ - B年 四旬節

1、四旬節第二の日曜日の朗読福音箇所は、マルコ9,2-10の「山上の変容」と呼ばれる箇所所です。この主日には、A年もC年もそれぞれマタイ、ルカの「山上の変容」の場面が朗読されることになっています。変容の祝日は、典礼暦では八月六日であり、その日にも同じ箇所が朗読されますが、四旬節のこの主日にも朗読されます。

2、第一朗読において、アブラハムが一人息子イザクを「山の上」で神にささげようとして、天使に留められる箇所が朗読されます。聖書における「山」の意義については、肯定的と否定的の二つに解釈されると言われますが、今日の朗読に登場する「山」は肯定的な意味で使用されています。

3、この箇所は通常「イエスの変容」と名付けられており、いわゆる「顕現物語」の一つとなっています。「雲」が現れて三人の弟子たちを「覆い」、これはわたしの愛する子。これに聞け、という「天からの声」が聞こえた、という表現がまさに、聖書における神顕現のテクニカルタームとして登場しています。そのメッセージは、確かに、イエスが変容し、彼が何者であるかが天からの啓示によって示された、ということですが、見方を変えれば、弟子たちの目、彼らの心の眼が「変容させられた」出来事とみなすこともできます。日ごろ親しく接していたイエスという自分たちの師が、単なる有能な人間的なリーダーというのではなく、神から人間への決定的な語りかけという存在であることがわかった、という出来事です。今日の集会祈願の言葉もそれを暗示していると言えます。「・・信仰の目が清められてあなたの顔を仰ぎ見ることができますように」。

4、ところで、変容の祝日ではないにもかかわらず、この箇所が、四旬節に朗読される意味は何でしょうか。これについては、今日の叙唱の祈りがシンボリックに表現されています。「主・キリストは・・・聖なる山で光り輝く姿を現し、モーセと預言者たちのことばの通り、苦しみを経て復活の栄光に入ることをお教えになりました・・・」。

四旬節の典礼を生きるキリスト者が、現実の世界の苦しみに負けることなく、復活への希望をもって信仰の道を歩み続けることができるように、との母なる教会の配慮が今日の典礼に示されています。

5、今日の「山の上での体験」はある意味で、典礼祭儀の場における体験であると言えます。私たちの信じるキリストがどのような存在であり、私たち自身がどのような恵みを与えられているか、が典礼祭儀の「ことばとしるし」によって体験されるからです。しかし、弟子たちがそうであったように「山から下りる」ことが必要です。山の上にとどまっているのではなく、山から下りる、つまり、日常生活に戻ること、しかし、「新しくされて」もどることを聖書と典礼は私たちに教えています。

6、私たちがどのような希望に生きているか、そして、社会の中における私たちの使命と課題が何かを今一度思い起こしたいと思います。

 
メッセージ - B年 四旬節

(マコ1,12-15)

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」マコ 1:14-15

イエスと洗礼者ヨハネが全く同じ言葉をもってそれぞれの活動を始めました。けれども、同じ言葉を語っても、二人とも、全く異なることを述べ伝えようとしたのです。

まず、洗礼者ヨハネにとって、「神の国」というのは、神の裁きのことで、「神の国が近づいた」ということは、神の裁きの日が迫ってきたという意味でした。洗礼者ヨハネによれば、神が非常に厳しい審判を行いますので、苦しい罰を避けるために神から裁きを受ける前に、悔い改めて、良い実を結ばなければならないということでした。ヨハネはこの言葉によって人の心に恐れをもたらし、回心をさせようとしたわけです。

イエスにとって、「神の国」とは、人間の神との愛の交わりのことです。「神の国が近づいた」とは、ご自分の到来とともに、神との愛の交わりの可能性が近づいて、ご自分が成し遂げる救いのわざの結果として、この交わりがすべての人々にとって可能になるという意味でした。こうして、イエスは洗礼者ヨハネと違って恐れをもたらすことによってではなく、良いお知らせを伝え、人間に希望を与えることによって回心へと呼びかけたわけです。

神ご自身がイエス・キリストにおいて罪を犯したことによって神から離れた人々に近づき、イエス・キリストの愛と命による最高のいけにえによって私たちの罪をあがなって、全人類を和解してくださった故に、人間の心の最も深い渇望が満たされることが実際に可能になったのです。ですから、神の国に入る可能性は報いではなく、神の無償の賜物なのです。しかし、この賜物を受け入れるために、私たちは神のみ旨に適わない生き方をやめて、イエス・キリストを自分の人生に受け入れることによって父である神を受け入れる必要がありますので、「神の国が近づいた」というイエスの呼びかけに励まされて、悔い改めることができますように祈りましょう。

 
メッセージ - B年 年間

年間第6日   (2月15日)

第一朗読:    創世記3,16-19

第二朗読:    一コリ10,31-11,1

福音朗読:    マルコ1,40-45

アダムとエバが犯した罪の結果は、すべての時代の人間に影響した。楽園的な人生が終わって、これ以降、生まれた時から亡くなる時まで人間は生活できるように働かなければならなくなった。働いても、働いても、簡単に望む実を取ることはできない。したがって、人間の頑張りには終わるところがない。それはこの世の人間の運命である。「厳しい罰だ」と思うかもしれないが、それよりも、正しいことを学ぶための一つの教育の方法だと思ったほうがいいのではないだろうか。

パウロはこう言った。「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」この言葉は働くことと関係がある。すべての人間の活動は、自分や家族や国などためにではなく、唯一の神の栄光のためにされなければならない。給料のために働くのは当たり前だが、神の栄光のために働くということはどういうことか。人間の活動と唯一の神の栄光はどんな関係があるのか。もし、キリスト者だからと一生懸命に自分の仕事をしたら、この人はみんなの目の前に信じている唯一の神に対して良い証明をすることになる。人はいつも、何かしたら自分に対して証明することだけではなく、家族や会社などに対して証明する。キリスト者は唯一の神の栄光を現すために生きている。パウロは次の言葉を言った。「私も、 人々が救われるために、 自分の利益を求めず、 多くの人の利益を求め、 どんなことでも、 みなの人を喜ばせているのですから」。すべての人々を救うために働く人は神の栄光を現わすために働く人である。イエスは皮膚病の人を癒した後、エルザレム神殿の祭司たちにそれを証明することを彼に命じた。しかし、彼は祭司ではなく、みんなの目の前でイエスについて証明した。この人のような人々のおかげで、イスラエルの人々はイエスが神の栄光を現す方であると理解できるようになった。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

マルコによる福音1章29~39節

 

「イエスは多くの悪霊を追い出して、

悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」(マルコ1,34)

 

この地上に生きる私たちが悪いことに直面したりします。ところで聖書は、初めからそうではなったと教えます。最初は、神が御自身を表現しようとして人を御自分に象り、御自分に似せてお造りになりました。そして、彼らを祝福しました。御手の中で形づくられた人に御自身の息を吹き入れられて永遠の命を与えました。悪霊がものを言う時まで、人間は幸せに楽園に住みました。神様は人の友であって、アダムとエヴァの間に愛における一致の喜びがありました。

悪霊が人間にものを言いますと、人はそれに聞き従ったためにその人生が苦しみと悲しみに満ちるようになって、悪い行いが目立つようになります。創世記にも在るように、アダムとエヴァは神様との関係だけではなく、互いの信頼関係も大自然との調和も難しくなります。悪霊の言葉は人間の耳に美しく響きますが、人間が神無しに自己中心と傲慢の生き方によって幸せになることを薦めます。人生の社会を眺めていると、神無しに幸せになる約束する言葉は何と多いことで、これを追い求める人も大勢います。その中で、悪霊が言うことがあります。人はそれを聞くと権力をふるったり、憎しみ合い、争い合い、妬み合い、また死ぬ悲しみに遭遇します。

イエス様がカファルナウムを訪れた時に、使徒ペトロの家に病気の姑がおり、たくさんの病人や悪霊に取りつかれている人もいました。汚れた霊に取りつかれた人を通して悪霊も言うことがありました。キリストが中にお入りになったので、人間は変わりました。人々の心に隣人愛が強くなり、病気になった使徒ペトロの姑をキリストに委ねるようになりました。イエス様が姑の手を取ることによって彼女を神様と繋ぎました。神の愛を体験した姑は、キリストと人々に自分を尽して奉仕するようになりました。キリストに触った他の病人も同様でした。そしてキリストは悪霊も追い出しました。悪霊が人間を誘惑しないように、イエス様は悪霊どもにものを言うことをお許しになりませんでした。キリストによって神様の支配がはじまり、皆は神様に耳を傾けるべきであり、神の国の到来を実現するためです。

私たちがキリストと一致して生きるならば、悪霊の言うことを聞かないことでしょう。私たちの内におられるキリストも悪霊に言うことをお許しにならず、私たちは誘惑に陥ることなく、悪から救われるのです。私たちにとってキリストがすべてであるならば、神の国が私たちの内に実現されることでしょう。

 

 
メッセージ - B年 祭祝日

 

朗読: マラ3:1-4

ヘブ2:14-18

ルカ2:22-40(2:22-32)

 

「受肉」は、イエスの誕生のみを指すのではありません。受肉の神秘は、ベトレヘムでの誕生から始まり、ゴルゴタでの受難死と復活までのイエスの人生全体をひっくるめて指す出来事です。エルサレム神殿での『主の奉献』も受肉の神秘の一連となっています。イエスは一人の人間、一人の男の子、一人のユダヤ人、一つの家族の一員として、人類の歴史の中のある時に、パレスチナという特定の場所で生きていたのです。ユダヤ人として、ユダヤ人の習慣、ユダヤ教のしきたりに従って、ヨセフとマリアは生後40日のイエスを神殿で奉献するのです。「神の子」を「神」に捧げるのです。「まことの神殿」をやがて破壊される神殿の中に連れていかれるのです。イエスは神なのに、なぜ?その答えは、第二朗読のヘブライ人への手紙にあるように「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです」。

イエスは人間となったことで神の子の輝きが消えた訳ではありません。その輝きは老父シメオンの目にも、84歳の老婆アンナの目にもはっきりと移っています。人間となったことは、神の子としての輝きを失う訳ではないことを、神殿で奉献された幼子の姿が物語っています。神の似姿として創造された一人一人の人間の中には神の子としての輝きを秘めています。たとえ罪によって、その輝きがかすんだり、けがれによって清さを失うとしても。第一朗読にあるように、聖所に来られる待望された神からの使者、主イエス、は清さを失った私たちを再び清めてくださるのです。「彼は精錬するもの、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く」。神の子が人間となったことによって、一人一人の人間の中に秘めている神の子としての輝きを取り戻すことが出来るのです。その輝きを保つために私たちに求められるのは自分自身を常に神の前に捧げることです。