メッセージ - B年 年間

(マコ9,38-43.45.47-48)

「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」ヨハ17,17

イエスは大勢の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出していましたが、イエスが神によって遣わされたことを信じなかった人も、イエスを妬んで殺そうと図っていた指導者さえも、その不思議なことに力を否定することができず、非常に大きくて確実なものとして認識していました。不思議に、イエスが救い主であると信じなくても、その力だけを認め、イエスの名を使って、イエスと同じように奇跡を行い、同じように悪霊を追い出す人もいたようです。けれどもこの人たちは、「イエスの名によって」ではなく、あくまでも「イエスの名を使って」そうしたのです。

「イエスの名を使って」何かをするのと、「イエスの名によって」何かをするのとは、何が違うのでしょうか。「イエスの名を使って」働く人たちは、イエスとの個人的な関わりを持たずに、イエスの意向や望みを考えずに、ただイエスの力や権威を用いて、自分自身が良かったとか、利益になるだろうと思ったようなことをします。けれども、「イエスの名によって」何かをするというのは、信仰や愛によってイエスと結ばれ、心を一つにして、イエスの望みに従うことなのです。ですから、後者だけをキリストの弟子と呼ぶことができるわけです。

「イエスの名を使って」働く人は、いろいろな良いことをしても、イエスと関係のない生活を送っていますが、「イエスの名によって」働き、生きる人は、段々とイエスとの関係を深め、イエス自身の姿に変えられていきます。そのために、この人はますます力強くキリストの愛を現して、多くの人をキリストのもとに導きます。あなた自身は、どちらだと思いますか。「イエスの名を使って」働く人でしょうか。それとも「イエスの名によって」働く人なのでしょうか。

 

 
メッセージ - B年 年間

 

第一朗読:知恵2、12.17-20

悪い行いをする人々は、二つの道から一つの道を選ばなければならない。一つは悪い行いを捨て、悔い改めて義人として生活する道である。この道は「命の道」と呼ばれる。もう一つは悪いことをし続け、義人に対して攻撃する道である。この道は「死の道」と呼ばれる。義人に対して攻撃することは悪人の悪意から始まり、悪心へと続き、悪い行いに終わる。第一朗読の言葉によれば、悪い人々は自分自身を理解する代わりに彼らの違反行為を指摘する義人を倒すという道を選んだ。悪い人々は、すべての人々は悪いところがあるので、義人も弱いところがあると考えていた。だから、彼らは義人を殺すことを決めた。このことは一般的に現代にも当てはまる事実であるが、この言葉は予言としてイエスの時に実現された。

 

第二朗読:ヤコブ3、16-4、3

ヤコブはこの手紙の受取人だけにではなく、私たちにも直接的で厳しい、けれど正しい教えを伝える。すべての悪いこと(乱れ、戦争、争いなど)の源は人間の妬みと欲望である。自分の意志と自分の思想のとおりに、自分の力で目的を達成することを望んでいる人々は成功できない(ヤコブ4、2)。自分の心の中に平和がない人々は、社会の中でも平和的な生活ができない人々である。ヤコブにとって目的を達成するために必要なことの一つは、神の知恵である(ヤコブ3,17)。この上からの知恵は正しい祈り、すなわち神の栄光のために祈る時に学ばれる(ヤコブ4,3)。

 

福音書:マルコ9,30-37

イエスと一緒に生活し、宗教的な活動をしている使徒たちはイエスがメシヤであるということが理解できなかっただけではなく、メシヤについて自分の考え(イエスの考えとは違う)を持っていた。彼らは心の中にまだ妬みと欲望があったので、自分の目的を達成することに集中した。彼らの目的はイエスの活動によってユダヤ人の社会の中で偉大な人物になるということであった。それだけではなく、十二人のうち誰もが最も偉大な者になりたいという気持ちがあったのでお互いに争った。この問題をもとに、イエスは偉大な人物になるために最も相応しい方法を教えた。すなわち、自分のためより他の人々のために生きる人は一番偉大な人になれるということである。他の人々のために生きるということは、一番上の者として他の人々に命令することではなく、この人々のために働かなければならないということである。イエスは神の子として罪人である人間を永遠の死から救うために自分の命を捧げた。大人の社会の中で子供が大事に育てられることは当然のことであるが、だからといって子供が偉大だとは思われていない。子供のような者でも、すべての僕を受け入れる者は神を受け入れるということである。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。

 

通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。

 

ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。

ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。

 

通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。

 

ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。

ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。

 

 

 
メッセージ - B年 年間

 

テーマ:「あなたがたは、わたしを何者だというのか」(マルコ8章29節)

 

この主日に朗読される福音(マルコ8章27節-35節)の出来事は、非常に激しく展開しています。イエス様は弟子たちに先ず、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問します。「預言者の一人だ」という答えが返ってきました。次に、イエス様は、「あなたがたは、わたしを何者だというのか」と尋ねます。使徒ペトロは、「メシアです」と答えました。キリストはこの答えに満足しています。そして、メシアは救いの業を御自分の受難と復活によって実現されることを説明します。使徒ペトロは同意せず、イエス様を諌めます。キリストは、ペトロに「サタン、引き下がれ」と言って叱りつけます。そして、福音のために命を失う者は、それを救うのだから、自分の十字架を背負って御自身に従うようにと招いてくださいます。

この福音は、キリストに対する正しい信仰を育むためにわたしたちに幾つかの大事なメッセージを与えます。

1.宣べ伝える信者の証し(ケリュ-グマ)から私たちはキリストを知ることができます。しかし、その内容は他人の信仰である自分の知識であり、自分の信仰ではありません。即ち、それは他の人々がキリストについて言っていることに過ぎません。キリストの偉大さは、人間の理性によって把握できるものではありませんので、キリストについて不充分、また歪んだイメージを与えることも少なくありません。キリスト(また神様)に出会った人、神様と交わる人は自分の信仰をもっています。

2.使徒ペトロが自分の出会ったキリストについて「メシア(救い主)」であると証しし、その証しは神様が啓示なさったことに沿っているから正しい信仰を表現します。しかし、使徒ペトロは、信仰表現が正しくても、自分の思いの中でキリストの偶像を作り上げる過ちを犯しました。神様の思った通りではなく、使徒ペトロが自分の考えた方法でイエス様に世界を救って貰いたかったのです。キリストが私たちに望んでいるのは、出会ったキリストに信頼をおいて御心を行うことによって自分自身を救い、世の救いに貢献することです。

3.イエス・キリストは御自分の十字架によって世を救ってくださいましたから、その救いに与るために、わたしたちが自分の十字架を背負って御自身に従うことを救いの条件として与えてくださいました。それを果たすために実践生活の中で次のことを心に留める必要があると促していることでしょう。

*人間は誰でも幸せになりたいです。自分だけの幸せを求める人は不幸です。幸せになりたいなら、人を幸せにしなければなりません。

*人間は誰でも愛されたいです。他人にだけその愛を求める人は嫌われ者となります。愛が欲しいなら、自分で神様と他人を愛しなければなりません。

*誰でも自己防衛の本能が働いているから、自分の命を死から救いたいのです。これに従う人間は自分の誉れを求め、傲慢と自己中心に堕ちいて、空しい人生を送ることになります。他人を生かすために自分の命を尽す人は有意義な人生を送ります。キリストと福音のために命をささげる人は、キリストの御復活に与り、永遠の命を生きる者となります。