メッセージ - B年 待降節

テーマ: 「あなたはどなたですか」(ヨハネ1,19

 

「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

『わたしは、荒れ野で叫ぶ声である。

主の道をまっすぐにせよ』と。」(ヨハネ1,23)

 

人は洗礼者ヨハネに、「あなたはどなたですか。」と聞かれた時、彼はメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないと答えました。しかし、教会の教えに従って、洗礼者ヨハネはキリスト(メシア)の先駆者、旧約時代の最大な預言者です。キリストを信じてきた弟子たちは、どうして律法学者が救い主が来る前に、エリヤが来るはずであると言っていることについて尋ねた時に、イエス様は答えました。エリヤは既に来たが人々は彼を認めず好きなようにあしらったと。そこで弟子たちは、イエス様が洗礼者ヨハネのことを言われていると悟りました。

神学や聖書解釈などによって、洗礼者ヨハネは色々な評価を、様々な名称を受けます。大事なのは、本人が神様の前に自分自身の立場が分かっているかどうかということです。洗礼者ヨハネの場合、彼は自分の召命を知り、自分の使命について公に証ししました。すなわち、自分がメシアでないことばかりでなく、キリストの履物のひもを解く奴隷になる資格もない者、神様の救いの計画の中で預言者イザヤが言った「荒れ野での叫ぶ声」であり、「主の道をまっすぐにせよ」という使命を受けた者、また人に回心のしるしとして水で洗礼を授ける者です。

御降誕祭とは教会典礼の中で、キリストが人となって私たちを救うために来られる出来事を再現するものです。教会である私たちは、今の世の中で、ある意味で洗礼者ヨハネのような使命を果たさなければなりません。神をないがしろにして生きる現代の人々に、神様への真っ直ぐな道を教える「荒れ野での叫ぶ声」となる必要もあります。世間は、「あなたはどなたですか。」といつも尋ねます。社会の役目によって、あなたは社長、先生、サラリーマン、父親、生徒、芸術家、調理師、大工などであると答えたりして、教会では信徒、司祭、教会評議員、聖書朗読者、侍者、先唱者などであると答えたりすることでしょう。

肝心なのは、洗礼者ヨハネのように、神様の前とその救いの計画の中で、自分自身が誰であるかを知り、一人ひとりが自分の賜物に応ずる使命を果たしているかどうかということです。そして、私たちは自ら何者でもなく、キリストの「履物のひもを解く資格もない」者であることを認め、ただ神様の恵みによって、神様に愛されたかけがえのない存在で、キリストの救いの業によって神様の子どもとなった者です。

 
メッセージ - B年 待降節

(マコ13,33-37)

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」1コリ1,9

待降節を迎える私たちは、待降節第1主日に読まれる御言葉によってキリスト者としての生き方の基本を思い起こさせます。キリスト者の生活は、旅に出かけている主人から仕事を与えられた僕たちや目を覚ましているように命じられた門番の生活に似ています。

私たちが与えられた仕事というのは、自分の生活によって神の愛を現し、神の国を証することなのです。また、門番のように目を覚ましている目的は、いつでもキリストご自身を受け入れることなのです。キリストが約束してくださったように、世の終わりに誰でもはっきりと分かるような形で来られますが、その前に目を覚ましている人たちだけが分かるような方法で私たちのところに来てくださいます。もし、私たちはキリストのことを忘れて、他のことに夢中になって、キリストが私たちのところにいらっしゃっているのに気が付かずに、キリストを受け入れないならば、与えられた仕事を果たすことができません。なぜなら、私たちは、キリストと結ばれて、キリストと共に生きているときだけ、神の愛に生きることができますし、神の国を証することができるからです。

私たちは、いつもキリストを自分の人生に受け入れ、いつも共に生きることによって、与えられた使命を果たすことができるだけではなく、最高の賜物を受け入れるために準備をすることができます。この最高の賜物というのは、キリストとの完全な愛の交わりであります。同時にそれは、永遠に続く三位一体の神との愛の交わり、また、救われたすべての人々との愛の交わりでもあります。言い換えれば、この最高の賜物というのは、完成された神の国に受け入れられることなのです。

 
メッセージ - A年 年間

 

第一朗読:箴言31,10-13.19-20.30-31

第二朗読:一テサロニケ 5、1-6

福音朗読:マタイ25、14-15.19-21

紀元前5・4世紀に書かれた箴言の目的は『「知恵と訓戒とを学び、正義と公義と公正とわきまえのない者に分別を与え、知恵のある者にはこれを聞いて理解を深めさせる」ということであり、「箴言と、比喩と、主を恐れることは知識の初めである」』と教えている。第一朗読の教えは個人的な責任についてのものである。よい妻はどんな宝よりも望まれるものである(箴言31、10)。よい妻とその姿の美しさなどは関係のないことである(箴言31,30)。よい妻は主人の持ち物を大事にして(箴言31,11)、家族を守り、貧しい人々に対してやさしい心を示す(箴言31,20)。彼女がそのようにする理由は神へのおそれである(箴言31,30)。箴言の著者によれば、よい妻とは信仰を持っている者である。

 

第二朗読は終末論に関するパウロの教えである。人間にはこの世界の終わりのことを知りたいという強い気持ちがある。最初のキリスト者はイエスが再び来られるのはいつのことなのかも知りたがった。しかし、パウロにとってはそれを知ることよりその日にために準備することが必要なことなのである。その準備ができた者は救われる。かれらにとって、イエスの再び来られる日は驚くようなことではなくなる。この日を待っているのだから。一方、準備ができなかった者は救われない。イエスの再び来られる日を待っていなかったからである。この教えが理解出来た者は知恵を学んだ。

 

福音書の言葉は、キリスト者の終末の待ち方を説明するたとえ話である。キリスト者はイエスの来られる日を待っている間、神から貰った様々な恵みを、この世界で神の御旨を行うために使いながら、日々働くはずである。そうする人は神の国が来る日のために良い準備をしている賢い人である。一タレントンは金や銀の約35キログラムに当たる。それは大きな金であったが、一タレントンを貰ったこのたとえ話の人は働く気持ちがなかった。小さい金とは軽い責任。大きな金とは重い責任である。このたとえの人はいちばん小さい責任を取りたがった。神の国のために働く気持ちがないキリスト者は役に立たない者である。

 

 
メッセージ - A年 祭祝日

 

 

一年間に亘ってキリストの誕生から死と復活、キリストの教えを心に留め、人生をキリストと共に歩むように招かれて、迷うこともあっても、各自は自分なりにキリストと共に人生を歩んだと思います。世界の終末や一人ひとりの人生の終りがいつ来るのか、またその時になったら自分が神の国に入ることができるかは、問いかけることがあることでしょう。キリストは多くの例えを持って、神の国が我々の間にあると言われ、ただ、「目を覚まして」、それに気付くように教えてくださいました。本日の福音の中で、キリストは私たちの次元の問い掛けに答えようとして、御自身が世の終わりに神の国の王として全ての人を裁くために来られる例えを話してくださった。

それは羊飼いが羊と山羊を左右により分け、ある者には永遠の命を与え、他の者は永遠の罰を受けると言います。決る基準は、私たちが神様の被造物として人間らしく生きたかどうかということにあります。創世記にしたがって、神様は人間を永遠に生きるようにお造りになりました。神様は人を御自分の似姿に造られたが、一人ではなく、男と女にお造りになったと書いています。また、楽園の物語のなかで、アダムを造った神様は「人は一人で生きるのは良くない」と宣言して、助け合うためにエヴァをもお造りになりました。したがって、人間の本質は、自分のために生きるのではなく、他の人のために生きることです。これによって我々は神様に似る者となりますます。

神様はすべてのものを造り、支えて愛し、キリストの内に人間となって、すべての人の救いのために命を献げて、十字架の死に至るまで愛し抜かれました。これにおいてこそ、キリストは、何よりも人生を人間らしく全うし、真にすべての人の心の王です。キリストは福音の中で、人が他人に対して悪いことをしないから救われると約束なさっていません。また、計算的になって自分が天国に入るために善行を蓄える者も、神の似姿として人間らしく生きたとも言えません。なぜなら、自分だけのために生きたからです。

例えの右側に集まっている羊のような者たちとは、自分の救いを考えてキリストのために何かをやってあげたりした意識は全くありませんでした。けれど、隣人が飢え、渇き、病気し、裸であったなどの時に自分を忘れて世話してあげる愛をもっていたから、キリストと共に君臨するように招かれたのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。(…)兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたなのである。」と言われました。

このように、私たちの一人ひとりもキリストと共に君臨するように呼ばれています。しかし、神の国を受け継ぐには、信心の業に励むということより、自分を空しくして他人のために心を尽して生きていたかどうかということが大切なことです。

 

 
メッセージ - A年 年間

 

「イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」マタ 22:21

 

「皇帝のものは皇帝に...返しなさい」という言葉の意味は割合と理解しやすいものです。支配者に「返す」べきものは、支配者が作成した法律によってはっきりと決められています。国民には、嫌がっても決まっている義務を果たすか、同じ法律で定められている刑罰を受けるかという選択しかありません。

 

聖書には神が与えた掟が書き記されているし、その掟とイエスの教えに基づいて、教会は信者が守るべきことを具体的に決めています。けれども、私たちは 義務的に、場合によって刑罰を恐れて国の法律を守っているように、神の掟や教会の決まりを守るだけで十分なのでしょうか。それだけで、「神のものを神に返す」ことになるのでしょうか。決してそうではありません。

 

律法を忠実に守るように努力していたファリサイ派の人たちについてイエスはこう言われました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マコ 7:6)心はこの世の支配者や権力者たちから離れても、彼らが定めた義務さえ果たせば、十分でしょうが、神が何よりも求めておられるのは、私たちの心、つまり私たちの愛なのです。神の掟を守ることは、神に対する愛と信頼の表現であるときだけ、神が喜ぶものになるのです。

 

イエスは「神のものは神に返しなさい」という言葉を国民に向けて語っただけではなく、支配者や権力者に向けても語っています。要するに、国民だけではなく、国を治める政治家たちも、神のものを神に返さなければならないということなのです。そのために、支配者たちに神の掟に逆らう権利がありません。もし、彼らは神の掟に逆らうような法律を作成するならば、国民にはそれに従う義務がありません。正しい手段を用いて反対を示してもいいですが、神の望みに逆らう反乱のような手段を用いる権利はありません。ですから、支配者に従うのではなく、自分の良心に従うことを選ぶ人は、イエスや、大勢の殉教者と同じように、神がこの世の支配者の悪よりも力強い方であると信じて、不正な法律が定めている不正な罰を受ける覚悟をする必要があるのです。