メッセージ - A年 祭祝日

 

本日の第一朗読では、『使徒たちの宣教』12,1-11が読まれます。ヤコブの殉教が短く記された後、ペトロの牢獄からの奇跡的な解放が詳細に語られますが、その解放が「主の手による」ものであることを強調するものとなっています。

第二朗読は、2テモテ4,6-8,17-18です。パウロが、自分のすべての働きが「いけにえ」としてささげられていると書き、福音をすべての民族へ述べ伝えようとしたのは「主がわたしのそばにいて、力づけてくださ」ったからであると明記しています。こうして、第一朗読も第二朗読も、復活の主の力が強調される結果となっています。

「ことばの典礼」の頂点である「福音朗読」には、マタイ16,13-19が選ばれています。ここでも、クライマックとなるペトロの信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」という宣言が「天の父による示し」によるものであるとされています。つまり、人間的な常識や認識ではなく、恵みとしての啓示である、ということです。そして、その様な信仰告白の上に、教会(神の民)が集められます。さらに、天の国の鍵がペトロに授けられ、地上でつなぐこと、解くことが天上でもそうされる、と宣言されます。そして、これは、ヨハネ福音書の復活の主が「罪をゆする」恵みを弟子たちに付与した箇所を連想させます。それは、人間のわざではなく、まさに「神のわざ」を担う奉仕職です。

さて、ペトロのパウロは対称的に描かれることもありあますが、また共通点もあります。一つは、両者とも「一度打ち砕かれた後、新しく立ち上がらせられた」

という点です。ペトロの否み(マルコ14,66-72他)とパウロの回心(使徒9、1-19他)の箇所だけを上げておきましょう。二つ目は、両者ともイエス・キリストに対する熱い信仰によって生きている、という点です。すべての信者へ向けて書かれた『司祭職-信徒にとって、聖職者にとって-』(R.カンタラメッサ)には「イエスというお方との信頼と友情に満ちた人格的な関係こそが、すべての司祭職の核心となります」と書かれています。まさに、この関係こそが私たちにとっての「根」です。

本日の「叙唱」では、この共通の根から「異なる使命を受けた二人は、キリストのもとに人々を一つに集め、信仰のあかしのためにともにいのちをささげました」と朗誦されます。集会祈願、奉納祈願そして拝領祈願でも、それぞれ、信仰を受け継ぎ真理を世界にあかしすることができるように、キリストの奉献に与ることができるように、一つとなって神の愛に生きることができるように、と祈られます。私たちの信仰は、受け、生き、渡していくダイナミックな恵みです。

最後に、異なるカリスマを与えられた前教皇ベネディク16世と現教皇フランシスコの合作ともいえる『回勅 信仰の光』を熟読されることを希望します。

 

 
主日の朗読聖書 - A年 祭祝日

マタイ28・16-20 (主の昇天)

〔そのとき、〕16十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 
メッセージ - A年 祭祝日

 

福音朗読:マタ28,16‐20

第一朗読:使徒1,1-11

第一朗読の言葉はルカの書物の第二冊(使徒言行録)の始めである。この文章はルカの書物の第一冊(ルカによる福音書)の部分(ルカ24,36-53)と内容的には重なるところがあるが、文章を書いた目的は異なる(使徒1,1)。

ルカ24、36-53は過去に注目し、イエスがすべての預言者の言葉を成就したことを伝えている。使徒1、1-11は将来に注目し、これから行うことについて説明している。まず、聖霊の力を受け取るまでエルサレムに留まらなければならない(使徒1,2-5)。次に、聖霊の力を受け取った後、エルザレムから始め、世界の最も遠い所までイエスの福音を証する(使徒6-8)。最後は、天国に昇ったイエスを再びこの世に来られるまで信仰の内に待つのである(使徒1、9-11)。

第二朗読:エフェソ1,17-23

聖書の言葉は分かりにくく、イエスによる神の救いの業は信じにくい。人間はこれらのことを自分の力だけで理解することはできない。だから、これらを信じている人々は、神から知恵と啓示の聖霊を与えられた人々である(エフ1、17)。この聖霊の恵によって、キリスト者の希望やキリスト者の栄光やキリスト者の力について学ぶことができる(エフ1、18)。神はこれら三つのことをイエスの復活と昇天という二つの業によって示された。人間に殺されたイエスは神の力で復活し、天国に昇り、神の右の座に着き、創造されたすべての者より上の完全な栄光を受けて、信者によって造られた教会という体の頭になった(エフ1、20-23)。

福音朗読:マタ28,16‐20

天に昇ったイエスはいつも弟子と一緒にいる(マタ28、20)。それはこの福音書の言葉の最も大切な教えである。天と地の一切の権能を授かったイエスはイエスの福音を述べ伝える人々と共に働く。信者になった人々はまだ信じていない人々が信じる者になるために、イエスの弟子として一生懸命に宣教するべき筈である。

 
主日の朗読聖書 - A年 復活節

ヨハネ14・15-21

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 
メッセージ - A年 復活節

 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしが父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいてくださる。」(ヨハネ14,15-16)

 

最後の晩餐の時に、イエス・キリストは弟子たちとお別れをしますが、彼らを孤児にしておかないと約束してくださいました。福音によりますと、御父のもとから聖霊をお遣わしになります。キリストは聖霊の内に弟子たちの所に戻って来られると、御父がキリストの内におられ、キリストが私たちの内におられ、私たちがキリストの内にいることになります。結局、私たちである教会(ギリシア語でキューリアケ=主に属するものの集い)は、至聖なる三位一体の交わりの中に加えられることになります。

神様が唯一でありながら、三つのペルソノナ(位格)で、私たちは父と子と聖霊を信じています。神はすべての創造と命の源であり、人を御自身の似姿に創って御自分の子にしようとするから、「父」です。この神様は人を罪と死から救うために乙女マリアから救い主キリストとしてこの世にお生れになって、私たちと共にお住みになったから、「子」と呼ばれます。同じ神様は「聖霊」として私たちの内に生きるようにしてくださいます。イエス様は、この方を「弁護者」と呼び、ギリシア語の原文では「パラクレテ(Paraklete)」と言います。

「パラクレテ」は、「傍に呼ばれた者、人のために弁護する者」という意味を持っています。世間でも罪を犯した人、また罪を犯さなくても罪と見做された人は、弁護士を呼びます。弁護士は罪に問われている人が無罪であると主張します。罪を犯さなかった場合、容疑者の無罪を証明し、その人を社会復帰するようにします。もし、容疑者が本当に罪を犯したならば、弁護者は罪を隠すという役目ではなく、悪い状況の中で事件が起ったから本人を無罪にするように、また罪があったとしても、その罰を最小限にとどまるように働きかけ、容疑者が正しい道を歩むように未来を開くようにします。この意味で弁護者である聖霊は、人が罪のために罰を受けないように御父にとりなし、過ちを正し、罪を清めて人を聖化し、共にいて力付け、神の賜物で満たして愛の道を歩むようにしてくださいます。

以上の恵みが私たちに約束され、与えられています。それは、三位一体の神様が私たちを無条件に愛してくださるからです。イエス様の心配は、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(ヨハネ14.17)ということです。聖霊を受け、救いに与り、三位一体の交わりの中で生きるために一つの条件があります。それは、私たちがキリストの内に神様を愛し、キリストの愛の掟(私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい)を守ることです。