メッセージ - A年 四旬節

テーマ:「十字架につけろ」 (マタイ21, 22

受難の主日(枝の主日)の御言葉は、大喜びの「ホサナ」で歓迎されたキリストのエルサレム入城の出来事から始まり、キリストが十字架上で命を引き取られた次第を描く受難の朗読で終わります。

旧約聖書の時代は十字架につける死刑は知られていませんが、ローマ時代になってから、ユダヤでも十字架の死刑は最も恐ろしい刑罰としてローマ総督から不忠実な奴隷に宣告する殆どでした。したがって、御受難の朗読は、イエス様が神の子なのに人間から最も大きな侮辱を受けて十字架にはりつけにされ、殺されてしまった悲劇を紹介しながら、この侮辱を受けるキリストの死に至るまでの最大の愛の勝利を描きます。

キリストを十字架につけるために逮捕したのは、ユダヤ人の指導者たちです。ユダヤ教の信仰を利用して信徒の上に権力を奮う彼らにとって、神の国とその義を証しするキリストは邪魔だったからです。キリストに十字架の死刑を宣告したのは、ローマ総督です。総督ピラトは真理と正義の味方ではなく、自分の権力を支える人だけを見方にしていたからです。エルサレム入城する時に、神を信じる群衆はキリストの見方でした。なぜなら、彼らの多くは、キリストが神の力によって自分たちをローマの支配から宗教指導者たちの圧迫から救ってくださると思っていたからです。ところで、逮捕されたキリストがもう役に立たない者だと思い、権力を奮う人たちの見方となって、イエス様を「十字架につけろ」と叫び出したのです。

もし、「あなた」は、2千年前にエルサレムにいる群衆の間にいたなら、イエス様の見方になったでしょうか? もし、日常生活の中で教会が教えているキリストへの忠実を示す信仰生活(主日の御ミサ、毎日の祈りや愛の実践など)よりも、自分の得や利益を優先にして罪を犯したりするならば、「あなた」も、その時に総督ピラトの前に、「十字架につけろ」と叫んだ一人です。

十字架は、元来、四方を表現し、上下と左右を描いて反対のものを繋ぐ印だと言います。よって、十字架の縦棒は、天と地を繋ぎ、横棒は人と人を一つに結ぶ意味があると言います。したがって、キリストの十字架は、神様に反対する罪人を神の命に繋ぎ、罪のために離れ離れになっている人間を十字架上の赦しによって一つに集めてくださいます。キリストが十字架の死に至るまで私たちを愛し抜かれたのですから、十字架はキリスト者にとってキリストの愛の勝利の印であり、私たちもその愛に与るように、自分の十字架を背負ってキリストに従うように招くのです。

 
主日の朗読聖書 - A年 四旬節

ヨハネ11・1-45 (四旬節第5主日)

1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 
メッセージ - A年 四旬節

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」ヨハ 11:25-26

イエスはラザロを愛していたので、マルタとマリア、また他の人々は、ラザロが病気になった時に、イエスが来て彼を癒してくださるだろうと思っていました。イエスはこの期待に応えませんでしたが、それ以上に素晴らしいことをしてくださいました。イエスは、すでに四日間死んでいたラザロをよみがえらせたのです。

ラザロが生き帰ったのは、彼らを愛していた人々にとって大きな喜びでしたが、それは、死の問題の解決にはなりませんでした。なぜなら、ラザロは、いつか必ず再び死ななければならなかったからです。イエスは、ラザロをよみがえらせることによって、死の問題を解決しようとしたのではなく、死に関する神の望みや神の力を現そうとしたのです。

ラザロの死のゆえに悲しんでいる人々の姿を見たイエスは、「心に憤りを覚え、そして興奮」されました。それによって、死に対する神ご自身の怒りを現してくださいました。人間の罪の結果である死は、神のご計画の一部でないだけではなく、ご自分との愛の交わりの内に永遠に生きるために人間を創造してくださった神の望みに逆らうものです。ですから、神が人間の死を悲しむことや、人間の死に対して怒りを抱くのは不思議ではないでしょう。ラザロをよみがえらせることによってイエスは、神が死を求めないだけではなく、死を滅ぼす力を持っておられることを現し、必ず滅ぼしてくださるという約束を与えてくださいました。

実は、自分の命を捧げるほどすべての人々を愛してくださったイエスは、ご自分の死によって私たちの死を滅ぼしてくださいましたので、それを求めるすべての人に永遠の命を与えることができるのです。

愛している人の死に対する悲しみや怒りが、私たちを絶望に落とすことなく、「わたしを信じる人は、たとえ死んでも生きる」というイエス・キリストの約束がもたらす希望に満たされ、そして、この希望に力付けられて、イエスと同じように抱いている悲しみと怒りを愛に生きる力、永遠の命の国を広める力に変えることができますよう祈りましょう。

 
メッセージ - A年 四旬節

第一朗読:サムエル上16,1.6-7.10

神の御旨を行うため預言者になったサムエルは、サウルの件で大失敗したと思い、苦しみを感じて預言者として自身を失ってしまった(サム16,1)。サウルがまだ生きている時に新しい王を選ぶことは非常に大変な責任があるというだけでなく、非常に危険なことであった(サム16,2)。「この人である」というサムエルの考えは神に認められなかった(サム16,7)。神の僕の考えは必ずしも神の考えということではないだろう。

第二朗読:エフェソ5,8-14

キリスト者になる前、異邦人たちは暗闇の内に生きており、永遠の死の道を歩いていた(エフ5,8)。回心したことにより、彼らはキリスト者として今、光の内に生きている。つまり、善意と正義と真実を持って信仰の道を歩き続けている(エフ5,9)。この世での彼らの人生の目的は、神の御旨を探して行うこと(エフ5,10)と、まだ暗闇の内に生きている人々が生活の仕方を変えるために必要な教えと証を与えることである。

 

福音朗読:ヨハネ9,1-41

イエスの時代、ユダヤ人にとって貧困や苦しみや災害などは、罪を犯した人々に対する神の罰であった。そして、不思議な業や奇跡などを行う人は自分の力ではなく神から貰った恵みによってそれが出来るのである。健康や繁栄などは「良い人である」ということを証する神の恵みであった。

この二つの考えは良い人と悪い人を簡単に区別するための基本的な考えであった。そこでイエスの弟子たちは聞いた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハ9,1-4)。そして、癒された人は言った「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」。

人を癒すことは良いことである。したがってこの癒しが行われた人が良い人である。この論理的な結論は真実であるが、心は悪い人々は真実を認められない(ヨハ9,24-29)。心が良い人は真実に従う(ヨハ9,35-38)。

 

 
主日の朗読聖書 - A年 四旬節

ヨハネ4・5-42 (四旬節第3主日)

5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」